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  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    自主企画への参加有難うございます。
    「人の為に」なることをするのは下手すれば大きなお世話でただの偽善者になりかねないことなんですよね。


    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    端的に言うとそんな感じですね。人の為にと言っておきながら、本当にそれが人の為になっているのか、とてもわかりにくいものです。暗中模索以外わかる方法があればいいのですがね。

  • 強さへの応援コメント

    コメント失礼します。
    反論ではないんですが、読ませていただき、強いことと弱いことの二極で捉えられていることに自分としてはちょっとひっかかりを覚えました。
    何に強く、何に弱いか…それが曖昧な気がしたんです。
    というのも、誰しも強い部分と弱い部分を持っていると思うんですね。
    で、こちらで言う「強い人」というのは、自分が何に「弱い」かをしっかり認識し、それを受け入れられる人のことを言うのでしょうか?
    つまり、自己肯定感の強い人ですね。
    捉え間違ってたらすみません^^;

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    こんばんは、波ノ音流斗です。

    この文章は、私がだいぶ参っていた時に書いていたものですので、だいぶ曖昧で乱雑な部分が多かったと思います。読みにくい文章ではなかったでしょうか?

    今の私が参っていないかと言うと決してそうではないのですが、少し俯瞰的に見れるようになった私からすると、この話はもう少し概念的なものなのかもしれないと思っています。

    数年前に私の周りにいた人間で、私には弱みを見せることなく笑顔だったり何事もないかのように振る舞たりして、私の知らないところで泣いている、みたいな人が割と多く存在していてですね。

    そう言う方々を見て、そう言う負の感情を曝け出せる信頼関係を持つのもすごいと思ったし、もっと根底の部分から、「あ、そんな振る舞いができるってすごいな」って思っていたりしていたわけです。


    まぁあまり本文と言ってることが変わらないのは申し訳ないです。昔の私は、なんと言うか、「自分ができなくて、他人のできること」それに対する一種の羨望みたいなものを綴りたかったのだと思います。


    長くなりました、拙い日本語ですので掴みにくいところが多かったと思います。私も言語化するのが下手ですので。

    最後に、この文を手に取っていただき、ありがとうございます。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    他者の存在を認めていらっしゃるのだなあ、と思いました。
    きっと良い事です。

    私はそういう確信にまで至りません。

    作者からの返信

    こんにちは、波ノ音流斗です。

    他者の存在を認めるというのは、まぁ良いことなのでしょうか。素直に褒め言葉として受け取ります。

    私が得てるのが「確信」なのか「盲信」なのかはだいぶ微妙ですし、そこまで気にすることでもないのかもしれないです。まぁ、それに関して何か考えるきっかけになったのでしたら幸いです。

    読んでいただきありがとうございます。

    編集済
  • 童心の空白と空白の発狂への応援コメント

    消えていったりはしないよ

    少なくとも、あなたは『ここ』にしっかりと『刻んで』いるじゃないか。

    自分は、頭の中に思いついた小説のシーンとかセリフとかネタとか設定とか『書き残していなくて』頭の中から消えちゃって絶望することがよくある。
    でも断片メモとか日記とかで何とか書き留められたものを繋ぐ形で、かろうじて小説ができてゆく。
    その時、文章を少しでも刻めていて良かった。と、心底ホッとする。


    だからこの場に刻まれた文章は小説か詩かエッセイか自身の振り返りか分からないけど『何か』になってあなたの身を助けてくれるハズ!

    作者からの返信

    その「ホッとする」という感覚は少なからず大事にしたいです。

    近頃この「消えていく」という感覚が非常に鋭くなっていってて、自分で毎度絶望を覚えていることがあります。末恐ろしい話です。

    貴方様のような方に、この書き殴りの寄せ集めを読んでいただけているというのが、物書きとして、いつか消えるものとしてありがたいものです。

    コメントありがとうございます。

  • 『努力』って言うから堅苦しくなるんじゃないかな?
    やりたいことがあるからやってみた→案外続いてる。てな感じでいいと思う。

    よくよく考えると『努力』と言うのはあくまで他人が自分に対する評価として使う概念なのかも。

    他人が『努力』してると評価しても本人にとってはただ好きで続けてただけだったりするし。

    自分にとって、小説書くことは完全に好きで好きでノリノリでぜんっぜん苦にならない……というわけではなく、しんどい苦しい辛い、けども上手い下手は別にして自分にはこれしかないからという縋《すが》りに近いものがある。

    そういう意味では、この場で自分は絶対書けないと思う論述文章を見てしまうと、第三者視点で『すごい努力だ』と思ってしまうわけです。

    作者からの返信

    最後のそれを『すごい努力』と認識できているだけで立派な人間です。これを時折『才能』と片付けてしまう人がいるので。

    何かを続けるという行為において、何か物に縋ったり、好き好みを貫いていたり、とそういう感覚を持つ人間も少なくないのですが、私はどうも気分屋みたいなところがありまして、そういう行為が出来る時点で「すごいなぁ」と憧れを抱く時があります。

    なんというか、その「継続」という行為もすごいのですが、その継続が他人に評価されるようなものに膨れ上がっているというところが『努力』のすごいところなのかもですね。だいぶ他人よがりな考えではあります。

    まぁだから結論、自分が他人の目を気にしているという部分があるのかもしれません。

  • 強さへの応援コメント

    逃げていいよ。逃避してなんぼだよ。だって心が死んだら身体も死ぬ。それで終わっちゃうじゃん!

    逃げるのってほんと大事。
    自問自答してしんどくなったら『また今度考えよう』と後回しにする(逃げる)もん。

    逃げるのはカッコ悪くない。生き残る為に必須の行為。弱いわけじゃない。

    だって
    人生は生き残ったもん勝ち!
    だもん。

    作者からの返信

    三十六計逃げるに如かず、でしたでしょうか、そんな言葉もあったりしますよね。

    まぁ自らの力不足を認識せずに特攻するよりはよっぽど大事な行為だと思います。ただ、その行為をし続けないようにと自戒してはいるのですが。

    生き残って勝ったとして…と話を進めると、少し暗くなりそうなのでここで留めておきます。

  • 自分の幸せ、他人の幸せへの応援コメント

    反論っぽくなるのを最初に断っておくけど。

    自分はこれまでいじられ役で、それにほとほと嫌気がさしてしまった。
    いじられ役の犠牲の上に成り立つ『笑いの場』の構造。それに対する激しい怒りで処女作を書き上げた。
    それからは自分の怒りを小説に込める日々を送ってる。

    『人は他人の不幸をエンタメとする残酷さを持っている』

    この仕組みを知ってしまったから、自分は意地でも人の為に犠牲になぞなるもんか!と誓った。

    そして自分の受けた理不尽、生まれた怒りは全て小説として再利用してやる!と生きてく上での方針を決めた。

    だからこの項を読んで、激しい怒りにとらわれてしまった。

    色んな考えがあるからこの世は面白いし、だから、あなたを否定するというのではないのだ。
    だけど自分みたいな人間もいるということはせめて認識だけはしてほしいかも。

    作者からの返信

    こんにちは、涙ノ音流斗です。

    反論の方が討論には必要ですので大歓迎です。
    あなたの処女作、そしてその後の人生の指針、大変な苦しみを抱えて生きて来たことを理解しました。口ではこのように言えても、やはり理解し切れるものではないでしょう。

    一応誤解なきようにお伝えしておきますと、私自身いわゆるドッキリのような軽いものを始めとして、あなたのお言葉をお借りすると『他人の不幸をエンタメにする残酷な行為』が結構苦手です。生理的、本能的な嫌悪感を感じている感じであります。

    しかしながら、この文章を書いた頃の私もまた稚拙だったようで、自分の意見を他人に押し付けるような解釈をしかねない表現になっていました。書き直すというのは少し違う気がするのでそのままにしますが、貴方様の心の腫れ物を殴りつけるような酷い行為をしてしまったと、ここで謝罪させてください。

    そういう認識は持ち続けるつもりです。他人を不幸にすることは絶対悪であるというのは、普遍で不変の事実にし続ける所存です。

  • 「孤高」の孤独感。への応援コメント

    孤独に自問自答し苦しみや怒りを凝縮させて小説を創る作家と、朱に交わり様々なものを取り込み小説を作る作家がいたら、前者の方が何かとんでもないものを創ってそうな気がする。

    少なくとも、創作には孤独が必要不可欠だと思う。

    作者からの返信

    こんにちは、波ノ音流斗です。

    「気がする」という曖昧な感覚ではあるものの、何か根底で間違いないという確信を持てる解釈ですね。孤高は孤独であるけれど、孤独がいつか孤高に昇華することもなきにしもあらずなのでしょうか。

    コメントありがとうございます。

  • 強さへの応援コメント

    こんばんわです!またまた書きますね?しつこくてすみませんです😵😵💧


    私の思う強さとは、自分の感情や気持ちに素直になる勇気を持つことが出来る人が
    強いと思います😃😃💕

    好きなのに。好きと言えないのは、傷だらけになることから逃げてます!

    その逃げは、あらゆる面で
    表面化してきます!

    素直になると傷付くけど。一旦乗り越えてしまえば。強さが身に付きます。


    隠すことは本来の自分を
    偽ることです。それは弱さです。合わせておけば、何も
    文句は言われないですから。

    作者からの返信

    またまただなんてとんでもないです。返信、ありがたい限りです。

    自らの感情に向き合うこと、中々私も苦手なものでして。なんというか、他人の目を気にしているというか、人への迷惑に敏感になってるとか。そんなところだと思っておりますが、やはり傷つきたくないというのも否定できないですね。

    私には少し強くなるのに時間がかかりそうです。

    コメントありがとうございました。

  • 自分の幸せ、他人の幸せへの応援コメント

    う~ん(゚-゚)💦💦作者さん初めまして。こんばんわです😊🎶

    とてもシッカリとご自身の考えや意見をお持ちだな?と率直に感じました。

    私が読むと、作者さん考えすぎ、考えすぎ💦💦🌀と思ってしまいます。
    他人の幸せ=自分の幸せ。と受け取れなくなる自分が
    醜い!とまでは行かないにしろ、責めてもどうにもならないのです。

    典型の鬱の症状でございます。私も統合失調症ですが、やはり自分を責め、痛めつけていた時も、たくさんありましたが。


    鬱ゆえに苦しむ。ゆえに優しさからくるモノだと思います。作者さんは本来ならば、とても計り知れない程にお優しい方だったんだな?と思います。


    今では、私はかなり復活して来ましたが。

    やはり、治りかけの時は、
    脱力感がすごくて、感情が落ち込み辛い時期もありました。

    それを私は、鬱状態なんだと
    解釈しました!何のやる気も起きず、ただただ自分を痛めつけて。


    それをする事で
    過去の過ちや亡き両親、または未来へと……


    償いをしているつもりでした。その鬱状態から知らぬうちに脱して、今があります。


    やはり、料理や手先を動かして体を動かす事が一番だと
    思います。


    太陽からプラスのエネルギーを吸収して、笑顔になって下さいね!

    作者からの返信

    こんにちは、波ノ音流斗です。

    返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。

    この文章は、かなり前に書いたものです。一応その頃から病院に通い続けておりまして、今のところまあまあといったところでしょうか。

    しかしまぁ、なんとなくこれを書いた昔の頃と考え方はあまり変わってないのかもしれません。
    あまりに悲観的というかなんというか、ひどい文章だと我ながら思うわけですが、いかんせん孤独は苦手でないにしろ、他者の愛には飢えているようで、そんな自己中心的なものと絡まりつつあるようです。

    とはいえ、やはりこういう考えに固執しすぎないように気をつけるつもりです。

    応援ありがとうございます。貴方様の経験からのお言葉を無駄にしないよう、気楽に精進してまいります。体を動かすところからですね。

    ありがとうございます。


  • 編集済

    「また、これらの身体的差分によって、精神面でも男女間に差分が起こります。男女それぞれにしかわからない感情が存在しますし、男女それぞれにしか通じない話も存在します。このこともどうしようもないでしょう。全部が全部そうだというとステレオタイプのようであまり良くありませんが、実際そういう風な偏りが存在することは事実です。」
     私は、精神的な(明確な)差分は論証できないと考えます。そもそも、精神とは、なんであるか、もし、これを一般論に乗じて脳の働きによるものと仮定するのであれば、そもそも男女間において指摘される脳の違いというものは、①,事実として、確かに違うが、それが精神構造にどう影響をもたらすかは明らかではないもの。と②.経験則的にわかってきた違い(ステレオタイプにつながるものでしょうね)に分類できると思われます。また、①については、ホルモンに対する学術の発展により、あるいは脳科学の発展により、だんだんと精神に対する影響は明らかになりつつあります(統合失調症の治療もこれのおかげで、だいぶ平和的になりました)。が、男女間の精神における(明確な)違いを論証(論理的に、脳の性質と精神の性質を記号で結ぶこと)する段階には至っていないと思います。
     ゆえに、今、現時点で、男女間の精神に明確な差分がある、バイアスがあることを事実と言ってしまうことは性急とさえ思われます。
     確かに、貴殿(貴女かもしれませんが、ネット上故、悪しからず)のおっしゃるように、男女間での精神のバイアスは確かに経験則的に感ぜられないわけではありません。お恥ずかしい話、わたくし自身も
    「女⇒理詰めをしてもわかってくれない」
    という良く分からない、ステレオタイプ染みた論証を、少しばかりは真だと思ったこともあります。中学校の平和教育かなにかの時、感情的に平和の重要性について語る女生徒を、お得意の理詰めで泣かせてしまったとき、そう思ったわけです(今でこそ、そんなことはしませんが)。
     私は、こうした経験こそが、例えば「女は泣いてもよい、男は泣くな」というステレオタイプを個人につくり、また、そのステレオタイプが社会に広まり、かつ、これが学校という閉鎖的な成員再生産装置の中で、生徒に深く組み込まれることにより、なおそのステレオタイプが助長され、確固なものとなってきたと考えます。
     ゆえに、もし、男女間の精神の間に差やバイアスがあったとしても、ホントウ(社会という形式を超越した本質的な人間の姿)は、わずかな差であると言えるのではないでしょうか。つまり、大きな問題ではないと。
     
     もはや詠み人を覚えてはいませんが、昔、ある本(ショーペンハウエルか何かだったと思うのですが。詳しく知りたい場合はお申し付けください。調べて返答します)にこのようなコトバがありました。
     「魂に性別はない」
     この言葉が何を指し示すか、そうして、いつ頃の人が詠んだかは定かではありません。が、たしかにこの言葉が、魂(精神)は肉体と違い、性別が存在できないと言いたかったことには違いはなく、昔の人々の中にも精神の性別を根本から疑問視、否定する人はいたということになります。また、ソクラテスは助産術という有名な教育方法を考案した人として有名ですが、彼が助産術を編み出した根本には、「魂は、生まれる以前に総ての真理を知っている。教育はそれを思い出させる営みだ」という思想があったからだと言われております。
     ですが、時代が進み、イギリス経験論の父と称されるロックの時代になると、この考えは否定されます(ロック以前にも否定した人はいるでしょうが、ここは有名角を)。ロックは精神白紙説という書籍の中で、「生まれたての子供の精神のボードには何も書かれていない」(意訳)ということを説いたそうです。この言葉が、今、貴殿、および私が考えている精神上の男女の違いに何の意味を与えるかと言えば、もう語るまではないでしょう。つまり、「人間は生まれてきたとき、空っぽの状態で生まれるのであるから、元はと言えば、男女の間に違いはない。だが、経験によって、男の精神が、女の精神が形作られる。」ということなのです。そう思えば、魂に性別がない。という主張も私は正しいように感ぜられます。
     少し、長く語りすぎましたが、私が、結局、ここまでで何を述べたかったのかと言えば、「男女の精神の違いは、根本的なところにあるのでなく。経験的なところにある」と言いたかったわけです。また、「精神面での違いは流動的であるから、これに準じた区分は必要ない。だが、肉体という絶対的な面での違いは、ほぼ固定的であるから、区分は必要である」とも、換言できますでしょう。
     
     それでは、実際に、区別や差別について考え行きたいと思います。
     例えば、差別をなくすということと、区別をなくすということの意味合いの違いは、なんとなく意識されているかもしれませんが、実際、詳しく説明してみろと言われますと、どうもうまく言葉では表せません。それは当然のことです。なぜなら、非区別という言葉には、単に「均一化」という状態にある体系(男も女も偏りなく混合された体系)という意味がありますが、非差別となると、とても体系化することが難しいのです。ゆえに、区別と差別の違いを明確にし、かつ、差別という言葉の乱用を防ぐには、我々は差別という言葉について、何を指し示す言葉であるかをよく考えるべきと思われます。
     それに、差別とはなにかについて、私の考えもまとまっておりません。今後ゆっくりと考えたいと思いますね。(新しい疑問を呉れてありがとうございます)
     ただし、そうゆっくり考えている間にも、見過ごすことはできない社会の風潮があることを、貴殿には共有しておきたいところです。
     それは、「非差別」=「非区別(均一化)」と、異なった二者を同一視した、個人の個性を愚弄する暴虐的な、もはや全体主義ともいえる運動が、男女平等という名において行われていることです。
     そもそも、多くの人からすれば、「非区別」と「非差別」を混同することに、あまり、問題はないように思われるかもしれません。が、実際そうではありません。
     「非区別」、すなわち、「均一化」を理想郷とみなす男女平等の考え方は、社会や学校を、まるでネジ工場とでも言いたいように「いかなるコミュニティにおいても、男女は均一でなければいけない」という強迫的な思想を人々にもたらすのです。一見、カッコで抜かれた文句に関しては、聞こえは良いかもしれませんが、こうした脅迫的な思想は、例えば、「このコミュニティでは、男は幾人いるから、もう男は入ってはならない」とか、「みんなが、中性服(俗にいう新しい制服をそういいましょう)を着て(均一化に準じて)いるのに、お前だけは、自分の性別を強調した女学生服(襟詰め副)を着ている。それはやめた方が良い」とかのような、新たな差別ともいえる社会体系を生みかねません。(実際、一部の国では、政治というコミュニティにおいて、クオータ制が導入されており、もはや、直接的に立候補者の能力を評価しないともとれる新たな差別が、政治においてまで生じていると言っても過言ではないのです)
     第一、男女以前の問題として、個人は、個人としての特徴(個性)があるからこそ、これを内包する社会が多様になり、進歩が達成されてきたわけであります。こうした人間(ポリス的動物)として生きるうえで切り離すことのできない個性という価値を、絶対的に正しい一つの形にまとめようとする、「男女均一化」を理想郷とみなす男女平等運動は、これを愚弄しているわけです。私は、この様を令和の全体主義だと強く批判します。貴殿はどのようにお考えでしょうか。よかったらお聞かせ願います。

     ところで、貴殿から頂いた、「孤高の孤独感」の応援コメントの返信で、
    「この一千字を超える文章を「うつの倫理観」の最新話にあげて、読んでいただいた皆様から意見をいただいたほうが得策な気さえしてきましたね。(もしそれをしても大丈夫でしたら教えてください)」という提案を頂きました。
     当方としては、全く問題ありません、それに、(少なくとも、私に比べれば)この界隈に影響力のある貴殿を媒介して、私自身も割り切れていない「未知の期待」「未知の恐怖」の違いについて、皆様の意見を伺えるということは、大変幸せな限りでございます。
     むろん、だからといって「絶対やってくれ」ということではありませんので、判断はそちらにお任せしますね。
     なお、カクヨムの応援コメントでは、返信に返信を重ねることはできないようです。(私の知っている文士の中には、お話ノートかなにか、そういうものを作っている人もいましたが)
     
     追伸、
     規約を確認したところによりますと、アドレスを掲載することは違反にあたるようです。
     つきましては、当方も「御意見箱」と称したノートを設置いたしました。よろしければ、そちらもご活用ください。

    作者からの返信

    精神面による男女の違いに関しては、そこは私自身説明不足でしたね、反省です。
    精神の差異というのが後天性のものであるというのは、私も概ねその通りだと思いますが、この文においてでは「身体的差分によって」なんて言っていたりします。少し下品な話になりますが、男性が急所を蹴られた時の痛みも、女性の生理痛も、お互いに共有することができないという身体的差分から、そのような部分から先天的に湧き上がる感情面の差異があるのではないか、という自論です。まぁ断言は出来ないのですが(なんでこの文章を書いた私はそんなことを断言して書いたのでしょう……)
    つまるところは貴方様のお話と概ね違いはありません。ここまでしっかり持論が出来上がっているのは素晴らしいものです。

    「男女均一化を理想とする男女平等運動」ですね、私自身理解が浅い状態での判断にはなってしまうのですが、それに関しては確かに良くないと思います。私の今回の文章から取り上げるならば「女性の身体上厳しい力仕事などを均一化のために女性にさせる」みたいな事例だと思われますが、そういう部分は避けるべきです。そんな非効率で、個々の能力や心身面を尊重できないものを平等と呼べるかというと大きく首を傾げてしまいます。男女平等運動と唱えて男女均一化を目指している輩は、適材適所とか、個々のアイデンティティの尊重とか、そういう部分を蔑ろにしているようであまり賛成する気にはなれませんね。

    さて、返信の最新話投稿に関して、快い返事をいただけて嬉しい限りです。少し編集し、形を整えて出してみます。こういう考えの広め方、深め方は、双方にいいことがあるようで楽しいですね。

    併せて、返信に返信を重ねられないところに関しては、近況ノートにでもそのスペースを設けようかと思います。そちらの方が何かと融通が効きそうですね。

    長文失礼しました。


  • 編集済

    「孤高」の孤独感。への応援コメント

     「この孤独感が自慢にしか聞こえなくなるのが、あまりにも皮肉である。やはり人と人は分かり合えないものなのだろうか。」
     その通りと思われます。ですから、私は、人は人、自分は自分で生きるべきと考えますよ。また、答えは自分で作るものだと思いますし、それこそが人間という、所詮は(こういう刹那主義者みたいな言い方をするのは好きではありませんが)孤独の存在に生まれてきた醍醐味と思われますね。

     貴殿自身、孤独はお嫌いでしょうか?
     私は高校一年生のころ読んだ、ある書籍、坂口安吾の恋愛論かなんかの一節が忘れられんのです。
     「人生とは、由来円満なものではない。欲しいものは手に入らず、愛する人は愛して呉れない。だが、そんなことは序の口で、人間には孤独という悪魔の入り口が口を広げて待っているのである。優れた者ほど、強大な悪魔を見、戦わねばならぬのだ」(的な)
     この一節を読んで以来。私は、孤独である自分についてある種の矜持さえあります。(むろん、強がりかもしれませんが、ね)
     貴殿が、もし、孤独がお嫌いなら、無理にそれを好きになれとは言いません。私もまるっきり孤独が好きなわけではありませんからね。ですが、もし、孤独が嫌いでしようがないようでしたら読んでみてください。

     あと、お伺いを立てたいのですが。
     見えないもの⇒未知のもの。としたさい、人間が抱くパトス(感情)としては「恐れ」と「期待」の二つに分かれるのではないかと思います。前者の場合は死後の世界という未知のものに対してとか、後者の場合は受験の結果なんかがそうかもしれませんね。貴殿は、恐れるべき未知のものと、期待されるべき未知のものの違いは何であると思われますか?
     その答えが、なにか、貴殿の才能に対する考え方を、ぐっと明確にするヒントになると(直感的に)推測します。

    作者からの返信

    孤独は嫌いではありません。孤独な状態ほど、他に迷惑をかけず自らも気楽な状態はないですから。それでも、(私が学生の頃、他人に勉強を教えることが多かったのですが)その才能の有無の差というのは、お互いの大きく感じてしまい、余計なところで孤高、基孤独が作用してしまうのが、これを書いた頃の私は嫌に感じていました。今思えば、単に私の実力不足だと吐き捨ててしまえるのですが、むしろ過去の私からすれば、そんな言葉は自らを理解できない人間からの貶しにしか聞こえないのでしょう。


    さて、「未知」に対して抱く感情として挙げられる「恐怖」と「期待」の違い、ですか……中々一つの結論にまとめるのが難しいですね。

    先に恐怖の方から。
    「人間の中で最古かつ最強の感情が恐怖、恐怖の中で最古かつ最強のものが未知への恐怖」なんて言った偉人がおられるようですが、そんなふうに、この「恐怖」という感情は、他の感情と比べ割と本能的な部分が大きいように感じます。というのも、人間以前に動物などが感じる「恐怖」は、その未来に潜む怪我など命に関わる事象に対する防衛本能として働くものだと認識しています。その感情を覚える生き物が人間へと進化を遂げ、感情が複雑になっていっても、その根本的なものは変わらないと思います。
    話が逸れましたが、「未知への恐怖」は、その防衛本能の最たる例に当たるのかもしれません。何せ、自らの経験したことのないものを目の当たりにし、それを手に取ることでどんな損害があるかも勿論分からない。それを前にして、恐怖を感じないでください、と言われても難しいかもしれないですね。
    また、これが人間の複雑な感情と絡み合ってくると、怪我などの命の危険だけでなく金銭的な損害や民事的な損害など、より人間の生活に密接したものとして成り立っているようにも感じます。その点を考えると、経験を積んでいろんな想像ができるようになった大人の方が、「未知への恐怖」は感じやすいのかもしれないですね。

    対して、「未知への期待」というのが複雑になった人間の感情特有のものなのかというと決してそうでもないですが、動物と人間どちらにしろ、寧ろまだそこまで経験などを積んでいない子どもの頃の方が感じやすいというのが明確な違いでしょうか。
    これに関しては私の経験不足であまり詳しく説明できないのですが、端的に述べると擬音の「ワクワク」三字熟語で「探究心」と言ったところだと思っていて、未知のものに対して、これをしたらどんな未来が待っているのだろう、という楽観的とも積極的とも取れる感情が「未知への期待」に当たるのではないかと思います。それだから、子供よりも、多くの経験を積み想像ができるようになった大人の方がそれを感じにくいのかもしれません。
    とはいえ、自らの経験したことのない「未知」に対して、それを経験した人物から情報を集め、ある程度の準備をして、それに希望的観測がもてるような状態になれば、大人でも「未知への期待」を持てる気がします(それを未知と言っていいのかは微妙ですが)。


    そしてこの二つをまとめるとなると、かなり複雑にも感じますし、逆に「ポジティブ」と「ネガティブ」に集約されてしまうような気もいたします。なんというか、自分も混乱していて微妙に答えに辿り着けてない気がしますね。頭でっかちな風船みたいな私ではこれが限界なのでしょうか。

    むしろ、この一千字を超える文章を「うつの倫理観」の最新話にあげて、読んでいただいた皆様から意見をいただいたほうが得策な気さえしてきましたね。(もしそれをしても大丈夫でしたら教えてください)

    長文失礼しました。

    編集済

  • 編集済

    「人の為に」の孤独感。への応援コメント

     貴殿が斯様なコメントを求めているかは知れませんが、まず、美しいかは別とし、非常に文章が読みやすく感ぜられました。平生より、正しい日本語を使われているようで、私からすれば感心です。
     さて、そういった意味で、私がこれから述べる意見は、貴殿からすると多少、下手な日本語に見えるかもしれませんが、悪しからず。
     
     例えば、人の為行われる行動を、徳、あるいは道徳のように「良いもの」と仮定します。その場合、貴殿は
     ①.「人の為の行動」が相手の不利益になる可能性がある(有難迷惑)。
     ②.相手の利益になったとして、その後相手との関係には、「人の為の行動」を通貨とした損得勘定が居座ることになる。
     という二つの点で矛盾を感じられたのではないかと拝察いたします。さらに、そうした矛盾を感じる動機としては、おそらく、貴殿自身が、人の気持ち(してほしいこと、してほしくないこと)を察する能力が自分にはないと思われているからでしょうね。
     (①について)私はそもそも、「ありがた迷惑」という感覚は、イ..相手から与えられた利益に素直になれない。ロ.相手から与えられたものが単に迷惑である(不利益でしかない)。のいずれかに該当するときにおいて生じるものと思われます。また、端的に申し上げるなら、イ.については貴殿が気にしてやる筋合いはないでしょう。相手の未熟さにより生じた障壁について、貴殿自身が行った行為について思い悩む必要はありません。むろん、貴殿が善意として、イの最中にある人(素直になれない人)へ、救いの手を差し伸べてあげようと思うのなら、それは素晴らしい行為と思われます。
     次に、ロについて意見を述べる必要があります。はっきりと言って、成功率100%の手術はあり得ませんし、人の心は演算できるものではありませんので、こうした問題において100%利益を保証したり、不利益を背理したりすることは不可能です。ゆえに、100%の利益を保証できない、相手に不利益を与えるかもしれない。という事実は、それは万人に共通する事実でありながら「人の為の行動」そのものを評価する材料にはならないでしょう(貴殿の言い方によりますと、人が為すことすべてが相手の不利益になる可能性が生じますから)。
     では、結局私の意見としては何が言いたいかと言われれば、困るのです。
     というのは、私自身、「人の為にやる行動」は何に含まれるかと言われれば、「道徳的行為」に含まれるだろうと考えますし、かつ、その「道徳的行為」の定義さえ、私のそれと貴殿のそれは異にするものと思います。大昔、カントという哲学者がいたのをご存じかもしれません。彼は、道徳的行為について「相手が喜ぶからではなく、相手の人格を尊敬する行為のことである」(的なことを)言ったそうであります。私は、どちらかといえば、カントのいう道徳的行為の定義がしっくりときますし、実際、私が「人の為に行動」をするさいも、「それが、相手の人格を尊敬する行為だから」と思っております(理由については多少長くなるので割愛)。
     この考え方、お勧めします。あまり一般的ではないかもしれません。貴殿の考え方の方がよほど一般的でしょうが、しかし、貴殿の考え方が一般的になりすぎるがゆえに、集団的に重要な善意的判断が遅れ、人を見殺しにすることもあることを忘れてはなりません。また、この考え方によれば、相手の為に行動してやるか、否かの問題は、相手が尊敬を向けてやるべき人格であるか否かを規準として、行動ができるのではないでしょうか。そこに、見返りの期待などあり得ません。なぜなら、そもそも尊敬という意識は強制的に義務感で生じるものではありませんから。

     また、長ったらしい駄文を書いてしまいました。
     正直、私はこういう簡潔な題で、本質的なことを考えられる人が好き(人格としてです)ですから、今後も読ませていただきたいと思います。興味がある内容であったら、逐次コメントをしたいと思いますのでよろしお願いしますね。

    作者からの返信

    こんにちは、波ノ音流斗です。

    私の稚拙な文章をしっかり読んでいただき、かつ懇切丁寧な意見をいただけたこと嬉しい限りです。

    「相手の人格を尊敬する行為」という考え、他人の喜ぶ行為というものと似て非なるもので、とても新鮮に感じました。誰かを助けようと心がけると、気付かぬ間により大きなものを見失うかもしれない、そういう盲目的な行為に走ってしまうというのは、いくつか身に覚えがございます。そういう悲惨なことにならないように、その考えは確かに大事になるかもしれないですね。

  • 空虚、もしくは幸せへの応援コメント

     荘子を読むことはいいかもしれません。決して励ましの言葉はありませんが、オウム真理教にもどこにも繋がっていません。

  • 僕もです。僕の考えであっているか分かりませんが、受験勉強でも、八時間とかやってしまうのは、ある種受動的であるとも考えられる、むしろ休むことはそれはそれで良いとも聞きました。
    休む能力も大事です。しかも、続けられる能力は、専門に没頭してしまうとも言えます。
    他人への奉仕が全てという訳でもありません。一度評論を読んでみるといいかもしれません。自分の知識欲を掻き立てることは面白いですよ。こうして言うと胡散臭いですが。

  •  いいと思います。英語ではdiscriminationが差別と区別を兼ねると聞きますが、そこは化けないように常に監視し続けるしかありません。
     自分はとりあえず理不尽なレベルのジェンダーギャップと差別とそれぞれの生きづらさをなくしたいなと思っています。ただ、今はそれを達成する手段について知らないので、その理不尽の土壌をあらゆる手段を用いて抹消すべきとなっています。ドラえもんのしずかちゃんの持ち物を本にするとか、トイザらスのおもちゃコーナーの青、ピンクの壁を取り払うとか、それは正しいと感じています。それらの徹底したこどもの意識改革を行うべきだと思っています。
     自分の考えは適宜訂正します。

  • 「孤高」の孤独感。への応援コメント

    こちらもクソみたいなマウントになりますが、同じタイプです。学校で、「みんなの早押しクイズ」に参加するやる気が出ないそれだけで自分は孤独に苛まれましたね。部活は特にそうでした。「ひとりじゃない」っていうのは「トーキョー・ダモイ」みたいな真に受けたらバカを見る言葉でしょう。だいたい歌詞書く人も歌う人もこっち側にいない。

    「ちょっと何言ってるか分からない」彼らの常套手段ですね。でも……自分は彼らとアイツとの中間、蝿であり人間である、醜い存在でした。あの頃はよく分からなかった。
    おっと自分語りですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    他人の自分語りを聞くのもこの小説の趣旨なので大丈夫ですよ。
    中々大変な体験をされたのですね、私はそのような環境下より遥かに優遇されたところにいたのでしょう。「醜い人間だ」と突っぱねることができるのも強さなのだと思います。


  • 編集済

    「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    自分が与える人間、もしくは与えられる人間になって人との身分差ができるのが怖いです。

    与えられる人に対しては、生活保護制度への批判。
    与える人に対してはミツグ君。

    人の為と書くのは、
    「人の性は悪なり,その善なる者は偽なり」
    荀子のこっちの意味の事をとっていたのでしょうかと思ってあまり考えませんでした。

    補:不安を煽るようなことを言って申し訳ありませんでした。ここに書くことしか出来ませんので証拠はないですが、そのような真似はしていません。でも、サイバーセキュリティとして、それはするべきかなと思っていまして。Googleの方で操作すれば、大体のデータは消去できますし、また簡単に新しいアカウントを作ることができます。それならばこのアカウントを維持したまま安全に執筆を続けられます。重ね重ねすみません。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    その怖さ、確かによくわかりますね、その身分差の発生による批判はどこか僻みのようなものを感じます。人間らしいといえばそれに収まりますが、なんとも虚しい話です。

  • 童心の空白と空白の発狂への応援コメント

     意見を求めるエッセイだとすれば、一言だけ。

     希望を忘れないでください。

    作者からの返信

    わかりました。希望、ですね。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    人の為というのは本質的には難しいことですよね。
    そもそも、人は自分の内面以外は明確に知ることができません。その時点で、他人の為と思う行為が、独りよがりになる危険性が存在してしまいます。さらに、それが自分のために。

    突き詰めて考えると、なぜ人の為に行動するのか。
    それは、そうしたいと自分が思うからです。
    よく見られたい、良い自分でありたい、理由はそれぞれでしょうが、自分がしたいからです。

    そこで、既に自分の為になっています。
    結果として、さらなる利益を得て、また自分の為になるかもしれませんが、そんなものに関係なくスタート時に既に自分の為なんですよね。

    だからといって、人の為に行動することをやめるのか。
    それも、それでいいと思います。

    ですが、究極的に自分の為であろうと、その過程で他人の為になることはあると思います。そもそも、一元論で考えるのがおかしいのだと思っています。

    たとえ、偽善でもそれが他人の為になると思えれば、行動すればいいと思います。
    もちろん、そこでやめるのも自由です。

    そして、行動の結果、
    相手の害悪になってしまう場合。
    これは責任を取ればいいでしょう。
    害悪になることを恐れ、人の為となる行動を止めてしまうのは、もったいない。自身の心がかわいそうです。

    先の責任も考え行動すればいいと思います。
    もちろん、取り返しのつかないこともあると思いますが、
    そこは都度都度判断するしかないですね。

    とにかく、偽善であろうと、結果自分の為になろうと、相手の害悪になる可能性があろうと、

    人の為に行動したいという、美しい衝動をそんなものの為に捨ててしまうのはもったいない。そう考えてしまいます。

    まあ、あくまでも、個人的な見解ですけどね。
    全ては個人の自由。
    その時々で、判断して生きていけばいいと思います。
    こうだと決めつける必要はないですもんね。
    人生なんて、曖昧なものなのですから。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    返信遅れてしまいすみません。

    美しい衝動、と言う表現はなんとも面白いなぁと思いました。他人を助けたいと言う所謂エゴのようなものに対して自分はどうも敏感になっていたようです。なんだか難しい話になるかなと思いましたが、そこまで深く考えずに、その美しい衝動に身を任せてみるのもいいのかなと思いました。

    とてもしっかり読んでいただけたようでとても嬉しいです。ありがとうございます。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    企画にご参加いただき、ありがとうございます。
    僕の作品でも先で取り入れようとしているテーマで、とても興味深く拝読いたしました。

    さて、僕の意見ですが。
    この世には魂の物語があって、一人一人が一生をかけて様々な体験をし、最終的には善悪を超えた完璧な存在になると言う考え方が僕には浸透しています。ですから、その時は無為に思えても、長いスパンで見れば無為なことなんてないんです。人の為に奉仕することも、人の為を思ってやったのに失敗したことも、全部必要な経験なんです。

    押し付けでいいんです。自分も相手もそれを体験する為に生まれてきたのですから。

    長々とややこしいことを失礼いたしました……。こういう心理に踏み込んだ話題、大好きでちょっと興奮しちゃいました。反省します……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    返信遅れてしまいすみません…。

    魂の物語、とても響きがいいなぁなんて思いましたが、もしかすると本当にそうなのかもしれないと思いました。無為なことはない、とか、全ての体験が…とか、とても身になる話だと思います。

    心理に踏み込む話をこう語れるような方がいることはとても幸せなのだと思います。とても良い話ありがとうございました。

  • 強さへの応援コメント

    私が強いと思うときは、自分の考えがぶれない人や、弱さを素直に認めて他人に頼ることが出来る人かな。

    集団の空気に流されずおかしいものはおかしいと言える。
    その結果みんなに無視されたとしても、「無視されちゃった」と素直に認められる。
    そこからだったらどうすれば空気を変えられるか考えて実行していく。

    私が過去に言った発言として、ヤンキーに絡まれたときに、
    「喧嘩したら自分は負けるよ。でも怒りはするからね」
    と言ってみたら、そこから絡まれなくなりました。
    どこか芯の強さみたいなものを感じとってくれたのかなと良いふうに考えたりもしますが、
    相手からしたら「自分で負けるって言う奴ダセー」で相手にされなくなっただけかもですね(笑)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    わたしもそんな強い人を見てきました。自分と違い愚直で鋼のような姿を見せる人間に憧れを抱いたものです。そのような割り切ることのできる人たちは、私のような人間を見てどのようなことを思うのか、なんとも気になりますね。

    あなたのその強さはとても良いものだと思います、これからも持ち続けてくださいな。

  • 自分の幸せ、他人の幸せへの応援コメント

    私は他人の幸せは無関係って感じかな。
    もちろん羨ましく思ったりするときもありますが、もっと凄い人がいっぱいいるのに、目の前の小さな凄さを羨む必要ないなと。
    どうせだったら最高峰のお金持ちとか羨まないとね。

    そして他人の不幸が楽しいです。
    不幸な人はエピソードが豊富。失敗しないための教訓や情報が盛りだくさん。

    他人が成功しても失敗してもどちらも自分にはなんの影響もないので、他人の自慢は聞きたくないと思ってしまいます。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    面白い考えだなと思いました。他人の不幸をそういう受け取り方をする方は、どこか成長の仕方が違いそうでいいですね。他人の幸せというのに固執するのも良くないかもしれません。

    多くコメントをいただくと、やはり人間はみんな違う考えを持って生きてるんだなと再確認できて楽しいですね、とてもタメになるいい話でした。

  • 「孤高」の孤独感。への応援コメント

    多くの人が孤独であると思っています。
    孤独であると認めたくないために、仲間ごっこをしているのかなと。

    家族すごしていたって、良い子を演じている本当の自分ではない孤独。
    恋人と過ごしても嫌われないために楽しませなくちゃと考え。

    そして底辺仲間の中で過ごしたところで、こいつら本当の仲間ではないと心の中で思いながら、上っ面の会話をして。
    だったら最初から飛び抜けた状態で、上の立場から話をする方が楽かなと考えたりします。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    仲間ごっこ、ですね。どうしても的を射てるような表現に聞こえます。実際楽な立ち回りはそちらの方かもしれませんし、それはそれで一つのライフスタイルなのかなぁなんて思ったりします。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    私は自分のために良いことをしていこうと思っています。
    自分が平和に過ごすためには社会が良くないと実現しない。
    だから社会を良くしようと。

    手助けできなかった自分がカッコ悪いと思うから、カッコ悪くならないために行動する。
    傷つけて悲しませると自分も嫌な気持ちになるから、嫌な気持ちにならないために傷つけないようにする。

    そもそも人のために何か出来るほど優秀ではないので、自分が出来ることはお手伝いするという気持ちで過ごしています。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    感服いたします、なんか割り切れるのもまた大事な気がしますね。自分は他人のことを考えられるほど優秀じゃないから、自分が過ごしやすいために他人を助ける、そちらの方が原動力としては理にかなってますし、むしろ自我で動いてくれた方がその手助けも受け取りやすい気がします。不思議とかっこいい立ち位置に見えますね。

  • 「しょうがない」とはへの応援コメント

    連載中の第7話まで拝読させていただきました。

    私自身『彼女』と同じような立場になったことがあったのでコメントさせていただきます。

    しょうがなければ彼女を泣かせてもいいのかという問いに対しての結論を申しますと、この場合『いい』か『悪いか』の判断はできかねるというのが素直な感想です。

    彼女の何に対しての涙だったのかも重要な気がいたします。私が『彼女』と同じ立場にいたときに流した涙は『責任ある立場にいながらも、うまくいかない出来事に対してうまく対応できない自分へのふがいなさ』から来るものでした。やるかたない事情で部活に参加できていなかった部員に対して、責めたり、その人に『泣かされた』と思ったりはしていませんでした。涙を流した原因がその部員であったとしても、その部員を『悪い』とは決して思っていませんでした。

    また自分は困り果てている、不幸だと思っていた方が、物事を解決しようと暗中模索するよりも楽な時もあり、あえて『不幸』なままでいた節もあったかもしれません。

    いいのか悪いのかという判断基準でははかり切れない出来事なのだと感じました。
    脈絡のない文章ですみません。少しでも参考になれば幸いです。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    この話はどうも感情的で稚拙なものとなっていたにもかかわらず、このように丁寧かつ参考になるお話を聞けて、どこか救われるようで嬉しいです。自分自身が参っていた部分があったので、あなたのそれのようなお話が聞けてよかったと思っています。

    これからもよろしくお願いします。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    「人」の「為」と書いて偽り。
    偽りの意味は 【嘘】 という意味ですよね。でもそれは結局、誰かの為にしたことが自分に返ってしまう事。
    この意見はなるほど、と納得できる考察のような文ですね。この考え方は正しくても間違ってもいませんよ。
    人それぞれの意見というものに思考を広げれるのは良い事ですから。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    こうやって人それぞれの意見に対して同じことを考える人、違った意見のある人、そもそもの解釈の違いのある人など色々な方がいて面白いなぁと思っているところです。納得していただけるような文章が書けていたということでしたら幸いです。

    これからもよろしくお願いします。


  • 編集済

    自分の幸せ、他人の幸せへの応援コメント

     ここで気になるのは『幸せの定義』です。
     『優越感=幸せ』であると定義するなら、自分が優越感を得たときには同時に『劣等感=不幸』を与えることになります。

     後半であなたが語っている『他人の幸せが私の幸せ』は優越感ではありません。『他人が嬉しいと自分も嬉しい』というのは、心の深い部分での共感のようなものだと思います。
     そのような感情を自覚しているあなたを私は尊敬します。

     最後の文章はまた、定義が最初に戻っています。
     『他人に優越感を与えるためなら、自分が劣等感を持ち続けるべきなのかもしれない』そのような意味ならば、私は、はっきりと異を唱えます。

     『偽物の優越感など、決して本物の幸せではありえない』

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     この話に関しては、若干感情的に書いてしまったもので、読んでいて辻褄が合わない部分があったと思います。申し訳ございません。

     そうですね、「他人に優越感を与える」というよりは「他人に劣等感を与えない」という感覚なのかもしれません。
     貴方様がコメントしてくださったところでも少し話しましたが、他人に行う行為が正しいのかというところがまた論点になってくるかもですね。
     自分の能力だったり勝敗だったりで、相手となる他人に悲しみや苦しみを味わせるのなら、それは不幸を与えたということになるのではないか、それならその行為は、正しいとは言えないし、自分の幸福が他人の幸福を阻害したことになるのではないか、ということです。

     ただし、これを逆手に取ると、逆に幸福を与えたつもりでも本当はそうでないのかもしれない、という話が成り立ってしまいます。他人の幸福の概念を、自分だけで理解しようとしているからなのでしょうか。

     こちらもしっかりとしたご意見ありがとうございます。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

     ここで言う『人の為に』は『その人のために良かれと思って行動する』ことであると解釈しました。

     そこでひとつ目の論考。それが『自分のためになると考えてやっている』のなら不純になる。それには対立する概念があります。『無私の奉仕』です。前者なら『人の為にした』わけではないのではないか。そういう主張だと思いますが、それだけでは『その人ために良かれと思って行動する』という行為の全てを不純と判断する理由にはなりません。

     同じように『ありがた迷惑になる』場合があるというのも、『その行為が本当に感謝される』という対立概念があります。

     つまり『その人のために良かれと思って行動する』ことが偽善に陥りやすいというのはわかるのですが、それを理由として、その概念そのものを否定するのは論理的におかしいのではないか。私はそう考えます。

     この論考から導き出されるのは、むしろ自戒が必要だということでしょう。

     ちなみにイスラム教徒は、自分が天国に行くために善行や施しをします。施しを受ける人間は施しをした人間が天国へ行くための手助けをしていると思うそうです。
     お互いに良い方に解釈するということも、人の心を癒す方法なのかもしれません。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     とても的を射てる意見だなぁと思いました。対立概念があることはなんとなく理解しているつもりでしたが、それを踏まえても中々全否定に聞こえてしまう書き方をしてしまっているようですね。自分の中で負の方向に捉えがちな節があるのかもしれません。

     自戒、というのも中々不思議な考えだと思いました。「しない善よりする偽善」みたいな文句が唱えられているのを聞いたことがありますし、それも考慮してみると、他人への行為が正しいのかどうかは、やはりその行為を受ける他人にしかわからないのかもしれません。

     イスラム教の話は初耳でしたね。そんな解釈の仕方があるのかと、勉強になりました。ポジティブ精神のなさ技なのか、何かそれ以上に強い力を持っているような気もします。その考えはなかなか面白いなぁと。

     長文の意見がくると、熟読してくれているようで嬉しい限りです。ありがとうございます。

    編集済
  • 強さへの応援コメント

    『コメントが欲しい人達の集い』から来ました。

    根本的に人間は社会的な生物です。
    群れを作らなければ生存していけない動物なのです。
    故に他人同士と協調する、協力し合う必要が有ります。
    他人の為に行動する事に意義を見出したり、それによって幸福を感じる事も有るでしょう。
    生物としてその様に在るのです。
    又、協力しあって生活し合えるように価値観が作られており、我々は幼いころからその価値観を学んでいるのです。
    他人の為に何かする事が善良であるとか高尚であると考える必要はありません。
    生きて行くための行動の一つだからです。

    とまあ。
    とりあえずパッと思ったのはそんなところですよー。
    ではでは。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     生きていくための行動の一つとして存在すること、という考えはいいなぁと思いました。どこか他人への行為に固執してしまっている部分があるのかもしれないですね。自分の中での生活にも生かすべき考えだなぁと思いました。

    ご意見いただき嬉しいです、ありがとうございます。

  • 「人の為に」の孤独感。への応援コメント

    「コメントが欲しい人達の集い」から来ました。
    「人の為に」の孤独感を読ませていただきました。すごく納得させられました。自分は「人の為」というのは良いことだと思っていたのですが、この思考を読んで考えが変わりました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    「人の為」というのはまぁ、悪いことではないですよ、他人が喜んでくれるのならそれは幸せなことなので。どうもこの書き方だとネガティブな考えになりがちなので、他人への協力とかは惜しまないでくれると嬉しいです。

    これからも頑張ります。