第3廻 河童(後編)
「なにするつもりなの」
耳を澄ます。気配を探る。皮膚の触覚すらレーダーのように張り巡らせる。警戒していると、さらぎの明敏な感覚器が異変を捉えた。
あぶくが生じて、はじけて消える振動がする。
「ちかい」
疑問はすぐに解けた。
右斜め前。ごく至近。コンクリの地面に、汚水だまり。さっき避けたやつだ。濃厚な気配、いや臭いがする。水面が膨れ上がる。構築・設置型の術式が展開されていたことに、遅まきながら思考がたどりついた。
ここは、やつの領域だ。
池に、水たまりに、水と名のつく場に、目に見えない水路をあらかじめ掘り繋げて自在な移動を可能にしていたにちがいない。池のど真ん中に出現した理由も説明がつく。そんな水路があちこちにある。河童はさらぎを追跡していたのではなく、水路を目指していたのだ。
彼ら河童が水に関する超常の力をふるえるのは、当然きわまる。
逆しまの水流。悪臭とともに水しぶきをたて、河童は、現れたときと同様に忽然と現出する。
こんどは、眼前だった。
「知ってるぞぉ、ひなわは近寄れば撃てないんだ! そしてにんげんの力はよええ!」
河童が乱ぐい歯で吠える。尖った吻を、鮫のように開きながら。
噛みつかれる。
完全な不意打ち。回避は間に合わない。
でも、今回も妖力を伴う術式はまとっていない。力任せの攻撃だ。
怒られるんだろうな、と呑気に考える。でも、まあいいや。どうせ右腕だし。左腕ならダメだけれど。左腕だけは、大切にとっておかなければ。
さらぎはほぼなし崩しに覚悟を決めて直撃を受けた。黙って噛みつかれる。
衝撃。前腕から電撃的に広がった痛みが全身を貫いた。右腕が鈍い音をたて圧潰。肉が潰れ骨まで砕け散る。まるでパッカー車に放り込まれた生ゴミみたいな末路。皮膚から飛び出ている白いのは骨で、黄色いのは脂肪だろうか。作り込みの素晴らしさにまじまじと見とれてしまうほど、右腕は無残にひしゃげてしまった。
でも。ああ、でも。でも、まったくのべつもの。
さらぎは残念でならない。愛する妹に味合わされた、永遠の一瞬。尊厳のない物質に還元される倒錯。性愛すら感じられる奉仕であった、甘美で無残な人体破壊とはちがう。
歯がごりごりと擦り合わされ、さらぎは目玉をひん剥いた。
記憶に耽溺することは許されなかった。痛みが痛みを上塗りし、我に返る。
河童の咬合力は、小さな体のくせにとてつもない。引き抜くのは無理だ。筋も神経も途切れ手から力が失せた。腕全体がだらりと弛緩するが、ハンドガンは動かぬ指先に絡まったまま。
悲鳴をあげそうになるのを、歯を噛み締め、踏ん張って耐える。後悔先に立たず、あらためて思う。
やっぱり、刀、持ってくれば良かった。
そうすれば、もっと簡単に自分の腕を落とせたのに。
痛みに脂汗が流れ、顎を伝って落ちる。ひょっとしたら、お漏らしもしたかもしれない。
それでも、さらぎは焦っていなかった。
「どうだ、にんげん!」
右腕を咥えこんだまま、河童がくぐもった勝鬨をあげる。
歓声に、さらぎもなんだか嬉しくなる。そうか、きみはわたしを人間だと思ってくれるんだ。自然と口の端が持ち上がる。河童が確信する勝利を、しかし、さらぎはあざ笑う。
だって。とてもむなしいひびきだよ、それ。
とたん、河童が動揺する。
「くそニゲェ、まるで死肉……! この味、にんげんじゃねえ……!」
血と肉がようやく味蕾に伝わったのだろうか。
すこしだけ、感慨と哀れみを込める。
「勝った気でいたなんて。かわいいね」
ガーターホルスターから逆手でナイフを引き抜く。
禍々しくカーヴしたフォルムの、だがなんの退魔の力もないフィクストブレイド。丁寧に研いだ刃の鮮麗さと裏腹に、切っ先を力任せに河童の右眼に叩き込む。やわいものがゼラチンみたいに弾ける感触。
潰れる蛙じみた絶叫が轟く。
悲鳴にさらぎの嗜虐心が満たされる。ナイフを思い切りこじってやる。絶叫がさらに一オクターブあがる。右眼を貫く痛みから逃れようと河童がやたらめったら頭を振り回す。
「いっだああああああ!」
叫んだのはさらぎだった。
激痛。
ぶちんと音がした。
さらぎの腕は食い込まれたままだった。振り回され、関節部が限界に達し、嫌な音を立てて肘から先が千切れた。切断というよりは破断だった。痛みに目眩がし、頭の芯が痺れる。傷口からどっと血があふれ、制服を真っ赤に汚す。
場違いなことを脳裏に思い浮かべる――ここまでしみちゃって酸素系漂白剤で落ちるのかなあ、血液。
制服って意外と高いのに。そう考えると、無性に腹が立ってきた。胴体を蹴りつけてやる。腹甲は硬く、反動があった。さらぎはうしろに転んでしまう。臀部がびしゃっと濡れた地面を叩く。片目にナイフを突き立てたまま、河童も同様に尻もちをつく。
お尻から染みて、下着まで濡れてきた。自分の垂れ流した血溜まりだ。浸かっているのは、たまらなく不愉快だった。
河童の口から食い溢された右腕が、通路に転がり落ちる。動かない腕は、どこまでも他人めいていた。
左手で、右手からハンドガンを受け取る。
さらぎは立ち上がる。スカートから血の糸が何本も生じ、順次落ちていった。
おもむろに引き金をひく。
マズルフラッシュ。
焦げた臭い。飛び散る体液の臭い。
驚愕と困惑の、発散される感情の臭い。それらが混然一体となり複雑な味となり、さらぎの舌にまとわりつく。
ハンドガンから一発撃つたびに、痛みと不愉快さが薄らいでいく。気がした。思い込めた。
河童の顔面が銃弾に穿たれ、歪みひび割れる。
「なんで」
なんで脆い人間なのに痛みに怯まない。
なんで笑いながら反撃してくる。
10ミリオート弾が腐敗色の肌を、そして顎を口内を貫き最後に頭頂部の皿を打ち砕く。発砲するたびあわせてスライドが後退し、薬莢が排出され、汚水だまりに、さらぎ地震の血溜まりに落ち、焼けた音をたてる。
――なんで俺が滅ぼさなければならない。
言外にたくさんの「なんで」を込めて、河童がよろめき立ち上がる。
背中をむける河童の周囲に、また術式が展開される気配がする。力場は弱々しいが、見えない水路に逃げ込むつもりなのだろう。
その姿がなんだか滑稽で、さらぎの嘲笑は、持ち上げた口の端はどこまでも裂けていく。まろびでた舌が、でろりと垂れ下がる。
二叉に変じた舌先が、ゆらゆら揺れる。
「逃がさないんだなあ」
背中の甲羅にむかって撃つ? いいえ、だってさ。
右腕一本失えば、じゅうぶんに水気には干渉できる。
こめかみが疼く。若木が地面を突き上げ伸長するように、二本の角が皮膚を破り生えてくる。まだ物理的に半ば存在しえず、半分チラつく幻像にすぎないが、これで力の片鱗が顕現可能となる。
頭のなかでイメージする。巾着の口を閉じるような。
空間が締め付けられるように鳴いた。
水路を強引に閉鎖してやったのだ。
確信していた勝ちから一転、なにをされたか察し、河童は仰ぎ振り返る。
「おまえ。なんだ」
視線が合う。
覗いた瞳の奥、今や縦に裂け底の知れぬ谷間のようになった瞳孔に潜むものを見て、河童が身を竦ませる。
さらぎの笑みが、人間にはありえないほどの大口が、牙を見せつけ開いた
それは、何者をも逃れられない、ただひたすらに
「
河童が喚き始める。
自分が相対したものの正体に勘付き、絶望と後悔を滲ませて。
「げええ、
「いただきます」
ばぐん。
★ ☆ ★
うずくまったまま、さらぎは動けない。
何分そうしていたのだろうか。角は消え、口角は元に戻り、出血はとうに止まっていた。
スマートフォンから着信音が鳴り響く。おすすめされたアニソンのインスト。さらぎは我に返った。ハンドガンを放り捨て、電話を寄越した相手も確認せずに出る。
胸がきゅうううとなるのは、期待してしまうから。
「あーもしもし。おっと、もしもしとは人間かそうでないか区別をつけるときの呼びかけか。聞こえますか聞こえますかバカらぎさん? 耳はまだ付いてますかどうですか?」
糖蜜のように甘ったるい声質だが、反面、猛烈な弾幕のように硬質で鋭い会話の切り出し。
連絡してきたのは機関ではなく、やっぱり
「あたしとの約束は忘却の彼方なのでしょうか? 定時連絡を欠いているようだけど、ご無事ですか五体満足ですか災厄ですか?」
不機嫌さを隠そうともしていない。
つまりは、怒っていない。ということは、心配されている。
隠そうとして隠しきれていない本音が嬉しくて、さらぎははにかみながら返事をする。
「だいじょうぶ。勝ったよ。右腕を失くしただけ」
「あっそ。心配してないけど安心した。それだけなら大したこと……な……」
絶句。事態を理解し、饒舌な彼には珍しく、たっぷり十秒は沈黙する。
感情が、間欠泉を思わせ吹き上がる。
「はあ、マジで? なに河童ごときに苦戦してんの? このよわよわの祟り神! 封印をかってに解くな! 自覚を持て!」
「すごく、痛かった。さすが絹衣ちゃんだと思った」
「あったりまえでしょうがあ! あたしがあんたのために、神経つないだんだからね。ぜんぶ、ぜーんぶ無駄になったみたいだけど。また骨女とぬっぺっぽうに嫌味を言われる。ああっ、もうっ」
あーはいはいはい仕方ない、と言葉が続く。
打って変わって、沈痛で、悲痛な思いに駆られた音色が声にのる。
「動かないでよ。誰かに見られちゃ困る、いろんな意味で。迎えに行くから」
「でも。今日は配信のお仕事があるって」
「あんたのほうが大事! 以上! 通信アウト! 有無を言わさん!」
優しさに涙がでてくる。同時に、チャンネル登録者数が十万単位ある絹衣を独占できるという拗けた喜びもある。泣き笑いでさらぎは返事する。
「うん、絹衣ちゃんを待ってる」
胸がまた鳴った。
正確には、食道がごぼりとなる異音。
空。コンクリ。ドブ池。視界が流転する。絹衣の返事を聞かぬうちに、さらぎは膝をつく。こらえきれず、ぶっ倒れた。
もう限界だった。出血と消化で体力をだいぶ消耗している。なによりも、河童はすんごいまずかった。
「うええ……うげえ」
圧倒的な胸やけ。無事な左手で胸を掻きむしる。スマートフォンはいつ落としたかわからなかった。気持ち悪さがせり上がってきて。
吐いた。
ぶち撒けた。
びしゃびしゃ垂れ流す。食道が焼ける。酸っぱい味わいが口腔を鼻腔を満たしていく。不快でたまらず、さっきとは別種の涙が流れた。
「え、ちょっとだいじょうぶ? ご飯がマズくなる音が聞こえるけど!」
地面に転がったスマートフォンに応える余裕はなかった。とんでもない消化不良をおこしている。
ひとしきり胃液と未消化の内容物をぶちまける。本命が続く。食道を、喉を、口内を硬い物が強引に通り過ぎる。体の中が拡張される感覚。歯が内側からへし折られる気さえした。ひたすらに痛かった。
「うえええ!」
無様にゲボすると、からからからん、と音がした。
溶かしきれなかった皿が、腹から出てきた。河童のおさら。地面で数度バウンドし、池へと落下する。
水面に黒い波紋。広がり、薄くなり、消えていく。それが、河童がいた痕跡だった。
手の甲で唇を拭う。嘘のように吐き気は収まりつつある。
さすがに反省する。悪食は、もうこりごりだ。
「……でも、またするんだろうなあ」
仰向けになるのも渾身の力が必要だった。汚物にまみれ、ごろりと転がる。まぶしい陽光のなかに、見えた。近くにいたのだろう。さすがに早い。
にじんだ視界の中で、一枚の布が、ひらひら空を飛んでいる。
絹衣ちゃんに、それはもう甘えさせてもらうとしよう。
廢篇 百鬼夜行 うぉーけん @war-ken
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