第2廻 河童(前編)
河童は、おいしくなどなかった。
食道からせり上がってきたゲボが、口内を満たす。なんという臭気と酸味だろうか。耐えられない。有無を言わさず唇が決壊する。
「ん……ふっん………えごっ!」
げぼぼと無様極まる音をたて嘔吐。大気が織りなす幾層ものレイヤーに太陽光がオーバーレイされ、ゲボが黄金色に輝く。
昔の人は嘘つきだ。
『
江戸時代に書かれた『本朝食鑑』には河童は大
単純にまずかった。
おかげで、気持ち悪いといったらない。
★ ☆ ★
ドブの臭いがする。
腐敗した水。溜まった汚泥。リン分過多の影響だろう、水面には緑青色をした正体不明の藻類が一面に漂っている。底まで深くないはずなのに、淀んだ水と藻のせいで水面下がどうなっているかは、はかり難い。あたりは照りつける太陽光にじっとりと温められ、
コンクリで護岸された、汚らしい池だった。
臭いを、口に含む。しゃがんだまま舌でころがし
水棲生物の生臭さと、両生類のぬめりけ。粘膜に包まれたものの舌触り。
風に吹かれたり雨に流されたりすることのない、気配や雰囲気といった感じでそれは空間に
――ぷはぁ。
足場にしている送水管の上で、立ち上がる。光の入射角が変わり、漆黒の瞳がめくるめく色合いをかえ、紫に輝いた。視線の先、ドブ池の中心を見据え、あわせて指定鞄からハンドガンをひっぱり出す。
「今日の夜にね」ふわ、と大あくび。口元は上品に手で隠しつつ「キヌイちゃんのライブ配信があるから、さ。時間をかけたくないんだよね」
愛用のスマートフォンでも取り出すように自然で、ごくさり気ない動作。フロントアンダーにあるフラッシュマグに予備のマガジンを差し、FD社のピストルブレイスを装着したお気に入りの銃だ。
池の底を睨みつけ、舌鋒鋭く命令する。
「いるのはわかってるんだから。さっさと出てこい」
風もないのに、さらぎの長い髪と、制服がそよとなびいた。
「
濁った声がする。
波紋ひとつない黒と緑のまだら色の水面に、変化が生じた。
池の中心が、ごぼごぼと泡立つ。自然発生したメタンガスのあぶくだろうか。
あぶくがはじけて消え。人間の子供くらいの影が、ぬらりと水底から起き上がる。
水深は二〇センチほどしかないと聞いていたのに、たしかに影は池の中から出現していた。
人型の、だが緑青色とも腐敗色ともつかぬ肌色をした、てらてらと濡れそぼる、奇妙な影だった。体表は鱗とも瘤ともつかない。頭頂部はそこだけが色が抜けへこみ、白く目立ち、つるりとしたさらがのっている。
白目のない、黒だけの双眸がじっとさらぎを見ていた。
周囲の湿り気が、一段と濃度を増す。
皮膚を冒された錯覚がする。
さらぎは歯を剥いた。立派すぎる歯並びが顕になる。唇に収まっているのが不思議なほど、犬歯は長い。
捕食動物特有の笑みだ。
「この池。ドブ臭いって、苦情がきてるんだってさ」
興味のあること以外は楽しくない。年ごろ特有の無邪気さと傲慢さが入り混じった声音。
影は離れているのに、さっきの声は耳元でした。こっちの声も聞こえていると確信はあった。
睥睨しながら、さらぎは続ける。
「新しい市長はね。ここを埋め立てて、公園にしたいんだって。若い親御さんがおしゃべりしたり、子供が走り回ったり、近所のおじいちゃんおばあちゃんが散歩したりする、きれいな場所に」
小さな水音が鳴った。
どこかで、汚水が落ちる、かすかな音だ。
落水が鍾乳洞をつくるような、静かだが、力に満ちた音だ。
「人間は、いつも、かってだ」
怒りがにじんだ声。
「むかーしは、ここも、魚が泳いで、水鳥がまいおりて、虫たちがつむぎあってた」
懐古に震え、影の全身から水滴がしたたった。
さらぎは、表情を沈める。
「だからね。あんたが邪魔なんだってさ、河童さん」
モノノケ。ばけもの。怪異。百鬼とも百魅とも。
あるいは、妖怪。呼び名はさまざまだが、そうした存在を滅ぼすのがさらぎに与えられた仕事だ。
侮蔑に応えず、河童が右腕を振った。高速のアンダースロー。水掻きがついた手が、水面をすくい上げる。
勢いのままに黒い飛沫があまた、射出された。
攻撃。さらぎはどう反応するか考える。
妖術? 臭いは感じない。なら単純な物理攻撃だ。
もっとも、くらってやる義理もない。
さらぎは跳んだ。同時に一瞬前までいた場所に飛沫が着弾し、送水管が穴だらけになる。中から汚水がじょろじょろと漏れ出した。水滴のひとつひとつが、ちょっとした弾丸くらいの威力はあるようだ。
それが、散弾じみて飛んでくる。
さしずめ死の散布界。
「くらうわけにはいかない、ね」
人間を穴だらけにするのも容易いだろう。もっと重装備でくるべきだったか。ハンドガンとナイフだけでは攻めあぐねそうだ。せめて退魔刀とか、そういう名のそれっぽい武器は持ってきたかった。
でも、しょうがない。〈機関〉からの命令が学校帰りだったのから。
避けた攻撃を横目にしつつ、宙でハンドガンをかまえる。ダットサイトの向こう側で河童の姿が斜めに流れる。落下しつつ撃発。小気味好い火薬の炸裂音。スプリングが跳ねる微振動。発射の衝撃でスタビライザがブレイス後部から自動展開され、右腕を支える。初弾は外れ、水面を叩いて消えた。
さらに銃撃。片手持ちとはいえども、一発目とは違い、ブレイスに腕を支えられている。射撃の補助を受けて放たれた次の10ミリオート弾は右肩に命中し、河童が仰け反った。
「いっでえ! ひなわか」
退魔に特化した武器ではないが、当てようによってはヒグマすら殺せる弾丸だ。人外とて効かぬ理由はない。
「お、ダメージになってるじゃん」
作業員のメンテナンス用小路に着地。両脚は今日も万事快調。筋肉と関節が、衝撃を造作もなく受け止める。
セリフには余裕の含みがあるが、止まればまた致死的な攻撃が来るのは明白だ。猶予はない。その場に留まらず、跳躍の勢いのままに疾駆する。
「逃げるんじゃねえぞ!」
河童が動き出す。水底を蹴り、水を掻き分け移動している。追ってくるつもりだ。超常の力が働いているのか、泥に足をとられる様子はない。
さすがは水の怪といったところか。
負傷した右腕の代わりに、左手で水面を掬うのが見えた。
予備動作。飛沫散弾の二撃目。
追撃が、くる。
「とはいえ不公平きわまる。威力の差はいかんせんともしがたいか」
さらぎは牽制射を混じえ、走る。夏空に銃声が木霊する。わざわざ社外品のETS製大容量三〇連マガジンを使っているのだ、予備もあるし出し惜しみはしない。それにお小遣いは心配せずにすむ、どのみち弾代は機関持ちだ。
連射しつつ、道に沿いながらも河童に狙いをつけさせぬよう弧を描く。銃声と足音と水飛沫の三重奏。
サイトの向こう側で河童が踊る。互いに移動しているので照準がつけ難い。河童は右に左に無作為めいて身体を振る。おかげで射撃は当たらない、空を切るだけでおわる。ブレイスとダットサイトを適切に使い、静止していれば五〇メートルでも一〇〇メートル先でもマンサイズ・ターゲットなぞ指呼の間なのだが。小柄とはいえ、河童との距離はもっと近いのに。
できるなら、立ち止まって銃撃したい。
都合の良いことを考えつつも。ステップを踏み、悪臭たてる汚水らしいたまり水を巧妙に避ける。
「くらっちめえぇ!」
河童が左手を振るった。
蜂の群れを思わせる黒い影の飛来。散弾が殺到する。
さらぎは弾道に合わせ身をひねる。背中で飛沫を躱す。舌打ち。痛みが奔る。左脚から一筋、血液がなびく。避け損ねた。逃げ遅れた長髪にもぼっぼっぼっと風穴が三つひらいた。掠めた飛沫散弾が地面を、壁面をひび割れさせる。
さいわい、脚の傷は浅い。じんじん痛いものの、移動に支障はない。
「あぶないなぁ、もう」
間一髪。河童の攻撃が利き腕だったら、回避が間に合わず直撃していた。
次も避けられるだろか。こちらの銃撃が点の攻撃であるのに対し、河童は面で制圧してくる。命中率も威力も相手が上なのは明白だ。いずれジリ貧になる。
でも、いまので特有の癖は見えている。
射撃を再開し、小路出口の階段を目指す。発砲炎の向こう側で、河童が左手を払いあげようとする。みたび投擲モーションに入る。
さすがにもうわかる。
投げつけるときに、移動が停滞することが。
タイミングを合わせる。河童が脚を止め振りかぶる。さらぎは軸足に体重を乗せフルブレーキ。ローファーの底でコンクリートを削る勢いで歩を止める。
さしもの膝関節もきしみを上げ、そうして互いに静止する一瞬。
左手でスペアマガジンホルダを兼ねるフラッシュマグをアングルグリップ代わりに握る。こんどはハンドガンのブレイスをきちんと肩付けし、射撃姿勢を安定させた。
ちょっとしたサブマシンガンじみたスタイルで、ホロサン・ダットサイトを覗きこむ。
精度は2MOA。およそ完璧な照準で引き金を引く。
発砲。ブレイスそれ自体の重さによりマズルジャンプは抑えられている。弾道の行方を視線で追う。命中弾。肉片がこそげ落ちる。赤黒い体液が噴出する。河童が苦痛に身をよじっている。攻撃の挙動が止まる。
手応えあり。ダットサイトの示す点のままに連射。続けざまに黒い血しぶきがあがる。
でも、まだだ。斃しきれはしない。仮にも妖怪、タフネスは人間の比ではない。すぐにも体勢を立て直すだろう。これ以上撃てば反撃される。ダメージを与えられたので充分と判断し、深追いせず駆け足を再開。
またあった水たまりを跳び超える。息せき切って階段にたどり着く。
登らず、陰に身を隠す。
「調子にのんじゃねえぞ!」
怒号。人間なら死んでいるほど被弾しているはずだが、やはりまだ健在だ。河童がぶんと左手を振った。
どんという響き。階段表面が破砕され、ぱっと白い煙となって散る。
三撃目もぎりぎりで躱せた。射出された飛沫散弾はコンクリを抉るが、被弾により投擲フォームが崩れたのだろう、狙いが逸れていた。さらぎまでは届かなかった。
さらぎは遮蔽をとりつつも視線は外さない。階段に体重をあずけ、射撃に適した重心をとる。
息を整え、狙いを定め、引き金に掛けた指に力を込め。
大気が揺らいだ。
思わず眉根を寄せる。
「いない」
またたきすらしていないのに、河童の姿が見当たらない。まるでかき消えたようだ。訝しむ。かまえたまま目線で周囲を走査する。
やっぱり、いない。
さっきの銃撃により斃した? 死体は、水面下に沈んでいる? いいや、致命傷は負わせていないはず。
池には隠れる場所も、潜り込む水深もないはずなのに、どこにもいない。
河童は、どこに消えたのだろうか?
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