う~ん(゚-゚)💦💦作者さん初めまして。こんばんわです😊🎶
とてもシッカリとご自身の考えや意見をお持ちだな?と率直に感じました。
私が読むと、作者さん考えすぎ、考えすぎ💦💦🌀と思ってしまいます。
他人の幸せ=自分の幸せ。と受け取れなくなる自分が
醜い!とまでは行かないにしろ、責めてもどうにもならないのです。
典型の鬱の症状でございます。私も統合失調症ですが、やはり自分を責め、痛めつけていた時も、たくさんありましたが。
鬱ゆえに苦しむ。ゆえに優しさからくるモノだと思います。作者さんは本来ならば、とても計り知れない程にお優しい方だったんだな?と思います。
今では、私はかなり復活して来ましたが。
やはり、治りかけの時は、
脱力感がすごくて、感情が落ち込み辛い時期もありました。
それを私は、鬱状態なんだと
解釈しました!何のやる気も起きず、ただただ自分を痛めつけて。
それをする事で
過去の過ちや亡き両親、または未来へと……
償いをしているつもりでした。その鬱状態から知らぬうちに脱して、今があります。
やはり、料理や手先を動かして体を動かす事が一番だと
思います。
太陽からプラスのエネルギーを吸収して、笑顔になって下さいね!
作者からの返信
こんにちは、波ノ音流斗です。
返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。
この文章は、かなり前に書いたものです。一応その頃から病院に通い続けておりまして、今のところまあまあといったところでしょうか。
しかしまぁ、なんとなくこれを書いた昔の頃と考え方はあまり変わってないのかもしれません。
あまりに悲観的というかなんというか、ひどい文章だと我ながら思うわけですが、いかんせん孤独は苦手でないにしろ、他者の愛には飢えているようで、そんな自己中心的なものと絡まりつつあるようです。
とはいえ、やはりこういう考えに固執しすぎないように気をつけるつもりです。
応援ありがとうございます。貴方様の経験からのお言葉を無駄にしないよう、気楽に精進してまいります。体を動かすところからですね。
ありがとうございます。
私は他人の幸せは無関係って感じかな。
もちろん羨ましく思ったりするときもありますが、もっと凄い人がいっぱいいるのに、目の前の小さな凄さを羨む必要ないなと。
どうせだったら最高峰のお金持ちとか羨まないとね。
そして他人の不幸が楽しいです。
不幸な人はエピソードが豊富。失敗しないための教訓や情報が盛りだくさん。
他人が成功しても失敗してもどちらも自分にはなんの影響もないので、他人の自慢は聞きたくないと思ってしまいます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
面白い考えだなと思いました。他人の不幸をそういう受け取り方をする方は、どこか成長の仕方が違いそうでいいですね。他人の幸せというのに固執するのも良くないかもしれません。
多くコメントをいただくと、やはり人間はみんな違う考えを持って生きてるんだなと再確認できて楽しいですね、とてもタメになるいい話でした。
編集済
ここで気になるのは『幸せの定義』です。
『優越感=幸せ』であると定義するなら、自分が優越感を得たときには同時に『劣等感=不幸』を与えることになります。
後半であなたが語っている『他人の幸せが私の幸せ』は優越感ではありません。『他人が嬉しいと自分も嬉しい』というのは、心の深い部分での共感のようなものだと思います。
そのような感情を自覚しているあなたを私は尊敬します。
最後の文章はまた、定義が最初に戻っています。
『他人に優越感を与えるためなら、自分が劣等感を持ち続けるべきなのかもしれない』そのような意味ならば、私は、はっきりと異を唱えます。
『偽物の優越感など、決して本物の幸せではありえない』
作者からの返信
コメントありがとうございます。
この話に関しては、若干感情的に書いてしまったもので、読んでいて辻褄が合わない部分があったと思います。申し訳ございません。
そうですね、「他人に優越感を与える」というよりは「他人に劣等感を与えない」という感覚なのかもしれません。
貴方様がコメントしてくださったところでも少し話しましたが、他人に行う行為が正しいのかというところがまた論点になってくるかもですね。
自分の能力だったり勝敗だったりで、相手となる他人に悲しみや苦しみを味わせるのなら、それは不幸を与えたということになるのではないか、それならその行為は、正しいとは言えないし、自分の幸福が他人の幸福を阻害したことになるのではないか、ということです。
ただし、これを逆手に取ると、逆に幸福を与えたつもりでも本当はそうでないのかもしれない、という話が成り立ってしまいます。他人の幸福の概念を、自分だけで理解しようとしているからなのでしょうか。
こちらもしっかりとしたご意見ありがとうございます。
反論っぽくなるのを最初に断っておくけど。
自分はこれまでいじられ役で、それにほとほと嫌気がさしてしまった。
いじられ役の犠牲の上に成り立つ『笑いの場』の構造。それに対する激しい怒りで処女作を書き上げた。
それからは自分の怒りを小説に込める日々を送ってる。
『人は他人の不幸をエンタメとする残酷さを持っている』
この仕組みを知ってしまったから、自分は意地でも人の為に犠牲になぞなるもんか!と誓った。
そして自分の受けた理不尽、生まれた怒りは全て小説として再利用してやる!と生きてく上での方針を決めた。
だからこの項を読んで、激しい怒りにとらわれてしまった。
色んな考えがあるからこの世は面白いし、だから、あなたを否定するというのではないのだ。
だけど自分みたいな人間もいるということはせめて認識だけはしてほしいかも。
作者からの返信
こんにちは、涙ノ音流斗です。
反論の方が討論には必要ですので大歓迎です。
あなたの処女作、そしてその後の人生の指針、大変な苦しみを抱えて生きて来たことを理解しました。口ではこのように言えても、やはり理解し切れるものではないでしょう。
一応誤解なきようにお伝えしておきますと、私自身いわゆるドッキリのような軽いものを始めとして、あなたのお言葉をお借りすると『他人の不幸をエンタメにする残酷な行為』が結構苦手です。生理的、本能的な嫌悪感を感じている感じであります。
しかしながら、この文章を書いた頃の私もまた稚拙だったようで、自分の意見を他人に押し付けるような解釈をしかねない表現になっていました。書き直すというのは少し違う気がするのでそのままにしますが、貴方様の心の腫れ物を殴りつけるような酷い行為をしてしまったと、ここで謝罪させてください。
そういう認識は持ち続けるつもりです。他人を不幸にすることは絶対悪であるというのは、普遍で不変の事実にし続ける所存です。