山の中腹で・1

 

「私も戦えます! 分かるでしょう!?」



 土埃と硝煙の煙で視界が霞み、汗と泥と血の匂いが立ち込めた、蒸し暑い塹壕。遠くから鳴り響く帝国の重機関銃の重たい連射音と、自走砲や戦車が咆える轟音、そしてその合間を縫って反撃する王国軍の小銃の乾いた発砲音が響き渡る戦場に、てんで場違いな高くて可愛らしい声が混ざった。しかし、少女の声はあくまでも悲痛で、そしてとても真剣だった。



「殿下、どうか後ろに控えていて下さい。殿下の御身にまさかのことがあれば、私たちではどうとも出来ません」



 それに答えたのは、三十を越えたばかりという風貌の、すらりと良い体つきをした軍人だった。土に塗れた灰色の軍服を端から端まで着崩さずに身に纏い、右肩には肩紐をつけた小銃をひっかけている。軍人は所々ぬかるんだ塹壕に身を屈め、少女と目線を合わせて話していた。



「今は兵が足りないと申していたではありませんか! 私だって、依託射撃でなら小銃を撃てます! それぐらいの訓練は……」


「殿下、兵が足りないというのは、数人、数十人単位の話ではないのです。この国にいる全ての若者をかき集めても、やはり足りないでしょう。一人増えたところで、何も変わりません」



 少女の必死の申し出も、軍人の意思を揺り動かすには至らない。軍人はあくまでも冷静で、そして頑固だった。死と隣り合わせの戦場で、身を屈めて少女と話すその優しさを覆せるほど、少女の言葉は強く無かった。


 遠くで、くぐもった爆発音がした。爆風が塹壕の中に雪崩込み、少女の身体がぐらつく。軍人はそれを受け止めて、もう一度その場に立たせた。悲鳴は聞こえない。死者は何も語らず、負傷者は唸るばかりで、そして無傷の者に死者など気にする余裕はない。



「今の爆発音が聞こえたでしょう。帝国の新兵器だそうです。原理は不明ですが、何か特殊な砲で発射する榴弾で、広範囲に渡る人間を、膨大な熱量で焼き、爆風で圧死させています。今頃、我ら王国の研究部がその仕組みを分析しているでしょうが、未だ戦場に於いては具体的な対策が無いようです。塹壕の中に無神論者はいないとは、よく言ったものです」


「こちらの砲撃部隊はどうしたのですか! 砲撃地点が割り出せれば、その新兵器とやらの攻撃を止められ…」


「殿下」



 突然、軍人が少女の言葉を遮った。キッ、と軍人を睨んだ少女は、軍人の鋭い視線に、思わずたじろぐ。軍人の目は、微塵の揺れもなく、唯真っ直ぐに少女を見ていた。



「この陣地は、今や圧倒的な劣勢です。量でも質でも、帝国軍との軍事力の差は天と地ほどもあります。敵の歩兵は多くが機関銃を使い、自走砲の支援を受けながら、小銃弾を跳ね返す戦車で進撃してきます。対する我々にあるのは、火力で劣る旧式の鎖閂式小銃ボルトアクションライフルと小型迫撃砲、それとほんの僅かの砲撃部隊だけです。砲撃部隊の殆どは帝国の列車砲三門に、掩蔽壕やそこで待機していた戦車部隊諸共、一方的に破壊されました。一帯陣地の兵士も砲撃部隊の支援が無ければ壊滅するのは時間の問題です。誰から見ても、この戦争の勝敗は明らかでしょう」


「そっ…そんなこと、あってたまりますか!」


「えぇ。私もそう思います」



 軍人はそこで、少し困ったように微笑んだかに見えた。しかしそれは少女の気のせいだったのか、話を続け出した彼の表情からはもう読み取れない。



「ご存じの通り、我らが国王陛下——殿下の御父上が、同盟国である西の合衆国や共和国、北の連合皇国などに支援を打診しておりました。私が先日聞いた電信では、合衆国と連合皇国は支援を快諾し、既に連合軍を編成しているそうです。あと一週間もあれば、援軍が王国に到着するでしょう」


「ならば、今ここで兵を損耗しなくてもいいではないですか! 出来るだけ交戦を避け、戦線を下げて兵を温存すれば……」


「その判断は、誰が下すのですか?」


「…あっ……」



 少女は虚を突かれたように目を見開き、それからポロリと声を漏らした。


 軍人は今度こそ、間違いなく目を細めて微笑んだ。少し苦々しくではあったが。



「平和なことに、軍の上層部は要らぬ権力争いに明け暮れ、本当の戦乱の時に於いてまるで烏合の衆であります。どの将官も、この戦乱の指揮を執ることは出来ないでしょう。王国軍元帥である国王陛下は、今は王国などの諸国と交渉するのに手一杯で、自ら指揮は執れません」



 そこで軍人は、一息置いた。すぐ近くの兵士の小銃の銃声が、思い出したようにはっきり耳に入る。しかし賢しい少女には、この一拍はともかくにしても、その次の一言は恐らく不要だっただろう。



「ですが」


「…私なら、王国軍の指揮が、執れる…?」


「はい。ほんの一ヶ月前ではありますが、殿下は間違いなく王国軍準元帥に任命されております。十三歳と言う異例の若さで御着任なされたのは、偏に殿下のその手腕に他なりません」



 軍人は、少女の透き通った黒い瞳を見つめる。少女は軍人の、ほんの少し茶色がかった黒目から、目を逸らすことが出来なかった。身に覚えがあったからだ。忘れもしない二ヶ月半前、暴走した連合皇国の大規模武装集団がこの王国に攻め込んできた。その時、無能を呈した将軍に代わって迎撃部隊の指揮を執り、数倍もの敵を王国軍の損害無く返り討ちにしたのこそ、他ならぬ少女自身であった。


 近くで鳴り響いていたはずの銃声が、気付けば遠くに聞こえる。慌ただしく横を通り過ぎる兵士の足音も、何故か意識の表層までは登ってこなかった。



「たった数日でも、我ら王国は帝国に攻め落とされる可能性があるのです。それを連合軍の支援が来るまで持ちこたえさせられるのは、殿下、貴女様しかおりません。

 ですから、殿下。どうか、御身を一番にお考え下さい」



 軍人は、そこまで言って、そこから立ち上がった。対照に少女は、その場に呆然と立ち尽くしたまま、動きそうにない。


 戦線の惨状。帝国の新兵器。王国軍の窮地。連合軍という希望。そして、自らが持つ権限ちから


 王女として長くを王国と帝国の境の別荘で過ごしてきた少女は、あまりに多くを知りすぎて、まだ実感が追い付かずにいるのだった。


 だから、目の前の軍人が何をしようとしているのかにも気づかなかっった。



「な、何をするのですか!」


「お許しください、殿下。貴女様の御身をお守りするには、これしかないのです」



 軍人は少女を、まるで自分のバッグを抱えるかのように易々と抱え、そのまま塹壕を歩き出したのだ。少女は彼の腕の中で暴れるが、鍛え上げられ、鋼のように引き締まったその両腕の中では、俎板の鯉よろしく、無駄な抵抗でしかなかった。


 小銃を構え、塹壕から顔だけを出して発砲する兵士の後ろを、軍人は変わらぬ足取りで進んでいく。硝煙と土、それと男臭い汗の匂いが充満している塹壕の中は、少女にとって不快極まりないものであるはずだが、少女はそれに顔を顰めることもない。それよりも、頭上1mもない空間を、空気を切り裂いて飛び交う銃弾の音が、少女の恐怖と不安を煽り立てていた。


 目の前で、一人の兵士が撃たれた。


 兵士は体勢を崩し、塹壕内に組まれた足場から塹壕の底に落下する。右手に持つ小銃の銃口からは煙が漂い、それがほんの一瞬前に発砲されたことを伝えていた。彼の弾丸が相打ちで敵兵の身体を砕いたのか、それとも虚空の彼方に消えたのかは、恐らく神であっても知るまい。


 兵士の顔は無残に崩れ、左目が完全に抉り飛ばされていた。誰が言うまでもなく即死だろう。血に塗れた顔からは表情が窺えず、ただ塹壕の底の澱んだ泥に、溢れ出る鮮やかな赤を加えるだけだ。それは、人が一人死に絶えたことを、否が応でも世界に知らしめていた。


 そしてその兵士の上を、軍人は悩みもせずに跨ぎ越える。それを見た少女は、その気丈な精神で以て、裏返りそうな胃をどうにか抑えつけた。


 そのまま軍人は歩を早め、緊迫した塹壕を進んでいく。

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