6 攻略本

 杏はガックリと肩を落とした。

——帰ろう。

 さよなら、初恋。いじめられてばかりだったけど、せめて美しい思い出であって欲しかった。でも、初恋なんてそんなものなのかもしれない。理想の恋なんて漫画や小説の中だけなのさ。

 トボトボと自転車を引きずり始めた時、海野くんの声が追いかけてきた。

「お前、よくうちっちのツツジ摘んでたろ?

でも俺が脅かしちまってから来なくなった。俺、すげー後悔した。毎日見てたんだ。今日は来るかなって。なのにパッタリ来なくなった。俺があんなこと言っちまったせいだなってずっと気になってたんだ」

 そう言われてやっと杏は理解した。ああ、気になってたってそういう意味か。杏は振り返った。

「あんた、いいヤツだよね」

 海野君が眉を顰める。

「別にそんな罪悪感持たなくて良かったのに。あたしこそ悪かったよ。ツツジの中には毒があるのもあるってのは、あたしもあの後に調べて知った。あんたは親切で言ってくれたんだ。だから罪悪感なんか持たなくていいよ。ましてや罪悪感から無理にちょっかいかけてくる必要なんて全くないんだから安心して他に可愛い彼女作りな」

 そうだ。こんないいヤツじゃなきゃ、杏の大事な親友の忍ちゃんが、例え短い期間だろうと付き合いをOKする筈がない。

 杏は少しだけホッとしてまた歩き出した。

「俺、無理なんかしてねーよ」

 声はまだ追いかけてくる。でも杏はただただ切なくて涙が溢れてきた。初恋の海野君はいいヤツだった。それを杏は胸目当てだと誤解してた。うじうじしながらも心のどこかで期待してたんだ。本当に自分のことを好きになってくれたらいいのに、と。そう思いながらも、そんなことあり得ないし、そんなことしたら忍ちゃんに申し訳ないと自分の心に蓋をしていた。


——悔しい。

 なんかよく分かんないけど、悔しくて切なくてどうしていいのか分からなくなる。

「あんた、ホント、どが付くくらい負けず嫌いだねぇ。それともフラレたこともないからフラレたら悔しいとか言うわけ?」


勢いで口走ってしまってから杏は口を抑えた。

——あ。

 

 ひどく冷たく鋭い言葉を投げつけてしまった。負けず嫌いは杏の方だ。認めたくなかった。進むのが怖かった。傷付くのが嫌だから。傷つけるのが嫌だから。離れていって欲しくないから。彼にも忍ちゃんにも。

 自分からは誘う勇気も告白する勇気もなくて、もじもじしてるばっかり。小学生、中学生の時から全然変わらない。こんな自分が一番嫌いだと杏は思った。

 車が一台横を通り過ぎていく。

——謝らなきゃ。

 でも口にしてしまった言葉は取り消せない。杏は奥歯を噛み締めた。

——ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 心の中で何度も謝る。この場から消えてしまいたい。でも足が盛んで動けない。


 海野君は少し黙った後に、一つ息をついた。それからゆっくりと口を開く。

「そうだよな、唐突に感じるよな。悪かったよ。わかった、全部言う。望月忍とは高校の時に何となく付き合い始めたけど、あいつはいっつもお前の話ばっかしてた。杏がこう言った。こんな事した。映画で号泣して遊園地で悲鳴あげて、スイーツ食べたらこんな顔してって。俺といる間中お前のことばっか話してた。それで思ったんだ。ああ、こいつは俺と居るより望月杏と居たいんだろうなって。で、話聞いてた俺までお前本人と居るような気がしてた。小中の頃の姿思い出したりして、どっかでバッタリ会えねーかなとその辺ウロウロしたりしたんだけど、お前ってばホント脇目も振らずに一直線にチャリで長い髪揺らして通り過ぎるばっかで声かけらんなくてさ。その内、俺は大学で家を出ることになって、あいつは県内の大学行くからってんで、お互い納得して別れた。最後、『あたしは望月杏と同じ大学だよ。ザマーミロ』ってアカンベされた瞬間、ああ、俺の気持ちバレちまってたなって反省したけど、あいつとはその後一回手紙をやり取りしただけで会ってない」

「ちょっと待ってよ。まさか、忍ちゃんがあたしの話をしてたから、それであたしのせいだって言ったの?でも忍は別れた後に電話で泣いてたんだよ」

「でもその後すぐ新しい彼氏出来ただろ?」

「まぁ、それはそうだけど、あんなに可愛くていい子なんだもん。当たり前じゃん」

「うん、だからそれで良かったと思ってる。たださー」

「ただ何よ?」

「あいつがずっとおまえの話ばっかしてたからさ。俺は遠くの学校に行っても、しぞーかって言えば、あんころ餅のことを連想するようになっちまったんだ」

「そんなこと言われても、あたし困るよ」

「お袋が病気で入院してさ」

「え?」

また唐突に変わった話題に付いていけずに戸惑う。

「それでこっちに戻ってきた。運良く試験も受かったし。で、入ったのが観光整備課。俺、大学で環境工学とかやってたからさ。就職もその関係で造園とか施設管理とか二年くらいやって。でも親が倒れたからどうしようかと思った時に丁度こっちの職員の募集があって運良く受かって。で、初日に現場に連れてかれたら、事務所の壁のタイムカードに望月杏の文字があるじゃん。望月は多い苗字だけど、中学の時から変わらないまん丸な字を見てあんころ餅だってすぐに分かった。でも作業場じゃ探せなかったから昼休憩で探して、ベンチでボーッとしてるロングの女の子見つけて声かけた。すげー勇気いったんだぜ?俺の顔見て気付いてくんねーかなって密かに期待したけど、お前全く俺のこと眼中にないし。でもそれが逆に、これぞあんころ餅って感動したけどな」

「何よ。その変な感動」

「目の前の興味あるものしか見ない。没頭すると周りを忘れる。基本はおっとりしてておとなしい癖に、単純で意外に熱血。衝動に任せて後先、相手も構わずに手と口を出すうっかり者」


ビキビキビキ!


 怒マークが三つくらい出ただろうか。

「でも一緒に居て、見てるだけで楽しい。黙って隣に座ってるだけで落ち着く。それが俺がお前のこと好きな一番の理由。あ、そうだ。前に連れてったあの珈琲館のマスター、あれ、俺の叔父貴なんだ」

「はい?」

「いい子見つけたなって褒められた。また連れて来いって」

へ?

「だから今度はうちっち来いよ。ツツジも両親もあんころ餅のこと待ってるからさー」

「ちよちょちょ、ちょっと待った!あんた何言ってんの?お母さん、病気なんでしょ?」

「もう退院してるよ。通院はしてるけど平気」


——いやいやいや、平気とかそういう問題じゃない。

「あんた、展開速すぎ。付いてけない」

「うん、知ってる。それでなし崩しにOKさせる作戦」

「作戦?」

海野君は鞄の中から小さなノートを取り出して杏に見せた。その表紙には『望月杏攻略大作戦』の文字。

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