編集済
「この孤独感が自慢にしか聞こえなくなるのが、あまりにも皮肉である。やはり人と人は分かり合えないものなのだろうか。」
その通りと思われます。ですから、私は、人は人、自分は自分で生きるべきと考えますよ。また、答えは自分で作るものだと思いますし、それこそが人間という、所詮は(こういう刹那主義者みたいな言い方をするのは好きではありませんが)孤独の存在に生まれてきた醍醐味と思われますね。
貴殿自身、孤独はお嫌いでしょうか?
私は高校一年生のころ読んだ、ある書籍、坂口安吾の恋愛論かなんかの一節が忘れられんのです。
「人生とは、由来円満なものではない。欲しいものは手に入らず、愛する人は愛して呉れない。だが、そんなことは序の口で、人間には孤独という悪魔の入り口が口を広げて待っているのである。優れた者ほど、強大な悪魔を見、戦わねばならぬのだ」(的な)
この一節を読んで以来。私は、孤独である自分についてある種の矜持さえあります。(むろん、強がりかもしれませんが、ね)
貴殿が、もし、孤独がお嫌いなら、無理にそれを好きになれとは言いません。私もまるっきり孤独が好きなわけではありませんからね。ですが、もし、孤独が嫌いでしようがないようでしたら読んでみてください。
あと、お伺いを立てたいのですが。
見えないもの⇒未知のもの。としたさい、人間が抱くパトス(感情)としては「恐れ」と「期待」の二つに分かれるのではないかと思います。前者の場合は死後の世界という未知のものに対してとか、後者の場合は受験の結果なんかがそうかもしれませんね。貴殿は、恐れるべき未知のものと、期待されるべき未知のものの違いは何であると思われますか?
その答えが、なにか、貴殿の才能に対する考え方を、ぐっと明確にするヒントになると(直感的に)推測します。
作者からの返信
孤独は嫌いではありません。孤独な状態ほど、他に迷惑をかけず自らも気楽な状態はないですから。それでも、(私が学生の頃、他人に勉強を教えることが多かったのですが)その才能の有無の差というのは、お互いの大きく感じてしまい、余計なところで孤高、基孤独が作用してしまうのが、これを書いた頃の私は嫌に感じていました。今思えば、単に私の実力不足だと吐き捨ててしまえるのですが、むしろ過去の私からすれば、そんな言葉は自らを理解できない人間からの貶しにしか聞こえないのでしょう。
さて、「未知」に対して抱く感情として挙げられる「恐怖」と「期待」の違い、ですか……中々一つの結論にまとめるのが難しいですね。
先に恐怖の方から。
「人間の中で最古かつ最強の感情が恐怖、恐怖の中で最古かつ最強のものが未知への恐怖」なんて言った偉人がおられるようですが、そんなふうに、この「恐怖」という感情は、他の感情と比べ割と本能的な部分が大きいように感じます。というのも、人間以前に動物などが感じる「恐怖」は、その未来に潜む怪我など命に関わる事象に対する防衛本能として働くものだと認識しています。その感情を覚える生き物が人間へと進化を遂げ、感情が複雑になっていっても、その根本的なものは変わらないと思います。
話が逸れましたが、「未知への恐怖」は、その防衛本能の最たる例に当たるのかもしれません。何せ、自らの経験したことのないものを目の当たりにし、それを手に取ることでどんな損害があるかも勿論分からない。それを前にして、恐怖を感じないでください、と言われても難しいかもしれないですね。
また、これが人間の複雑な感情と絡み合ってくると、怪我などの命の危険だけでなく金銭的な損害や民事的な損害など、より人間の生活に密接したものとして成り立っているようにも感じます。その点を考えると、経験を積んでいろんな想像ができるようになった大人の方が、「未知への恐怖」は感じやすいのかもしれないですね。
対して、「未知への期待」というのが複雑になった人間の感情特有のものなのかというと決してそうでもないですが、動物と人間どちらにしろ、寧ろまだそこまで経験などを積んでいない子どもの頃の方が感じやすいというのが明確な違いでしょうか。
これに関しては私の経験不足であまり詳しく説明できないのですが、端的に述べると擬音の「ワクワク」三字熟語で「探究心」と言ったところだと思っていて、未知のものに対して、これをしたらどんな未来が待っているのだろう、という楽観的とも積極的とも取れる感情が「未知への期待」に当たるのではないかと思います。それだから、子供よりも、多くの経験を積み想像ができるようになった大人の方がそれを感じにくいのかもしれません。
とはいえ、自らの経験したことのない「未知」に対して、それを経験した人物から情報を集め、ある程度の準備をして、それに希望的観測がもてるような状態になれば、大人でも「未知への期待」を持てる気がします(それを未知と言っていいのかは微妙ですが)。
そしてこの二つをまとめるとなると、かなり複雑にも感じますし、逆に「ポジティブ」と「ネガティブ」に集約されてしまうような気もいたします。なんというか、自分も混乱していて微妙に答えに辿り着けてない気がしますね。頭でっかちな風船みたいな私ではこれが限界なのでしょうか。
むしろ、この一千字を超える文章を「うつの倫理観」の最新話にあげて、読んでいただいた皆様から意見をいただいたほうが得策な気さえしてきましたね。(もしそれをしても大丈夫でしたら教えてください)
長文失礼しました。
こちらもクソみたいなマウントになりますが、同じタイプです。学校で、「みんなの早押しクイズ」に参加するやる気が出ないそれだけで自分は孤独に苛まれましたね。部活は特にそうでした。「ひとりじゃない」っていうのは「トーキョー・ダモイ」みたいな真に受けたらバカを見る言葉でしょう。だいたい歌詞書く人も歌う人もこっち側にいない。
「ちょっと何言ってるか分からない」彼らの常套手段ですね。でも……自分は彼らとアイツとの中間、蝿であり人間である、醜い存在でした。あの頃はよく分からなかった。
おっと自分語りですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
他人の自分語りを聞くのもこの小説の趣旨なので大丈夫ですよ。
中々大変な体験をされたのですね、私はそのような環境下より遥かに優遇されたところにいたのでしょう。「醜い人間だ」と突っぱねることができるのも強さなのだと思います。
多くの人が孤独であると思っています。
孤独であると認めたくないために、仲間ごっこをしているのかなと。
家族すごしていたって、良い子を演じている本当の自分ではない孤独。
恋人と過ごしても嫌われないために楽しませなくちゃと考え。
そして底辺仲間の中で過ごしたところで、こいつら本当の仲間ではないと心の中で思いながら、上っ面の会話をして。
だったら最初から飛び抜けた状態で、上の立場から話をする方が楽かなと考えたりします。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
仲間ごっこ、ですね。どうしても的を射てるような表現に聞こえます。実際楽な立ち回りはそちらの方かもしれませんし、それはそれで一つのライフスタイルなのかなぁなんて思ったりします。
孤独に自問自答し苦しみや怒りを凝縮させて小説を創る作家と、朱に交わり様々なものを取り込み小説を作る作家がいたら、前者の方が何かとんでもないものを創ってそうな気がする。
少なくとも、創作には孤独が必要不可欠だと思う。
作者からの返信
こんにちは、波ノ音流斗です。
「気がする」という曖昧な感覚ではあるものの、何か根底で間違いないという確信を持てる解釈ですね。孤高は孤独であるけれど、孤独がいつか孤高に昇華することもなきにしもあらずなのでしょうか。
コメントありがとうございます。