7 もじもじさんからの離脱

「し、忍ちゃ〜ん?」

 長年見慣れた、華奢で整った親友のペン字に、杏は情けない声を上げる。

「望月杏の初恋の相手はウン◯シッ◯。でも義理堅いから親友の元カレは最初は剣もホロロに扱われる筈。人見知りでガードがバカ堅いから男慣れしてない。そのガードを切り崩すには、予想外の攻撃を立て続けに繰り返すこと。どがつくお人好しで情にほだされやすいから、とにかく側に居座り続けること」

「忍ちゃんてば、どうしてこんな物を」

——あたし、何も聞いてない。聞いてないよ。毎週電話で話してるのに。

 海野君が口を開いた。

「『杏はあたしの納得のいく男以外には渡さない。あんたがあたしの目にかなう男でなきゃ、あたしはどんな手を使ってでも別れさせてやるから覚えときな』そうタンカ切られた。あいつ、どこまでお前のこと想ってんだよ。生まれる時に性別間違えたんじゃね?」

 杏は頷いた。

「もしかしたらあたし、前世は忍ちゃんと恋人同士だったのかも」

 忍ちゃんは杏の気持ちに気付いてた。何も言わなかったのに。


 高校の時、海野君と付き合い始めた時に、ごめんねって謝られた。謝る必要なんてないのに。それから「それでも親友でいてくれる?」って聞かれた。「当たり前じゃん」って即答した。実際、当たり前だと思ったし、杏の方こそが忍ちゃんにすっかり甘えて側に居させて貰っている立場だった。こんな地味な自分なんかが美人の忍ちゃんの隣にいていいのかなってずっと思っていた。小学生の頃、ドブにハマった杏を助けてくれて、からかう男子を水筒で追い払ってくれた忍ちゃんはとってもカッコよくてキラキラ輝いていた。もしかしたら杏の本当の初恋の相手は忍ちゃんだったのかもしれない。


 その忍ちゃんはこの夏に結婚する。結婚式に杏は招待されていた。

「娘が産まれたら杏って付けるね。そしたら杏が結婚するまでは同姓同名だね」

 忍ちゃんのお相手は苗字が同じ望月さん。これまた親戚ではないけれど、遠く遡れば同じ血に行き当たるのかも知れない。

「あいつが恋敵って正直ゾッとしねーけどさ、敵が油断ならねー相手って程、俺ワクワクすんだよねー。サッカーなら左サイドからソッコーするように見せといて内側にちょっと入れて抜いて追いかけさせといて、ギリギリファウルを狙ってくるよーな際どいヤツ?あれをさ、その裏をかいて出し抜いて逆にファウル取ってやった時の快感は、ガンダムでパイロットがニュータイプに入った瞬間くらいゾクゾクしたっけな」


 サッカーの話なんだかガンダムの話なんだかわからないけど、熱く語っている海野君の声を耳にしながら杏は顔を上げた。

 今日は快晴。頂上にほんの少し白い雪を残した富士山が顔を覗かせて杏を見下ろしている。

 リュックでお尻を隠して、もじもじしていた小さな杏はまだ胸の中にいるけれど、また手を伸ばしてラッパの形をしたツツジを探しに行ってもいいのかも知れない。

 杏はふぅと息を吐くと、胸を張って思いっきり息を吸い込んだ。杏の中に流れ込んでくる緑の匂い。微かに混じるお茶工場からの香ばしい匂い。

 髪を束ねていたゴムを外して長いストレートの髪を風になびかせる。

 驚いた顔をした海野君の前に立ち、少しだけ背伸びをする。

「あの。あたしね、ちびまる子ちゃんランドって行ったことないの。今度、連れてってくれる?」

 そう言ったら、海野君は笑顔で手を差し出した。その手を握ったらギュッと握り返される。大きくて力強い手。

 風に煽られて長い髪が顔にかかるのをもう片方の手でどかしたら、目の前に海野君の綺麗な瞳が迫っていた。咄嗟に目を瞑る。一瞬だけ唇に触れたマシュマロみたいに柔らかくてあたたかな感触。でもそれはすぐに離れて、その後ろから夕陽が顔を覗かせた。

「あのさ、清水ドリームプラザにはサッカーショップもあるんだけど付き合ってくれる?」

 杏は笑顔で頷いた。

 懐かしい中学校の古い校舎。その広いグラウンドを縦横無尽に駆け回る男の子と、その姿を図書室の窓からこっそり覗いている女の子の姿が目に浮かぶ。

「まだサッカー続けてるの?」

 聞いたら海野君はポリと頭をかいた。

「いや。実はこの前ダッシュした時さ、全然走れなくなってんなーって自覚して。ヤバイからフットサルのクラブでも入ろうかなって考えてる所。あ、いつか男の子が産まれたらさ、歩き始める前からサッカーボールあげて大空翼みたいに『ボールは友達』にさせるのが夢なんだ」

 杏は笑った。

「翼くんとちびまる子ちゃんはしぞーかの誇りだからね」

「お前の夢は?」

 問われて杏は答える。

「駿府城だけじゃなくて登呂遺跡とか他の遺跡や谷津山とか賎機山とか古墳も巡って、昔のお宝をいっぱい発見して、いつか学芸員としてブラタモリに出ることかな」

 海野君はニカッと笑った。

「いいね〜。観光客も呼べるかな。じゃあ俺はしぞーかの花のツツジは毒がないから蜜を吸って平気だぞって胸張って言えるようにあちこち調査して回るよ」

「それ、あたしにも手伝わせて。ツツジの蜜の甘さの違いとか大きさとか色とか生態調べて『しぞーかツツジマップ』とか作ってみたいな」

「蜜の甘さ比べ?うわ、あんころ餅らしいな。口の中がエライことになりそう。俺は黒ハンペンでもかじりながら甘さの等級をメモってやるよ」

 杏は笑って頷いた。

「というわけで、結婚を前提に付き合おうぜ、俺たち。つっても、もっとバリバリ働いてからじゃないと結婚資金貯まらないからもう少し待っててくれよな。ま、あんころ餅もまだまだお宝探しに没頭したいだろ?」

 うんと軽く諾いてから杏は慌てた。

「ちょちょっ、結婚を前提にってのは気が早過ぎない?」


 すると海野君は花輪君みたいに右手で髪を横になびかせるフリをして言った。

「どうしたんだい、セニョリータ。君は本当に恥ずかしがり屋さんだね」

 つられて杏は返した。

「あ、あんたはホントにいけずだねぇ。あたしゃホトホト呆れるよ」


 落ちてくる唇。でも、今度は一瞬で離れない。ムニュッとして熱い塊がどんどん迫ってくる感じ。


——どどど、どうしよう?


 杏は内心慌てる。でも思い切って海野君に抱き付いてみた。胸が押し潰されて窮屈に感じる。

 でも、もっともっと近付きたいと一つになってしまいたいと、杏はそう感じた。


 アホーアホーとカラスが二声鳴く。

 振り返れば、夕陽を照り返した富士山がオレンジに染まって、真っ赤な顔をしてるだろう二人を優しく見守ってくれていた。


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ツツジの花陰で黒ハンペンを君に 山の川さと子 @yamanoryu

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