山の中腹で・3

 

 夕刻。


 気怠げな夕陽が最後の力で、荒れた地面を嘗め上げている。荒野に生えるのは枯れた色の背の低い草だけで、戦場となった土地は土が掘り返され、一帯禿山となっていた。涼しげで長閑な風が荒野を吹き抜け、さらさらと少ない草木を揺らす音だけが、その広大な世界に居座っている。それは静寂だった。ほんの数時間前、此処で幾つもの鋼鉄の怪物が咆哮していたことなど、欠片も伺えない、平穏な静寂だった。


 だが、その荒野の奥、山の峰に敷かれた一帯陣地の塹壕は、凄惨極まりない惨状だった。殆どが砲撃で破壊された塹壕の中では、幾人もの兵士が自らの血液で軍服を赤く染め、地面に折り重なっている。四肢の一部に永遠の別れを告げた者や、無惨に千切れて皮一枚繋がった者、果てには人間の形を留めない者すらあった。自走砲の砲撃でこれなのだから、列車砲という常軌を逸した化物の牙に掛かった、掩蔽壕近くの砲撃部隊や戦車部隊がどうなったかなど、想像するのさえ難しい。さらには、幾つかの屍は履帯に轢かれて骨まで砕け、裂けた筋肉や臓腑を曝け出していた。


 そんな幾多もの死者の眠る墓場となった塹壕の壁が、不意に少し崩れた。そして次の瞬間、そこが内側から崩壊する。土の中から這い出てきたのは、土に塗れた茶色の上着を纏い、片手に不釣り合いな銃を握った、小さな生き物だった。それは這い出て立ち上がり、泥塗れの上着を脱いで地面に置く。裾が少し汚れただけでまだ真っ白いワンピースは、この荒れ果てた世界とは違う、異世界のものに見えた。


 死屍累々に相応しいその惨状を目にし、鼻を衝く血と内臓の臭いを嗅いで、少女は胃から衝き上がってくるものを堪えた。その光景が現実だと理解出来るぐらいには、少女は大人だった。とはいえ、大の大人にすら心的外傷トラウマを植え付けるこの惨状を見て、耐えられるべくもない。


 やがて少女は堪え切れずに、胃の中のものを全て地面に吐き出した。



 十数分後。どうにか嗚咽が治まった少女は、ゆらりとその場から立ち上がった。地面に置いたままにしていた小銃を抱え、ふらふらと、しかし倒れることなく歩き出す。足場に登って塹壕から這い出し、ゆっくりと下山を始めた。塹壕を越える時は、砲撃されて溝が崩れたところまで塹壕に沿って歩き、小さな盆地のようになった砲撃地点を慎重に下ってから昇るようにしていた。それを幾度か繰り返し、少女も慣れてきたところだった。


 砲撃地点を下り、塹壕の中に入る。少女はそのすぐ近くで、倒れている一人の軍人を見つけた。



「…グレム!」



 それは、長年少女の傍で護衛を務め、最も少女と心を通わせた軍人、グレム・アルクス中尉だった。


 少女は叫び、何とも構わず駆け寄る。うつ伏せで倒れ込んだ軍人の頭を持ち上げようとして、その重さに当惑した。それならせめて、うつ伏せにはならないようにと、その身体をひっくり返そうとする。しかし、一人の男性をひっくり返せるほどの筋力を、少女は持ち合わせていなかった。しかし、少女が幾らか悪戦苦闘していたお陰で、少女は軍人の変化に気付くことが出来た。


 彼の右手が、ピクリと痙攣した。


 まさか動くとは思っていなかった少女は、途端に動きを止めてしまう。それから慌てて顔を横にずらし、地面に膝をついて呼びかけた。



「グレム! グレム!? 聞こえているのでしょう!? グレム!」



 ワンピースが彼の身体から溢れる血で染まっても、少女は声をかけるのを辞めない。彼の肩を揺らし、耳元で声をかけ続けた。必死に少女は叫び続けた。


 そして、いつでも信念に忠実であった軍人は、その声に応えた。



「でん、か、……」



 たった一言。薄っすらと目を開いた軍人は、たった一言、そう言った。


 それだけで、少女は全てを察した。彼が最後まで、信念を貫き徹したこと。心の底から、少女を想ってくれていたこと。誓いを果たせなかったことを、悔いていること。そして今、地獄の入口で、耐えようもない苦痛に苛まれているということ。


 彼の服とその右足の状態を見て、少女は彼が何の攻撃を受けたのか理解した。帝国の新兵器だ。あれが彼の服を焼き、身体を圧し潰した。だが爆心地から遠かったが故に、彼は一思いに死ぬことが出来ず、意識を外界から逃避させることで、その地獄の責め苦から逃れたのだろう。しかし今、彼は少女の声で、またその苦痛に引き戻されている。


 これだけの外傷を負えば、仮に今すぐ手術を開始したとしても、現代の医療技術では治療し切ることは出来ない。


 何をしてあげるべきか、少女はちゃんと理解していた。



「これは、貴方への罰です。初めて私への誓いを破った、その罰ですからね」



 もう閉じてしまった茶色の双眼に向けて、少女は語りかける。返事こそ無くとも、彼がそれを聞いていることを、少女は何故か確信していた。見る見るうちに涙が溢れ出し、少女の頬を伝って地面に落ちる。だが、少女は泣き声だけは押し殺した。最期に彼に与えたいのは、無力な自分の泣き顔ではなかった。



「ですから、貴方の全霊で享受なさい」



 溢れる涙で揺れる瞳を細めて、少女は笑った。


 小さな右手で額の泥を拭い、そこにゆっくりと顔を寄せる。



 そして、もう冷たくなりかけている軍人の額を、少女の可憐な唇がほんの少し、温めた。



 そのほんの数秒の間、世界は彼らのために止まっていた。




 それから少女は立ち上がり、右手で安全装置を外してから、ゆっくりと腕の中のそれを構える。人差し指の力だけでは足りず、指は中指との二本を掛けた。そして、ゆっくりと二本の指を絞り込む。反発は絞り込めば絞り込むほど強くなり、指にかかる負荷は増大した。それでも、少女は指を絞り込み続ける。


 そして、それの反発が限界にまで高まり、力が暴れて指から逃げ出そうとしだしたその瞬間、




 引き金が引かれた。

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山の中腹で 萩原稀有 @4-42_48

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