いやあ、この終わり方がすごくいいなあ、と思いました。

   「僕は小説家になりたかった。」

 冒頭でこのように書かれています。ですが、どうして小説家になりたいのかは、一切書かれていません。それは「なりたい」ではなく、「なりたかった」からです。ですから、書かれているのは、諦めた理由です。
 しかし、「なりたかった」のであれば、必ずなぜなりたかったのかという、理由は存在していた筈です。でも、書かれていない。「なぜ」は書かれず、自然な流れで、諦めた理由に文章は流れていきます。ここが実に、無作為的で自然です。作為性が感じられないおかげで、文章世界への入り込みがしやすくなりました。
 書かないが故のリアリティの演出は、他の箇所でも見られました。
「僕」のクラスメイトとの交流や家庭での過ごしている様子について、具体的な映像はありません。ですが、様子をなんとなく臭わせる雰囲気の演出はあります。私が感じた空気感は、「僕」は学校でも家の中でも、本当の意味でほっとしてのびのび寛げる空間を持っていないのではなかろうか、というものでした。

   「僕は諦めたように空を見た。」

 諦めて、ではないのですよ。「諦めたように」なんです。この一文は谷崎潤一郎「刺青」を読んでの一言です――いい本ですよ。ですが、私はこの言葉は、小説家になることへも掛かっているのではないのかな、と考えます。論拠はありますよ。こちらです。

   「僕、小説家になりたいんだ」

ほらね。「僕は小説家になりたかった」から始まって、「僕、小説家になりたいんだ」ですよ。いやあ、この終わり方がすごくいいなあ、と思いました。

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