【短編】現代版ソクラテスの対話
夏目くちびる
第1話
「ソ、ソクラテスさん!俺の体を使って人を論破しようとしないで!」
『うるさいな……』
あ、あぁ〜!人格を乗っ取られる時にいつも俺を襲うドキドキがーッ!
「……先生、質問があります」
「う、
「さきほど、先生は『産業革命は世界に大きな変化をもたらした』と言いましたね。その変化は、人々に幸福をもたらしたのですか?」
「あ、あぁ」
「ならば、その幸福とはなんですか?なぜ、技術水準の発展によって人は幸せになるのですか?」
「そりゃ、お前の使っているスマホとかもそうだが、便利になればなるほど人間は幸せになれる。楽しみが増えるからな。みんながそれを感じているし、だから便利な世界を目指して人間は日夜研究をしているんじゃないか」
「では、便利とはなんですか?また、それは本当の意味で人を幸せにするのですか?」
「するハズだ。物事を処理するスピードがあがれば、それだけ人は残った時間で自由に生活できる。好きなことに時間を費やせるなら幸せだろう」
「好きなことのない人間は、苦しい時間を増やすことになるのではないですか?それに、処理するという根底の部分に伴う苦痛は取り除かれていないのではないですか?」
「そ、それは……」
「まぁ、いいでしょう。質問を変えます。先生は、技術水準の発展によって幸せになりましたか?便利になったことで、幸せになりましたか?」
「そう、だな。今はインスタントに娯楽を享受できるからな。スマホで動画や漫画なんかがいくらでも見られるから」
「では、それによって知りたくもない情報を知り、思いがけない不幸に見舞われた経験はありますか?」
「……ある」
「ならば、好きなことをしている時間にも不幸をもたらす要素は、その『便利さ』によって生じていることになります。果たして、それは先生にとって幸せですか?」
「ぐぬぬ、またそうやって……」
そして、先生は肩を落とすと机に手をついて項垂れた。
「……符色」
「はい」
「廊下に立っとけ。授業と関係のない話をした罰だ」
「産業革命と便利さに共通する重要な疑問だとは思いませんか?」
「立っとけ」
「……ありがとうございました」
そう言い残して、ソクラテスさんは人格を入れ替えたのだった。
……1週間前、ふと立ち寄った古本屋で見つけた作者不明の思想本を開いたのだが、「お前は何かを知っているのか?」という謎の声が聞こえ本が光り輝いて、結果、なぜか俺の脳内にソクラテスさんが憑依することになった。
しかし、ソクラテスさんはなんだか知ったかぶりの有識者が嫌いなようで、いつもいつも俺の人格を乗っ取って先生をロンパロンパして、俺は内申点を貰えナイナイなのだった。
「トホホ……。ソクラテスさんは凄く頭がいいのに戦闘狂なんだから……。あーあ。どうしていつも、俺が廊下に立たされなきゃいけないんだ」
呟くと、頭の中でソクラテスさんが返す。
『そうしょげるな、哲人。あの者が先生と呼ばれる以上、私たちには知る権利がある。生徒の疑問に答えられないのに教えを説くなど、思い上がったあいつが悪いのだ』
「そんなこと言って、ソクラテスさんが死んでからもう2000年以上経ってるんですよ?一つの答えを追求する時代は終わったんです」
『そうだろうか。私は、いつの時代も人間の本質は変わらないと考えている。現に、世界はこれだけ豊かになったのにみんな不幸を嘆いているではないか。やはり精神的な困窮の中では、何か信じられる正しいモノが必要だと思うがね』
「それについては、あなたの後を追って学びを得た人たちが語ってくれていますよ」
『知っている。特に、ニーチェという男の考え方は興味深かったな。願わくば、彼とは生きている間に出会いたかったモノだ』
「哲学の頂上決戦ですね」
『戦とは物騒な物言いだな。それに、私と彼とでは根本的な考え方が違う。私は、ただ彼の背景と経験に基づく知識を教えて頂きたいだけだ』
「そう思ってんの、ソクラテスさんだけですよ。だから処刑されちゃったんじゃないですか」
『あぁ、あれは本当に大変な出来事だったな。しかし、哲人よ。それによって私は死後の世界を垣間見ることが出来たのだ。殺されるのも悪いことばかりでは無いよ。イデアを見かけなかったことで、我が弟子のプラトンの説が少し厳しいモノとなったのは悲しいがね』
「……啓蒙狂人め」
だが、実際に死を体験して尚、ソクラテスさんは死後の世界を「知った」とは言わなかった。人格はさておき、本当に学びたいだけなんだろう。
「カントはダメなんですか?現在の哲学は、カント以前とカント以後なんて分けられ方をしてます」
カントとは、「哲学を神とか説明の付かないやべぇことを切り離して、もっとリアルな視点で考えようぜ」と言った人だ。
彼やデカルト、もちろんニーチェにソクラテスさんもそうだけど、この世には時々こうして特異点みたいな天才が生まれている。俺は密かに、彼らが異世界から都合のいい記憶を消されて転生した転生者なんだと思ってるけど、実際はどうなんだろうな。
閑話休題。
『さっきも言ったが、私は死に、死後の世界を見て尚理性的に舞い戻ってしまったわけだからな。超次元の世界について考えることは、もはや無駄ではない。理性は、意思を超越出来てしまったのだよ』
「まぁ、あの人もまさか本当に人が生き返るだなんて思わなかったでしょうしね」
ほんと、生き返るのってチート過ぎるわ。せっかく分かりやすいように再定義された哲学をまた幅広に再定義しちやうんだもん。めちゃくちゃだよ。
『起きてしまったのだ、仕方あるまい』
そして、彼は深くため息を吐いた。
……彼はソクラテス。有名な古代ギリシアの哲学者で、今は俺の頭の中に住んでいる。
得意技は『問答法』。その方法はさっき披露した通り。決して自分では答えを出さず、そして相手を否定せず。言葉尻や綾を捉えて「それってなんですか?」と聞き続ける。それだけ。
この方法、はっきり言って禁止カードだ。
あくまでも討論での勝ちに特化している為、双方はその討論によって何か新しい答えを得ることは出来ない。そして、答えを求めるという姿勢で挑む仕様上、自分が論破されることはあり得ない。無敵だ。
当時の時代背景を見れば影響力のある政治家を言い負かすためには仕方のない事なんだろうけど、それにしたって姑息過ぎると思う。というか、今でも問答法を徹底して負けることってないんじゃないだろうか。……徹底すれば、ね。
大抵の人間は、自分が優勢と見ると突然イキリだして、勝手に綻びを生んでしまうモノだ。だから、分かっていても徹底することは難しい。紀元前と比べ、現代人は特にその傾向が高いとソクラテスさんは言った。
しかしそんな『卑屈にマウントを取る』という矛盾したやり方を可能にするのは、彼が残した哲学の最も根底にある基本。『無知の知』の賜物だ。要するに「自分は何も知らないことを自覚しようぜ」って話なんだけど。現代の冷静な凡人たちは騙されたり負けたりして、いつの間にかネガティブな意味で理解している気がする。それに、俺はムチムチの方が好きだ。
まぁ、エビデンスだのカニダンスだの事あるごとに証拠を求める現代人にとって、証拠が証拠である確固たる理由を求める意味でも問答法は再び見直されるべきなのかもしれない。……と、思わなくもなかったりするのも確かだ。俺だって色々知りたがる割に、証拠の正確性とかは調べないしね。映画のレビューとか、レストランの評価とか。
事実がある事は知りたいけど、そこで満足しちゃう。結局、俺が知りたいのは正しい事ではなく自分にとって都合がいいこと、何だろうな。例え、それが積み重なって、将来俺に不幸として降りかかると漠然と思っていても。やっぱり、目の前の苦痛からは逃れたいよ。弱くてごめんなさい。
……誰に謝ってんだろ、バカみたいだ。
「しかし、あなたが著作を残しているだなんて知りませんでしたよ。何せ、あなたは書記言語が野放しにされることを酷く嫌っていたと後世には語り継がれていますから」
訊くと、ソクラテスさんは少しだけ黙った。
『死刑を言い渡され自ら毒を飲むまでの間に、たった一度だけ自分自身を試す意味で記したのだ。しかし、あれは友のクリトンによって地面に埋められたハズだ。他の誰も知らず、クリトンは信用に足る男だ。見つかる理由はなかった』
「なんでそれが、あの古本屋にあったんでしょうかね」
『分からない。だが、あれによって私は再び現世に現れることが出来た。私が自我を持っている以上、私はここに存在している。それだけは確かだ』
「そうですね」
『それに、知ることに肉体は必要ないからな。ひょっとすると、私は私が追い求めて未来の者たちが掴んだ真理を知り、その意味を問うためにゴーストとなって現世に蘇ったのかもしれない』
「壮大な話ですね」
『正しさを問う事を生み出した責任なのかもしれんな。哲人、その為にも協力してくれたまえ』
普通に嫌ですけどね。俺、普通の高校生だし、普通の高校生やりたいし。
『そう邪険にするな。私が知れば、それだけお前にも得があるだろう』
「心を読むのやめてもらっていいですか?」
『それは不可能だ。しかし、心とはなんだ?お前のその邪推を生む思考の事か?』
うっざ、マジで早く消えてくれないかな。
× × ×
『哲人、お前は本当に胸の大きな女が好きだな』
それは、とある休日の昼下り。どうしても我慢できず、一人で致した後のこと。普段は我慢しているのだが、こういう時には耳をふさいで目をつむってもらうようにお願いしている。
「見ないでくださいって言ってるじゃないですか」
『仕方あるまい。嫌でも脳内に色情が流れ込んでくるのだ。しかし、お前はどうしてそう多数の女に凌辱されるのが好きなんだ』
「それ以上は言わないでくださいよ!ほん……っ、アァッ!マジで早く出てってくださいよ!」
『気にするな、私にだって人に言えない趣味はある』
「俺が気にするんですってば!」
思わず騒ぐと、下にいる母さんと姉さんが「やかましい!」と怒った。ひぇ、恐いから外に出かけよう。
『お前、確かクラスの細身の女子に惚れているんだったな。動画で見ている女体とは、随分と趣向が違うようたが』
俺は、隣の席の
「それはそれですよ、見る分には臨場感がある方が興奮するんです」
『なぜ興奮に臨場感を求めるのだ?』
「うるさいですね……」
呟いて、道を歩く。今日はいい天気だ。
『哲人、彼女は悪女か?』
「そんなワケないですよ、凄く可愛らしくて優しいから好きになったんです」
『ふむ、それは困るな。お前が彼女と結婚したら、お前は哲学者になれない』
「結婚って。まだ付き合ってもないし、向こうが俺を好きかどうかも分からないですよ」
『ならば聞けばいいだろう』
「その考え方、2000年遅れてます」
『なるほど、それはすまなかった。では、現代の恋愛を私に教えてくれ』
しまった、ソクラテスさんに迂闊なことは言わないように気をつけていたのに。これは月曜日が面倒な事になるぞ。下手をすれば俺の血涙でブラッディ・マンデーになってしまう。フラれたくない。
『……む、哲人。あれはなんだ?』
突然言われ、俺は意識が向いている方向へ目を向けた。そこには、僅かながら人だかりが出来ている。
「あぁ、あれは政治家が選挙に向けて演説をしているんですよ」
『なんと、この時代になっても政治家は紀元前と全く同じ方法で活動をしているのか。呆れたモノだな』
「政治家が嫌いなんですか?」
『そうではない。大きな声で正しくないことを正しいと主張する者が気に食わんのだ』
なら、やっぱり政治家が嫌いなんじゃないか。
「別のところへ行きましょう、俺は政治とか興味ないです」
『いいや、私はあの男の話には興味がある。現代の政治の仕組みを理解する上でも重要なことだ。それに、多くを知れば私も早く成仏できるかもしれない』
「……まぁ、それなら別にいいですけど。俺の体を使って論破するのは止めてくださいよね」
ソクラテスさんは、何も答えてくれなかった。まぁ、とはいえこの人が誰かを言い負かすところに興味がないと言えば嘘になるけど。
その政治家は、何やらこの市で生まれこの市に育てられたから、この市の民には幸せになってもらいたいと感情的に訴えていた。しかし、高校生の俺が聞いていても具体的な政策はわからず、とりあえず良さげな事を叫んで、ふわっとした耳ざわりのいい言葉で丸め込もうとしている気がした。そういうものなのだろうか。
『哲人、あの男はさっきから何を言っているのだ?』
「さぁ?地元愛が凄いって事を伝えたいんじゃないですか?」
『しかし、あの車のナンバープレートはこの町のモノではないぞ』
そこには、『品川』と書かれていた。ここ、北関東のド田舎だけどね。
「じゃあ、別に地元愛が凄くないんじゃないですか?」
『なるほど。市民の情に訴えかけて政治に携わろうなど、卑劣な男だ』
あ、マズい。ドキドキしてきた。
「落ち着いてくださいよ」
『落ち着いている。そうでなければ、あの男に地位の善さを尋ねることが出来ないからな』
「落ち着いてな……あぁ~!」
そして、人格を乗っ取ったソクラテスさんはその政治家の目の前に立った。見た目は割と若い、フレッシュな男だ。こういう人を、所謂陽キャと呼ぶのだろう。
正直言って、俺は仲良くなれないタイプだと思う。多分、好きなのは酒と車と女で、それなのに待ち受けを子供のどアップ写真にしている。絶対に話が合わないだろうな。
あぁ、俺のこういう風に考えてしまうところ、本当に嫌いだ。
「おや、高校生かな?若い方に応援してもらえるとパワーが湧いてきますね!」
「貴公、先ほどからしきりに『善い生活』と繰り返していますね」
「貴公?……はい、そうですよ。僕は皆様が良い生活を送れるよう、市議会議員を目指していますから!」
「ならば教えていただきたい。『善い生活』とはなんですか?」
「それは、皆さまが笑顔で暮らせることです!その為の方法として、生活を圧迫する税金を減らそうと考えているのです!」
「税金を払わないことが、善い生活なのですか?」
「そうです!」
「なぜですか?」
訊くと、政治家の表情が一瞬だけ固まった。
「……えっ?」
「なぜ、税金を払わない事が善い生活に繋がるのですか?」
「それは、市民の方が自由に使えるお金が増えるからですよ」
「自由に使える金が増えるのは何故ですか?国民は、必ずどこかで国の運営費用を徴収されます。そうしなければ、国が崩壊するからです。ならば、それはどんな方法ですか?また、それは義務付けなくても国民が従うモノなのですか?」
「その……」
「古代ローマ帝国では民に土地を貸し付ける事で資源を調達し、実質的な徴収システムを作っていました。何か、そういった別のアイデアをお持ちなのですか?」
それに答えられなかった事で、周囲がざわつき始めた。
「……はは、難しい事を知っているね。でも、今僕は仕事中だから」
「この世界には、先生と呼ばれる職業が4つあります。医者と、作家と、教師と、政治家です。共通するのは、他人に何かを伝え教える、という事です。もしあなたに仕事があるのなら、それは市民である私に正しい知識を授ける事なのではないですか?」
ピクピクと頬を引きつらせて、政治家は笑顔を崩した。
「大丈夫なんですよ、僕に全て任せてください」
「あなたに任せるとどうなるのですか?市議会議員には、私たちの生活を全て保証する権限があるのですか?ならば、なぜ今の市議会議員はそれをしないのですか?そもそも、なぜあなたは税金を減らすなどと言う自分の給料を減らすに等しい目標を掲げているんですか?何か、他に懐に金を収める方法があるのですか?」
完全に沈黙し、幾ばくかの時間が流れた。そんな時、ふとした瞬間にどこからともなくこんな声が聞こえて来た。
「……脱税か?」
そして、騒ぎは藁に火を放ったが如く、一瞬で広がっていった。周りの人だかりは、いつの間にかとんでもない事になっている。ソクラテスさんと政治家のプロレスは、休日の昼下がりの暇つぶしにはちょうどよかったのだろう。
「お前、脱税してんのかよ!」
「いや、してないですよ!どうしてそうなるんですか!」
「それでよく偉そうな事言えたな!金返せ!」
「お前の給料を給付金に回せよこのタコ!給料いくらもらってやがる!」
「つーか、小学生以下の下らねえ口喧嘩をテレビ通して流してる暇があったら大河ドラマ再放送しろや!」
あぁ、めちゃくちゃだ。
「お、落ち着いてください。落ち着いて。あ、車を叩かないでください!痛い!引っ張らないで!」
そして、話が出来なくなったことを悟ったソクラテスさんは俺に人格を戻したため、そそくさとその場を後にした。
「まったく、凄く恥ずかしかったですよ」
面白かったけど。
『哲人。人間は人間として善く生きる方法を探すことが大切なのだ。あぁやって目の前にぶら下がっている餌に食いつけば、後ろのポケットに手を回されて財布を抜き取られるかもしれない。それを阻止する事も、私たちの役目なのだ』
全然聞いてないじゃん。まぁいいけどさ。
「そういうコメディ映画、見た事ありますよ」
『人生を喜劇に例えるか、お前は中々の皮肉屋だな』
そういう意味で言ったんじゃないですけどね。シェイクスピアじゃあるまいし。
『しかし、だからこそそう言った目先の幸福に囚われず、
デルフォイの神託。ソクラテスさんがアポロン神殿で告げられた、かの有名な「ソクラテスに優る賢者はいない」という神託だ。この前、思い出せなかったから直接聞いてみたんだ。マジでそう言われたんだってさ。
「しかし、人間がみんなソクラテスさんのように強くはないですよ。さっきの罵詈雑言を聞けばわかるでしょう?確かに善い行いは大切かもしれないけど、俺みたいな凡人はどれだけ脳みそを絞ってもそれを見つける為の知恵なんて湧いてこないんです。諦めて、誰かに身を委ねたって仕方ないじゃないですか」
『大切なのは、富や知識を有益に使うために、何を目的としてどうすればいいかを考えることだ。哲人、お前は人の役に立ちたいと考えたことがあるか?』
「そりゃ、たまには考えたりしますよ」
『ならば、そこに才能はなくともお前は人間として善く生きるための努力をしているではないか。その「魂の配慮」を忘れなければ、お前はいつだって強くいられる』
「しかし、実益に囚われます。名誉に囚われます。エロい事だってしてみたいし、お金を持ったらノノタウンの後澤社長みたいに人間同士の醜い争いを誘発してみたくなるかもしれません。それでも、俺は善く生きるための方法を探していると言えるでしょうか」
『ならば、実益や名誉やエロい事の意味を深く考えるのだ。深く、深く。自分自身に、それがお前にとってどんな意味をもたらすか。それを考えて答えを見つけ出せは、必ず節度を見極められるようになる。その頃には、きっと他の物事への思慮を忘れないようになっているよ』
「……そういうものですか?」
『そういうモノだ、心配するな』
俺が思っていたよりも、ソクラテスさんは人間らしく、優しかった。もっと、全ての事を倫理と信念に当てはめて、善い行いから逸脱する人間を引き込むようなモノを言うんだと思っていたけど。
もしかすると、俺は哲学という学問を勘違いしていたのかもしれない。自分の正義を貫いて死を選んだことと、人に自分の正義を押し付けることは、少なくともソクラテスさんの中では同義ではないらしい。
「わかりました。とりあえず、童貞を卒業してお金持ちになったら考えてみます」
『哲人、何かそのためのアイデアを思いついているのか?』
思いついてるワケないでしょ。
『なるほど、それでは私も一緒に考えてやる。哲人、お前は一体何が好きで、どうなりたいのだ?』
それから、俺は河原を歩きながらソクラテスさんに人生相談をした。しかし、彼は本当に考えるだけで、なんの答えも出さなかった。結局、彼に世の中への不満をぶちまけただけだ。
やっぱり、俺は週刊文夏みたいにスパッと答えを教えてくれて、それでいて刺激的な方が好きだけど。でも、同時に真剣に俺の夢みたいな妄想話を聞いてくれたのは、これまでの人生でもソクラテスさんだけだけだってことに気が付いていた。
ソクラテスさんの考え方は、今でこそ世界の常識だ。でも、思いついて実行して、受け入れられるまでの間に何度も否定されたに違いない。というか、死刑になってるし。
それでも、妄言扱いされた思考をずっと貫き続けたのだろうか。それとも、彼にも同じように優しく真剣に話をを聞いてくれた人がいたのだろうか。あるいは、核心を突くやり方で当時の人たちのルサンチマン的な何かを強く刺激したお陰で、最初から受け入れられていたのだろうか。
……わからないな。
ただ、不思議とその謎だけは自分のことよりも真剣に考えることができた。でも、考えれば考えるほど色んなことが思い浮かんできて、結局答えを出すことは叶わなかった。
『ようこそ、哲人』
家の扉を開ける時、ソクラテスさんが言った。意味は分からなかった。
【短編】現代版ソクラテスの対話 夏目くちびる @kuchiviru
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