「人の為に」の孤独感。

 みつをさんだったでしょうか。


「『人』の『為』と書いて『偽り』と読む」


 と言う言葉を聞いたことがあります。

 今回はこのことについての考えです。反論ではありません。



 私自身、「人の為に」と言う考えを主軸に行動を取るタイプです。理由は、自分勝手や自分の暴走で、他人に迷惑をかけたことがあったからです。そのため、少なくとも、人に迷惑をかけないように、と言う考えで生活しようと心がけていました。


 ただ、その考えに対して、しっかりとした矛盾のようなものだあることに最近気がつき、あーってぐるぐるしてる感じです。



「人の為に」の思考に対して、「偽り」が働くこと、私は主に二つの面においてそのことを理解しました。


 一方は、良くも悪くも「情けは人の為ならず」であること。本来この諺は、「他人にしたいいことは巡り巡って自分に返ってくる」と言ういい意味でつかわれるものですが、これが厄介なのです。最終的に、人の為にとやったことが自分の為になってしまうのだと思うと、まるで自分への見返りを求めているようであり、そのまま動機の不純なものになってしまう。そんなものが、果たして「人の為に」と言えるのか、ということです。


 他方は、「ありがた迷惑」であること。自分はこのことに関して、テレパシーを持っておきたかったと強く後悔するような気分に苛まれています。「人の為に」が、実際人の為になるのかなんてわかったものじゃない、それがもしかしたら、その人に対して悪く作用するかもしれない。そんなものを果たして「人の為に」と言えるのか、ということです。



 そしてこれらの思考と試行の結果、結局のところ「人の為に」は最も他人に責任を押し付けやすく、同時に最も自分よがりな考えだと思うようになりました。


 他人に責任を押し付ける。「人の為に」と思ってやったことだから、後の結果はどうでも良い、というような無責任感が、この思考には存在してしまうのではないか。


 自分よがり。「人の為に」と考えても、それが有益であるかなんてなさの人自身が決めることで、これに関する自分自身の思考なんて何も意味をなさないものなのではないか。



 今回の思考はこんなところ、皆さんはどう思いますか?

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