「孤高」の孤独感。
「何かを成し遂げるときはいつも一人。」
「才能は時に人に理解されない。」
このような類の名言はよく聞くものです。
今回は、このことについて一つ話していきたいと思います。
人生でもなんでもいいのですが、そのようなものを一つのレース、又は登山のようなものに例えてみましょう、ベタですが。
こういう例え話をする時、才能のある人もしくは所謂天才なんてものは、基本的に群を抜いて先の方に単身を構えるものです。その状態を、言うところの「孤高」というものなのだと思うのですが、やはりどうも先の方にいると、華やかは光を放つゴールにより近いからなのか、はたまたその孤高な人自身が光る何かを持っているからなのか、「孤高」は輝かしく見えてしまうものです。
ではなぜ、輝かしく見えるのか。
私の中での意見なのですが、これは、「見えないから」なのかなと思っています。
あの輝かしい「孤高」の人はあまりにも常人とかけ離れていて、顔の表情なんて見て取れないほどなのではないか。もしかしたら、その「孤高」の人の顔は孤独に震えて泣いているかもしれないのに、そうとも知らずただそのありありと見せつけられるかけ離れた差に愕然と賞賛を覚えているのかもしれない。「孤高」なんて、単なる「孤独」なのかもしれない。
私自身、自慢ではないのですが、成績が良い方なのです。そのことについて他人から羨ましく言われたりヤジを飛ばされたりすることが多くありました。ここからは個人の勝手な主張になるのですが、その能力を生かす為他人に物を教えようにも、人それぞれの尺度に理解されず、「あなたにはこの苦しみはわからない」と、「あなたはできても私はできない」と突き放されることがあり、孤独感を覚えたことがあります。
やはり才能は孤独です。なぜなら他人に共有できません、そして他人に理解されません。いくら近づこうと働きかけようとも、常人が天才を見る時に感じる強大な差は、その天才側から見てもとても強大なものです。「あなたにはこの苦しみはわからない」と常人側から言われても、お互い様なのになと思えてしまう。でもそれを理解する人は、きっと存在しない。
常人と天才は見ている世界が違う、常人には理解できない世界がある、と言う表現もありますね。それも結局のところお互い様で、天才側も常人がどこで苦しむのかなんて、体験できないものは理解に遠く及ばない。わかろうとしても測ることのできないものを常人だけが味わっていると思ったら大間違いだった。
この孤独感が自慢にしか聞こえなくなるのが、あまりにも皮肉である。やはり人と人は分かり合えないものなのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます