彼「小説」を書かれる人。

飯田太朗

この日常も素敵だけれど

 庭の片隅に作られた、葡萄棚を見て思う。

 いい暮らしだ。ささやかながらも立派な庭。二人だけの家。眩しい太陽。

 これ以上のものを望むのは罰が当たる。


 でもどうしてだろう。心の奥で何かを求めている。


「戻ったよ」


 夫だ。趣味の釣りから帰ってきた。今日の釣果は、と顔色を見る。あまりよくなかったようだ。


「サワラが一匹」

「好きな魚じゃない」

「小さかったんだ。すぐに放したよ」


 庭の片隅に置いた、小さなベンチ。

 休日の夕方、お日様の光を惜しむようにそこに座っていると、釣りを終えた夫がやってくる。

 よく釣れた日には輝く笑顔で。

 あまり釣れなかった日も元気に。

 夫はやってくる。そして私の隣に座る。


 風が冷たくなってきた。

 日が暮れる。


「そういえば」

 夫が濃紺に染まり始めた空を見上げる。

 彼の匂いが鼻をくすぐる。何だろう、いつもと違う。

「プレゼントを買ったよ。もうすぐ……後数時間で、結婚記念時だ」

「あら」

 そうだった。毎年結婚記念日の、結婚記念時……夫にプロポーズをされた時間……にはケーキを焼いて食べるのだ。このところ体調が悪くてすっかり忘れていた。


 後数時間。まだ、間に合う。

「ケーキを、焼かなきゃ」

 すると夫が私の手を取った。

「体調もあるだろう。今日は無理をしなくていい。代わりに、素敵なものを買った」

「素敵なもの?」

「君は詩の朗読をやるね」

「ええ」

 朗読と言っても、VR空間で集まったリアルの顔も知らない人たちと、だけれど。

「君は文学趣味がある」

「そうなりますね」


 夫は私の手を取った。

 まるでそう、初めて出会った時のように。



「こんな……」

 夫の書斎に入って私は驚いた。


 夫の書斎、と言っても、夫はこの頃リビングにいることが多いので書斎を使うのは専ら私だ。本を読んだり、VR装置で電脳空間に飛んでネット上の友達と詩の朗読をしたり。


 しかしそれもこの数カ月はできなかった。毎年冬が深まると少し体調を崩すのだ。今年は特にひどく、ベッドから出られない日もあった。夫はよく看病してくれた。


「今まで家にあったものより体にかかる負荷が少ないそうだ。何でも、半身麻痺患者のリハビリにも使われる、医療業界でも有名な型らしい。ちょっと奮発したが、買ってみたよ。君がまた、詩を詠めるように」


 そこには最新型のVR装置があった。

 多くのVR装置が装置内に腰かけて起動するのに対し、これは寝そべりながら操作のできる、とても大型のものだった。


 道理で、釣りに行ったはずの夫から海の匂いがしないはずだ。サワラの話もかわいい嘘だったのだ。

 私が昼過ぎから庭に出て日光浴をしている間に、配達の受け取りを済ませこの機械を組み立てていたのだろう。


 夫は手先が器用だった。装置のスタートアップもきっと手早く的確に済ませてくれたことだろう。


 夫に手を取られ、マシンの中に横になった。


 起動の際、ちらりと夫を見る。


「久しぶりの電脳空間を楽しんでおいで。君は体調を崩して外出もほとんどできない。せめてネット上では、自由に出かけてくれ」


 このところすっかり体が鈍っていた私にはこれ以上ないプレゼントだった。嬉しくて胸の中に温かい気持ちがいっぱい広がる。


 未だにVR装置に対して「人を支配する道具だ」だとか「人間を駄目にする道具だ」と批判する人は多いが、私は夫の理解のおかげで最新技術の恩恵にあずかっている。体の弱い私は元々外出が苦手だった。VR装置はそんな私に走り回れる足と自由を与えてくれた。


 ベッドから出られなかったことと、夫の持っている旧式の装置は体への負荷が大きかったことから、この数カ月はめっきりVR空間に行くことはなくなってしまっていたけれど……あの自由を味わわせてくれるなら、これ以上ない喜びだ。


「いっておいで」

 夫が見送ってくれる。

 私は久しぶりにVR世界に飛んだ。



 景色を観に行った。遠く離れた母国の、桜の花を観に行った。

 それから電子書籍店にも足を運んだ。この数カ月で流行りはすっかり変わったけれど、私の好きな園芸やお菓子作りの本は相変わらずお店の端っこで小さくやっていた。久しぶりだね、と挨拶する。


 その広告を見たのは、そんな書店の散策の、途中でのことだった。


「創作電脳空間『カクヨム』あなたも作家の仲間入り!」


「『カクヨム』……?」


 馴染みのないサイトだった。私が母国から離れて久しい、ということもあるかもしれない。簡単にインテルジェンスアシスタントシステムに検索させてみたけれど、どうやら私の母国で流行っている小説投稿サイトのようだ。


 小説。


 私も昔はよく読んでいた。夫を知らなかった若い頃なんて、食費を切り詰めて本を買っていたくらいだ。でもこの十年くらい一冊の本を読み切る体力がなくなったから疎遠になっていて、それでも文学に触れていたくて詩をやっていたのだが、VR空間での小説なら、もしかして。


 少し、調べてみる。


「『カクヨム』での読書は、VR機能を生かした五感に迫る表現で、「読む」という行為に支障のある、ないしは慣れ親しんでいない人でも小説を楽しめるようになっています」


 説明を読んで、思う。

 こんな素敵なシステムがあっただなんて。本を読む体力がなくなった私でも、これなら、あるいは、もしかして。

 試してみる価値は、あるかもしれない。


 そう思って私は「カクヨム」にアクセスした。チュートリアルに従い、アカウントを作成する……。



「楽しそうだね」

 夫だった。私の淹れた紅茶を飲みながら、にっこり微笑んでくれる。私も笑顔を返した。

「あの装置の、おかげさまで」

「何か素敵なものはあった?」

「ええ」


 あれから。

 私は「カクヨム」に夢中になっていた。


 ケモノ、と呼ばれる存在に抗う少年少女の物語。

 宇宙艦隊の中で職場恋愛を繰り広げる男女の話。

 神ごとき存在から得られた力を扱い、激戦を繰り広げる国家の話。


 様々な小説を読んだ。そして思った。


 彼「小説」を書かれる人は、いったいどんな人たちなのだろう。


 私もその仲間に、なれるだろうか。


 自分も書いてみたい、と思うのは必然だった。


 この日常も素敵だけれど、もっと自由に何かを始めてみてもいいかもしれない。


 夫に相談してみた。小説を書いてみようと思う。小さく、おそるおそるそう口にすると、夫は両手を広げて賛成してくれた。

「君は昔から文章や言い回しが上手かったから、きっといい作品が書けるよ!」

「そう……そうかな」

 夫の後押しもあって私は「カクヨム」内で物語を紡ぐ決心をした。


 それが年が明けたばかりの、一月半ばのことだった。

 二カ月ほど、私は創作活動に打ち込んだ……。



「Web小説サイト『カクヨム』に不正なアクセスがあったことが本日確認されました。同サイト内には最新型、未知のウィルスである『リベレーター』が散布されており、アカウントの不審な挙動、及びアカウントの破壊、それに繋がったリアルの傷害など、様々な事件に繋がっています」

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彼「小説」を書かれる人。 飯田太朗 @taroIda

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