24 帽子は空っぽつつがなし

 ミル先生の大きなおだんごへナッツをぶつけたり、バロウッズ先生やクィルター先生の目を盗んで侵入禁止区域に入ったりしているうちに、あっという間に残りの数ヶ月も終わってしまった。


「資格を持っていない魔法使いが、一般社会で魔法を使うことは、法律で禁止されているからね。絶対にやらないように」


 バロウッズ先生は、サマーホリデー前の最後にそう釘を刺した。けれどアーチたちは、『収納』くらいなら黙認されていることを知っているし、仮に使ったとしても目撃されない限りは大丈夫だと教わっていたから、半分くらい聞き流した。

 全部わかっていて見逃しているような笑顔の先生が、「では、解散」と言うと、談話室は歓声やなにやらで一気に騒がしくなった。全員がいっぺんに帰るから、騒がしさはひとしおだ。

 となりにいたライナスとロジャーが、アーチたちに聞こえるように顔を寄せた。


「とりあえず一年生、お疲れ! サポート期間はこれでおしまいだ」

「おしまいだけど、なにか困ったことがあったらいつでも言ってね。助けになるよ」


 そうか、この素敵な先輩たちともお別れなのか! とアーチははたと思い至った。それで、慌てて取りすがるようにした。


「困ったことじゃなきゃダメ? つまり――」


 アーチはちらりと先生のほうをうかがって、彼がこちらに注目していないことを確認してから、小声で続けた。


「――おやつが欲しいとか、映画を一緒に見たいとか、そういうのは」


 補助生サポーター二人は、ちょっと目をぱちくりさせてから、笑ってうなずいた。


「もちろん、いいに決まってるさ」

「そりゃいいけどさ、騒ぎを起こす時は事前に教えておいてくれよ。俺たちにも心の準備ってもんがある」

「了解」


 アーチがしっかりうなずいてみせると、「騒ぎなんて起こさない、とは言ってくれないんだね……」とロジャーがため息をついた。


 帰りの列車の中で、アーチとフィルは行きと同じように向かい合って座った。荷物は全部『収納』してしまったから、かなり身軽だ。

 アーチはソファ席に飛び乗って、窓を開け放ち、外を眺めながら聞いた。


「進行方向ってこっちで合ってるよね?」

「うん、合ってるよ」

「よかった」


 彼が胸をなでおろした理由に、フィルはすぐ思い当たったらしい。


「酔いやすいんだったね」


 アーチは素直にうなずいた。


「本当にやんなっちゃうよ。どこに行くにもたいへんで仕方ないんだ」

「ざまぁみろ、チビ」


 急に冷たい声が差しこまれた。見なくてもわかる、ベンフィールドだ。誘拐事件があってからは、さすがに気まずいらしくて大人しくしていたのに、ついに開き直ったらしい。

 きびんに振り返ったアーチの鼻っ面に、なにか軽いものが当たった。反射的につかむ。

 それは小さな紙袋だった。中身の分がわずかにふくらんではいるが、重さはほとんどない。


「なんっ……だよ、これ。って、おい、ベンフィールド?!」


 ベンフィールドは、軽い紙袋をぶつけるなんていうささいなことだけで満足したかのように、わき目もふらず去ってしまった。その姿がそそくさと逃げ出したようにも見えて、アーチは首をかしげた。


「なんだったんだ?」

「ええと、ごめんねぇ、ウルフ」


 後からやってきたチアーズが、代弁するように謝った。相変わらずおどおどうじうじしたまま、みんなの二歩後ろを引っ付いて歩いているけれど、前ほどいじめられてはいないようだった。


「それはねぇ、酔い止めの薬だよぉ」

「酔い止め?」

「そう。でもねぇ、作ったのはベンフィールド先生だから。先生が作ってぇ、ギルバートに渡しなさい、って言ってたんだよぉ。気休め程度のものだけれどぉ、って」


 なるほど、とアーチは紙袋を持ち上げた。つまりこれは“ギルバートから”ではなく“ベンフィールド先生から”のお礼であるらしい。そういうことならわかるし、受け入れられる。

 ビル! と呼びかける声が遠くからして、チアーズが慌てて振り向いた。


「じゃあ、ぼく、行くねぇ。バイバイ、よい夏休みをぉ」


 チアーズが行ってしまうのを待ってから、アーチは紙袋を開けた。入っていたのは、小さなピンク色の薬だった。これまでにかいだことのない不思議なにおいがする。夏の公園に生えている雑草を全部ひとつにまとめてすりつぶしたものに、“これは良い香りです”という定義を無理やりくっつけたみたいなにおい。


「でも、誰がベンフィールド先生に、君が酔いやすいって伝えたんだろうね?」


 フィルがそう言ったのは、アーチが薬を飲み込んでからだった。アーチは肩をすくめて、そんなこと疑問に思わなかったふりをした。


 薬のおかげか、アーチはいつもの三分の一くらいはましな状態でユーストン駅に降り立った。それでも三分の二くらいは気持ち悪かったので、列車から降りて新鮮な空気を吸った時の気持ちよさといったらなかった。

 去年出発した時のように、ユーストン駅の十七番ホームはにぎわっていた。列車目当てのパパラッチたちがシャッター音の雨を降らせている。迎えに来た家族と合流して歓声を上げるのは、たいていが一年生だった。チアーズが半べそをかきながら、母親に飛び付くのが見えた。


「フィルのお迎えは?」

「おじいちゃんが来てるはずなんだけど……――あ、いた」


 アーチはフィルの視線を追った。広場の一番はじ。駅舎との境目にある大きな柱を背にして、白髪の老人が誰かと話していた。フィルのおじいちゃんは、まさに“好々爺”と呼ぶのがふさわしそうな雰囲気を持っていて、フィルの祖父という感じがした。

 彼と話している相手を見て、アーチは目を見開いた。

 その男性は色の濃いサングラスをかけて、黒いメッシュキャップを被っていた。趣味から外れたダメージジーンズとデスメタル風のTシャツは、印象を操作するために選んだのだろう。遠目にはとても四十代には見えないほど少年っぽい格好。なのに、中身の貫禄かんろくがどこからともなくもれ出ているせいで、そのちぐはぐな感じが人目を引いていた。

 固まっているアーチを見て、フィルが首をひねった。


「どうしたの?」

「あの……君のおじいちゃんと話してるの……」

「知り合い?」

「僕の父さんだ」

「えっ? 君のお父さんって、それじゃあ……」

「うん」


 アーチとフィルは真ん丸にした目をちょっと合わせてから、同時にパッと駆け出した。

 駆けてくる二人に先に気が付いたのは、アーチの父さんだった。軽く手を挙げてほほ笑む。アーチは父さんが自分に向かってほほ笑むのを、一年よりもっともっと長く見ていなかったような気がして、みょうになつかしい気分になった。


「父さん、どうしてここに?」

「ちょうど、ロンドンでの仕事の終わりとかぶったんだ。だから」

「そう、なんだ」


 アーチはとっさに、今だ、と思った。いつかフィルに宣言した通り、仲直りをしなくては!


「あのね、父さん、あの……」

「うん」

「魔法、いくつか使えるようになったんだ。法律があるから――法律っていうのは、その、こっちでは使っちゃいけないっていうやつなんだけど――だから見せられないんだけど」

「うん」

「でもね、あの……」


 父さんの前に立ったらとたんに舌が回らなくなった。頭も、そう。しどろもどろになっている自分が悔しくて、嫌になって、かんしゃくを起こしそうになった。それをすんでのところでがまんして、続ける。


「変な使い方はしないよ。絶対に。だから、だからね、その……」


 ふいに父さんの手がアーチの頭をなでた。


「うん。わかってる。わかってるよ、アーチ」


 その声音に包まれたとたん、アーチは体の中が透き通っていくのを感じた。真昼間なのに、さえざえと輝く満月の下にいるような気分になる。そしてその月光の中で、いつか作った鋼鉄が、溶かされることも割られることもなく、ただキラキラと輝いていた。

 父さんは服装にそぐわない感じでにこりとした。


「さ、帰ろう。母さんとフローレンスが、ごちそうを用意しておくって」

「本当に? やった!」


 アーチが喜びの声を上げたのとほぼ同時。

 シャッターを切る音が聞こえた。それは明らかに列車のほうではなく、アーチたち二人のほうを向いていた。二人が音のほうに目をやると、一人の男がそそくさと顔を背けたところだった。

 父さんがひょいとかがんで、アーチに顔を寄せた。


「アーチ。三十分だけ、駅前のコーヒーショップで待っててくれるかい? まいて・・・くる」

「了解」


 父さんはサングラスの向こうでウィンクをすると、アーチにキャップをかぶせて、すたすたと離れていった。さっきまでこちらにカメラを向けていた男と、まるで十年来の親友のように肩を組む。親しげな振りをしてデータを消すか奪うかするのだ。常套じょうとう手段。父さんは自分一人撮られた分には優しいけれど、家族が写りこんだときには手加減しないのである。

 二言三言話した後、父さんは一瞬だけサングラスを持ち上げて、わざと顔を見せた。比類なき輝きスターの笑みだ。ざわり、と周りがどよめく。それを置き去りにするように、父さんは誰へともなく手を振りながら、広場を駆け出ていった。パパラッチが四、五人、後を追って走り出す。

 騒がしさを増した広場の中で、フィルがアーチに小声で言った。


「なんだか、すごく楽しそうだったね」


 キャップで顔を隠すようにしながら、フィルの陰に引っ込んでいたアーチは、にやりと笑い返した。


「父さんってときどき、本当にガキっぽいladdishんだ」


 アーチはキャップを上着の裏に『収納』すると、ズボンのポケットから別の帽子を取り出して、深くかぶった。それから、上着を脱いでそれをポケットに『収納』する。こういうときに便利だと思ったから、がんばって練習したのだ。したかいがあった!


「じゃ、僕、行くね」

「うん。じゃあね、アーチ。また休み明けに」

「うん! バイバイ!」


 彼が走り出したちょうどその時、魔法列車が汽笛を鳴らした。列車は霧をまとい、壁の向こうに消えていく。アーチは霧の中から飛び出して、ユーストン駅の構内の無機質な床を蹴った。無表情で安定していて、突然消えたりしない床。これで九月まで、魔法とはお別れだ。

 でもさびしくはないし、退屈にも思わなかった。ちょっと帰って、また行く。ただそれだけのこと。

 もう魔法使いにはなっているのだから。


 パパラッチを華麗にまいて・・・きた父と、ぴったり三十分後に合流し、家へ戻る。ありがたいことに、ベンフィールド先生の薬はまだ効いているらしくて、電車やバスやタクシーを乗り継いでも、ふだんよりずっと元気なままでいられた。その分、脳みそもよく働いていたアーチは、やらなければならないことがあると気が付いた。

 家の前でタクシーを降りるやいなや、「ごめん、すぐ戻るから!」と背を向ける。

 走って目指すは、ブラウン・ストーン・パークの東側の小さな池。そこに彼はいつも通り、ぼーっと突っ立っていた。つぎはぎだらけのスーツも、カビの生えたようなシルクハットも、そしてそれら全部が半透明なのも、一年前からまったく変わっていない。


「ハイ、ミスター!」


 アーチは池に近付きすぎないよう気を付けながら、彼のもとへ行った。


「去年のこと、覚えてる?」


 白くにごった目がアーチのほうを向いたけれど、相変わらず言葉はない。

 アーチはその目を真っ直ぐに見つめた。ちょっと照れくさいのをぐっとおさえこんで、はっきりと告げる。


「ミスターのおかげで、僕、誘拐されずに済んだんだ。――あの時は、ありがとう、助けてくれて」


 かびたシルクハットの下で、ぼさぼさのひげがかすかに動いた。と思ったら、彼はすぅっと消えてしまった。

 アーチは彼を見送って、それからパッときびすを返した。たった三分の道のりを全力で走って、家に戻るのだ。温かくて大好きな人たちが待っている家に。

 夏の始まりの風が、誰もいなくなった池の枯れ草を、さわさわと揺らしていた。



                        おしまい


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Laddish ――アーチと魔法学校、それからキッドナップ・ランタン 井ノ下功 @inosita-kou

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