ニコの旅

かんな

ニコの旅

 山道を原付バイクが走っていく。緩やかな坂の右手には土留めされた斜面が迫り、夏の気配に誘われた草木が旺盛に育って日陰を作っていた。左手は枝葉を伸ばした細い木々が連なり、その向こうでは街並みが眼下に広がる。

 中天に差し掛かった陽光が街の色を白く飛ばしていた。時折光って見えるのは車だろうか、その中でも植物は際立って存在を訴える。

 伸びた枝葉が天蓋を作り、隙間から光が足跡を散らす。カーキ色の原付バイクがまだらに染まるのを見て、ニコは目を細めた。

 木陰を気分よく走っていたニコだが、次第に傾斜は厳しくなっていく。息をつくように走る相棒とニコを何台もの車が追い越していった。ニコが恨みがましく睨みつけていると、バイクの速度が落ちる。慌てて「ごめん、頑張ろうね」と声をかけると、それが通じたのか、少しだけ威勢を取り戻した。

 山頂へ近づくほど植物の背丈は低く、木陰は狭まる。鮮やかな緑は時に黄色も交え、その足元で紫の花が可愛らしく彩りを添えているかと思えば、大ぶりの黄色い花がパッと目に飛び込んでその賑やかさにニコは笑った。

 厳しい坂道から抜け出すと、風景が広がった。バイクは息を吹き返したように走り出し、駆け抜ける風も軽やかにニコを撫でていく。柔らかそうな下草は波打ち、低木が濃緑の島を作る。

 ニコは展望台の駐車場にバイクを停めた。水色のヘルメットを外し、項で結んだ黒髪を手ですいて空気を入れ、大きく深呼吸をする。固まった体をほぐそうと腕を伸ばしていると、近くを通りかかった老夫婦が声をかける。

「おつかれさま。大変だったでしょう」

「全くです。でもここを走って見たかったので」

「色んな所に行っているの?」

「はい。ほとんど仕事みたいなものですけど、こうして色んなものを見るのは性に合っているみたいです」

「もし植物や山が好きならこの道を下った先、分岐を右へ行くと別の尾根へ抜けられるけど、そこはまた違った雰囲気でおすすめですよ」

「ありがとうございます。ぜひ行ってみます」

 それじゃあ、と老夫婦は去っていく。

 展望台からは街並みと周囲の山々を一望することができ、彼方で光るのは湖だと地図が教えてくれた。上る途中で見た街は白く色が飛んでいたが、今は太陽の位置のせいか少しだけ色を取り戻している。瓦屋根の青や赤茶は波打ちながら、滑らかなスレート瓦は真っ直ぐに光を返す。ビルの看板、賑やかに宣伝しているのはパチンコ屋か商業施設か。山々の緑は濃く、時折茶色く見えるのは残念ながら枯れてしまった一画かもしれない。

 空は突き抜けて青く、輪郭を際立たせた雲はうっすらと灰色の影を帯びる。ニコはその全てを見つめた。

 しばらく辺りを散策した後、ニコは地図を取り出す。紙の地図は一目で全体を把握出来るので電子のものより重宝し、なによりこの大判で厚手の紙を広げる時の音が好きだった。

 道を指で辿りつつ、その後の行程を組み立てる。

──期限まで、様々な緑を見られる道を。

 地図を見つめていたニコの影がふっと和らぐ。見上げれば、立派な入道雲が背を高くして太陽を食らっていた。雲の輪郭を一瞬だけ虹色の光彩が縁取るのを目にし、ニコは地図を畳んだ。



 老夫婦の教えてくれた尾根は針葉樹が主役だった。周囲を更に高い山に囲まれているため陽射しは遠く、上り下りの少ない道が続く。わずかに通る車のナンバーから地元の近道に使われているようだった。一人で走る道は心地よく、風は気ままにやって来て、薄い上着ごしに冴えた空気が伝わる。

 枝葉が折り重なって出来た影は道を外れるほどに濃く、辺りには緑の闇が広がる。柔らかなそれは湿度を含みながら優しく、目を凝らした者へ抱えた宝を見せるように裾の一端を開いた。ひっそりと繁茂する下草の中から薄緑色の若葉が顔を見せ、珍しい通行人へ挨拶をする。

 不意に、薄緑が跳ねた。バイクを止めてヘルメットの風防をずらすと、大粒の雨が当たった。入道雲が追いかけて来たのか、緑の闇はより深く、重く降りてくる。次第に強くなっていく雨足は木の葉を叩き、路面を黒く染めあげた。

 ふと、にわかに辺りが白く煙る。舞い上がった土や雨混じりの靄が、地面から湧き立つようにして風景を滲ませた。緑の闇はその中で色を落として薄青へと変じ、合間を縫って落ちていく雨を銀糸のように輝かせた。

 静かに、静かに、静寂が滴り落ちてくる。

 ニコはヘルメットを取ってその光景を見つめた。雨粒が地面に叩きつけられるその最後まで惜しむように、瞬き一つせず見つめた。



 バイクは走る。地図を広げて山道を、緑を、と探し続けてある夜、腕時計が鳴ってニコは止まった。

 ヘルメットを取って体を大きく伸ばし、息をつく。それからいつもの物より古く使い込まれた地図を広げ、胸ポケットから取り出したペンでこれまで辿った道をなぞった。

 最後に今日の日付を書きこんで地図を見つめ、ニコは笑う。

「よく走ったね、私」

 折り目のついた地図は様々な色で道が塗られ、北から南、船を使って離島へ行った記録もある。走行していない道はないかのように見えたが、今回辿った道はまだ真っ新だったことがニコには嬉しかった。

 一番古い日付は五十年前の七月十九日、そして一番新しい日付を認めてニコは「お」と声を上げる。

「五十周年だ」

 大事に古地図をしまい、相棒のバイクを撫でた。

「戻ろう。六代目」



 走りこまれたカーキ色の原付バイクが一休みとばかりに駐車場に並ぶ。それを見かけた病院のスタッフは「ああ、ニコが戻って来たのね」といつものことのように思い、そう思った自分に笑った。かれこれ三年ぶりに見かけるというのに、ニコのバイクはいつ見ても新しくて懐かしい。

「どうだった? 今回の旅は」

 技師の葛に尋ねられ、青色の検査衣に着替えたニコは「楽しかったよ」と答える。

「色んな緑色をって言われた時には意味がわからなかったけど、結構違うんだね」

「そりゃ良かった。患者も喜ぶ」

 結わいていた髪を解いてリクライニングチェアに座ると、葛がコードのついたイヤーカフを数個取り付けた。

「どんな人なの?」

「患者の個人情報は教えられないな」

「いいでしょ、これから忘れるんだし」

 葛は溜息をつき、手にした端末を操作しながら答える。

「元庭師。二十代で色を喪失、視力も共に失う。それを四年前の手術で治療、視力は回復したが喪失した色の補填が機能せずに、うちに依頼」

「……上手くいくといいなあ」

 葛はむっとして返した。

「俺がやるんだぞ」

 ごめん、と笑ってニコは髪を体の前でまとめた。露わになった項には端子穴が並び、葛が楕円の箱型の機械を取り付けると、ニコの虹彩に青い光が走る。

「あとどれくらいで私の色は完成するかな」

 横になりながら尋ねると、葛は少し間を置いて「もう少しかな」と答えた。

「人だった頃に持ちえなかったものが、機械になっても持てなかった。技術や医療で補填出来ないものを、環境から頂戴しているんだ。時間はかかる」

 ニコの黒髪は染めたもの、健康的な肌は人工皮膚で、本当の肌は磁器のように白かった。生まれながら色のないニコはあらゆる色を認識することが出来ず、故に世界を捉えることが出来なかった。

 生身を捨て、機械の体を得ても改善が見られない。ならばパレットから色を選んで絵を描くように、環境から抽出して彼女の色を獲得したらどうか──提案した技師と動く内に、その活動が仕事となって今に至る。葛はニコにとって四代目の技師だった。

「次は何?」

「データを抽出したらリセット、だろ」

「世界の色を濁らせることなく収集するためにでしょ。いいから、ほらほら」

「青」

 ニコは目を丸くした。

「バイクで行けるかな」

「……お前ならどこへでも行けるよ」

 葛が「おやすみ」と言う。

 目を閉じる間際に見た天井は、雪よりも真っ白だった。



 葛は椅子に腰かけ、モニターに流れる抽出データを眺めていた。一時間かけて進捗は半分、もうしばらくはかかりそうだが、一部は閲覧出来るようになっていた。その内の一つを開くと、画面一杯に砂嵐が映し出される。色の断片もなく、ただ画面を荒らすそれに葛は表情を硬くする。

──ニコの限界が近づいている。

 旅を重ねるごとにデータの劣化は増えていた。ニコ自身は美しい色を認識したつもりでも、取り出してみれば壊れた情報の山がほとんどだった。

 ニコは人間ではない。人間だった、という幻想を植え付けられ、最初の技師が生み出した人形である。

 人があらゆる色から影響を受けるのなら、人であると思い込ませた機械は影響を受けるのか──好奇心から始まったそれは五十年を経て葛へ受け継がれ、そして今も旅は続いていた。

 患者の話や人間だったニコの話は全て創作、ニコという名前も便宜上使われている愛称である。本来なら耐用限界とされた二十年前に全てを暴露して自律回路の変異から場合によっては崩壊までを観測し、廃棄する予定だった。それを三十年も超過して偽り続け、そして今に至るこの五十年は呪いでしかなく、しかし、その呪いがいよいよ綻びようとしている。

 なぜ、先達は予定通りにしなかったのか。葛は常々そう思いながらも、ニコが集めてきたデータの中で無事な物を見つけると、息を飲んで見入るしかなかった。

 茜の葉、黄の山、紫の夕暮れ、緑の闇、濃紺の夜──その世界は、あまりにも美しかった。

 世界を美しいものとしている彼女からそれを奪うのは罪ではないのか。

 葛はコーヒーを飲もうとカップを持つ。冷めた鏡に映るその表情は、手にしたものと同じく暗い。



 観光地化された断崖の駐車場でニコは空を仰いだ。ここから臨む海は青いが、引き込まれる暗さがある。空は遥か彼方へ居を移したような青さであり、そのコントラストが面白かった。

 不意に、目に光が走り、ニコが瞬きをするとそれは消えた。目を使いすぎたのかもしれないが、仕事は待ってはくれない。

──これは、明日の色を探す旅。

「よし」

 ニコはキックレバーを勢いよく蹴り倒した。


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