応援コメント

男女「区別」について少し真面目に」への応援コメント


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    「また、これらの身体的差分によって、精神面でも男女間に差分が起こります。男女それぞれにしかわからない感情が存在しますし、男女それぞれにしか通じない話も存在します。このこともどうしようもないでしょう。全部が全部そうだというとステレオタイプのようであまり良くありませんが、実際そういう風な偏りが存在することは事実です。」
     私は、精神的な(明確な)差分は論証できないと考えます。そもそも、精神とは、なんであるか、もし、これを一般論に乗じて脳の働きによるものと仮定するのであれば、そもそも男女間において指摘される脳の違いというものは、①,事実として、確かに違うが、それが精神構造にどう影響をもたらすかは明らかではないもの。と②.経験則的にわかってきた違い(ステレオタイプにつながるものでしょうね)に分類できると思われます。また、①については、ホルモンに対する学術の発展により、あるいは脳科学の発展により、だんだんと精神に対する影響は明らかになりつつあります(統合失調症の治療もこれのおかげで、だいぶ平和的になりました)。が、男女間の精神における(明確な)違いを論証(論理的に、脳の性質と精神の性質を記号で結ぶこと)する段階には至っていないと思います。
     ゆえに、今、現時点で、男女間の精神に明確な差分がある、バイアスがあることを事実と言ってしまうことは性急とさえ思われます。
     確かに、貴殿(貴女かもしれませんが、ネット上故、悪しからず)のおっしゃるように、男女間での精神のバイアスは確かに経験則的に感ぜられないわけではありません。お恥ずかしい話、わたくし自身も
    「女⇒理詰めをしてもわかってくれない」
    という良く分からない、ステレオタイプ染みた論証を、少しばかりは真だと思ったこともあります。中学校の平和教育かなにかの時、感情的に平和の重要性について語る女生徒を、お得意の理詰めで泣かせてしまったとき、そう思ったわけです(今でこそ、そんなことはしませんが)。
     私は、こうした経験こそが、例えば「女は泣いてもよい、男は泣くな」というステレオタイプを個人につくり、また、そのステレオタイプが社会に広まり、かつ、これが学校という閉鎖的な成員再生産装置の中で、生徒に深く組み込まれることにより、なおそのステレオタイプが助長され、確固なものとなってきたと考えます。
     ゆえに、もし、男女間の精神の間に差やバイアスがあったとしても、ホントウ(社会という形式を超越した本質的な人間の姿)は、わずかな差であると言えるのではないでしょうか。つまり、大きな問題ではないと。
     
     もはや詠み人を覚えてはいませんが、昔、ある本(ショーペンハウエルか何かだったと思うのですが。詳しく知りたい場合はお申し付けください。調べて返答します)にこのようなコトバがありました。
     「魂に性別はない」
     この言葉が何を指し示すか、そうして、いつ頃の人が詠んだかは定かではありません。が、たしかにこの言葉が、魂(精神)は肉体と違い、性別が存在できないと言いたかったことには違いはなく、昔の人々の中にも精神の性別を根本から疑問視、否定する人はいたということになります。また、ソクラテスは助産術という有名な教育方法を考案した人として有名ですが、彼が助産術を編み出した根本には、「魂は、生まれる以前に総ての真理を知っている。教育はそれを思い出させる営みだ」という思想があったからだと言われております。
     ですが、時代が進み、イギリス経験論の父と称されるロックの時代になると、この考えは否定されます(ロック以前にも否定した人はいるでしょうが、ここは有名角を)。ロックは精神白紙説という書籍の中で、「生まれたての子供の精神のボードには何も書かれていない」(意訳)ということを説いたそうです。この言葉が、今、貴殿、および私が考えている精神上の男女の違いに何の意味を与えるかと言えば、もう語るまではないでしょう。つまり、「人間は生まれてきたとき、空っぽの状態で生まれるのであるから、元はと言えば、男女の間に違いはない。だが、経験によって、男の精神が、女の精神が形作られる。」ということなのです。そう思えば、魂に性別がない。という主張も私は正しいように感ぜられます。
     少し、長く語りすぎましたが、私が、結局、ここまでで何を述べたかったのかと言えば、「男女の精神の違いは、根本的なところにあるのでなく。経験的なところにある」と言いたかったわけです。また、「精神面での違いは流動的であるから、これに準じた区分は必要ない。だが、肉体という絶対的な面での違いは、ほぼ固定的であるから、区分は必要である」とも、換言できますでしょう。
     
     それでは、実際に、区別や差別について考え行きたいと思います。
     例えば、差別をなくすということと、区別をなくすということの意味合いの違いは、なんとなく意識されているかもしれませんが、実際、詳しく説明してみろと言われますと、どうもうまく言葉では表せません。それは当然のことです。なぜなら、非区別という言葉には、単に「均一化」という状態にある体系(男も女も偏りなく混合された体系)という意味がありますが、非差別となると、とても体系化することが難しいのです。ゆえに、区別と差別の違いを明確にし、かつ、差別という言葉の乱用を防ぐには、我々は差別という言葉について、何を指し示す言葉であるかをよく考えるべきと思われます。
     それに、差別とはなにかについて、私の考えもまとまっておりません。今後ゆっくりと考えたいと思いますね。(新しい疑問を呉れてありがとうございます)
     ただし、そうゆっくり考えている間にも、見過ごすことはできない社会の風潮があることを、貴殿には共有しておきたいところです。
     それは、「非差別」=「非区別(均一化)」と、異なった二者を同一視した、個人の個性を愚弄する暴虐的な、もはや全体主義ともいえる運動が、男女平等という名において行われていることです。
     そもそも、多くの人からすれば、「非区別」と「非差別」を混同することに、あまり、問題はないように思われるかもしれません。が、実際そうではありません。
     「非区別」、すなわち、「均一化」を理想郷とみなす男女平等の考え方は、社会や学校を、まるでネジ工場とでも言いたいように「いかなるコミュニティにおいても、男女は均一でなければいけない」という強迫的な思想を人々にもたらすのです。一見、カッコで抜かれた文句に関しては、聞こえは良いかもしれませんが、こうした脅迫的な思想は、例えば、「このコミュニティでは、男は幾人いるから、もう男は入ってはならない」とか、「みんなが、中性服(俗にいう新しい制服をそういいましょう)を着て(均一化に準じて)いるのに、お前だけは、自分の性別を強調した女学生服(襟詰め副)を着ている。それはやめた方が良い」とかのような、新たな差別ともいえる社会体系を生みかねません。(実際、一部の国では、政治というコミュニティにおいて、クオータ制が導入されており、もはや、直接的に立候補者の能力を評価しないともとれる新たな差別が、政治においてまで生じていると言っても過言ではないのです)
     第一、男女以前の問題として、個人は、個人としての特徴(個性)があるからこそ、これを内包する社会が多様になり、進歩が達成されてきたわけであります。こうした人間(ポリス的動物)として生きるうえで切り離すことのできない個性という価値を、絶対的に正しい一つの形にまとめようとする、「男女均一化」を理想郷とみなす男女平等運動は、これを愚弄しているわけです。私は、この様を令和の全体主義だと強く批判します。貴殿はどのようにお考えでしょうか。よかったらお聞かせ願います。

     ところで、貴殿から頂いた、「孤高の孤独感」の応援コメントの返信で、
    「この一千字を超える文章を「うつの倫理観」の最新話にあげて、読んでいただいた皆様から意見をいただいたほうが得策な気さえしてきましたね。(もしそれをしても大丈夫でしたら教えてください)」という提案を頂きました。
     当方としては、全く問題ありません、それに、(少なくとも、私に比べれば)この界隈に影響力のある貴殿を媒介して、私自身も割り切れていない「未知の期待」「未知の恐怖」の違いについて、皆様の意見を伺えるということは、大変幸せな限りでございます。
     むろん、だからといって「絶対やってくれ」ということではありませんので、判断はそちらにお任せしますね。
     なお、カクヨムの応援コメントでは、返信に返信を重ねることはできないようです。(私の知っている文士の中には、お話ノートかなにか、そういうものを作っている人もいましたが)
     
     追伸、
     規約を確認したところによりますと、アドレスを掲載することは違反にあたるようです。
     つきましては、当方も「御意見箱」と称したノートを設置いたしました。よろしければ、そちらもご活用ください。

    作者からの返信

    精神面による男女の違いに関しては、そこは私自身説明不足でしたね、反省です。
    精神の差異というのが後天性のものであるというのは、私も概ねその通りだと思いますが、この文においてでは「身体的差分によって」なんて言っていたりします。少し下品な話になりますが、男性が急所を蹴られた時の痛みも、女性の生理痛も、お互いに共有することができないという身体的差分から、そのような部分から先天的に湧き上がる感情面の差異があるのではないか、という自論です。まぁ断言は出来ないのですが(なんでこの文章を書いた私はそんなことを断言して書いたのでしょう……)
    つまるところは貴方様のお話と概ね違いはありません。ここまでしっかり持論が出来上がっているのは素晴らしいものです。

    「男女均一化を理想とする男女平等運動」ですね、私自身理解が浅い状態での判断にはなってしまうのですが、それに関しては確かに良くないと思います。私の今回の文章から取り上げるならば「女性の身体上厳しい力仕事などを均一化のために女性にさせる」みたいな事例だと思われますが、そういう部分は避けるべきです。そんな非効率で、個々の能力や心身面を尊重できないものを平等と呼べるかというと大きく首を傾げてしまいます。男女平等運動と唱えて男女均一化を目指している輩は、適材適所とか、個々のアイデンティティの尊重とか、そういう部分を蔑ろにしているようであまり賛成する気にはなれませんね。

    さて、返信の最新話投稿に関して、快い返事をいただけて嬉しい限りです。少し編集し、形を整えて出してみます。こういう考えの広め方、深め方は、双方にいいことがあるようで楽しいですね。

    併せて、返信に返信を重ねられないところに関しては、近況ノートにでもそのスペースを設けようかと思います。そちらの方が何かと融通が効きそうですね。

    長文失礼しました。

  •  いいと思います。英語ではdiscriminationが差別と区別を兼ねると聞きますが、そこは化けないように常に監視し続けるしかありません。
     自分はとりあえず理不尽なレベルのジェンダーギャップと差別とそれぞれの生きづらさをなくしたいなと思っています。ただ、今はそれを達成する手段について知らないので、その理不尽の土壌をあらゆる手段を用いて抹消すべきとなっています。ドラえもんのしずかちゃんの持ち物を本にするとか、トイザらスのおもちゃコーナーの青、ピンクの壁を取り払うとか、それは正しいと感じています。それらの徹底したこどもの意識改革を行うべきだと思っています。
     自分の考えは適宜訂正します。