酩酊

夢月七海

酩酊


 ごめんなさいね、今はイルカの季節じゃないんです。カウンターの女将は、申し訳なさそうに言って、微笑んだ。

 イルカが来るかどうかは、女将が解決できる問題ではないのに、どうして謝るんだろう。そんな思いに駆られながらも、大丈夫ですよと穏やかに返した。


 実際に、この海辺の町に来たのは、ドルフィンウォッチングが目的ではなかった。私とアツムさん、どちらとも縁のない地域を探したら見つけただけで、イルカが観光の目玉だということも、電車からここの駅に降りた時に知った。

 あちこちに描かれた、楽しそうに笑うイルカの絵を見ながら町を歩いて、予約していた宿に入った。二人と言っていたのに、私一人だけしかいないことには、女将も気にした様子もない。


 案内されたのは、二階の和室だった。色褪せた畳が六畳分、並べられている。その先にテーブルと椅子が一組分置かれた狭いフローリングのスペース、さらに向こうは、大きな窓になっていた。

 当然のことながら、窓の外は海に面している。軒先には風鈴が下がり、潮風にゆったりと揺れる。


 アツムさんが来るまで、特にやることがない。外へ出て、入れ違いになっても困るので、待つしかないのだが、お昼のワイドショーを見ようという下世話な気持ちも湧いてこない。

 フローリングの椅子に座り、持ち合わせた本を読むことにした。雄大な海が、目の下に広がっている。イルカがいないその海は、海水浴客も見えず静かなもので、霞んだ波音だけが聞こえる。


 本の世界にどっぷりと入り込んでいる時に、部屋のドアが開く音がした。はっと顔を上げた私の視線の先で、襖が開き、アツムさんが現れた。

 私は本をテーブルの上に置き、アツムさんに駆け寄る。遅れたことを申し訳なさそうに笑っている、その胸に飛び込む。


「ごめんね。中々抜け出せなくて」


 いいの、いいのと、私は首を横に振る。目を閉じているから、握ったアツムさんのシャツの匂いしか感じない。いつもの汗の匂いに混じって、潮の香りもした。

 今年の冬に、私はアツムさんと出会った。彼の薬指に煌めくプラチナの指輪を見ながら、そのたくましい腕に絡まった時のことを思い出す。


 あれから、随分時間が経った。外はセミが絶え間なく鳴いている、夏の盛りだ。

 二人で歩んできたこれまでを思うと、喜びで胸がいっぱいになって、それを言葉にする代わりに、アツムさんに口づけをした。






   △






「ここ、イルカで有名なんだってね」


 マグロの赤身を醤油に付けながら、向かいに座るアツムさんが言った。

 お風呂をいただき、浴衣に着替えた私たちは、お互いにリラックスしていた。今は、机の上に広げられた、豪華な夕食に舌鼓を打っている。


 アツムさんも女将さんに謝られた? と尋ねると、彼は「そうそう」と苦笑する。


「もっとも、イルカの季節だったら、人がいっぱいで、のんびりできなかっただろうね」


 確かに、と頷く。やましいことをしているのだという自覚があるのだから、羽を伸ばすのはこれくらいの人出が丁度良い。

 それ以前に、イルカにもあまり興味が無かった。ペットして飼える動物ならともかく、生息域が違うイルカを、どんな風に可愛がるのだろうかと思っている。


「野生のイルカって、フグをつついて遊ぶことがあるって、知ってた?」


 愉快そうに笑いながら、アツムさんが言った。私はその話は初耳だったので、正直に首を横に振る。

 フグは丸いから、ボール代わりにしているのかな、と、自分なりの考えを口にする。人に訓練されていなくても、そんな遊びを思いつくなら、すごく賢いのではないだろうか。


「いや、そういう面もあるだろうけどね、他にも理由があって、」


 アツムさんは、箸を持った利き手を口元に持っていき、可笑しみを堪えるようにしながら、続けた。


「つつかれたフグが出す毒を摂取して、気持ち良くなっているんだって」


 えー、そうなの? と驚きの声を上げれば、アツムさんは満足そうに頷いた。


「きっと、僕らがお酒を呑むのと同じように、イルカもフグの毒を楽しんでいるんだろうね」


 おちょこを持ったアツムさんに、熱燗を注ぎながら、イルカって賢いねと穏やかに微笑む。ただ、口頭で述べた思いとは別のことを、私は考えていた。

 イルカの行為は、お酒を呑むというほど、生易しい行為ではないのだろう。命の危険があっても、それを求めてしまうという、中毒状態になっているのかもしれない。


 私には、フグの毒に夢中になるイルカの気持ちはよく分かった。死に近付くほどの酔い、酩酊した感覚の気持ち良さを、今も私は味わっている。

 私が好きになる人は、みんな結婚していた。配偶者の影に怯えて、もしもこれが周囲にバレてしまったらと考えると、ぞくぞくしてしまう。その怖さが分かっていても、どうしようもなく、求めてしまう……アツムさんとの関係も、そうだった。


 一歩間違えば、社会的な死が待っている不倫の毒……それは、フグのテトロドトキシンくらい、強いものなんだろう。

 そんなことを考えて、私は口を付けたビールのコップの陰で、そっと笑った。






   △






 寝っ転がったままだと、窓の軒下近くに浮かぶ月と目が合った。

 月が出てる、と無意識に呟く。


「どこに?」


 アツムさんが、横になったまま、私の枕元に顔を寄せる。耳に息がかかった。

 真剣な表情で、月を見ようとしていたけれど、見つけられなかったようで、残念そうに自分の枕の上に戻った。


「角度が悪かったみたい」


 ただ、起き上がって、窓辺に行こうとまではしない。アツムさんも私も、全裸だから、しょうがないことだった。

 私も、月を見る。夜は、黒というよりも青に近い色合いで、病的に白い満月、またはその前後の月が、その中でじっとしている。


「妻と別れようと思ってるんだ」


 え? と聞き返した。首を横で見ると、アツムさんは旅館の天井を、しかしそれとは別の何かを、眺めている。

 実は、数年前から上手くいっていなかった。あちらから言われる前に、僕の方から言ってしまおうと思っていた。信じられない気持ちで、彼のそんな言葉を聞いている。


 だから、これからは、ずっと一緒にいれるよと、彼は熱のこもった視線を私に送る。

 ……しかし、私は、炉から出された鉄が水に入れられた時のように、急速に心が冷えていくのを感じていた。


 私は、強欲にはなれない。彼のことが好きだ。愛している。けれど、彼が私のものになることを、望んでいない。

 誰かのものである彼と、いつまでも関係を続けることが、私の一番の望みだった。フグの毒を食べたら死んでしまう。イルカのように、酩酊したい。


 彼は、妻と別れてからの予定を話している内に疲れてしまったのか、そろそろ寝るね、おやすみ、と言ってから、静かになった。おやすみと返してから、数分後、彼は寝息を立てている。

 潮騒が、ちりんと風鈴を揺らした。そちらに目を向けた瞬間、彼と駅で別れた後に、連絡先を消そう、そう決めた。







































































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酩酊 夢月七海 @yumetuki-773

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