編集済
貴殿が斯様なコメントを求めているかは知れませんが、まず、美しいかは別とし、非常に文章が読みやすく感ぜられました。平生より、正しい日本語を使われているようで、私からすれば感心です。
さて、そういった意味で、私がこれから述べる意見は、貴殿からすると多少、下手な日本語に見えるかもしれませんが、悪しからず。
例えば、人の為行われる行動を、徳、あるいは道徳のように「良いもの」と仮定します。その場合、貴殿は
①.「人の為の行動」が相手の不利益になる可能性がある(有難迷惑)。
②.相手の利益になったとして、その後相手との関係には、「人の為の行動」を通貨とした損得勘定が居座ることになる。
という二つの点で矛盾を感じられたのではないかと拝察いたします。さらに、そうした矛盾を感じる動機としては、おそらく、貴殿自身が、人の気持ち(してほしいこと、してほしくないこと)を察する能力が自分にはないと思われているからでしょうね。
(①について)私はそもそも、「ありがた迷惑」という感覚は、イ..相手から与えられた利益に素直になれない。ロ.相手から与えられたものが単に迷惑である(不利益でしかない)。のいずれかに該当するときにおいて生じるものと思われます。また、端的に申し上げるなら、イ.については貴殿が気にしてやる筋合いはないでしょう。相手の未熟さにより生じた障壁について、貴殿自身が行った行為について思い悩む必要はありません。むろん、貴殿が善意として、イの最中にある人(素直になれない人)へ、救いの手を差し伸べてあげようと思うのなら、それは素晴らしい行為と思われます。
次に、ロについて意見を述べる必要があります。はっきりと言って、成功率100%の手術はあり得ませんし、人の心は演算できるものではありませんので、こうした問題において100%利益を保証したり、不利益を背理したりすることは不可能です。ゆえに、100%の利益を保証できない、相手に不利益を与えるかもしれない。という事実は、それは万人に共通する事実でありながら「人の為の行動」そのものを評価する材料にはならないでしょう(貴殿の言い方によりますと、人が為すことすべてが相手の不利益になる可能性が生じますから)。
では、結局私の意見としては何が言いたいかと言われれば、困るのです。
というのは、私自身、「人の為にやる行動」は何に含まれるかと言われれば、「道徳的行為」に含まれるだろうと考えますし、かつ、その「道徳的行為」の定義さえ、私のそれと貴殿のそれは異にするものと思います。大昔、カントという哲学者がいたのをご存じかもしれません。彼は、道徳的行為について「相手が喜ぶからではなく、相手の人格を尊敬する行為のことである」(的なことを)言ったそうであります。私は、どちらかといえば、カントのいう道徳的行為の定義がしっくりときますし、実際、私が「人の為に行動」をするさいも、「それが、相手の人格を尊敬する行為だから」と思っております(理由については多少長くなるので割愛)。
この考え方、お勧めします。あまり一般的ではないかもしれません。貴殿の考え方の方がよほど一般的でしょうが、しかし、貴殿の考え方が一般的になりすぎるがゆえに、集団的に重要な善意的判断が遅れ、人を見殺しにすることもあることを忘れてはなりません。また、この考え方によれば、相手の為に行動してやるか、否かの問題は、相手が尊敬を向けてやるべき人格であるか否かを規準として、行動ができるのではないでしょうか。そこに、見返りの期待などあり得ません。なぜなら、そもそも尊敬という意識は強制的に義務感で生じるものではありませんから。
また、長ったらしい駄文を書いてしまいました。
正直、私はこういう簡潔な題で、本質的なことを考えられる人が好き(人格としてです)ですから、今後も読ませていただきたいと思います。興味がある内容であったら、逐次コメントをしたいと思いますのでよろしお願いしますね。
作者からの返信
こんにちは、波ノ音流斗です。
私の稚拙な文章をしっかり読んでいただき、かつ懇切丁寧な意見をいただけたこと嬉しい限りです。
「相手の人格を尊敬する行為」という考え、他人の喜ぶ行為というものと似て非なるもので、とても新鮮に感じました。誰かを助けようと心がけると、気付かぬ間により大きなものを見失うかもしれない、そういう盲目的な行為に走ってしまうというのは、いくつか身に覚えがございます。そういう悲惨なことにならないように、その考えは確かに大事になるかもしれないですね。
編集済
自分が与える人間、もしくは与えられる人間になって人との身分差ができるのが怖いです。
与えられる人に対しては、生活保護制度への批判。
与える人に対してはミツグ君。
人の為と書くのは、
「人の性は悪なり,その善なる者は偽なり」
荀子のこっちの意味の事をとっていたのでしょうかと思ってあまり考えませんでした。
補:不安を煽るようなことを言って申し訳ありませんでした。ここに書くことしか出来ませんので証拠はないですが、そのような真似はしていません。でも、サイバーセキュリティとして、それはするべきかなと思っていまして。Googleの方で操作すれば、大体のデータは消去できますし、また簡単に新しいアカウントを作ることができます。それならばこのアカウントを維持したまま安全に執筆を続けられます。重ね重ねすみません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
その怖さ、確かによくわかりますね、その身分差の発生による批判はどこか僻みのようなものを感じます。人間らしいといえばそれに収まりますが、なんとも虚しい話です。
人の為というのは本質的には難しいことですよね。
そもそも、人は自分の内面以外は明確に知ることができません。その時点で、他人の為と思う行為が、独りよがりになる危険性が存在してしまいます。さらに、それが自分のために。
突き詰めて考えると、なぜ人の為に行動するのか。
それは、そうしたいと自分が思うからです。
よく見られたい、良い自分でありたい、理由はそれぞれでしょうが、自分がしたいからです。
そこで、既に自分の為になっています。
結果として、さらなる利益を得て、また自分の為になるかもしれませんが、そんなものに関係なくスタート時に既に自分の為なんですよね。
だからといって、人の為に行動することをやめるのか。
それも、それでいいと思います。
ですが、究極的に自分の為であろうと、その過程で他人の為になることはあると思います。そもそも、一元論で考えるのがおかしいのだと思っています。
たとえ、偽善でもそれが他人の為になると思えれば、行動すればいいと思います。
もちろん、そこでやめるのも自由です。
そして、行動の結果、
相手の害悪になってしまう場合。
これは責任を取ればいいでしょう。
害悪になることを恐れ、人の為となる行動を止めてしまうのは、もったいない。自身の心がかわいそうです。
先の責任も考え行動すればいいと思います。
もちろん、取り返しのつかないこともあると思いますが、
そこは都度都度判断するしかないですね。
とにかく、偽善であろうと、結果自分の為になろうと、相手の害悪になる可能性があろうと、
人の為に行動したいという、美しい衝動をそんなものの為に捨ててしまうのはもったいない。そう考えてしまいます。
まあ、あくまでも、個人的な見解ですけどね。
全ては個人の自由。
その時々で、判断して生きていけばいいと思います。
こうだと決めつける必要はないですもんね。
人生なんて、曖昧なものなのですから。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信遅れてしまいすみません。
美しい衝動、と言う表現はなんとも面白いなぁと思いました。他人を助けたいと言う所謂エゴのようなものに対して自分はどうも敏感になっていたようです。なんだか難しい話になるかなと思いましたが、そこまで深く考えずに、その美しい衝動に身を任せてみるのもいいのかなと思いました。
とてもしっかり読んでいただけたようでとても嬉しいです。ありがとうございます。
企画にご参加いただき、ありがとうございます。
僕の作品でも先で取り入れようとしているテーマで、とても興味深く拝読いたしました。
さて、僕の意見ですが。
この世には魂の物語があって、一人一人が一生をかけて様々な体験をし、最終的には善悪を超えた完璧な存在になると言う考え方が僕には浸透しています。ですから、その時は無為に思えても、長いスパンで見れば無為なことなんてないんです。人の為に奉仕することも、人の為を思ってやったのに失敗したことも、全部必要な経験なんです。
押し付けでいいんです。自分も相手もそれを体験する為に生まれてきたのですから。
長々とややこしいことを失礼いたしました……。こういう心理に踏み込んだ話題、大好きでちょっと興奮しちゃいました。反省します……。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信遅れてしまいすみません…。
魂の物語、とても響きがいいなぁなんて思いましたが、もしかすると本当にそうなのかもしれないと思いました。無為なことはない、とか、全ての体験が…とか、とても身になる話だと思います。
心理に踏み込む話をこう語れるような方がいることはとても幸せなのだと思います。とても良い話ありがとうございました。
私は自分のために良いことをしていこうと思っています。
自分が平和に過ごすためには社会が良くないと実現しない。
だから社会を良くしようと。
手助けできなかった自分がカッコ悪いと思うから、カッコ悪くならないために行動する。
傷つけて悲しませると自分も嫌な気持ちになるから、嫌な気持ちにならないために傷つけないようにする。
そもそも人のために何か出来るほど優秀ではないので、自分が出来ることはお手伝いするという気持ちで過ごしています。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
感服いたします、なんか割り切れるのもまた大事な気がしますね。自分は他人のことを考えられるほど優秀じゃないから、自分が過ごしやすいために他人を助ける、そちらの方が原動力としては理にかなってますし、むしろ自我で動いてくれた方がその手助けも受け取りやすい気がします。不思議とかっこいい立ち位置に見えますね。
「人」の「為」と書いて偽り。
偽りの意味は 【嘘】 という意味ですよね。でもそれは結局、誰かの為にしたことが自分に返ってしまう事。
この意見はなるほど、と納得できる考察のような文ですね。この考え方は正しくても間違ってもいませんよ。
人それぞれの意見というものに思考を広げれるのは良い事ですから。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
こうやって人それぞれの意見に対して同じことを考える人、違った意見のある人、そもそもの解釈の違いのある人など色々な方がいて面白いなぁと思っているところです。納得していただけるような文章が書けていたということでしたら幸いです。
これからもよろしくお願いします。
ここで言う『人の為に』は『その人のために良かれと思って行動する』ことであると解釈しました。
そこでひとつ目の論考。それが『自分のためになると考えてやっている』のなら不純になる。それには対立する概念があります。『無私の奉仕』です。前者なら『人の為にした』わけではないのではないか。そういう主張だと思いますが、それだけでは『その人ために良かれと思って行動する』という行為の全てを不純と判断する理由にはなりません。
同じように『ありがた迷惑になる』場合があるというのも、『その行為が本当に感謝される』という対立概念があります。
つまり『その人のために良かれと思って行動する』ことが偽善に陥りやすいというのはわかるのですが、それを理由として、その概念そのものを否定するのは論理的におかしいのではないか。私はそう考えます。
この論考から導き出されるのは、むしろ自戒が必要だということでしょう。
ちなみにイスラム教徒は、自分が天国に行くために善行や施しをします。施しを受ける人間は施しをした人間が天国へ行くための手助けをしていると思うそうです。
お互いに良い方に解釈するということも、人の心を癒す方法なのかもしれません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
とても的を射てる意見だなぁと思いました。対立概念があることはなんとなく理解しているつもりでしたが、それを踏まえても中々全否定に聞こえてしまう書き方をしてしまっているようですね。自分の中で負の方向に捉えがちな節があるのかもしれません。
自戒、というのも中々不思議な考えだと思いました。「しない善よりする偽善」みたいな文句が唱えられているのを聞いたことがありますし、それも考慮してみると、他人への行為が正しいのかどうかは、やはりその行為を受ける他人にしかわからないのかもしれません。
イスラム教の話は初耳でしたね。そんな解釈の仕方があるのかと、勉強になりました。ポジティブ精神のなさ技なのか、何かそれ以上に強い力を持っているような気もします。その考えはなかなか面白いなぁと。
長文の意見がくると、熟読してくれているようで嬉しい限りです。ありがとうございます。
自主企画への参加有難うございます。
「人の為に」なることをするのは下手すれば大きなお世話でただの偽善者になりかねないことなんですよね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
端的に言うとそんな感じですね。人の為にと言っておきながら、本当にそれが人の為になっているのか、とてもわかりにくいものです。暗中模索以外わかる方法があればいいのですがね。