第3話 Lie
荷解きを終えてひと息ついていたジュリアは、乱暴に開けられた扉の音で、漫画の中から現実へと意識を呼び戻された。
相部屋の同居人、エマだ。ジュリアの視線に気づくなり、項垂れたままにへらと笑ってピンク色の頭を決まり悪そうにかいている。
「こってり絞られちったよ。へへへ」
「そう」
「しぶといんだよね、あの風紀委員。まー国際科って変人揃いだし?」
いちおう私も国際科なのだが、と言いかけてジュリアの口は止まる。不和を招きたくない訳じゃなく、ただ単にどう表現すればいいかわからなかったからだ。視線と表情だけでしっかりと遺憾の意を表明しておく。
「あ、君も国際科でしょ? あたしは服飾科でさ」
「服飾?」
「ドレスとかスーツとか作るトコ。全然センスないけどね〜」
DressとSuit。《服飾》という言葉の意味を覚えるべく、ジュリアは声に出さずに復唱する。どこかFuckに発音が似ていて不愉快な単語だ。この不愉快な女——東堂エマが発した言葉だからかもしれない。
「そう言えば聞いてなかったね。名前おせーて」
日常的な会話のはずなのに、彼女の日本語は少しズレている。
発音が悪いのか、噂に聞く方言というものなのか。
「Sorry.貴女の日本語、聞くの難しい」
「だから?」
日本人は相手を察する民族だと両親から聞いていたのに、彼女はまるでこちらを察そうとしない。同じ国際科のリタはあんなに丁寧に寄り添ってくれるのに、ニタニタ笑って言葉を待っている。
「難しい、わかるにくい。から、Simple and Easyお願いします」
「あたし英語わかんないんだよねー。英検3級落ちるレベルだからお察し?」
脳内辞書から言葉を引っ張り出すには時間がかかるのに察してくれない。SimpleもEasyも今どき小学生でも知っている単語なのに理解しようとしない。むしろ、歩み寄る気がない。
彼女は身勝手な女だ。全身で校則に違反して、許可なく触れようとしてくるし、平気で2階から飛び降りる。
口をついて出たのは、昼間リタから習った言葉だ。
「災難」
「お、それはわかる。てか日本語なんだしわかって当然だわなー」
読んでいた本を閉じ、全力で振りかぶって投げつけた。モノに当たるなという両親からの薫陶すら忘れたのは、あまりに彼女が腹立たしかったからだ。身軽にひょいと避けられてしまったのが余計に火に油を注ぐ。
「That’s too disaster!! Why can not you understand me!?」
「おー、綺麗な発音。リピートアフターミー」
「Fuck off!!」
「うん、怒ってんのはわかる。ノンバーバルコミュニケーションって大事〜」
彼女には何も伝わらない。理解しようと歩み寄ってもくれない。これならまだ宇宙人でも相手にしているほうが遥かにマシだ。
災難——あの雨漏りさえなければ、こんな不愉快な想いもしなくて済んだ。パーティションで部屋を区切られることも、嫌味ったらしいニヤケ面も、くだらないテンションに気分を悪くする必要もなかったのに。
「You are Idiot‼︎ stupide!! Ne me parle plus jamais!!」
勢い、口汚く罵ったところでジュリアの唇は止まった。彼女の表情が瞬時にかき曇る。今にも泣き出しそうな悲しさを顔じゅうに貼り付けている。
伝わらないからとたかを括って言い過ぎた。言葉の内容は伝わらなくとも、声色や表情で意図は悟られる。
「何もそこまで言うことないじゃん……!」
「あ、Ah……Um……」
相手がたとえ自身を察さないクソ女だったとしても、超えてはいけない一線を越えたのかもしれない。かける言葉を戸惑いつつ選んでいると、小刻みに震えていた彼女の嗚咽は突然笑い声に変わり、俯いた前髪の隙間からにやけた目元が覗いている。
「ぷふ……。案外可愛いとこあんね? 言い過ぎたと思った?」
「crocodile tears!?」
「そ、嘘泣き」
「嘘泣き……What’s!?」
驚いて叫んだのは嘘泣きだったからではない。通じるはずのないcrocodile tearsなんて慣用表現が、彼女の耳に届いていたからだ。
ゆらりと揺れながら、鼻先まで近づいて彼女は告げる。
「あたしね、君の言葉全部わかる。英語わかんないってのは嘘」
「嘘?」
「嘘はLie.フランス語ではMensonges.あってる?」
「違う! どうして、嘘!?」
額を指先でパチンと弾くと、彼女はひらりと踊るように距離をとる。優雅にも見えるその所作に見惚れてしまって、ジュリアの口は動かなかった。額は痛いし、大嫌いな相手に触れられたというのに。
「あたしはね、自立してないヤツが嫌いなの。自分は可哀想な人間だから察してくれて当然だ、みたいに考えてるゲロ甘が特に嫌い」
「言ってる意味、わからない!」
「説明してほしい? Would you like me to explain?」
「please!」
「そういうトコだよ」
説明になっていないと表情で抗議するも、彼女の笑みはまるで威圧するようだった。有無を言わせない、そんな意図が言外ににじみ出ている。
「雨漏りして災難だったね、可哀想。あたしが面倒見てあげる。ちゃんと貴女の言葉も理解して、お友達になってあげるからね……なんて言うと思った? なワケないじゃん」
「貴女、優しさ、ない……!」
「それな。あひゃひゃ」
ケタケタと笑う姿は癪に触るばかりだ。こんな優しくない女と同室なんてあまりに不条理、不愉快で、手当たり次第にモノを投げる手が止まらない。文庫本、教科書、スマホと投げてしまったところで、最後に手をつけた置物を振りかぶった瞬間、手首を掴まれる。
「自分の思い通りにいかないからって甘えてんなよ、クソガキ」
凄む彼女の迫力に、一拍遅れて手首を振り解く。
「Don’t touch me!!」
「そうやって自分の殻にこもり続けてれば? この部屋も君にあげるから」
「どういう、意味?」
投げかけた質問に答えもせず、彼女は窓を開けて外を見る。夜の帳が降りた空の宮の夜景。駅のある中心部が放つひときわ明るい光が、夜空を深い青に染め上げている。
どこからともなく取り出したブーツを履いて窓枠に足をかけ、彼女はジュリアに振り向いて笑った。
「そう言えば名前は? ワッチュアネーム?」
「ジュリア・ハミルトン……」
「あたしは東堂エマ。お互い、好きに生きようぜ?」
「Where you going in the night?」
「Into the night。夜へ、だよ」
告げて、彼女は消えた。と言うより、階下にまた落ちた。
「It’s not safe!! 危ない!」
「じゃーおやすみジュリア。窓の鍵だけ開けといてねー」
窓の外、階下のカーテン越しの薄明かりに照らされたエマは、元気そうに手を振っていた。そしてそのまま、夜の闇の中に消えていく。夜間外出には許可証が必要。ジュリアですら知っている校則すら微塵も守っていないのだろう。
人生最大の不愉快を被ったジュリアは、何度となく枕に頭突きをして、そのまま眠りにつく。
あんな優しくない女、もう知らない。
勝手に夜の街にでも繰り出して、補導されて退学にでもなってしまえばいい。
相部屋の相手——エマの校則違反行為が自身の連帯責任になるなんて、このときのジュリアにはまるで思い当たらなかったのだった。
ももいろひつじ パラダイス農家 @paradice_nouka
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