波間に咲く桔梗

ハルカ

彼女はまるで白い桔梗の花のようなひとだった

「お前ってさ、たまに海のほうを見てるよな」


 そんなことを言われたのは、暑い夏の日のことだった。

 気のせいだろ、と返すと、友人は釈然としない顔をした。こいつは普段にぶいくせに、たまにおかしなところでするどい。


 こんなに海が気になるのは、きっと彼女のせいだ。

 あのひとは、広い海から探し物を見つけることができたのだろうか。

 それとも、まだひとりでさまよっているのだろうか。


   ○


 彼女と出会ったのは、波の穏やかな日だった。

 俺は犬の茶太郎を散歩させるために早朝の海岸沿いを歩いていた。

 ふと、茶太郎が鼻先を海へ向けた。何気なくそちらを見ると、青い布がはためいた。


 青いワンピースを着た女性だった。

 黒い髪を風になびかせながら、彼女は波打ち際を歩いていた。散歩にしては様子がおかしい。打ち寄せる波が彼女の足元をさらおうとしている。今にも靴を濡らしてしまいそうな場所で、彼女は何かを探すように視線をさまよわせていた。


 すらりとした体に細い手足。濡れたような黒い瞳。

 一瞬で目が釘付けになる。

 遠目にもわかるほど綺麗なひとだった。


 俺は茶太郎を抱え、コンクリートで舗装された道から砂浜へと降りてゆく。

 いつもの散歩コースが変わって戸惑ったのか、腕の中で茶太郎がくぅーんと声を上げる。よしよしとなでてごまかし、波打ち際へ足を速める。


「何か探してるんすか?」


 声をかけると、女性は弾かれたように顔を上げた。

 白い肌に形の良い鼻。珊瑚のような唇。近くで見るといっそう美人だった。

 彼女は突然現れた見知らぬ男を警戒している様子だったが、茶太郎と目が合うと表情を緩めた。


「すみません。入ってはいけない場所でしたか?」

「あー、大丈夫っす。泳ぐとか、貝獲ったり、釣りとかはダメっすけど。散歩なら全然オッケーっす」

「そうですか。よかった」


 彼女はほっとしたように頷いた。

 年齢は俺よりも5歳くらい年上だろうか。だとすると、たぶん二十代前半。瑞々しい肌は、明らかにこの海辺の土地の人間ではないことを物語っている。

 まるで白い桔梗の花みたいなひとだな、と思った。


「俺、近くに住んでるんすけど。お姉さん見かけない人だったんでちょっと気になって。落とし物っすか? よかったら交番とか案内しますけど」

 彼女は考えながら、潮風に乱された髪を緩やかにかき上げた。その仕草がいかにも大人っぽくて、十七歳の俺はそれだけで心臓が跳ねた。


「海で亡くなった婚約者の遺品を探しているんです」

 彼女は、静かにそう告げた。


   ○


 次の日の同じ時間、また砂浜で彼女の姿を見かけた。

 今日はエメラルドグリーンのワンピースだ。波打ち際を歩く彼女は、漂流物に気を取られているせいで波に靴を濡らしそうになっていて、どうにも危なっかしい。

 俺は茶太郎を連れ、砂浜へ降りていった。

 

「はよっす」

 俺が声をかけると、彼女は会釈をしてくれた。

「おはようございます」

「お姉さん、毎朝ここに来てるんすか?」

「しばらく通おうと思っています」

「それなら、ビーサンかマリンシューズにしたほうがいっすよ。歩きやすさが全然違うんで」


 見れば、すでに彼女の足元はぐっしょりと濡れていた。

 俺と出会うまで、彼女はずっとひとりで海岸をさまよっていたのだろうか。途方もない数の漂流物の中から、宛もなく婚約者の遺品を探して。俺の知らないどこか遠くの海岸でも。

 その姿を想像しただけであまりの孤独に胸が苦しくなり、ついたたみかけるように言う。


「それと、今は満ち潮なんで。探すなら干潮を狙ったほうがいっす」

「干潮?」


 彼女は首を傾げた。

 そうか。海辺に住んでいない人には、そこからわからないのか。

 ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出して画面をなぞり、出てきたデータを見せる。


「潮の満ち引きっていうでしょ? 海が一番陸に近づいてくるのが満潮。逆に一番遠くなるのが干潮っす。そのときは海に隠れていたものがいろいろ出てくるんすけど、日によって時間がずれるから調べたほうがいいかも」


 スマホの画面には、日付ごとの満潮と干潮の時間が表示されている。

 今日はもうすぐ満潮になる。逆に昼過ぎからは干潮だから、今よりも波打ち際がぐっと遠くなる。

 そう伝えると、彼女は微笑んだ。


「教えてくれてありがとうございます」

 その顔がとても綺麗で、それだけで俺はどうしようもなく胸が高鳴った。


   ○


 午後になり、気付けば足が海岸へ向かっていた。

 もうすぐ今日の干潮の時間になる。


 砂浜には彼女の姿があった。

 どこかの店で買ったのだろう、その足にはスニーカーではなくビーチサンダルを履いている。アドバイスを聞いてくれたのだとわかり、嬉しくなる。


 彼女は足元に落ちている青いものをじっと見つめていた。

 それに気付き、俺は慌てて駆け寄る。

「それ触らないで!」

「え?」

 彼女は驚いて顔を上げ、びくりと下がった。

 その足元に落ちている物体は、鮮やかな青色でビニールっぽい質感をしていた。


「これ、カツオノエボシっていう猛毒クラゲの破片で、この状態でも毒が残ってることがあるんす。こいつの毒で死ぬ人もいるらしくて」

「……そうなんですね。教えてもらって助かりました。ありがとうございます」


 彼女は丁寧に頭を下げた。

 少し脅し過ぎたかもしれない。


「触らなければ平気なんで」

 へらっと笑って見せるが、彼女はじっと俺を見つめた。

「あの、もしかして……わざわざ時間を合わせて来てくれたんですか?」


 これはマズい。

 絶対に暇人か変な奴だと思われてる。


「あー、家にいると親が勉強しろってうるさいんで」

「……もしかして、高校生?」

「そっす。背が高いから、たまに大学生に間違われるけど」

「物知りなのね」

「いやぁ、子どもでも知ってることばかりっすよ」

 そう答えつつ、心の中ではすっかり浮かれていた。


   ○


 土日や祝日のあとは、海が汚れる。

 花火の残骸やバーベキューのゴミ。どこか遠くからやってきた馬鹿どもが、置土産を残していく。


 彼女は悲しそうにそれを見つめていた。

 婚約者が亡くなった海を汚されたら、たしかにいい気はしないだろう。


「俺、家からゴミ袋もってきます!」

「えっ?」

「汚いから素手で触らないでくださいね!」


 そう言い残し、俺はダッシュで家に帰った。

 そして軍手とゴミ袋をもって急いで戻る。

 彼女は数分で戻ってきた俺に驚いていた。


「あの、ありがとう」

「いえいえ」


 照れ隠しに、ゴミをぽいぽいと袋に投げ込んでゆく。

 しばらく歩くと、今度はビールの空き缶が転がってた。焼き鳥の串みたいなものまで砂に刺さっている。危ないったらありゃしない。全部引っこ抜いてゴミ袋に捨てる。

 分別はあとでし直すとして、今はとにかくすべて袋に放り込む。明日からは資源用のゴミ袋も持ってきたほうが良さそうだ。

 ゴミ拾いなんてガラじゃないけど、これ以上悲しそうな彼女の顔を見たくなかった。


「何か手伝えることはある?」

 彼女が遠慮がちに尋ねる。

「いや、いいっす。俺は勝手にゴミ拾ってるだけなんで。お姉さんは今まで通り婚約者さんの遺品を探してあげてください。あ、それっぽいのがあったら絶対に声かけますんで」


 そう伝えると、彼女はようやく微笑んでくれた。


「……君の名前を聞いてもいいかな」

「ケント。じいちゃんが大工やってて。建てる人って書いて建人ケントっす」

「建人くん。素敵な名前ね」

「あざっす」


 名前を呼ばれてくすぐったくなり、俺はまたぽいぽいとゴミを袋に突っ込んだ。

「ありがとう。建人くん」

「どういたしまして」


 名前を呼ばれただけで恥ずかしくて、結局、彼女の名前は聞くことができなかった。


   ○


 翌日、友人から電話がきた。

まなぶがさ、集まって夏休みの宿題やろうって』

「いつ?」

『あさっての午後とかどう?』


 そう聞かれて、ふと考える。

 たしか、当分のあいだ干潮の時間は午後だったはずだ。


「ダメだ、午後はしばらく用事あるわ」

『とうとう塾にでも行くようになったか?』

「俺が勉強すると思うか? ゴミ拾いしてるわ」

『は? 誰が?』

「だから俺だって」

『それ、雨が降るんじゃね?』

「うっせぇ。俺だって町内の環境美化を真剣に考えてんだよ」

『よしわかった、雨じゃなくて台風だな?』


 そんな他愛もないやり取りをして、電話を切る。

 なんとなく彼女のことは話せなかった。

 誰にも知らせず、俺の中だけで独り占めしていたかった。


   ○


 翌朝、風の音で目が覚めた。


 空気がいつもより重たく湿っていて、埃っぽいようなカビ臭いようなにおいがする。

 テレビをつけると、台風が接近しているらしかった。


 午前のうちから雨が降り始め、昼過ぎには嵐になった。

 今日の干潮はたしか15時頃のはずだが、とてもそれどころではない。

 テレビでも今日は大荒れの天気と言っていたし、まさか彼女もこんな日には海に行かないだろう。


 そう思っていたが、やはり干潮の時間が近付くにつれて落ち着かなくなってきた。

 いよいよ何も手につかなくなり、俺は決心した。行ってみて、いないとわかって安心して帰ってくればいい。俺は親に「アイス買ってくる!」と嘘をついて家を飛び出した。


 傘は役に立たないと判断し、レインコートを羽織って自転車にまたがる。

 車道に出た瞬間、雨粒がバラバラと音を立てて襲い掛かってきた。負けずにペダルを踏み込み、海岸線を走ってゆく。

 かすむ視界の中、砂浜に目を凝らす。やはり彼女の姿は見当たらない。

 ほっとして引き返そうとしたとき、波間に白い物が見えた。


 ――彼女だった。


 真っ白なワンピースを着ていたから、波と見間違えたのだ。

 傘もささず、黒い髪をべったりと張りつかせ、まるで幽霊のようだった。

 彼女はいつものように漂流物を探すのではなく、ぼんやりと海を見つめていた。

 そして、こともあろうか荒れ狂う海の中へ入っていった。


 俺はその場に自転車を倒し、慌てて砂浜へ駆け出す。

 急いでいたから、今日はビーチサンダルじゃなくてスニーカーで出てきてしまった。前へ進もうとするたび足が砂に沈んでゆく。


「何考えてるんすか!」


 ごうごうと鳴り響く風に負けないよう、大声で叫ぶ。

 彼女の歩みがぴたりと止まった。

 そのあいだに俺も海に入り、彼女に追いつく。迷っている暇なんかなかった。とにかく今この瞬間このひとを止めないと、このまま海に連れていかれてしまいそうだった。


 振り返った彼女は、笑っていた。


「こんな日にまで来てくれて、ありがとう」

「海から出て、早く!」

「あの人が亡くなったのは、こんな嵐の日だったの。お願い。どうかこのまま見送って」

「嫌だ!」


 俺は彼女に駆け寄り、強引にその唇を奪った。

 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかったが、どうにかして彼女を引き留めようと必死だった。

 目を大きく見開き、彼女はその場に座り込んで激しく泣き出した。


 荒れ狂う波が、彼女をさらおうと押し寄せる。

 連れて行かせまいと、俺は彼女を強く抱きしめた。胸のあたりまで海水に浸かり、体温が奪れてゆく。

 波が押し寄せるたびに俺たちは頭から波を被った。もうすぐ干潮が終わり、満ち潮に切り替わる。今はどうにか息ができているが、これ以上波が高くなれば、二人とも危ない。


 俺は必死に考えた。

 彼女をこの世に引き留めるための言葉を。


「そうだ、明日」

「……明日?」


 彼女はぼんやりと俺を見つめた。

 明日という言葉が、彼女の中で意味を持たないものに変わってしまったのだということが、はっきりわかった。

 それでも、俺は話し続けた。


「嵐の後って、いろんなものが流れ着くから、もしかしたらその中に婚約者さんの持ち物もあるかも」

「……」

「それで、来週は磯のほうにも行ってみましょう。砂浜とは拾えるものが違うんすよ。シーグラスとか。ああそれで、ビーサンだとフジツボで足切ったりして危ないから、裏に滑り止めのゴムがついた靴履いてきてください。それから……」


 俺はひたすらに喋り続けた。

 そうでもしなければ、彼女が消えてしまいそうだった。


   ○


 翌日、彼女は海岸に来なかった。


 風邪をひいたのかと心配になったが、連絡先も聞いていない。

 そういえば、名前さえ聞いていなかった。


 あのあと、手を引いて海から連れ出すことはできたが、家に連れていこうとしても丁寧に断られた。

 それから二度と、彼女の姿を見ることはなかった。

 一度、浜辺で女ものの服を見つけたことがある。それはあの嵐の日に彼女が着ていたワンピースによく似ていた。もし彼女が婚約者の元に行けたなら、それは彼女にとって幸せなことなのかもしれない。


 それでも俺は、今でも海を見ると無意識のうちに彼女の姿を探してしまう。

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