白いワンピースの裾が汚れている

新代 ゆう(にいしろ ゆう)

おやすみのひとことくらい、かけてやればよかった。

 恋人が「自殺しに行く」と言うから、特に予定もなかったし、それに付いていくことにした。


 * * * * *


「私、いまから自殺しに行こうと思う。」


 口の端を赤に、頬を青に染めたつむぎはその日、白いワンピースを身に纏っていた。ひらり、ひらり。彼女が体を揺らすたび、ワンピースの裾が波を打つ。ひらり、ひらり。そこから覗いた脚の内側にいくつもの青が籠もっている。麦わら帽子のふちで、日光がくつろいでいる。


「そっか。」


 日傘、駅の改札から排出される人たちのいくらかは、空へ向けて祝砲を撃つみたいに真っ黒な盾を広げた。ばさっ、ばさっ、傘が開く音の隙間にひとつだけ、カラスが飛びたつのが見えた。


「うん、詩摘しづみくん、ごめんね。」


 ごめんね。ごめんねと言った。それを言うべきなのは自分のほうだった。僕には彼女を両親から救うだけの力がなかった。非力、だと思った。暑くてとろけそうな脳から熱がくだってきて、目頭のあたりで停止した。僕の黒い髪が熱を集めて、頭に収まりきらなかったぶんが溢れだしたのだと思った。


「付いていく。」


 え。声は聞こえなかったのに、彼女の口はそのかたちになっている。「予定、ないし」目を逸らしたはずなのに、彼女が眉尻を下げて笑っている様子が鮮明に浮かんでいた。彼女の悲しそうな笑顔を眺めているとき、不思議と心が軽くなる。かなしい気持ちは水に溶けないから、正しい溶媒を用意する必要があると思う。


 もっと涼しい格好をしてくるべきだった。日光と恥ずかしさで生まれた二つの熱が合わさって、身体が蒸発してしまいそうだった。「どこまででも」、それが天国だったとしてもと続ける勇気がなくて、結局無難な言葉を選んでしまった。


「へへ、やった。」


 視線を戻すと、やっぱり彼女は悲しそうな顔で笑っていた。ひらり、ひらり。ワンピースの裾がちいさく波を打っている。ひらり、ひらり。端っこのほうがかなしみで汚れている。


 僕が紬の希死念慮を知ったのは、つい数日前のことだった。


 * * * * *


 暑いから屋内に入ろう。そう言って足を運んだ近くのショッピングモールで七夕の笹を見つけた。その日は七夕だった。願い事を書かなきゃ、そう思えるほどの純粋さはなくなってしまったけど、もしかしたら叶うかもしれないという思いを捨て切れていなかった。僕はやっぱり中途半端だった。それは彼女も一緒だった。


「ねえ、あれ、書こうよ。」


「うん。」


 短冊を一枚手に取る。笹を見上げてみると、赤、青、黄の紙切れが冷房の風にわさわさ揺らされていた。『ゲーム機がほしい』、『足が速くなりますように』、『健康第一!』。それを見て、地元の七夕祭りを思いだした。そのころの彼女を知らないけど、きっと、僕とは違い一人で苦しんでいたんだろうなと思う。


「叶うかな。」


 僕は彼女の言葉に否定も肯定もしなかった。できなかった。悲しそうな笑顔を浮かべる彼女の短冊には、ひとこと、『幸せになれますように。』と丸っこい文字が書かれていた。その文章の背景に、『幸せに死にたい』という文字の消された跡が残っていた。


 死にたい。紬の丸っこい文字がぼうっと浮かびあがるのを見て、僕は初めて彼女がそこまで思い詰めていたことを知った。


「え、それ」、僕の言葉を遮るみたいに、「君は何を書くの?」、囁くような声で紬が言った。


「……紬が、幸せになれますようにって。」


彼女はまた悲しそうに笑ったあと、自分の短冊に『詩摘しづみくんが』と僕の名前を書き足した。短冊は、笹の中間辺りに隣同士括り付けてやった。『死にたい』、文字の死体について上手く切りだす方法がわからなかった。そこに浮かんだ紬の希死念慮をいくら眺めてみても、彼女を救う方法はまったく思いつかなかった。


 僕は、彼女がわずかな時間しか眠らないことを知っている。親に殴られる過去の自分が夢に出てくるから上手く眠れないと言っていた。ある意味で死ぬことと睡眠は同じなのではないかと思う。


 翌日ショッピングモールの裏を通ったとき、そこでゴミ袋に詰め込まれた笹を見つけた。願い事が死んでいると思った。彼女はそれに気づいていないみたいだったから、僕は七夕の死体たちからそっと目を逸らすことにした。結局彼女の希死念慮について詳しく聞くことができなかった。


 * * * * *


 ビル群の影が途切れたころ、僕はようやくこの日の陽射しが強かったことを知った。どうやらそれは紬も同じだったようで、「日焼け止め、塗っておけばよかった」と呟くような声が聞こえてきた。もうすぐ死ぬのだから関係ないのではないかと思っていたら、数秒の間を置いて、彼女がまったく同じことを口にした。


「暑い。」


 彼女はそう言うと、斜め掛けのバッグからペットボトルのお茶を取りだした。時間をかけてラベルの下まで飲んだあと、額の汗を手のひらで拭い、また「暑い」と呟いた。頬の青かった痣は若干の黄色が入り交じっていた。


 電車に乗って三〇分が経つころにはもうほとんど建築物が見られなくなっていた。地面に敷かれた田んぼからは青々しい稲たちがこちらを眺めていて、上に広がる青い空を、飛行機が白い尾を引きながら横切っていく。


 ICカードが使えなかったので、駅員に運賃の精算をしてもらってから改札を出た。人の気配を全く感じないような、静かな土地だった。ひらり、紬のワンピースが波を打ち、痣だらけの左脚が一歩を踏みだす。


「人がいない場所に来ても、やっぱり暑いものは暑いね。」


 どうすれば彼女を救えるか、ずっと考えていた。どうしても正解が浮かばなかった。ひらり、ひらり。前を歩く彼女のワンピースが、「救いなんてないよ」と言っているみたいだった。死んだら何もかも終わりなんだよ。誰かがそんなことを言っていたけど、やっぱり僕はそれに正当性を見いだすことができなかった。死ぬ前に結末が決まっているということが、たしかに存在していると思う。


「やっぱりどうすれば君を止められるのか、わからなかった。」


 彼女は眉尻を下げて笑ったあと、うん、うんと何度も頷いた。さっき見えた飛行機雲はもうどこにもいなくて、代わりに白い水彩絵の具を引き延ばしたような雲が浮かんでいた。


「君はたぶん、私を止められないと思うよ。」


 どうして恋人の自殺を止められないのか。答えは明白だった。


「苦しんで生き延びるより、それを断ち切って死んでしまうほうが君にとってはずっと幸せなんだと思う。」


 人の自殺を止めるのにはそれ相応の責任が伴う。僕には、彼女の苦しみを凌駕する「生きたい」を感じさせることができそうになかった。紬の人生を背負うのが怖いとかそういう話ではなくて、彼女の心が負った傷は、ここ数年一緒にいただけの僕がどうこうできるようなものではなかった。僕にできるのは、最期まで彼女の側にいてあげることだけだった。


「僕は、やっぱり、君に幸せになってほしい。」


 ちりん、ちりん。風鈴の音を聞いた気がした。周りを見渡してみても、風鈴を吊していそうな民家は見当たらなかった。音が宙ぶらりんになっていた。


「どうして?」


 ぴたり、彼女が立ち止まった。その拍子にそれまで舞っていたワンピースの裾がすとんと垂れ下がってしまって、悲しんでいるみたいだと思った。


「君が好きだから。」


 紬は胸の内側で堪えるみたいに笑ったあと、「うん、そっか」とまた頷いた。丸い目の端っこが、太陽の光のせいなのか、きらきらと星みたいに輝いていた。


 いつの間にかアスファルトの舗装がなくなっていて、砂利道を歩くのに慣れてきたころ、屋根の崩れかかった一軒家を見つけた。なかに人が住んでいる様子は見当たらず、最近車が通ったような形跡もなかった。廃墟なんだろうなと思った。


「上がらせてもらおう。」


 彼女は小さく一礼したあと、ゆっくりと玄関に足を踏み入れた。彼女の後に続いて段差に足を乗せると、ぎしっ、音がして床が少しだけ沈み込んだ。家のなかを見回しながら歩いていると、奥から「はやくおいで」と猫を誘うみたいな声がした。


 促されるまま近づいていくと、彼女は縁側に座り、足をぶらぶらさせて遊んでいた。隣に腰掛けたとき、紬の頭が胴から落っこちたみたいになって、僕の肩でぴたりと停止した。続けて、僕もそちらへ頭を寄りかからせる。彼女の髪は熱くて、いい匂いがした。


「ねえ、天国ってあるのかな。」


「どうだろう。」


 昔の人は都合よくものを見すぎている。もし彼女が死後幸せになれると信じて死んだのでは、あんまりだと思う。彼女みたいな苦しんだ人間だけでもいいから、救われるという保証がほしかった。


「ねえ、君は、死ななくていいよ。」


 一瞬、心臓が針でつつかれたように痛んだ。「いや、だって」「生きてよ、君は」「でも」、でも、僕にできるのは彼女が寂しくないようにずっと隣にいてやることくらいだった。僕は彼女のことが好きだった。


「あのね。」


「うん。」


 返事をするのと同時、ぴたりと蝉の声が止んだ。僕はそのとき初めて、今年も蝉が鳴いていたことに気づいた。



 生きてるってなんだろうと思った。いつか迎える死のために毎日食事をして酸素を吸っている。生きた結果、僕たちは何になるのか、見当も付かなかった。


「君が私を幸せにしようとしてくれたこと、本当に嬉しかった。私、それだけで幸せだった。」


 ずっと、彼女をどうしたら救えるのかを考えていた。側にいれば紬は幸せと言ってくれるかもしれないけど、それだけで両親から受けた暴力や暴言を彼女が上手く消化できるわけではなかった。苦しまずに済むわけではなかった。僕は何も言えなかった。ワンピースの裾が汚れていた。


「私は君のことが本当に好き。でもね。」


 紬が言葉を止めてからしばらくの間、静寂の音がした。何度も自分の心を殺してしまったから上手に夢を見られないのだと思った。


「……でもね、君が私を好きなのは、きっと、気のせいなんだよ。」


 少しだけ強い風が吹いて、地面で寝転がっていたちいさな砂の粒子たちが、ふわり、風に乗って空中に飛び上がった。その瞬間、粒子たちが太陽の光を受け、ぶわっと視界が広がったみたいになった。


「気のせいなんかじゃ、ないと思う。」


 彼女は僕の肩から顔を上げ、まん丸の目でこちらを見たあと、それから悲しそうに笑って、「悔しいなあ」とちいさく呟いた。目から顎にかけてゆっくり伝っていった雫が、彼女の苦しんだ証そのものだと思った。彼女は薄く目を閉じると、また「悔しい」と言った。


「なんだか、いまならいい夢が見れそうな気がする。」


 彼女はそう呟いたきり、何も話さなくなった。おやすみ、そう言おうとしてやめた。ぼうっと遠くの山を眺めているうちに、となりからちいさな寝息が聞こえ始めた。彼女を横にして、それから自分も隣に寝そべる。風が心地よかった。空気の流れにそういう感情を抱くのは、優しさみたいなものが大気に溶け込んでいるからだと思った。


 * * * * *


 目を覚ましたとき、紬がいたはずの空間は夕日に明るく照らされているだけだった。唇にはかすかに、柔らかい感触が残っている。スポットライトみたいだと思った。立ち上がって入り口へ向かい、靴に足を通す。玄関に彼女の靴はなかった。引き戸を開けて一歩を踏みだすたび、数センチ、意識が沈んでいく。紬を見つけたとき、彼女はとなりの小屋でぶら下がっていた。彼女の足元に転がっていた椅子を立たせて、座板の砂を払い、そこに腰掛けた。半開きになった目がちょうど僕を見つめていた。


 風が吹くたび、小屋の縄を結びつけている部分がギシギシと音を立てた。紬を殺すことになった彼女の両親への復讐を一瞬だけ考えたけど、そうすることでこのかなしみを上手く飲み込める気がしなかった。彼女の死を引きずることで上手に生きることはできそうになかった。手を尽くしても救えない命がたしかに存在している。目の前の彼女を見てそう思った。ふわり、ふわり。白いワンピースが風に舞う。ふわり、ふわり。視界がぼやけていく。


「やっぱり僕は、君が好きだったと思う。」


 大声を出しても彼女に届くことはないだろうし、そうするだけの勇気はなかったから、死にかけの兵士が家族への愛を絞りだすみたいな声でそう呟いてみた。ペットショップで子猫と目が合ったときのような、微妙な気まずさを感じた。


 おやすみのひとことくらい、かけてやればよかった。

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