(-_-メ)和) リィには天使が隠れてるんだ。
電車。
暴力的な警笛。
軋みを上げるブレーキ。
炭酸が抜けるように開くドア。
キツい冷房に晒されどこかへ行く人。
うだり、気だるげで、生ぬるく、懐かしい。
夏休みの平日午後は、氷の溶けきった薄いコーラのようだ。
街の駅ビル六階に設置された中央図書館に着いた俺たちは事前に予約してあった自習室の席につき、夏休みの課題を片付け始めた。
それは、いいのだが。
横並びの机が並び50人は入れる自習室内が、ざわついていた。
分かる。
俺でも、俺みたいな奴がリィやナガサみたいな女子を二人引き連れて図書館に来たら申し訳ないけどザワザワする。
生まれ落ちたその日から他人の目を気にする宿命を背負った人間という自負はあったが。
これはまた、別な意味で視線が気になる生活になりつつある。
「
「あー、これは前後の文脈からして―――」
俺の左隣にいるリィがセミロングの髪をかき分けながら話しかけてくる。柑橘系の匂いが鼻孔をついた。
オフショルダーのワンピース。
露出した白い肩、首、腕。
薄く化粧をしたリィ。
右隣にはナガサ。
集中できん。
質問されるたびに、二人の囁く声と吐息が両耳に掛かってくるからだ。なんだこの天然由来のバイノーラル空間は。
「リィ、席替えしない?」
「早くない?」
「だって、いつもならナガサが真ん中だろう」
「それだと私が質問するとき手間じゃない。くるりだって相楽くんに訊きたいだろうし」
「うん。今は英語だからそんなにだけど、物理とかは訊きたいな」
「ほぉかぁ」
俺が慣れるしかないな。両隣の女子たちはなんかクスクス笑っていらっしゃる。楽しそうでなによりだ。
「今日中に全教科3割方終わらせる勢いでやってやる」
「「それはやめたってちょ~」」
進学校らしく、課題はかなりガッツリ出るのだ。とはいえ、8月の一週目までには終わらせてしまいたい。
リィやナガサがどのような進路を取るのであれ、3年生の夏休みはそう遊んでもいられないだろうから。
……ふふ。
当たり前のように三人で遊ぶつもりでいる自分が可笑しくて、マウスガードの下で沈黙の笑みを作った。
教科書通りといった風情で呆然と俺を見送った父親にはなんて説明しよう。ありのままを言うしかないのだが、長くなりそうだ。
そういえば、父と話をするなんてこと、韓国に行くとき以来していなかったな。
昔からそうだが、母の在宅介護が始まってからは一層、俺の生活から“遊び”が無くなっていったように思う。
まったく、何とも思っていなかったが、実はリィたちに出会う前の俺は相当に危険な状態だったのではないか。
また、リィは俺に家庭教師を頼んだことで俺の勉強時間や私生活を圧迫してしまったのではと気に病んでいたようだが。
ここに来るまでのバスの中ではっきりと言った。
成績は上がった。
学年一位からさらに上がることなんてあるの? と、俺もそう思ったが、やや苦手としていた教科がスラスラ解けるようになった。また期末考査直後はいつもあったテスト疲れのような症状が一切出ず、体力的にも余裕ができた。
人に教えることで自分の学習効率が上がるという話はあるが、それだけではない。
大袈裟だが、リィやナガサが、俺の張り詰め過ぎた生活を救ってくれたおかげだと思う。
そして、リィと付き合うことになって、気力体力の充実度がさらに増した。
妙に自己評価の低いリィがどう思っているかは知らないが。
彼女からは、与えられてばかりだと俺は思う。
……ここで唐突に感謝を伝えたら。
リィは、どんな顔をするかな。
「リィ」
「相楽くん」
「「どうぞどうぞ」」
同時に名前を呼んでしまう。声を揃えて譲り合い、一緒に笑った。
「じゃあわたしが先でいいかな? ちょっと休憩してくるね」
ナガサが言って離席したところで、俺はリィに話を促す。
「いや、勉強とは関係ないことなんだけど」
「俺もだ」
「じゃあ、いいかな。あのね、私、いつまでも相楽くんって呼んでるでしょう?」
「うん」
「なんだかなぁって思っちゃってたの。相談したら、くるりには呆れられちゃったけど」
「また何か悩んでるとは思ったけども」
リィはえへへ、と恥ずかしそうに笑う。
俺は笑わなかった。
「リィ、俺はな、小中と友達が一人もいなかった」
「……うん」
「韓国にいるときもホームステイ先の子供以外とは仲良くできなかった。する気も無かった。それが心地よかったから」
「……そうなの」
「だから―――」
俺も恥ずかしいことを言おうと思った。
「相楽くん、なんてリィに優しく呼んでもらえるのが、付き合う前から嬉しかったんだ」
向き合う形で座っていなくて良かった。
視線を合わせないからこそ言えることがある。
「できれば、これからも“相楽くん”でお願いできるか」
返事の代わりに柔らかい肘鉄を頂戴した。
「私は、あだ名が初めてだから、嬉しかったわ」
吏依奈だから“リィ”はけっこう安直だと思って不安だったが、少しホッとした。
「自分の名字は嫌いだし」
「それなんだけどさ、一個いいか」
「ん?」
「名前の由来ってわけじゃないんだろうけど、気付いたことがあったんだよ」
俺は、ノートに彼女の名前を書く。
「ほら」
「え? なに?」
『二俣吏依奈』
「俣から人偏と天の字を貰ってきて、人偏と吏をくっつければ」
『天使』
「ほらな。リィには天使が隠れてるんだ」
……あれ?
リアクションが無いぞ。
と。
俺の左肩に、こて、という感じで頭が乗ってきた。
人目がさらに厳しくなった気がする。
「おい、家ン中とちゃうぞ」
「もうちょっと……」
とろんと甘えた声を出す彼女に、羞恥心が剥がれ落ちていく。
「ナガサが戻ってくるまで?」
「そんくらい」
「ほぉか」
しょうがない。
俺は、多少湿り気を帯びた左肩の、愛おしい重量を感じながら選択を強いられた。
残った右手は、ペンを握って勉強を続けるべきか。
それとも、湧き上がってきた欲望のまま、天使みたいな恋人の頭を撫でるべきか。
【おわり】
「う~、戻りにくいったらありゃしないよぉ」
一方、もう一人の“天使”は、俺たちのせいでたいへん困っていた。
【第二部に続く】
百合な彼女の天使と彼氏 ~※この物語は百合ではありません。 祖父江直人 @naotosobue
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