山の中腹で・2

 

「交通路は敵の列車砲に砲撃されたのではないですか?」


「その通りで御座います、殿下。それにそもそも、交通路で下がる先の掩蔽壕がもう存在しません」


「ならば、何故交通路に向かうのです?」


「そこに『王族の繭』があるからで御座います」


「王族の…何と?」


「着いたら分かるかと存じます」



 軍人はそれ以上語らず、入り組んだ塹壕を小走りで駆け抜ける。銃弾は常に頭の上を飛び交い、時折より前線の塹壕に加えられた砲撃の音が聞こえてくる。この塹壕にまで砲撃が飛んでこないのは、運良く、未だ自走砲の射程ではここに届かず、列車砲では距離が近すぎるからだった。だが、直に敵の自走砲の射程に入るだろう。第一線が落ちるのは、時間の問題だった。


 三叉に分かれた交通路との交差点で、軍人はやっと足を止めた。その交差点では、一人の兵士が、何故か戦線に参加せずに、その場で仁王立ちになっていた。筋骨隆々で、厳つい身体つきをし、右手には明らかに狙撃用ではない散弾銃を持っている。



「私はリリア第一王女第一近衛小隊隊長、グレム・アルクス中尉。『王族の繭』の使用許可を求めたい」


「階級章を見せろ」



 軍人は左袖を出し、そこに刻まれた階級章を見せる。二本の並行な銀色線に、交差した小さな二本の剣が、王国軍の中尉を示す階級章だ。だが、彼の階級章は違う。二本の剣の代わりに縫い付けられているのは、端が広がった十字盾。この十字盾こそ、王族の身辺を守る精鋭たる近衛兵達が、誇りを以て身に付ける章だった。



「その少女が王女殿下である証拠は?」


「失礼ですが殿下、右の首元を」



 少女は恐る恐る首に手を当てて綺麗な黒髪を持ち上げ、首元を見せる。彼女の首元には、複雑精緻な紋様が黒く刻まれていた。厳つい兵士は右手を当てて覗き込み、十秒ほど眺めていたが、やがてその右手をゆっくりと離す。その動作には、何処か畏怖のようなものが混じっていた。



「間違いなく王女殿下だ。『王族の繭』の使用を許可する。ご無礼をお許しください、王女殿下」



 最後の一言は、少女に向けられた言葉だった。


 そして兵士は、傍のシャベルを使って、交差点の隅の土を掘り返し始める。



「どういうことですの?」


「『王族の繭』とは、まさに今の王女殿下のように、戦線から王族が動くことが出来なくなってしまった時に使用する、小型の防空壕シェルターのコードネームで御座います。怖気付いた兵士が逃げ込まないように、その存在を知っているのは各近衛小隊の隊長と、各陣地に配置された連隊の連隊長、それとそこを守る兵士の少数のみです」


「それを私に使えと?」


「中には一週間は耐えられる食糧と、換気装置や酸素ボンベ、それと幾つかの娯楽用品が設置されています。シェルターの強度は、自走砲の直撃を受けても無傷で済むほどです。気付かれることさえなければ、必ず戦線を生きて離脱出来るでしょう」


「…私は、使いません」


「殿下。お気持ちは分かりますが…」


「地表で果敢に兵士達が戦う中、私はぬくぬくとこの中で過ごせと言うのですか!」



 大声で、少女は叫んだ。それは悲鳴だった。自らの行いが、今軍人にやれと言われていることが、余りにも非情なことだと思った。少女の叫びは痛切で、その目に宿っているのは怒りだった。



「それこそが、殿下の成すべきことで御座います」



 しかしその目を前にしても、軍人が怯むことはない。彼の目は未だ、600mの狙撃を成功してのける狙撃手の銃口ほども揺れてはいなかった。


 無論、少女の怒りは治まらない。糾弾するような厳しい口調で、少女の口から刺々しい言葉が飛び出す。



「罪無き兵士が無意味に死ぬのを、地下で眺めていることが?」


「無礼を承知で申し上げますが、兵士は戦争に備えた人間です。いずれ戦火の元で死ぬことこそ、我ら軍人の使命であり、誇りであります。それに、殿下が生き残り、崩壊寸前の王国軍を自ら指揮執って下されば、私達の殉死も無意味ではなくなります」



 少女の烈火の如き追及も、彼は軍人らしからぬ慇懃な言葉で以て難なく躱す。その言葉で動揺したのは、軍人ではなく少女だった。



「まさか…中尉、まさかここでっ…!?」



 聡くあることを、機敏であることを常とされていた少女が、軍人の言葉の真意を見抜くことなど、とても容易いことだった。


 汗ばんだ軍人の男臭い匂いを、不意に少女は嗅ぎ込んだ。遠くに聞こえていた銃声が、耳元で鳴り響いた錯覚がする。



「敵の目的は、この陣地を崩壊させ、側面からの攻撃を先んじて封じることでしょう。進軍自体は鉄道線に沿うように、山の南を回って行うはずです。出来るだけこの陣地に敵を張り付かせ、進軍を遅らせなければ、殿下が王国軍の総司令部につく前に、首都に列車砲の射程が届いてしまいます」



 軍人は、少女の問いに答えてはいない。あくまで敵の進軍の分析と、執るべき戦略の意見を述べただけだ。だが、少女にとっては、それで充分だった。


 何かを堪えるように俯いて、少女は言葉を絞り出す。その両目に宿っていた怒りは、先ほどとはその色を変えていた。



「…許しません。そんなこと、許しませんよ、!」


「殿下の命令に背くこと、どうかお許しください、



 軍人は恭しく、その場で頭を下げる。その目に宿る光は、しかしそれでも微塵も変わってはいなかった。そこでやっと、少女はその軍人の目の光の正体に気付く。


 信念。彼の目に宿っていたのは、未来永劫変わらぬ堅い信念だった。


 少女が息を吞んだ音は、銃声飛び交う戦場でありながら、やけにはっきりと鼓膜を揺らす。


 少女は少し、世界に光を見た気がした。泥に塗れ、染み込んだ血と煙る硝煙の匂いが立ち込める塹壕の中であっても、少女は確かに、何かの答えを掴んでいた。


 小さな顔が、ゆっくりと持ち上がる。年相応に幼いその顔は、この状況に相応しい恐怖を湛え、そして年齢など関係ない覚悟と決意を芽生えさせていた。



「…いいえ、許しませんよ、グレム。この後で、相応の罰を受けてもらいます」


「そのお言葉、確かにお守りすると誓いましょう」



 ようやく軍人が見せた笑顔は、何処か悪戯っ子の風貌を備えていた。その笑顔に合わせて、少女も微かに笑う。その笑顔は、戦場に咲いた一輪の花を思わせた。


 変わらず土を掘り進めていた兵士が、しばらくしてその手を止める。数mほど掘り進められた穴を覗けば、丸く分厚い鉄扉が、厳重な金庫か頑丈な独房を思わせる存在感を押し殺して、静かにその奥にあった。


 軍人は、肩にかけていた小銃を降ろし、少女に手渡した。軽く渡されたように見えるその小銃も、少女にとっては両手で抱えるのも精一杯の鉄の塊だ。どうにか小銃を抱え込んだ少女は、一度屈み込んでそれを両膝の上に乗せ、左手を排莢口に添えながら、右手で槓桿を回し、力を込めて後ろに引く。排莢された弾薬には、まだ銅色の弾頭がついたままだった。少女はそれを排莢口から薬室に押し込み、解放したままの遊底を槓桿を押し出して閉鎖する。槓桿を回して薬室を閉鎖したら、遊底後部の安全装置を捻って、安全位置に固定した。



「先ほどの言葉は嘘ではないようですね、殿下」


「重量が軽く、反動も小さい近衛兵専用の小銃だから可能なことです。それよりも、私に渡して良いのですか、グレム? まさか砲撃部隊に加わるつもりではないでしょう?」


「その小銃は、通常部隊用の軍用小銃に射程と威力で劣ります。この塹壕戦で使うには向かないでしょう。殿下が持っている方が、余程役に立ちます」



 そう言って軍人は、もう一度その場で屈み、少女に目線を合わせる。兵士は穴の中でシェルターの重い扉を開き、少女が中に入るのを待っていた。



「殿下、良くお聞きください。帝国が攻撃を開始した時、私は軍の上層部に殿下の逃走経路を確保するよう連絡を入れました。そして、つい先程その答えが届きました。連合皇国が、殿下の救出のために王国軍が国土を横断することを許可したそうです。救出部隊は今にもこの陣地の北に到着するでしょう。この戦闘は恐らくあと数時間で決着します。夜まで帝国がここの破壊活動に勤しむことはないはずです。夕方、日が暮れる直前に、シェルターを出て下山し、この山に沿って北に向かってください。そこに救出部隊を展開させました。徒歩でも精々二時間です。そこまで辿り着けば、殿下は救出され、次の朝には、王城で温かいスープを召し上がれるでしょう」



 軍人の指示を聞き漏らすまいと、少女は真剣に耳を傾ける。もう少女が、軍人の言葉に反対することはない。それには今の状況を理解しただけではない、何か他の理由があるようにも見えた。


 全てを聞き終えた少女が頷き、その口をほんの少し開いたその瞬間、地面が割れたかのような轟音が轟き、赤熱した衝撃波が容赦なく彼らを襲った。軍人は咄嗟に少女を庇い、半ば押し倒すようにして地に伏せる。ぱらぱらと土の塊が降ってきたが、幸運にも、内側から裂かれた鉄の破片が彼らの身体を襲うことはなかった。



「第一線が落ちていたようですね。敵の自走砲の射程内に入ったようです。ここもいつ砲撃されるか分かりません。殿下、急いでください」



 感動的な別れを告げる余裕はなかった。強張った顔で少女は頷き、土の穴の中に入っていく。折角のワンピースは土で汚れたが、そんなこともお構いなく少女はシェルターの扉をくぐった。すぐさま強面の兵士が重い扉を閉め、外側から扉を施錠する。



 薄暗いシェルターの中で、少女は孤独だった。シェルターは鈍い静けさに包まれていて、空気を取り入れる空調設備の音がやけに煩い。先程まで聞こえていたはずの銃声は、風呂場から聞く向かいの家の犬の遠吠えほども聞こえなかった。人と機械の熱気に晒されていた塹壕とは違い、シェルターの中は少し肌寒い。少女は古びた茶色の上着が掛かっているのを見つけ、ほんの少し躊躇してから、恐る恐る手に取った。それは言うまでもなく、少女の身体には大きすぎた。


 確かに食糧は多く、娯楽になりそうなものもある。食事は少女が想像していた味気のない食品とは違い、質素な食事程度の良いものだった。漬物や干物、乾物など、日持ちのいいものが多い。少女だけなら一週間どころか、一ヶ月は生き延びられるだろう。


 だが、少女はそのどれにも手を付けなかった。白いワンピースに付いた土だけ払ってから、ぶかぶかの上着を羽織って、シェルターの固い地面に座り込む。軍人から受け取った小銃を両膝に抱えて、ただただ時間が過ぎるのを待った。

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