東京タワーの展望台/別離する波形

 エレベーターのドアが開く。一面に青い景色が広がって、思わず感嘆の声が漏れる。俺はガラス張りの壁に張り付く勢いで駆け寄り、眼下を見下ろした。壮観とはこのことか。立ち並ぶビルが何処までも続いているように見えた。ここから東京の街を一望できるんじゃないかとさえ思えてくる。


「やっぱ東京と言えば東京タワーだよなぁ」


 顎に手を当てて、うんうんと頷いていると、後ろからあいつの声が聞こえる。


「いの一番にディズニーランドって言ってたのはどこのどいつだー?」

「あはは」


 俺のごまかし笑いにつられて、あいつも笑う。そうしてひとしきり笑い合った後、どちらともなく左回りに展望台を歩き出した。壁に沿ってあいつが先を歩き、俺がその後を追う。


「ほんとに東京一帯見渡せそうだな」


 そう言いながら、景太は感慨深げに東京の街を見下ろす。その眼には空の青さより高層ビルの灰色の方が鮮明に映っていた。灰色に包まれた瞳のまま、ぽつりとつぶやく。


「理想郷じゃなかったな」


 え? 掠れて声にならない音しか出なかった。ぽつりとつぶやいた言葉をなかったことにするように、あいつはからっとした笑顔をこちらに向ける。俺は察して、一つ前の言葉に話題を戻した。


「何しろ東京の名前を冠したツリーだからな!」

「それを言ったらスカイツリーだってそうじゃん」

「え、スカイツリーって東京ついてんの?」

「ついてる。がっつりついてる」

「えー……」


 落胆した振りをしつつも、内心ホッとする。いつものあいつだ。展望台を一周して立ち止まった時、景太を見ると、ぽりぽりと頬を掻いて何か言いたそうな顔をしていた。案の定おもむろに口を開いて、それよりさ、とこぼす。


「写真、撮らねえの?」


 頬を掻いていた指先が、俺のバッグに向けられる。写真。こいつの口から久しぶりにその言葉を聞いた気がする。ぐっと胸が締め付けられて、目頭が熱くなっていた。ごまかすようになんともない風を装って答える。


「ん、ああ……撮っていいの?」

「いいよ。お前はそのつもりでノッてきたんだと思ってたけど」

「うん、まあ……じゃあ、遠慮なく………」


 バックからカメラを取り出す。レンズを取り付けながら、湧き上がる思いが俺を突き動かしていた。レンズキャップを外す。その時、ずっと突っかかっていた言葉が喉の奥をするりと抜けてやっと声になった。


「お前は?」


 言ってみたもののなんだか怖くて、あいつの顔は見れずにレンズに映った自分の顔を見ていた。ひどく間抜けな顔だった。あいつが何も言わないので、沈黙が二人の間を埋める。かさりと服が擦れる音と同時に、俺は、と降ってくる声。どんな答えが来ても平然とするために、俺はカメラの傷を触る。


「どうしよっかな」


 顔を上げると、あいつは手すりに手をついて、前後に揺れながら空を見上げていた。本当に軽い、アイスの味をチョコかバニラ、どっちがいいか訊かれて迷っているようなニュアンスの声だった。だから俺もいつも通りに言う。


「撮れば?」

「う~ん」


 ゆらゆらと揺れる速度が遅くなって、また速くなる。


「俺が見たい」


 揺らぎをそこで堰き止めるように、真っすぐに見つめて言う。まだあいつは、空を見て黙っていた。窓さえないのに、風が頬を掠めたような気がした。俺は沈黙に耐えられず、また俯く。


「いいか、くらい」


 宙にぽんっと言葉を置くような声が耳に届く。俺は緩んだ口元のまま顔を上げた。あいつの首には愛用のカメラが掛かっていた。目が合うと、からっと笑い返される。じゃあ撮るか、と踵を返すあいつの背中を見ながら思う。さっきの声は諦めにも似た響きを湛えていた。


 さいご。たぶんこの言葉にあてる漢字は、だ。願いを叶えた後にどうなるのかは聞いていない。けれど、きっとそういうことなんだろう。俺たち二人は、まもなく死ぬ人間なのだから。


 おお、と返事をしながら、意気揚々とあいつの背中を追いかけた。


 先にカメラを構えるあいつの隣で、同じ方向を向いて外へレンズを向ける。空の濃い青とくすんだ高層ビルの灰色。俺は青と灰色の境界線から外れたところにピントを合わせて、シャッターを連続で切る。撮れた写真を確認するため、カメラの液晶画面で一枚一枚送っていくと、境界線が少しずつズレて、世界が揺れているようだった。カシャカシャッと小気味良いシャッターの音がして隣を見ると、あいつがカメラを空に向けていた。ファインダーを覗き込む横顔にどうしようもなく嬉しさが込み上げてくる。


 子どもの頃、俺たちの遊びの定番といえば、近所の自然公園で写真を撮ることだった。景太がじいちゃんから貰ったというお古のカメラを二人で替わりばんこに使って写真を撮り合って、最後にはどれが一番良いかを決める。それでも俺は鳥などの動物を撮って、あいつは空や緑などを撮っていたから、どっちが良いかなんて比べられなかったのだけど、あいつはいつも俺にナンバーワンの座を譲ってくれていた。

 年を重ねてくると、俺たちは個々で自分のカメラを持つようになり、撮影場所も自然公園から市外の絶景スポットなど遠出して行ける所へと広がっていった。県内の名所を巡り尽くすくらいにはいろんな所に行って、もっと自由になったら日本中の名所を撮影しに行こうと夢を語り合っていたものだ。


 またこうして東京なんてデカイ所で一緒に肩を並べて写真を撮れる日がくるなんて、本当に夢みたいだと思う。隣で懐かしいシャッター音が聴こえると、なんだかあの頃を取り戻せた気がした。


 それから俺たちはお互いのことなんか気にせず、夢中でシャッターを切っていた。この日の東京の空はコロコロと表情を変えて、いろんな景色を見せてくれた。太陽の光にあてられて青空に白く浮かび上がる東京の街。澱んだ曇り空がまるで無数のビルから吐き出された煙のように見えた東京の街。歪んで雨の雫の中に収まる小さくなった東京の街。


 気の済むまで撮り終わった頃、俺たちはカメラを交換してお互いに撮った写真を見せ合った。やっぱりあいつの写真はおぼろげな空ばかりを撮っていた。でもその色が青から水色、白、灰色、紺色、と時の経過を味わい深く映し出していた。時々挟みこまれた高層ビルと入り組んだ道路のはっきりとした写真がアイキャッチのようで面白い。灰色の空の写真が続く中、ある写真で手が止まる。


「これいいじゃん! 東京タワーからの東京タワー!」


 液晶画面を見せながら言うと、あいつもそれを見てはにかんで、


「俺も、俺が撮った中では一番好き」


 と言った。照れたような、噛み締めるような優しい響きを湛えた声だった。それから手元のカメラの液晶画面に視線を落として写真を送っていきながら、あいつはため息を漏らすようにつぶやく。


「お前はやっぱ良い写真ばっか撮るな。印刷できないのがもったいないや」

「お前だって良い写真撮ってんじゃん」

「いや、同じ数撮ってんのに俺は奇跡の一枚しか撮れない」


 凍り付くような冷たい声に、思わず言葉に詰まる。けれどもあいつはすぐにまた、からっと笑って言った。


「まっ、一枚撮れれば儲けもんだな。これで思い残すこともない」


 お互いにカメラを戻し、また首から提げる。まだ叶えられる願いは二つ残っているけど、もうこれでいいのかもしれない。二人でまた写真を撮ることができただけで充分だった。頭の後ろで手を組みながら言う。 


「じゃっ、行くか。天国とやらに」


 あいつに背を向けて、エレベーターの方に歩き出す。その時、いや、という声が引き止めるように響いた。


「お前は残れ」


 耳を疑ってすぐさま振り向く。あいつは真剣な眼差しでこちらを見ていた。目が合うと優しく笑って、俺に言う。


「もう何も気にしなくていいから、生きろ」


 宥めるような響きが端々に滲み出る。


「お前には才能あるし、撮り続けてれば絶対、お前を見つけてくれる人がいるから。だから、生きろ」


 一方的にぶつけられた言葉たちがなんの衝撃にもならず、足元に落ちていく。最後の言葉だけが心のど真ん中に当たって、抉ってくる。


「お、お前がそれを言うかよ。……先に死のうとしたくせに」


 言ってはいけない。でも、次から次へと溢れてくる。あいつは悲しそうな顔をして俯いた。そして、ぽつりと地面に言葉を落とすかのようにつぶやく。


「……お前が後を追ってくるなんて思わなかったんだ」


 その声は、独白のような雰囲気を滲ませていた。こんなに近くにいるのにあいつの姿が遠ざかっていくように感じる。


「だってさ、俺が死んだらお前、自由になれるんだぞ」


 あまりにも穏やかな表情であいつは言う。その様子に怒りが込み上げてくる。自由。あの時語り合った意味と今この瞬間の意味は、同じ言葉でも全然違う。嫌な感覚が体中に満ちていく。


「……なれねえよ。だって救えなかったんだぞ!……俺が! やめようって言わなかったから……」


 お前のせいじゃない。絞り出すようなあいつの声を遮って、叫び出していた。


「俺のせいだよ!」


 そう、景太が死んだのは俺のせい。

 始まりは大学二年の夏休みのことだった。




   ◇ ◇ ◇




 俺たちは長期休暇を利用して、隣県に撮影旅行に行っていた。景太は落ち合った時からどこか元気なくて、撮影が終わって写真を見せ合っている最中、それとなく訊いてみたのだ。すると、あいつは少し黙った後、こう言った。


「ごめん」

「何が?」

「俺さ、自分が撮ったことにしてお前の写真、SNSにあげてた」

「は?」

「出来心だったんだ。お前の撮った燕の写真、アレ好きでさ、もっと多くの人に見てもらいたくなって、内緒で俺のアカウントであげたんだ。まあ、単純にのせてみたらどうなるんだろうって興味もあったんだけど、思った以上に反応が良かった。それから時々、お前から預かってたデータで投稿してたんだ」


 昔から景太のカメラで写真を撮っていたから、いつも景太がデータを持ち帰って写真を印刷してくれていた。なんだかんだそれが今でも続いていて、あいつにデータを渡して印刷してもらうのが俺たちの暗黙の了解だったのだ。


「そしたら、写真提供の有償依頼が来て。頑張ったんだけどさ、ダメなんだよ。向こうが気に入ってたの、お前の写真だったんだ」


 俺のカメラの液晶画面を見つめながら、ボタンを押して写真を送っていく。その手がふいに止まった。あいつはこちらに向くと、震えた声でつぶやく。


「頼む。助けてくれ」


 景太は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。いつも気丈なあいつが、こんなに切羽詰まっている様子を見たことがなかった。写真を勝手に使われていたことへの怒りも吹っ飛んで、俺は二つ返事で協力した。代わりに俺が撮った写真は一回の提出でOKが貰えて、俺もあいつもほっとしていた。だが、これが全ての間違いだったのだ。一発でOKを貰えた時、あいつがどんな顔をしていたのか、俺はちゃんと見ていなかったのだから。


 それから数日後、景太は俺に提案をしてきた。


「お前の写真、もっとSNSであげさせてくれないか?」

「え?」

「お前の写真、本当に反応が良いし、もっと多くの人に見てもらった方がいいと思うんだよ」

「えー……でも、SNS ってトラブルとか起こりやすいんだろ? ちょっと怖いっていうか……」

「大丈夫。俺のアカウントを使ってやればいい。管理するのは俺だし、良い反応だけ見せるから」


 思えばこの時自分のアカウントを作るなりできたのだろう。景太のものじゃなくてもよかったはずだった。でも、その頃の俺は連日悪いニュースの絶えないSNSに対して不安を覚えていて、それでも反応をもらえることが嬉しかったから、あいつの提案を飲んだ。たとえ自分の名前でないにしても、景太ならいいか。そんな軽い気持ちで了承したのだ。


 俺の写真に対しての反応はあいつが言ったように良く、優に五千を超えていた。景太は逐一反応を見せてくれたし、俺も沢山の人が見てくれていることがわかって嬉しかった。だが、反応が良くなっていくにつれて、景太の様子はおかしくなっていった。撮影旅行であいつは写真を撮らなくなり、ついには付いて来なくもなった。あいつがするのは、俺が撮った写真のデータに少しレタッチしてSNSに載せるだけ。次第にひきこもりがちになって、会うのは俺が写真データを届けに来る時だけになった。


 ある日、データを届けに行くと、あいつは静かにパソコン画面を見つめていた。その眼は画面の光を受けて明るいはずなのに、黒く澱んで見えた。画面にはいつも見るSNSの投稿画面。俺のではない写真が四枚。景太のものだとすぐにわかった。反応数を見ると、一桁台の数字だった。


「ごめん。やっぱお前のじゃなきゃダメなんだわ」


 何も、言えなかった。諦めるなとも、もうやめようとも。

 それから一週間後、景太はマンションのベランダから飛び降りた。

 あの時、もうやめようと言っていれば、あるいは、最初から代行を引き受けなければ、あいつは死ななかったはずだ。




   ◇ ◇ ◇




「違う」


 あいつの低く唸るような声で現実に引き戻される。


「俺が全部悪いんだ。お前の優しさに甘えて利用してたんだから。でも結局、耐えられなかった。何度も何度も自分の写真をアップしてみたけど、誰の心にも響かない。届かない。才能なかったんだ。お前はどんどん評価されてくのに、俺はずっと底辺のまま。昔は俺が譲ってたのにな、もうそんなことしなくてよくなった。お前は正真正銘ナンバーワンだ。

 もうさ、楽しくないんだ。東京っていう憧れてた場所に来たってのに、機械的にしか見えなくて、撮りたいと思えない。なのに、お前の写真を見ると嫉妬心が湧いてくる。そんな資格もないのにどうかしてるよ」


 紺色だった空は時間を遡るようにオレンジ色に変わって、そしてはらはらと散っていく。そのオレンジさえも剥ぎ取られるように途切れ途切れになって、清々しいほどの青が顔を出していた。夕色の残滓が景太の背後を染め上げて、その顔を影で覆う。空が青く晴れていくと、表情が顕になる。


「俺は、お前のこともお前の写真も好きだった。でも今は、お前のことが憎くて憎くて仕方ない。けど、そんな自分も嫌いでたまらない。だからもう、終わりにしたいんだ」

 

 景太は微笑んでいた。細められた眼に涙の光が流動する。わかってる。こいつがからっと笑わない時は、大体無理をしているってこと。けれど、掛けてやれる言葉は見つからなかった。また、何も言えない。何か、何かないのか?


「言っとくけど、俺はもう死ぬの確定してるから。死神に言われた」

「え? 死神ってほんとにいるの?」

「いる」

「えー! 会ってみたいんだけど!」

「ダメだ」

「でも」

「ダメだ。お前、自分も連れてけって言うつもりだろ」

「…………」

しゅん

「……いやだ。俺は、お前がいないとダメなんだよ……」


 景太が飛び降りてから、俺は写真を撮るのをやめた。あいつが苦しんでいるのを知っていながら、何もしなかった。もうやめようと、言わなかった。俺はあいつを見殺しにしたのに、どうして自分だけ楽しい思いができる? 撮れない。けど、撮れなきゃ生きてる意味もないんだ。


「今までごめんな。もういいんだ。俺のことなんて忘れてくれ」


 本当に優しい声だった。あいつの全てが景色に透過してしまいそうで怖くなる。留める理由がほしくて、ない頭で必死に言い訳を探した。


「ほ、ほら、まだ二つの願い叶えてもらってないし!」

「あ、あれな……お前に嘘ついてた」

「え?」


 フッと薄い笑みを浮かべて、景太は静かに俺を見る。 


「本当は願いは俺だけに適応されてる。実はもう二つ、願い叶ってるんだ。東京に行くことの前に一つ目叶えてもらったからさ」


 その瞬間、ピッと耳の奥で電子音が鳴り出した。同時に、うねりを上げて世界が歪んでいく。


「一つ目の願いは、【お前に会うこと】。だから、これが三つ目の願い」


 またピッと脳天に響くような音が鳴る。やめろ。そう言いたいのに、空の青が押し寄せてきて息が苦しくなる。


「三つ目の願いは」


 あいつの傍にいきたいのに、押し寄せる青に阻まれて身動きが取れない。ピッという音が鳴り止まない。


「【】」


 電子音の狭間で、凪いだ風のようなあいつの声が穏やかに響く。鼻の奥がツンと痛む。それが涙のせいだと気づいた時には、もう遅かった。


「じゃあな」


 待って! 景太! 手を伸ばした瞬間、意識が急激に遠のいていく。最後に見たのは、薄く微笑んだ顔が、からっとした笑顔に変わった瞬間だった。



   *



 ピッ、ピッ、ピッ─ピッ、ピッ、ピッ


 ピッ─ピッ──ピッ──、ピ───────。




 重なり合っていた心電図の波形が、徐々にずれて独立したリズムに変わっていく。斉唱は輪唱になって、不協和音になっていく。一方は高い波をつくって、もう一方はただまっすぐな線になって、命の継続と命の終わりを知らせている。




 瞼がゆっくりと開く。瞬の目から大粒の涙がとめどなく溢れ出す。頬を滑り落ちる雫は夕暮れの、オレンジ色に染まっていた。瞬は懸命に手を動かして人差し指と親指を立てて、窓枠の隅に沿わせるように翳す。


─俺も、俺が撮った中では一番好き。


 照れたような景太の声が、耳の奥で再生される。


 窓の外には、雲間から朱色の光が一筋、塔のように地上に降り注いでいる。

 それはまるで、東京タワーみたいだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インターナショナル・オレンジ 森山 満穂 @htm753

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ