磯に消ゆ
深見萩緒
磯に消ゆ
多分、さおりに私の気持ちは分からない。
他人の気持ちなんて分かるわけがないだろうと言われたらそれまでなんだけど、一般的に「多少は共感できる」の意味で使われる「分かるよ」の一言さえ、彼女に期待するのは酷だった。私とさおりはあまりに違いすぎるし、そのことをお互いよく理解していた。
コンクリ製の堤防の上を歩く。両腕を広げてバランスを取りながら。肩にかけた通学鞄がぶらぶら揺れるので、よろつかずに歩くのは結構難しい。さおりは私よりも下手だ。私の前で右に左に大きく傾きながら、覚束ない足取りで堤防を進んでいく。この先には磯がある。今は潮が引いている時間だから、下まで降りていけるはずだ。
癖のない黒髪が、海風を含んで少しごわついている。あの髪に指を通したら、きっと途中で引っかかってしまい、さおりは「痛いよ」と顔をしかめるだろう。私は手を伸ばした。さおりの後頭部に触れる。「押さないでよね」とさおりが笑う。
私は、さおりに「分かって」ほしいんだろうか。ここのところずっと、そればかり考えている。共感や協調を求められることが苦手だった。その分、他人にもそれらを求めずに生きてきた。そういった生き方は、世間から良くない評価を貰うものだったけれど、そうでもしなければ私は、この世界で生きていくことは出来ない。
そうして切り捨ててきたものを今さらさおりに求めるなんて、さおりに対しての裏切りに等しかった。
足元のフナムシを踏み潰そうと、わざと歩くテンポを乱した。フナムシは素早い動きで靴の裏を回避し、一瞬の間に姿を消してしまう。殺戮を果たせなかった私の中に、夏の暑さが沈殿していく。風が吹いて、さおりの髪が大きくなびいた。白いうなじが日の下に晒される。私は早く、間抜けなフナムシが足元に躍り出てくれるよう願う。
ああ、暑い。
滲んだ汗はあっという間に粒となり、こめかみから顎まで一気に流れ落ちていく。さっきまで私の身体を満たすものの一部だったはずの水やミネラルやタンパク質が、私から切り離されて夏に蒸発していく。私が目減りしていく。
私の質量が減っていく現実から目をそらしたくて、私は右側に広がる海を見た。夏の海は青くあるべしという共通認識に逆らって、海は黒っぽい緑色だった。この暑さで波も参ってしまっているのか、やる気を感じさせない投げやりな凹凸を繰り返し吐き出している。消波ブロックの上で釣りをしているおじさんたちが、粘っこい視線をさおりに向けている。私はプリーツの裏で彼らに中指を立てた。
ああ、本当に暑い。
目の前に揺れる、さおりの無防備な背中。制服の白いシャツに、いびつな形の汗の島が浮き上がっている。
さおりに私の気持ちは分からないし、私にだってさおりの気持ちなんて分からない。陸のものであるさおりと、海のものである私との間には決定的な隔たりがある。私たちが今日まで同じ場所で呼吸をしていられたのは、少女時代という緩衝期間があったからに過ぎない。でも、私たちは成長してしまった。望む望まないとにかかわらず、胸は膨れ股からは血が流れ、私たちはおんなになっていく。そしておんなになったさおりは、おんなになった私から離れていってしまう。永遠に。
「着いたあ」
さおりが振り返った。さおりの向こうで堤防は途切れており、風雨に欠けた石階段となって狭い磯に繋がっている。消波ブロックの群れと群れの間にかろうじて残されている、申し訳程度の磯だ。
さおりはいつか磯を離れて陸へ上がり、それきり帰ってこなくなるだろう。私はいつまでたっても海へは泳いで行けないだろう。陸に上ったさおりを諦めきれず、潮溜まりの中で未練がましく呼吸を繋ぐ。そして潮の満ち引きだけを月日を数えるすべとして、おんなの身体を持て余しながら、やがてふやけて溶けていく。
きっと今日が、二人で磯を訪れる最後の機会になる。今日以降、さおりは私とは遊ばなくなるし、私もさおりを誘わなくなる。磯の思い出は胸のうちにしまい込まれたまま、輝かしい少女時代の記憶としてゆっくりと醸成され、「過去」になっていく。夏が過ぎていく。
「降りようか」
熱射の中でさおりが微笑んだ。そうして足を踏み出そうとしたその瞬間、熱気を帯びた風が山から海へと吹き下ろした。
一歩を踏み出した少女の身体は、面白いほど簡単に風に煽られて、物干し竿のシーツのように翻り――……さおりの目が、私を見た。
悲鳴は上がらなかった。これまでに聞いたことのないような、奇妙な声を呟くように発して、さおりは堤防の向こうへと落下していった。道路を一本挟んで立つなだらかな山から、狂ったような蝉の声が駆け下りてくる。蝉たちが私を急き立てていた。さあ、さあ、さあ。見よ、見よ、磯を見よ。
「さおり?」
呼びかけてみるが、返事はない。唾を飲もうと喉を上下させたけれど、口の中はからからに乾いていた。それなのに、相変わらず汗だけはだらだらと止まらない。
「さおり」
少女の名を呼びながら、堤防の向こうを覗き込んだ。黒い丸々とした瞳に、夏の青空をいっぱいに写し込んだまま、さおりは磯にとらわれていた。
白くほっそりとした両脚は、ぬめりのある岩の上に投げ出されている。びっしりと生えたフジツボで擦ったのだろう、左脚のくるぶしから膝の上まで、大きく皮がめくれて肉がこそげている。さっきまで官能的に汗を流し続けていたうなじは、今は汗とは違う体液を垂れ流している。一段高いところにある岩に、肉の破片をくっつけた髪の毛が絡まっていて、さおりの後頭部は一度この岩でバウンドしたのだろうと思われた。
「さおり……」
慎重に磯へ降りて、さおりの隣に立った。天頂に昇った太陽を直視したまま、さおりは何の反応も示さない。潮溜まりに突っ込まれたさおりの指が、時おり不随意的に動くばかりだ。
しゃがみ込んで彼女の顔を覗き込むと、元々色白の頬が見る間に蒼白になっていくのがよく分かった。脚と後頭部を事態の中心として、さおりは急速に消失していく。
私の汗がさおりの口元に落ち、唇のカーブを越えて体内へ流れ落ちていく。私は汗の後を追うように、彼女の唇に吸い付いた。脱力して半開きになった顎は、私の侵攻を拒むことなく受け入れる。突き上げる欲のままに何度かついばんで、いくらか焦燥が落ち着いてきたとき、さおりの唾液がこぷりと泡立った。
それは言葉の萌芽だった。何か話そうとしているさおりに、「どうしたの?」と尋ねる。さおりは焦点の合わない黒目を左右逆方向に彷徨わせながら、一言「やめて」と呟いた。
たった三文字の短い言葉だ。これまでもじゃれ合いの中で、互いに幾度となく言い合った言葉だ。しかし今はその三文字が、私の中に沈殿した夏を激しくかき乱した。
「さおり」
磯にはあらゆる海洋ゴミが流れ着く。漁網や釣具、壊れて漂流したブイ、ペットボトルにスチール缶。私はその中から、細長い凶器をつまみ上げた。私の親指ほどの太さがある注射シリンジには、いくらか錆びかけてはいるものの鋭い針がついたままだ。
「さおり、磯で生きよう」
陸に行ってしまわないで。私を磯に置き去りにして、陸で勝手に幸せにならないで。
潮溜まりのぬるい海水をシリンジに満たし、私はさおりの腕を取った。肘の内側を指で探り、青い血管を見つけ出す。シリンジを寝かせて針先で皮膚を突くと、細い金属の先端は、驚くほど簡単に体内に吸い込まれていく。
ゆっくりと、親指に力を込める。藻と泥と微生物に満ちた海水が、針の先から押し出される。さおりが動けないながらも後退するような仕草を見せた。「大丈夫」と私は優しく囁きかけた。
何度も、何度も。海水を吸い取っては、さおりの中に入れていく。針が錆びて少し詰まってしまっているのか、時おり「ジュッ」と舌打ちのような音を立てて、針は海水と同時に小さな気泡を吸い取った。私はおかまいなしに、それをさおりに注射した。
数え切れないほどの微生物たちが、さおりの体内を縦横無尽に泳いでいく。血管内壁を傷付け、免疫細胞を怒り狂わせ、およそ対処しようのない毒素を排出しながら、さおりの身体を満たしていく。さおりが磯にふさわしくなっていく。
作業に没頭する私の背中に、夏の日差しは容赦なく降り注いだ。さっきまで滝のように流れていた汗はいつしか止まり、今は嘘のように皮膚が乾いていた。吐き気がする。目眩もしているのか、天地が波に揺さぶられているような感覚になる。
陸と海。磯の向こうの堤防が、イソギンチャクの陸上進出を邪魔している。真夏の熱に干上がった潮溜まり。取り残された魚がエラをはくはく動かして、生きながらにして生臭く腐っていく。
蝉たちが大声で、海のものたちの醜態を嘲笑っている。その蝉たちも夏のうちには、アスファルトに転がって蟻のご馳走に変貌する。蝉の眼球を腹いっぱいに食べた黒蟻が、ふと落ち葉の上に足をかけたとき、強い風が吹いて落ち葉は空に舞い上がった。落ち葉は蟻を乗せたまま、くるりと翻って潮溜まりの上に落下した。
水面と葉との間に挟まれた黒蟻は、しばらくもがいているうちに気門を水で塞がれて、やがて潮溜まりのゴミの一部になっていった。
陸と海の間を死が往復している。その行進に巻き込まれて、私はさおりに海を与えている。思考が混乱している。自分が今どこにいるのか、よく分からなくなってきている。学校の教室、あるいは体育館。ボールの跳ねる音。校庭、あるいは図書室。さおりは遠藤周作のエッセイを読んでいた。夕焼けに染められた帰り道。途中までは同じ道を歩んで、そして私たちは当たり前のように違う道へと逸れていく。さようなら、さようなら。それがどんなに悲しいことか、さおりは考えたことがあるだろうか。
「わたしは、かなしかった、よおお」
強い嘔気がこみ上げてきて、私は嗚咽と共に吐瀉物を撒き散らした。手元が狂い、注射針はさおりの腕に垂直に、深々と突き刺さる。けれど、さおりはもう何の反応も示さなかった。吐瀉物が顔半分にかかっているけど、それを拭おうともしなかった。
いつしか私の身体も、極限まで夏に削り取られていた。さおりの隣に倒れ込む。小さな蟹が、さおりの後頭部の肉を摘んでは口に入れている。私はぼんやりと、何の感情もなくそれを見ていた。後悔もなく、達成感もない。ただ悲しみだけがあった。
やがて今日の殺戮を終えた太陽が西に傾き始めると、それと呼応するように海面が陸に擦り寄り始める。私の身体の左側は先んじて海に浸り、さおりを迎え入れる準備を始めている。
刺さったままの注射シリンジが波に洗われて抜け去ったとき、さおりがびくんと大きく跳ねた。これまでの静止が嘘のように、硬直した全身が大きく震え、背は弓なりに逸らされる。そして何度か痙攣すると、まるで糸が切れたかのように、磯の中に崩れ落ちた。それを見届けてから、私は重い体に鞭打って寝返りをうった。
うつ伏せになった私の鼻に、口に、海水が流れ込む。私の意思に反して、私の身体は溺水の苦しさから逃れようとするけれど、もう藻掻く力なんてどこにも残っていない。酸素を求めて大きく膨らんだ肺は、もはや二度と大気を吸い込むことはできない。私の身体もまた、磯に満たされていく。
共に磯の一部となった私たちなら、きっと分かりあえるはずだ。別々の道を歩かなくてもいいはずだ。陸のものでもなく海のものでもなく磯のものとして、おんなにならない少女のままの存在として、私たちは永遠にこの潮溜まりで睦み合っていられる。
ごぼり。私は最期の息を吐いた。昼間の蝉たちからバトンを受け取ったヒグラシが、私たちの門出にささやかな音楽を添える。その物悲しげな声だけが、死を急かす波音の中に、かすかに聞こえ続けていた。
<終>
磯に消ゆ 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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