泡沫メリーゴーランド Ⅱ

かこ

『海』『毒』『強欲』

 十年ぶりの東京はきらきらと輝く高層ビルばかりだ。道行く人は何処かあか抜けていて、通り過ぎたお爺ちゃんの帽子も決まっていた。

 私服に悩み、研修だし、スーツでいっかと考えた自分が恥ずかしくなる。ほぼリクルートスーツだ。シャツを買い換えたぐらいで、ネクタイも成人式のものと一緒。

 世界共通のフォーマルスタイルだ、と自分に言い聞かせて、研修を終えた足で待ち合わせ場所に向かう。

 再会した幼馴染みは髪が明るくなり、化粧が似合う女性になっていた。ヒロは大学の進学で上京、デザイン会社に就職した。真っ黒に焼けた姿で浜辺を駆けずりまわった幼馴染みと同一人物とは思えない。

 幼馴染みと水族館に行くだけ、と言い聞かせていた自分がテンパったのは言うまでもない。

 笑い話を交えながら渡そうと思っていた賞味期限間近の缶詰を何気なく渡してしまい、微妙な雰囲気になった。水族館が楽しみなフリをして、気のきいた話もせずにヒロと目を合わせなかった。

 楽しみだったはずなのに、嫌な汗をかいてばかりだ。カッコ悪い所を見せずに切り抜けようと思っていた矢先、距離は思わぬの所でなくなった。

 きっかけになったのは笑い声があふれるメリーゴーランド。ヒロが冗談めかして言った提案にのり、手を繋いだ。中学のフォークダンス以来の触れあいだ。そこからのことはあまり記憶に残ってない。バカみたいにドキドキして、気付いたら駅のホームで手を振っていた。

 帰りの新幹線で、ガッツポーズを握っていたのは言うまでもない。


 俺の職場は水族館だ。花形の海獣担当を任されたのも、企画を任されたのも本当に幸運だと思う。たまたま希望の部署に抜擢されただけで、実力も経験もない。先輩の指導の元、調子の悪い海獣の世話に追われ、企画に追われた。

 蛙の声が蝉に変わる間、頭の大半は仕事のことばかりでヒロに何もアクションを起こせてない。

 睡眠不足の頭でお盆を思い出し、もしかしてヒロが帰ってくるのでは、と気付いた俺に拍手を送ってやりたい。

 うかうかとした学生時代にどれだけ歯がゆかったことか。このチャンスを手放すのは惜しい。

 俺は自分を奮い立たせて、メッセージを送っていた。


『13~15日に帰るよ。湊斗みなとは仕事でしょ?』


 三日悩んで送ったメッセージの返事はあまりにも無情だった。

 彼女と距離が縮まったと思ったのは俺だけらしい。

 いや、ヒロの場合はただ事実を言ってるだけで、こっちが勝手に落ち込んでいるだけなんだけど。

 水族館には休みという日に人が来る。お盆をさければ希望休だって取り放題だ。

 あわよくば、彼女がお盆過ぎまで地元にいないかなって思ったけど、現実はそんなには甘くない。

 俺はシフト変わんないかな、とか心の中で嘆きながら返信を打ち込む。


『お盆は仕事だね。せっかくだから水族館来ない?』

『仕事の邪魔になるでしょ』


 すぐに来た返信に、いやいや、やる気満々になるよと返しそうになって、事実、その文字列を打っている自分を落ち着かせた。

 この返信はない。マジでない。

 打ち込んだ文字を消して、落ち着いた雰囲気を心がける。


『俺が考えた企画展示やってるから、見に来てよ。できたら案内したいし』


 これで自然に誘えただろうか。余裕があったら、案内するって意味にもなるし。俺が、案内したい、っていう風にもなる。

 三回読み返して、たぶん変じゃないと自分に言い聞かせて送信する。

 既読はすぐには付かなかった。

 洗濯機が終了の音を響かせる。携帯をズボンのポケットに入れて、部屋から出ると熱気に包まれた。クーラーがあるなしの温度差に息がつまる。

 海に潜らなくとも息苦しいなんて、地球の温暖化はどうなってるんだ。

 洗濯物をカゴに詰めこんでいるだけで汗が吹き出してきた。垂れてくる汗を袖口で拭こうとした時、短い通知音が響く。すぐさま、携帯を叩き起こした。


『じゃあ、行くけど、無理はしないでよ』


 このぶっきらぼう加減が可愛いと思ってしまう俺はもう末期だと思う。

 さて、どうやって距離を縮めるか。その強欲な願いは、ほんの少しだけ夏の暑さを忘れさせた。



(:]ミ(:]彡(:]ミ(:] 彡



 俺はスナメリ水槽の上から彼らを眺めていた。たまに水から顔を出して、俺に小首を傾げてくる。愛くるしい瞳は心の奥までを見せてくれない。

 胸ポケットにしまいこんでいた携帯から明るい通知音が鳴り響く。


『ついたよ。入り口で待ってたらいい?』


 その文字に少しだけ心が浮上して、どんな顔をすればいいのか迷った。

 機械音に混じって、水しぶきが上がる。そちらに顔を抜けても、たゆたう水面しかなかった。

 小さく息をついてその場を後にする。バックヤードを抜けて入り口に行くのは思うほど時間がかからなかった。

 扉を開けた少し先にヒロが立っている。ゆるくカーブした髪は明るい色になったけど、彼女の猫のような丸いつり目はずっと変わらない。

 俺が名前を呼ぶと、振り返ったヒロが目を細める。


「東京ぶり。仕事、お疲れ様」


 この言葉を聞けて、両手を上げて喜んだ。もちろん心の中でだけど。


「来てくれてありがとう」


 上手く笑えただろうか。自信はないが、館内の暗さがごまかしてくれたことを願う。


「夜の水族館、初めてだから楽しみにしてたんだ」


 はにかむヒロを見れた。頑張ったかいがあったなぁと噛み締める。

 今回の俺は前回とは一味ちがうのだ。

 ちゃんとプランを案内して、せっかくだから夏にしかやらない企画に来てもらった。

 閉館後に行われる夜の水族館は少人数の完全予約制。開催時間もあって年齢層も限られている。ツアー形式でスタッフが先導して館内を回り、解説も随時行う。最後に三十分ほどの自由時間もあり、解説がわかりやすく、こぼれ話が面白いと好評だ。

 ヒロの案内は俺がすると先に言付けておいていた。説明せずとも、にやりと笑った責任者の顔は見なかったことにしている。

 昼間よりも何段階か落とした照明の下で魚達が泳いでいる。影でじっとしていたり、照明に近寄ったり、様々な夜の姿を見せてくれていた。

 海の中で見る楽しさもあるが、波の流れも息も気にせずに眺められる時間は水槽ならではだ。


「ヒロ、見たいものある?」


 俺の質問にヒロはパンフレットに目を落とす。端から端まで目を泳がせてから上げた。


「湊斗の企画ってこれ?」


 自然な上目使いに気を取られて、ヒロの言葉を聞き逃していた。

 ヒロが指差したパンフレットに『企画展示室』と書かれている。

 頭をフル回転させて、内容を察し、全力の笑顔で誤魔化す。


「順路で行くと最期だから、楽しみに取っておこっか」

「自信満々ねぇ」


 毒を吐くヒロはからかうように笑った。

 俺は隣のヒロに合わせて歩く。トンネルのようなエスカレーターに乗り、二階に上がった。出迎えてくれたのは、牡蠣のいかだだ。


「こんなのあったっけ?」

「それ、いつの記憶?」


 目を丸くするヒロが珍しくて、口元がゆるんでしまった。小学生、と答えるヒロに睨まれるが、痛くも痒くもない。


「県の名産とはいえ、水槽に浮かぶ牡蠣なんて、なかなか見ないもんね」


 場を取りなすように言っても、ヒロの機嫌は簡単には戻らなかった。からかい過ぎたらしい。少し反省しつつ、次のコーナーへ促す。瀬戸内海を今も泳いでいる魚達が集められた水槽を横目に、大きな水槽を見下ろすコーナーに移る。

 さっきまで俺がいた場所がガラス越しに広がっていた。暗闇の中、浮かび上がるように水色が輝き、白い体がかいま見える。

 瀬戸内海に唯一生活する白イルカ、スナメリだ。


「ほら、見てよ。あれが俺の相方」


 俺の言葉にヒロは顔を上げ、水面を睨み付けた。


「スナメリに感謝なさい」


 ぶつぶつとそんなことを言ってはいるが、瞳は輝いていた。水に反射した光がより一層、ヒロの顔を照らす。

 イルカの癒しパワー様々だ。

 ペンギン、トドと人気者達にも挨拶を済ませ、一階に降りれば、熱帯魚や太刀魚、テッポウウオが出迎えてくれる。デザインの参考に、と携帯のカメラを構えるヒロの横顔は真剣そのものだった。ヒロの可愛さが疲れた体に染みる、と考えていたが許してほしい。それぐらいお盆と企画に振り回されて、ヒロに振り回されて、心身共にボロボロだ。

 時に解説をしながら進み、今回のクライマックス、特別展示にたどり着いた。

 『無重力世界へようこそ』と銘打って展開したのはクラゲの世界だ。クラゲの生育は繊細な環境管理が必要とされる。温度も大切だけど、とどこおりない水流が大切だ。それがなければすぐに息絶えしまう。先輩に助言してもらいながら準備した五つ水槽と展示しきれなかった種類の写真パネル。それから、生体や歴史、子孫の残し方を小さな子でもわかりやすく書いたつもりだ。


「クラゲってこんなに綺麗なんだね」


 カツオノエボシの写真の前で、ヒロは目を輝かせながら言った。

 ヒロが眺めている写真は以前、俺が潜った時に見つけたものだ。乱反射する太陽の光を受け、紫と青が混じる傘はガラスのように輝いていた。できれば本物を見せてあげたかったけど、捕獲する暇もなかったし、猛毒を持つため取り扱いが難しい。残念だけど展示を見送った種類だ。

 毒があるんだ、とヒロも意外そうな顔をしている。


「毒を持つのに見た目は関係ないからね。彼らも生きるために毒を持っているわけだし」


 写真と水槽、説明を丁寧になぞりながら、俺達は進んだ。

 ヒロが説明を求めて振り替える。初めて見る姿にくすぐったい気持ちを押さえるのが大変だった。距離を縮めることばかり考えていたけど、ヒロを目の前にしたらそんな余裕なんてない。

 でも、この後に食事ぐらいならいけるんじゃないか、と強欲な自分が顔を出す。知ってる店も少ないし、調べてもよくわからなかった。それでも、ヒロと笑いながら食べるご飯はとても美味しいはずだ。

 丸いつり目は朝日を受ける水面のように輝いていた。別れる時に誘ってみよう。俺は拳を握りしめた。

 最期の展示は瀬戸内にもいるクラゲを紹介している。もちろん、海水浴場でもよく見るヤツで注意喚起も含めて。

 ヒロの足が止まった。

 俺も合わせて止まる。


「思い出した。私、コイツのせいで海が嫌いになったんだった」


 ヒロからこぼれた言葉はあまりにも温度がなかった。海底よりも温度を感じないなんて相当だ。

 俺は展示された水槽を見返す。イチジクのように輪郭を添うように描かれた赤茶色のライン。優雅に揺れる腕は長く、今にも千切れそうなアカクラゲだ。毒を持ち、刺されたら火傷のように痛む。症状が重くなれば、みみず腫れや水脹れ。最悪、ショックを受けて呼吸困難になる毒だ。

 中学の夏休み、理由も言わずに海に来なくなったのはこれのせいか。十年以上たって初めて知る事実に目の前が真っ暗になった。

 ヒロを悲しませるつもりなんてない。ヒロとの距離を縮めたかっただけだ。

 ヒロがクラゲを睨み付けている。その対象はもしかしたら俺になるかもしれない。想像しただけで身がすくんだ。

 ヒロが何か言っているが、頭に入ってこない。

 そんな場合じゃないのに、俺の勇気はクラゲと同じようにふわふわと何処かに行ってしまっている。

 世界の海を一周する彼らを見習って、勇気を育てるのもいいかも。ああ、でもヒロが嫌いなものを手本にするわけにはいかない。

 ヒロが眉間にしわを寄せてこちらを見ている。水で透かしたように揺らいで見えたのは照明のせいか、俺のせいか。

 嵐の海に放り出されたように、俺は混乱していた。

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