虫の死体から出る血みたいな……

ミヤシタ桜

 

 「もう提出期限は過ぎてるんだぞ?」 


 広い筈なのにまるですぐそこに壁があるように思えるいつもの教室で、教師が僕に問いかける。


 「すい...ません」


 出来るだけ教師と目を合わせないようにと、下を向きながら言ったその言葉は、何年も使われてきて木が剥がれた机に反射して、自分の耳に反響する。


 すいませんでした——なんて、僕は何に謝ってるんだろ。


 「まだお前は中3だ。まだ挽回できる」


 成績表を見ながら教師が言った。

 

 「すいませ......ん」


 「たとえば、自分の夢のために頑張るとかあるだろ? まだ中3だからそんなの無いかもしれないが、もしあるならどうだ? 何か夢はあるのか?」


 「僕は……」


 言いたい事はあるのに、言えなかった僕はそのまま黙った。ただでさえ、重苦しい沈黙や空気が僕の心を萎縮させると言うのに、喉の奥で何か大事な物がつっかえる感覚がさらに僕を苦しめる。


 「まぁ、それに勉強こそできないお前だが、根は真面目だ。俺だってお前の成績が上がってくれれば嬉しいんだ」


 


 頑張ってくれよ。





 そう一言言って、赤色のファイルに入ったグラフと順位の書かれた紙と僕を置き去りにしたまま、立ち上がる為に手を机について、教師は去っていった。


 「すい......」


 言いかけた言葉を僕は閉じ込め、溜息を吐いた。僕は一体、何に謝ってるんだろ。


 

 

 


 

  






 電車の中は、どこも冷房が効き過ぎていて、外との温度差に気持ち悪くなるので、冷房からの風が一番避けられる四人席の窓側に座った。


 

 私立の中高一貫校に僕は通っている。それが意味するのは、僕の頭が良いという事でも、世田谷の高級住宅に住んでいるということでもない。僕は迷惑しかかけていないということだ。私立の中高一貫。当然、他の公立中学よりも断然お金がかかる。それでも親はこの学校に入れさせてくれて、それも僕のためにお金を払ってくれている。それなのに、期待に応えるどころか迷惑しかかけていなかった。僕は成績表を見る。どの教科の順位や点数を見ても酷かった。中一の頃から苦手だった数学や社会や理科はそのままで、唯一得意だったはずの国語すらも落ちぶれた。そういう現実を直視するたびに、自分の未来は、将来はどうなってしまうのかという不安が、まるで街一つを破壊する津波のように襲ってくるのだ。


 


 


 僕は小説家になりたかった。でも、そんな事を周りの人に言ったらきっと馬鹿にされると思う。お前になれると思っているのか、そんなことをしているなら勉強や部活をしろ、と。そう言われるのが容易に想像でき、その事に恥ずかしさなんて生まれず、単に自分が、特別な存在になれないという現実だけが茫漠とした壁として現れるのだった。でも、自分が特別な存在になれない事ぐらい嫌なぐらいに分かっていた。二次方程式も、谷崎潤一郎の「刺青」も、いくつもの化学式も、海外との外交政策も、全部僕には理解できなかった。その程度の、きっと普通未満の人間なのだ。



 そうやって成績に対してのコンプレックスのようなものを掘り返すと、思い出してしまう言葉がある。「社会に出てみれば、勉強なんて楽なもんだ。だから勉強ぐらいちゃんとやっとけ」という言葉だ。僕の学校にいる60代ぐらいの、人生を達観しているような体育教師が言った言葉。僕たち生徒を想っての言葉なのは、もちろん分かっていた。でも、勉強できない僕にとってその言葉は、僕の内面に隠れていた身体中の痛みを顕在化させてしまうのだった。



 


 外を見ると、窓ガラスの外側に虫がついていた。何十キロ何百キロという速さで動く電車に時折、離れてしまいそうになり、ふわっと浮遊しそうになるが、それでもなお死に物狂いで張り付いている。そんな虫を察したのか、電車は次の駅へと着こうとする。ゆっくり、ゆっくり、減速していく。その時だった。見計らったように小さな鳥が、窓に引きずりながらその虫を獲って行った。窓に残ったのは殺された虫の足と濁った血液だけ。その色は赤とか青とかそんな一つの色では表せないような———赤と青と黒と紫と緑と茶色、それら全部を混ぜたような濁った色をしていた。そんな事を知るわけもない電車は「ドアが閉まります。ご注意ください」という無機質で機械的なアナウンスを流し終わると、次の駅に向かい始めた。







 そういえば僕は、3回事故に遭ったことがある。一つは階段から滑り落ち、一つは下り坂で自転車のブレーキが効かず壁にぶつかり、もう一つは小さな十字路で青色の車に衝突させられた。その一連の事故で理解した事と言えば、14年生きてきて出来上がった体は、僕が思うよりも何倍も何十倍も強いということだった。階段から盛大に落っこちても、アスファルトの壁に叩きつけられても、車にぶつけられても、出来た傷は糸を縫えば数ヶ月もすればいとも簡単に消えてしまうようなものだった。


 でも、小学校の頃の30代前半ぐらいの教師に言われた心ない言葉や、帰り道で友達とも呼べないような人間に吐かれた悪口は、僕の内面の、壊れていなかった部分に切れ込みを入れ、傷口を作り、決して癒えることのない傷を完成させた。心に糸を縫う方法なんて僕にはわからないし、血小板がその傷を埋めることも勿論なかった。



 そこで気がついた。僕を苦しめているのは、あの成績表一枚で自分の未来を、将来を大きく変えてしまうのではないのか、という不安ではない事に。きっと僕は、ずっと何か別のものに怯えている。その何かが何者なのか。傷そのものなのか、傷になる前の———いわば傷口のようなものなのか、傷口を作る真っ黒なものなのか。或いはそのすべてなのか。僕にはそれを理解できるほどの知能も余裕も持ち合わせていなくて、ただ目の前の現実にしがみつくのに精一杯だった。


 そうしているうちに、癒える傷さえも癒えないように思えてしまった。剥けた手の平の皮も、抜けた髪の毛も、自分が知らないうちに補完される。そう。補完されている。その事実を理解しながらも、自分の大事なパーツが、壊れていなかった部分が、僕からボロボロと欠けていくような感覚だけが、深く残る。


 でも、そうやってただ絶望に打ちひしがれているだけで何も進めずにいる状況を難渋という言葉で形容することはできなかった。髭も陰毛も生えてきて、喉仏も出てきて、自慰行為をすれば精子が出て、上履きのサイズも中学に入ってから3回も替えて。そうやって僕の心をどこかに置いていかれたまま、体だけが大人に向かって進んでいく。その成長に、怖くなる。恐ろしささえも感じる。帰る場所がなくなったような喪失感と、深い深い海の底で一人生きているような孤独感が、僕を苦しめた。

 

 


 

 もう一度外を見る。すると、ついさっきまであったあの虫の一本の足と、赤くない血は跡形もなく消えていた。その代わり、電車の早さに流れていく見慣れた風景があった。ふと、その見慣れた風景の中にいつもある一棟のビルが、無くなっていた事に気がついた。ただ、無くなっていると認識した時にはすでに違う景色が窓を埋めていた。あと数日で潰れる予定の小さなコンビニ。中途半端に大きい給水塔。けたまましい音を鳴らす警鐘と踏み切り。何年も前から針が動かない時計台。鳴きながら空を走るカラスの群れ。それを見ていると、時速何十キロ何百キロという速さで進む電車に乗っているはずなのに、僕だけが世界の全てから置いていかれるような、僕だけが何も進めていないような、そんな気がしてままならなかった。


 

 


 



 


 

 最寄駅より一つ前の駅で、僕は電車を降りる。外は雨が降っていないというのに、肌をまとわりつくような気持ちの悪い夏の暑さが充満していて、存在しないはずのペトリコールさへ感じられた。大きく息を吐き、吸ってみると、まるで毒を吸っているような不快感を覚えた。同時に「あぁ、まだ生きてる」という感覚にもなった。でもその生の感触が僕にとっては、煩わしかった。


 僕はホームに備え付けられた小さな椅子に座った。昔から置かれているのか、本来青色だったそれは色褪せくすんでいた。肩に掛けていたスクールバッグを隣に置く。すると、肩が一気に楽になった。そしてそのバッグのファスナーを開け、一番手前にある小説を取る。栞を挟んであるページに手をかけ開き、僕は読み始めた。谷崎潤一郎の「刺青」は一行一行丁寧に読んでも読む事ができなくて、僕は諦めたように空を見た。



 赤かった。純色の赤ではない。どんな色をしているのかと聞かれたら赤色と答えるが、そんな単純な色ではない。美術も苦手だから、どんな色であの空が構成されているかわからない。でも、想像だけは出来た。鉛筆の黒と成績表の紙の白を混ぜたその上に、さっき見た虫の死体から出る血を塗り重ねて、もう一度、成績表の紙の白を綺麗に合わせたような。そんな風な赤だと思う。


 そこを一匹のとんぼが飛んでいた。夏でも飛んでいるんだなと思った。そのとんぼは、まるで行き先を失っているみたいに、あっちに行ったりこっちに行ったりしていた。僕は人差し指を空に向かって伸ばし、ゆっくりと小さな円を書くようにする。するとそれに気づいたのか、とんぼが僕の爪の上に止まった。


 綺麗だった。羽は不揃いの四角い模様が一つ一つ繋がっていて。落としてしまったパーツを拾い集めたみたいな、そんな風な気がした。


 「僕、小説家になりたいんだ」


 とんぼに僕の言うことなんかわかるわけがないのに、思わず話しかけてしまう。それから少しして、とんぼは太陽に向かって飛び始めた。まるで、行き先を決めたみたいに。


 

 


 首が疲れてきて、もう一度本を開いた。そして再度、栞の挟んである所を一行一行丁寧に読む。もちろん内容は理解できなくて、注釈のついた単語も、どこかバタ臭さを感じる文も、好きになれなくて。でも、僕は次の電車が来るまで本を読み続けた。


 

 


 

 

 



 

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