第2話 Disaster
「災難だったね、ジュリア」
「サイナン?」
「That was a disasterってこと」
クラスメイトとともに荷物満載の手押し車を押しながら、ジュリアは脳内辞書に「災難」という言葉を書き加えた。母親が教えてくれなかった日本語だ。
「Je vois.災難はDisasterね。災難、災難、災難」
「仏語に日本語に英語か。器用なものだねえ」
「おおきに。私、日本語まだ勉強中。国際科なのに」
「しょうがないさ」と国際科のクラスメイト・緩鹿リタは眉をハの字に曲げて笑ってみせる。同じハーフでも、彼女は日本生まれ日本育ちのネイディブスピーカーだ。ジュリアとは違う。
「私、どれも話す、できひん、unsatisfied。日本語では?」
「仏語も英語も日本語も満足に話せない、かな」
生まれも育ちもカナダであるジュリアの家庭内公用語は英語だ。だが、両親譲りの第二外国語のせいで脳内辞書はしっちゃかめっちゃかだ。だからリタの話す正しい日本語を、すぐさまリピートして身体に慣らしていく。
通訳をつけないと簡単な会話すらこなせない。こんなことになるのなら真剣に日本語を教わっておくべきだったと今さら遅すぎる後悔を噛みしめる。
まさに災難だ。
「リタ。How do you say “Roof Leak” in Japanese?」
「雨漏り、かな。せっかく慣れたとこだったろうに残念だね」
「それな」
リタの言う通りだったので、最近覚えた日本語を使った。
ジュリアの部屋は、不運にも雨漏りに見舞われた。やってきた用務員によれば「重傷」だそうで、梅雨になる前に引っ越すよう命令が出されたのが今朝のことだ。
「本当に、災難。とても、困った」
「だね、災難だ」
指示された引っ越し先は2階にある。長い廊下を手押し車とともにガタゴト進ませていると、隣を歩くリタのスマホが音を立てた。メッセージを確認するなり、彼女はどこかそわそわし始める。たぶん部活の呼び出しだろう。
「行って。リタ、部活?」
リタは部活のレギュラーメンバーだ。今日だって練習があるのに、ただクラスメイトのよしみというだけでジュリアの引っ越しを手伝ってくれている。本人は桜花寮生でないにも関わらず。
「大会に向けて確認したいことがあるみたいだね。でも大丈夫、部屋に荷物を運び入れるくらいは手伝うから」
「Never mind」
これ以上、リタの好意には甘えられない。だから「気にしないで」と言ったら、彼女は硬直していた。なぜだろうと考えて、あまりにピシャリと言い切ってしまったからだと気づく。
この国の人間はジュリアが思う以上に繊細だ。
話す方も受け取る方もゼロイチでハッキリさせるのが自然な環境で育ったからか、ただの何気ない返事のつもりで微妙な空気にしてしまう。
「あ、え……。Oh,ah……」
「ああ、うん……。じゃ、お言葉に甘えて行ってくるよ。ごめんね、最後まで手伝えなくて」
「リタ、Ah……Thanks」
せめてもの感謝の言葉をひねり出したときには、リタはもう廊下にはいなかった。
彼女は唯一、ジュリアのめちゃくちゃな言葉をちゃんと聞いて翻訳してくれる友人だ。そんな優しい彼女にまで誤解を与えてしまい、廊下の壁にもたれて途方に暮れる。
「Japanese is so difficult……」
日本語は当然ながら、なにより日本人の空気感も難しい。
空気を読めだとか気を遣えだなんて概念のほうが、漢字や敬語、熟字訓なんかよりよほど難しいとジュリアはもう何度したかわからない後悔をする。
今の気持ちはひと言で言えば、災難。
覚えたばかりの「災難」が身に染みた。
*
桜花寮は6階建て、2名1室の部屋が各階に20室並ぶ大所帯だ。長い廊下を左右から挟むようにドアが並び、起居している生徒の名前が書かれている。表札だ。
それを眺めながら、ジュリアは寮長から聞いた新たなルームメイトの名前を探して歩く。
ジュリアには、読める漢字と読めない漢字がある。
たとえば《花野》はハナノだとわかるが、《磯幡》は読めない。《渡橋》も読みは怪しいし、《纏》など読めるはずもない。
友人のリタにしてもそうだ。彼女の本名は《緩鹿》と書いてユルカと読む。「日本人でも読めないから気にしないでいいよ」とリタは笑っていたが、なら日本人でも読めないような漢字を使うなと文句のひとつでも言いたくなる。
この国は外国人を歓迎しないのだ。人も、空気も、漢字すらも。
「トウドウ……。トウドウ・エマ……」
せめてトウドウ・エマの名前くらいは読める漢字であってほしい。そう願いながら彷徨っていると、とうとう廊下の突き当たり、最後の部屋にたどり着いてしまう。
表札には《Emma》とだけ書かれていた。スペルまでは教えてもらっていないが、ノックしてみる。返事はなかったが、ドアノブは回った。鍵は開いている。
「Excuse me.失礼します」
聞こえるようこれ見よがしに言って、扉の隙間から室内を伺う。
部屋の作りや家具の配置は他と変わらない。違いと言えば、雨漏りしていないことと、窓を覆うほどの庭木の枝ぶり。
そして何よりの違いが、部屋をふたつに仕切るパーティション。ベルリンの壁さながらのそれは、絶対に部屋の半分側へは立ち入らせまいとするトウドウ・エマの引いた国境線なのかもしれない。
だとしたら、トウドウ・エマは嫌なやつだ。腹が立ってムスッと鼻を鳴らしてしまうも、すぐ背後から肩を叩かれて肝を冷やす。
「お? 君が噂の天気の子、もとい雨漏りの子か」
「Don’t touch me!」
この場所・このタイミングで話しかけてくるものなんて、間違いなくトウドウ・エマだろう。肩に這わされた腕を振り払って聞き返す。
「Who are you!?」
「あー、英語喋れんの? ホンモノのハーフじゃん。うらやましー」
「うらやましい……?」
日本人から言われたことはあっても、外国人から、ましてや同じハーフっぽい女性から「うらやましい」なんて言われたことはなかった。
桜花寮の部屋前に居たのは、頭髪を真っピンクに染めた欧風の美女だ。にこにこしながら手を振っている様子を見るに、敵意はないらしい。
「でも残念ながら、あたしは英語喋れないんだな、これが。こんな顔してるのにジャパニーズオンリーとか詐欺だよね〜」
「Can you speak Japanese only?」
「オウイエスイエース! じゃ、ここあたしの部屋だから、あとよろしくね」
言うなり、エマらしきは部屋に入り込み、窓の戸を開けて——落ちた。
「Oh my god!!」
急いで窓に駆け寄り眼下を眺めると、彼女は真下で身軽に飛び跳ねていた。眼下の彼女と目があった途端、ジュリアは叫ばずにはいられなかった。
「自分、殺す、ダメ!」
「よくわかんないけど、あたし死んでないからいいっしょー?」
少女がケタケタ笑うのとほぼ同時に、またしても背後に人の気配を感じた。
「東堂エマ! 待てッ!」
追ってきた生徒——国際科のクラスメイト・須賀野守——は、エマ同様に窓枠を乗り越えて、部屋から外へと飛び出していった。
彼女らには、この部屋が1階か2階かなど、なんの関係もないのだろう、が。
「ここが、新しい、私の部屋……」
ひとまず、ルームメイトと思しき東堂エマとは顔も合わせた。あとはこちらで勝手にやってしまおう。ジュリアは運んできた手押し車から荷物を積み下ろし、テキパキと身の回りのものを並べ始めた。
〜〜〜
【人物紹介】
・ジュリア・ハミルトン キャラ設定担当:楠富つかさ様
・緩鹿リタ キャラ設定担当:藤田大腸様
・東堂エマ キャラ設定担当:パラダイス農家
・須賀野守 キャラ設定担当:藤田大腸様
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