生物準備室にて

工藤行人

誰そ彼

 校内が暖色に染まる時間もようよう過ぎようとしていた。器楽部が立てていた、だ協和していないバラバラの音もいつの間にか聞こえなくなり、グラウンドで野太い声を張り上げていた野球部もまた片付けの作業を始めたのだろう、緩んだ笑い声を時折響かせるだけとなっていた。

 煮詰まった濃い光に満ちながらもすでに夜の気配を潜ませた廊下を、弥生は生物準備室に向かって歩いていた。生物教室の隣にある生物準備室は、実験器具や薬品の収納スペースに生物教師専用の個室を兼ねたやや細長の部屋であった。

 準備室に着いた弥生は手に持っている荷物を落とさないよう注意しながらドアをノックした。ところが、当然返って来るはずの反応がない。もう一度、少し強めにノックするも、やはり応答はなかった。ドアには大きな正方形ののぞき窓があるものの、内側から引かれた黒いカーテンにさえぎられて、室内の様子をうかがうことは出来ない。この部屋はいつもそうだ。弥生はここに来る度、不思議で仕方がなかった。

 やがてて意を決した弥生はドアノブに手をやって鍵が掛かっていないことを確認した後、誰に向けて言う訳でもなく不躾ぶしつけに、失礼しますとつぶやいてからゆっくりとドアを開けた。

 ただちに弥生が見留みとめたのは、開け放たれた窓の前でたたずむ、白衣をまとった生物教師、梶川の背中だった。

 梶川は春に大学院を出たばかりの、新任の生物教師だった。九州男児らしいがっしりとした体躯と、それに似つかわしくない高めの声のトーンというミスマッチが、彼のわかさの残り香を嗅ぎ付けた男子生徒達によって、時に親愛を混交させたあざけりの対象となるのに然程さほどの時間は掛からなかったが、逆にそのミスマッチを、可愛いという一言に集約して好もしく感じる女子生徒も少なくなかった。弥生もその一人である。

 梶川はドアが開いたのにも気付かぬふうで、大きな背中を弥生に向けたままだった。居たんじゃない、と弥生は半ば呆れながら、

「梶川先生、たつみです」

と努めて明朗に、少し大きめに声掛こえがけた。

嗚呼ああ、持って来て呉れたのか」

梶川は振り返ることなく言葉だけを弥生に寄越した。聞き慣れた平生へいぜいのものとは異なる、低く落ち着いた声音こわねに弥生は一瞬どきりとしたが、

「集めたノート、先生の机の上に置いておきますね」

と、飽くまで生徒らしく振る舞うことには成功した。

 余所よそ行きの声ではない、二人きりになった時の大人の男性のかすれ声に自分が弱いことは弥生も自覚していた。そうでなければ、通っている個別指導塾で知り合った二十代半ばの男性講師となど付き合うはずがない。だから、梶川もまたそのように、男の声を出すというのが弥生には一寸ちょっとした驚きだったし、おまけに白衣の背中に乱雑に刻まれた草臥くたびれた感じの皺は弥生の母性本能をくすぐるに足りた。

「じゃあ、失礼します」

 余り長居しないほうが良さそうだと判断して早々に部屋を辞そうとする弥生をしかし、梶川は引き留めた。

たつみ

「はい」

 振り返った弥生の眼路めじには、やはり変わらず窓の外を見たままの梶川がいる。

「今日の授業でした話、どう思った?」

「え?」

 弥生は不意をかれてしばし言いよどんだ。窓から入り込んできた風を抱き込んで、梶川の白衣がふわりと膨らんだ。

「なあ、どうだった? お前、結構真面目に聞いて呉れていただろ」

そう言いながら、梶川はおもむろに窓を閉めた。視線はまだ外に向けられたまま……。

 

 その日の生物の授業で、梶川は自分が小学六年生の頃に飼っていたハツカネズミの話をした。真っ白いハツカネズミを二匹、丸く大きなクッキー缶に入れて、そのふたにドライバーでいくつか空気穴を開けて飼っていたのだと。そしてある時、自分が風邪で寝込んでエサやりをおこたったために一匹が死んでしまったのだとも。

「それで、その死んだ方のハツカネズミなんだが……」

と続くはずの話の腰を折るように終鈴が鳴り、話題は尻切れトンボで終わってしまったのだった。

「はい、じゃあ今日はここまで。観察ノートは今日中に完成させて提出すること。生物係はノートをまとめて放課後に生物準備室まで届けるように」


 そう言って教室から足早に去った時の梶川とは違う、生物準備室の梶川。

「なあ、たつみ。あの話の続きなんだけどさ」

「はい……」

「死んだ方のハツカネズミ、何で死んだんだと思う?」

「え、それは、先生がエサやりを……」

「そうじゃないんだよ。そうでもあるけど、そうじゃない」

 弥生の言葉を中途でさえぎって、梶川は静かながらも力強く、次々と言葉をつむいだ。そこには抑えがたい昂揚がみなぎり始めていた。

「共喰いしたんだよ、片方がもう片方の奴を。首から上がさ、ぺろりと消えて無くなっていたんだ。喰っちゃった方の奴は、そんなこと気にしないみたいに綺麗で無垢な赤い瞳をしてたっけなぁ。首の無くなった死骸にぶつかりながら窮屈そうで、迷惑そうで……、ふふ」

「あの、先生……」

 意図的に狼狽ろうばいを滲ませつつかろうじて発した弥生の言葉にも構うことなく、梶川は続けた。

「首が喰われちゃった方の奴はさ、不思議なことに首がない以外、他の部分は生きているみたいだった。生きている時のまま、本当に生きている時そのままだったんだよ」

 つい先ほど、梶川の新しい声を発見した時の小さな欣喜きんきすでせ、理性的にこの状況を理解しようとする中に今や一抹の恐怖がきざしていることに、弥生は今少し気付かない振りをした。

 梶川の言葉は滔々とうとうと湧く泉のごとく、止めなく溢れ出してくる。

「あいつの死骸を見ていて俺が眼を奪われたのは前足でさ。生きている時には眼にもまらなかったのに、死んでから眼に付くなんてな。あの前足、本当に精巧な飴細工あめざいくみたいに、指の一本一本まで艶々つやつやしてて、あぁ、綺麗だなって思ったよ」

 窓の外が群青色に支配されていくにつれ、室内の蛍光灯の光が存在感を増す。ふと、弥生は背を向けている梶川の視線を感じた。先ほど閉められた窓が、外の闇に鍍金メッキされた鏡となって、恐らく自分の姿を映しているであろうことに気付いたのだ。

 その時だった。

カラン……クワァン、クワァン、クワァン、クワァンクワァンクワァン、クワワワワワン……

 隣の生物室から、何かの落ちる音が弥生の耳に届いた。あたかも丸いクッキー缶でも落ちたような……その刹那、弥生の両頬りょうほおに鳥肌が走り、途端にこの狭い準備室という空間に歪みが生じた。空気が粘り気を生じ、呼吸も思考も、時の流れですら緩慢かんまんに凝縮されて行く。

 今や梶川の体の輪郭はぼんやりとしていた。風船の中のガスが抜けてしぼんでゆく直前の気配にも似た心許こころもとない揺らぎを伴って。

 逃げなければ。弥生は咄嗟にドアノブに手を掛けた。しかし、

(あれ? 開かない!)

 先ほど自分が開けたドアには何故か鍵が掛かっていた。そして次の瞬間、弥生は背後にいやかげりと気配とを感じた。体を強張こわばらせた弥生の眼路めじの左側から骨張ほねばった手が伸びてきて、眼前のドアの遮光しゃこうカーテンを開ける。姿を現したのぞき窓の鏡の中で、口の周りを深紅しんくに染めた梶川は、これまで見たこともないくらい恍惚うっとりと微笑んでいた。

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