廢篇 百鬼夜行

うぉーけん

第1廻 逢魔時

 逢魔時おうまがとき――黄昏をいふ。百魅ひゃくみせうずる時なり。

            鳥山石燕『今昔画図続百鬼』


★ ☆ ★


 黒髪の少女は読んでいた本から目線をあげた。ページを物憂げに閉じ、無垢材のテーブルに置く。最後につい、とブックカバーを真白い指先で撫で上げる。名残惜しそうな仕草。

 不思議なブックカバーだった。じっとりと常に汗をかき、紙の本を守るにはあまりに繊細で、新品のヌメ革にしては不自然に白い。


 まるで少女のやわ肌のように。


 視線に気が付くと、少女は微笑する。人類の惨禍であった感染症は過去のものになり、ワクチンが行き渡った今の世には珍しい、不織布のマスクをしていて表情は伺えない。

 ただ、その深淵色の双眸が、繊月を思わせ形を変えたことで、笑っているのだと推測できた。


「ごくふつうの、だよ。そんなに気になる?」


 ぞっとする微笑みだった。恍惚、蕩尽、嗜虐。得も言われぬ感情が溶け合った内面の漏出。


「これはね、蛇の背中の皮なの。私が剥いで、鞣して、縫った」


 うっとりと眺めながら、少女は続ける。


「知ってる? 蛇革の作り方」


 その響きは、歌声だ。

 聞くものの耳朶に、まろびつ木霊する。


 そして、ずっと耳元で囁かれるごとく離れない。


「まずは、蛇のね。胃袋に空気や水をいれて、ぱんぱんに膨らませるの。そうして縄で吊り上げて、限界まで身体を伸ばす。絞首刑みたいに。そのままカミソリをすっといれて、皮を剥いでいく。とうぜん蛇は痛くて、悲しくて、苦しくて、身悶えする。でも革職人の手は熟練していて、無慈悲で、酷薄で、容赦がない。蛇は進化の過程で発声器官を捨ててしまったから、絶望に泣き叫ぶこともできない」


 息をつくようにくすりと笑う。


「そうやって、かわいそうな蛇から革を作る。にんげんの業だね」


 蛇が好きなのか、という問いに、少女は頷いた。


 ゆっくりとした首肯で、質問を吟味している。言葉の意味を物理的に味わっているようでもあった。


「好きよ」


 いとおしそうに本を愛撫する。

 いや。もう断言できる。少女のお気に入りは、本ではなくブックカバーにちがいなかった。


「でも、私が愛した蛇は、まだ蛇になりきれていないの」


 指が、マスクへとかかった。

 顎先へと下げていく。右手だけでなされる動作。


 なぜ今まで注意が至らなかったのだろうか。

 少女には、左腕がなかった。純白のワンピースから露出する肩より先、あるべき場所には、ただ虚空が漂っているばかりだ。


 世界が色彩を変えた。


 いつのまにか日が翳り、窓辺から射し込む落日が室内をねぶり始める。血衣にも似た色合い。昼と夜の狭間。此岸と彼岸の中間。現世うつしよ幽世かくりよが重なる空間。

 逢魔時おうまがとき。魑魅魍魎たちがあらわれ、列をなし徘徊する時間。


 長すぎる犬歯が青褪めた唇から覗いている。白いかんばせは、微笑んでなどいなかった。


「蛇にはまだ。醜い左腕が、残っているから」


 隻腕の少女の、いまは躯籠體むくろごめからだという名で呼ばれている少女の、真紅の二叉舌スプリットタンが唇からチロチロと這い出す。

 ブックカバーは、もう蛇革には見えなかった。

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