都会に聳える高い壁

豊科奈義

都会に聳える高い壁

 日本の首都にして最大の都市である東京。そんな東京に向かって、電車が向かっていた。その電車が走っているのは海岸地域。まるでその巨躯を海に見せつけるかのようにカーブを曲がり灰色の海へと入っていく。

 そんな複々線の鉄道路線を走っている電車の中に、一人の少女がいた。目立たないようにと、灰色のパーカーに黒色のズボンという全体的に彩度が全くなく地味にまとめられている。身長は、同年代と比べてもやや低いがとりわけ低いというわけではない。そんな少女は、電車内で苦しんでいた。理由は言わずもがな、車内における人口密度である。一度電車がカーブに指し当たれば、車内に詰め込まれた人たちは一体の生き物のように、大きくその体を揺らす。

 ここに来て少女は後悔したのか苦悶の表情を浮かべる。気分転換に海を見ようとしたばっかりにと。

 窓の方を見ても、人の合間からわずかに見えるはずの海は見えず代わりに見えるのは工業地域だったらしく大量の煙突から白煙が上っていき空一面に広がる曇り空に吸い込まれていった。

 少女が外の景色を眺めていると、ふと臀部にナメクジが這うような感触があった。


「ひゃっ……」


 すぐに口を押さえ、バレていないかと周りの様子を見る。遠くの方までは聞かれていないようだが、近くの人はちらちらとこちらを一瞥する。

 途端に少女は顔を真っ赤に染め、ただ床を見ることしかできなかった。ただ、やっぱ止めとくべきだったかなと過去の自分を責めるのみ。


 東京駅に到着すると、車体から逃げるように駅の中へと駆け巡る。しかし、東京の広大な駅の中を散々迷った挙げ句、駅員に教えてもらいようやく外に出られたのだ。少女はとうにクタクタであり、スポーツ直後なのかと見紛うほどに、前傾姿勢になり両手を宙に漂わせている。

 脳内を過ぎった帰りたいという感情を無理やり押さえつけ、足を進める。こうして、一軒の高層マンションへと到着した。

 顔を垂直にしないと天井部に見えないほどに、高さがある壁のような高層マンション。改めてその大きさに驚くとともに、ここに来て尻込みしてしまう。

 ──やっぱ帰ろう

 

 ふと、そんなことを思い踵を返す。一度決めたことをすぐに捻じ曲げてしまう自分のことが、なんとも情けなく頼りない。それでも、帰りたいという気持ちが強く駅の方へ向かう。


「玲?」


 その言葉を聞いた途端、少女の──玲は動けなかった。顔は赤くなり、心臓の鼓動はいつにもまして活発で、全身に熱い血液を送っているというのに、凍りついたように動けなかった。ただ歯を食いしばりカタカタと震わせる。心臓を噛み締められたらどんなにいいだろうと思っている間に、声の主を確認しようともせず後ろから近づかせることを許してしまう。

 こんな姿、見せられない。人違いってことにすればいい。

 玲が考え、実行に移そうと振り返るよりも早く。声の主は、玲の顔を覗き込んだ。


「……玲?」


 確定までは至っていないが、玲の目の前の人物は彼女がおそらく玲であると認識しているようだった。一方の突如顔を覗き込まれたことに驚き、思わず尻もちをついてしまう。

 玲は、目の前の人物を見た。身長は同年代と比べても高いほうだろう。親友の──卓の、成長した姿に思わず玲は顔を背けた。

 一方の卓は、玲を玲だと認識しているものの疑問に思う点は多い。なぜ散々連絡を取り合っている仲なのに顔を背けたのか。そして……。

 ──どうして女性のような容姿をしているのか。

 

「ひ、人違いです……」


 顔を見ようとせず急いで卓の元を立ち去ろうとするが、卓は突如スマホを取り出し軽くタップする。そんなこと気にしていられない玲は必死で卓から離れるもスマホが震えていることに気が付き取り出した。しかし、そこには『卓』と名前が表示されている。卓の方を見るが、卓は玲をからかうかのようなあざとい笑みをしている。電話に出れば確実にバレてしまうとはいえ、でなくても着信音が鳴っている以上バレかかっている。

 どうするか考える暇も与えず、卓は着信を切る。当然のように、玲のスマホの着信音も収まった。

 

「ねぇ、玲」


 何を言われるのか、玲はただただ不安だった。こんな姿になって、今までとは大きく異なる容姿になって、どんな棘のある言葉を言われるのか。玲はその場に座り込み、近づいてくる大きな卓を見上げる。

 卓はゆっくりと玲へと近づいてくるが、玲は恐怖に体を乗っ取られ立ち竦むことしかできない。卓は玲の目の前まで立ち玲を見下ろすと、躊躇うことなくゆっくりと口を開いた。


「久しぶり、こんなところで立ち話もなんでしょ」


 卓は、玲の腕を掴むと有無を言わさず自室へと連行していった。玲は抵抗するわけでもなく、ただ卓の成すが儘にその身を卓へ委ねた。

 慣れたようにオートロックを解除し、卓の部屋へと入る。卓はご丁寧にも、コーヒーを出してくれる。シュガーとミルクも欠かせない。用意してあるあたり、卓はさしずめこれらをたっぷりと入れるのだろう。

 そして、ダイニングテーブルを挟み、ダイニングチェアーに両者は向い合せで座った。

 玲は視線を逸らし、話しかけてくる様子が微塵もないため、卓が何の動揺もない様子でふと話しかけた。


「それにしても、家出なんて……。玲が考えるとはね。ところで、それって玲が可愛くなったのと何か関係が?」


 卓は、玲と遊んだ日々を思い出す。とてもじゃないが、家出なんてする子どもではなかった。ただ、人の顔色ばかり気にしていたからだ。


「うん……。実はね、急性性転換症候群になってね。まあ、いろいろあったんだよ。察してくれると助かるよ」


 玲の言葉は、どんどん覇気のなく小さな声になっていく。


「うん。わかった」


「いいの?」


「親友の頼みだ。何を否定することがある? それとも否定してほしかった?」


「怖くないの? こんな姿で……」


 玲が最も恐れていた


「……なるほど。そういうことね。だったら、好きなだけここにいるがいいさ。僕は大学があるから、日中ずっといるわけじゃないけど、何かあったら言ってね」


 その一言で玲は心が軽くなったような気がし、窓から光が差し込んでくる。


「おや、晴れてきたのかな?」


 卓が窓を開けると、あれだけ空一面を覆っていた雲は流されており、太陽が燦々と輝いている。ベランダの窓についた水滴がより一層太陽の輝くを増していた。


「ありがとね、卓……」


 玲は呟いた。声自体大きくないし、卓は天気に夢中で聞いていない。しかし、玲はそれでいいのだと思っている。

 玲は、喉が渇いていることに気がついた。そして、未だ手を付けていなかったコーヒーをブラックのまま口元へ持っていく。


「苦い」


 そして玲は、ミルクを混ぜた。真っ黒なコーヒーが真っ白になるまで。

 


 玲が卓の家に来てから数日が経過した。卓は何もしなくていいと言ったが、さすがに何もしないとなると良心が痛むため卓に無理を言って白いフローリングを一生懸命に掃除していた。


「ふぅ……。綺麗になった」


 玲が改めて卓の部屋を見渡すが、まるで新築かと思えるような白く綺麗な床が広がっていた。一息つき、ふと体を見る。そこには、大量の埃や汚れがが付着していた。


「うぅ……」


 思わず声を漏らしてしまう程に、不愉快だった。ゴミ箱の上で体を叩くも、埃は落ちるが中には落ちにくい汚れもある。玲は繊維の間に挟まった僅かなゴミと格闘していると、扉が開き卓が入ってくる。


「玲? どうしたんだ?」


 卓はゴミ箱の上部で体を叩く玲の奇行を興味深そうに眺めながら聞いてみる。


「いや、掃除してたら服に汚れがついちゃって」


「他に服はないの?」


 卓からすれば着替えてしまい後は洗濯機に任せようという魂胆なのだ。


「あるけど……」


 玲は言い渋った。一応玲は服を持ってきてはいる。今こうして生活できているのは、洗濯でき洗濯物を乾かせているからだ。最近は晴れの日が続いているが、いつ雨が降るとも限らない。

 一応服を買えるだけのお金は持っているのだが、別のものにお金がかかるので使えないのだ。


「服買おうか?」

「いいよ、お金かかるし」


 玲も当初は知らなかったのだ。女性には必要経費が大幅に嵩むことを。


「じゃあ行くか」

「え? ちょっと!?」


 貧弱な玲の体では、卓に抵抗することなど敵わず駅へと連れて行かれる。駅に来たのだから、当然電車に乗るのだが前回とは違い不安は少ない。すぐそばに知り合いがいる。それだけでも、玲の心は充分に落ち着くことができた。

 複数の乗り換えを終え、やってきたのは東京郊外にある巨大なショッピングセンター。ショッピングセンターなど周囲にない田舎からやってきた玲にとっては、眼を見張るものがある。

 白色のフードを深くかぶりその人混みの中へと入った。


「人が多い……」


 ショッピングセンターに入ってふと思ったことを口に出した。田舎暮らしの玲にとって、ここまで人が多いのは珍しかったのだ。時折、他人の視線で竦んでしまうが自意識過剰なのだと自らにムチを入れる。そして、玲はコバンザメのように卓のすぐ隣にくっつく。

 通路の真ん中で卓が止まると同じように玲も止まる。


「服、どこで買おうか?」


「そういうの、わかんないや」


 玲は卓から渡された一応構内図を見てみるが、アパレルショップが本当に多い。1階の構内図を見ただけで、このショッピングモールの半分ぐらいをアパレルショップが占めていそうだとわかってしまうほどに。

 一応有名な大手ファーストファッションショップはあるため、とりあえずそこに向かおうとしていた時だった。後ろから声がかかったのは。


「あれ? 弗島くん?」


 後ろからかけられた声。それは、まるでこんな場所に彼がいるわけがないと思っており、実際目の辺りにして驚いてしまったかのような声だ。


「ん? 伊達か」


 弗島──卓の名字である。非常に珍しい名字であるため、覚えられやすいのだ。

 それ故、卓はその声の主に振り向くと、気さくな挨拶をする。これだけで何らかの知り合いであることがわかる。しかし、玲からすればあまり良い話ではない。

 卓が伊達と女性。一見すると金色に染めた髪に、着崩した真っ白な服装とギャルっぽさが露呈している。しかし、その瞳に映るのは卓のことのみ。わずかに膝を折り、卓に自然と上目遣いになるようにすることも忘れず打算めいている。


「弗島くん? 隣にいるのは恋人ですか?」


 燦々と目を輝かせ恋バナに興奮しているような風を装ってはいるが、実際には玲と卓の関係を知りたいだけなのだ。興味本位で聞いているとうな何の重みも感じない発言。本当にただの興味本位なのか、或いはわざとそのように聞いているのか。


「ち、ちがっ……」


 気の合う親友とはいえ、さすがにカップルに見られるなど思ってなかった玲はひどく赤面し必死に否定する。


「へー……そうなんすね」


 伊達は慌ただしく否定する玲を怪訝な目で見た後、全く信用していないとばかりに感情の籠もっていない文言で首肯する。


「まあいいや、何買いに来たんです?」


「ああ、玲の服をな」


 卓の視線が玲に向かい、伊達も玲を認識する。


「玲ちゃんって言うんですか。じゃあ私が選んであげますよ。とびっきり可愛いのをですね──」


「いいですよ……。可愛くなくても」


 玲は目立ちたくないので、少し地味すぎるほうが安心できるのだが伊達の耳にはまるで入らずそのまま近くのアパレルショップへと連れて行かれる。ファーストファッションではない。小さいながらも手を出しにくい価格の衣料品を揃えた店だ。

 あれもいいな、これもいいな。と、伊達はいろんなものを見繕い玲へと押し付ける。


「はい、これ。着替えてきてくれる?」


 無理やり受け取らされた服装は派手なものばっかりで、正直玲としては自分に似合っているのは不安だった。だが、伊達からにじみ出る有無を言わせない圧力により渋々試着室へと向かう。

 卓は服装選びを伊達に任せたようで、卓は単独行動している。人目を気にする玲であるが、卓の知人とはいえ彼女もまた赤の他人と変わらないのだ。人目が怖く、早く卓と合流することを願いつつ慣れない服に着替えた。


「ど、どうですか……」


 はっきり言って、玲に自信などない。自信など身につくはずもなかったのだ。ただただ羞恥に耐えつつ、伊達の前へと現れた。


「おお……。これはなかなか」


 道端に落ちていた真鍮の装飾具を拾ってみたら、金細工だったかのような驚いた顔。


「な、なんですか?」


 まじまじと全身を見られ、羞恥心がなおさら刺激される。そして、玲の体を隠そうとする動作に伊達はより一層目を凝らすのだった。


「よし、買おうか」


 伊達は微笑むと、玲をレジカウンターまで有無を言わさず引きずる。そして、「お会計したいんですけど」などと店員と円滑に会話を進め合計で五桁を超えた服をお買い上げする。


「ありがとうございました」


 満面の笑みの店員の丁寧な挨拶に見送られ、店を後にする。かくして、ショッピングモール内をぶらつくが玲はより一層縮こまっていた。以前にもまして、視線が増えたからだ。

 仲良くなったと思ってないにも関わらず玲は伊達の袖を手で掴んで気を紛らわすほかなかった。。

 そんな玲を、伊達は横目に見ると何か考えついたとばかりに提案した。


「とりあえず、休憩しようっか」


 伊達は遠くに見えるベンチを見つけると、玲の腕を引っ張りベンチへと向かった。

 二人はベンチに腰を下ろす。しかし、それから何かあるというわけでもなく雑踏を眺め雑踏もこちらを見返す。気まずくなり、玲は顔を背けるがそんな時伊達は口を開いた。


「ねぇ、玲ちゃん。弗島くんと同棲してるの?」


 いきなりこの言葉を告げる辺り、恐らくそのようなニュアンスのことを卓から聞いたのだろう。そうでもしなければ、カップルかと問われて否定したのにこの言葉が出てくる理由がつかないからだ。

 そうなれば、嘘を付くのも気が引ける。


「えっと……それはね……」


 言葉を濁し、どうにか適切な次の言葉を探す猶予を作る。しかし、言葉を紡ぎ出すよりも前に伊達は動いた。


「同棲してるんだね。彼女でもないのに?」


 誂うように、伊達は告げる。


「べ、別に。彼女じゃないと同棲しちゃいけない決まりなんてないし……」


 反射的に玲は自己正当化を図るが、すぐに却って自分の首を絞めかねないことだとわかり言葉が途切れた。


「じゃあさ、玲ちゃんは弗島くんにとって何なの?」


 ふと紡がれた冷酷な言葉。その言葉を真正面から受け玲は飽きもせずまた言葉に詰まった。


「そ、それは……」


 ──親友。

 

 玲の一番の理解者であり、姿が変わったことについても深く聞いてこなかった。信頼できる存在だ。


「親友だよ」


 玲は断言した。


「親友ね……」


 伊達は復唱したものの、腕を組みまるっきり信じていないように見える。細めた目は玲を見下すかのようで、蔑んでいるというよりかは呆れているようだった。


「私さ。男女の友情って信じないんだよね。それに、老婆心ながら忠告させてもらうと玲ちゃんがそう思ってても弗島くんはそうは思ってないかもよ?」


 たかが一人の意見。わざわざ玲が反応する必要も鵜呑みにする必要だってない。しかし、唯一の信用できる人間との関係。玲としては絶対に失いたくない。そう思うと急にあらゆるものが不安になってくる。


「そ、そんなわけない。卓は、転校する時一生親友だよって言ってくれたから……」


 遠い昔の言質を述べても、伊達の反応は今ひとつ。それどころか、一蹴するような態度だった。


「転校? ああ、確か弗島くんが小学六年の頃だっけ? でも、小学六年なんて思春期も始め。思春期を経ても、弗島くんにそれを言わす自信はあるの?」


 ネット上で連絡を取り合ってたとはいえ、玲は性転換し、二人とも大人になった状態で再開したのだ。変わりすぎてしまった。はっきり言って、卓に親友だとまた言わせられる自信なんてない。それでも、玲はこの関係が壊れるのが怖かった。


「やだ……」


 瞳に涙を浮かべ、手で頭を抱え、俯きながらに拒絶の言葉を繰り返す玲。さすがに伊達も言い過ぎたとばかりに気まずい表情をし、先程とは打って変わって聖人のような面持ちになった伊達は、陸に上がってしまった魚のように震える玲の体を抱きしめた。


「ごめんね、玲ちゃん」


 玲は自分や伊達の真っ白な服装が涙で濡れることも、人目につくことも厭わず、静かに涕泣する。そんな目立つことをしていたためか、卓はこちらへと気づき急いで駆け寄ってきた。


「何があったんだ?」


「あ、弗島くん。実は、ちょっとトラウマ抉っちゃったみたいでね」


 冷静に言ってのけるが、なんてことをしてんだと卓は呆れるほかない。

 その後、ようやく泣き止み真っ赤に目を腫らした玲は伊達にたっぷり奢らせることで和解した。けれども、無遠慮にトラウマを抉ってしまったことは愉快なものではないと内心、玲の伊達に対する評価は低かった。


「それにしても……」


 卓は何かを言いたげに、玲を見つめた。思い当たる節がなく、言葉を待っていると卓は再び玲の体を見渡して笑みを浮かべる。


「玲、より一層可愛くなったな」


 一瞬、玲は自分自身が何を言われているのかわからなかった。何回も反芻し、意味を悟ると全身マグマのごとく真っ赤になる。そして、あれだけ嫌いになった伊達の印象が良くなっていく。

 嬉しいような、悲しいような謎の気持ちに、玲は困惑する。


「さあ、行こうか」


 卓は玲へと振り向いた。体も目も真っ赤っ赤の玲を卓なりに心配しているのだ。


「うん」


 とても浅い首肯で、玲は俯いている。伊達の袖を掴むとモール内の冷房が一段と涼しく感じられた。



「それじゃ、行ってくる」

「いってらー」


 玲が卓の元にやってきてから一か月。すっかり玲は都会での生活に適応していた。とはいっても、ほとんど外に出ずたまに近所のコンビニに行く程度で都会を謳歌しているかと言われればそうでもないだろう。

 しかし、玲にとってはすべてが気兼ねなく、人間関係に惑わされることもない。実家を出て正解だったと、確信できる。実家を出て、正解だったと言えよう。

 そんな玲は、三角巾を身に着け掃除をしようとしていた。掃除をするのはいつものことだが、今日は気分がよいので徹底的に掃除しようというのだ。いつもでは掃除しないような僅かな空間の埃も絡め取る。そして、とある棚を開けた。恐らく、何らかの書類だろうが保管してあるということは大事な書類である。間違って捨てぬようにとハンディモップで整然と整理されたクリアファイルで綴じられた書類たち。その凹凸を拭うが、どうにも掃除しにくい。

 クリアファイルでを高さ順に並び変えようかとも思ったが、クリアファイル同士の僅かな凹凸を見てすぐにその考えを撤回する。こんな棚の中に入っているのだ、貴重な資料などが入っているのだろう。万が一並び替えて何かあったら大変である。

 諦めて再びハンディモップを手に取りもどかしいながらもクリアファイルの凹凸を拭う。しかし、埃が紙と紙の隙間に入ってしまった。仕方ないとばかりにクリアファイルを取り出し、思わずハンディモップを落としてしまった。

 それはなぜか、クリアファイルに綴じられていた一枚の合格証。それは日本の最高峰。東京開成大学の合格証明書であった。

 玲は、卓が東京の大学に通っているということは知っていたが、まさかこんなレベルの大学の高い大学に通っているとは微塵も思ってなく急に自分自身の立ち位置が不安になった。

 こんなすごい人の家に居候してるという事実。急に自分が更に情けなく見える。そして、否定的に傾いてしまった玲の思考は更に考えを広げる。

 伊達も同じく東京開成大学なのではと考えてしまった。

 あの見た目では……と思うが、見た目で判断するのはよくない。だが、伊達は同棲したことを本人から聞いていた。バイトもしていないと豪語している以上、同じく東京開成大学である可能性が非常に高い。


「はは……はは……」


 もう笑うしかなかった。別に東京開成大学は悪くないのだが、無駄に高いブランド力を持ちすぎてしまった。

 東京開成大学に通っている人とそうでない人には目に見えぬ心理的な壁を感じたのだ。親友であり、自分のことを受け入れてくれた卓が手の届かない場所にいるような気になって。

 そう考えてしまうと、掃除などに手を付けられずハンディモップを回収し掃除を止める。気分転換にと、好きにやっていいと言われたテレビゲームをプレイするも面白いとは思えずすぐに止めてしまう。結局、その日は何もかも手つかずになり卓が帰ってきた。


「おかえり……」


 扉を開けると、卓が入ってくる。


「ああ、只今」


 二人ともおしゃべりな性格ではないため、口数が少ないのはいつものことだが今日はいつにもまして口数が少なかった。

 未だに他人が怖くてコンビニまでしか行けない玲のために、買い物は卓の役割だ。そのため、卓はひどく膨れ上がったビニール袋を玲へと手渡す。


「今日、焼き肉にしない?」


 なんでこんな気分が落ち込んでいる日に焼き肉などしなくてはならないのか。とはいえ、居候の分際で拒否権などない。それに、卓は大学で何かいいことでもあったのだろう。気分が高揚していた。せっかくの高揚感を妨げるわけにもいかなかった。


「う、うん」


 玲は浅く頷いた。

 そして、ホットプレートを用意すると卓は次々に肉を乗せる。


「急に焼き肉なんてどうぢたの?」


「ああ、研究中に新発見があったんだ」


 会話をしても、一分も持たない。この間の静寂も、いつもなら何も感じないのだが玲はいつも以上に重く苦しく感じられていた。玲は、とりあえず焼いていた肉を裏返す。


「そ、そういえば。卓って東京開成大学に通ってるんだよね。すごいね、勉強したの?」


「まあね」


 玲なりにも頑張って会話を続けようとするも、口から出るのは当たり障りのない会話ばかり。卓も、過去に同様の質問をされたことがあるのか間髪を入れずに即答する。

 他に質問をしようと考えてみる。そんな中、卓は玲の違和感に気がついたらしい。長年会ってなかったとは言え、一月も同棲すれば相手が何を考えているのかくらいある程度は想像できた。


「本当に大丈夫?」


 卓は憂色を漂わせる。


「そ、そんなこと……」


 ──そんなことない


 途中まで言いかけたが、最後の最後で声が止まった。言葉を捻り出すのは簡単だ。けれども、今の玲にはその言葉を述べることなんてできない。拳を握りしめ自身の行動を反省する。

 目の前で焼いている肉が焦げ始めても何ら気にすることもできないほどに玲は悩んでいた。玲の脳裏に浮かぶのは以前も同様に取り繕って、そして失敗してしまった過去。

 焦げた肉に目を向け、タレも付けずにそのまま先程から時が止まっている口に放り入れる。

 ああ、苦い。

 大学生の親友の部屋に転がり込み、働きもせず、毎日ただ惰性に暮らす生活。”つらい”なんて呟いたらどれだけ多くの苦しんでいる人を敵に回すのだろうか。

 そんなどうでもいいことを考えてみたりすれども、やっぱりこの生活がつらかった。



「はぁ……」


 玲はわざとらしいとすら思える長いため息をついた。

 どうしてこうなってしまったんだろうか。そう心の中で幾度も呟きながら闇に覆われたコンクリートジャングルを進む。とは言え、田舎とは違い光に溢れている。田舎ならとうに暗闇に支配され、光などなく海底に沈んでいるのかと錯覚させるほどに静かだ。だが、東京の闇は違う。ざわめきがあり、光もあり、安心できるはず。にもかかわらず、どこか薄気味悪さを感じた。

 逃げようと足を早めても建物ばかり。道なりに進むしかない。

 そして、出たのは大通りに面した駅。周囲は多くの人々で賑わっている。そして、その駅からちょうど電車が出発するところらしく止まっていた高架上にある電車がゆっくりと動き出していた。

 それらを見て、玲はふと自分自身の薄い財布を開く。

 反射的に出てきてしまったため、当然持ち合わせなどない。卓の家にいる間も、コンビニには行っていたがその都度卓から貰っていたため財布の中に日本銀行券は一枚とて入っていない。あるのは、幾千円分がチャージされた交通系ICカードのみ。

 駅へ行き、券売機で残高確認をしてみるも860円と微妙な額。長距離は行けそうにない。

 万が一の時を考え、半分は残すとして430円で行ける適当な駅へと向かう。

 電車の中は目がくらむほどに眩しかった。乗客は非常に多く座ることも叶わずここへ来た時同様大きく時化ていた。

 扉の近くに立っていた玲は、目的の駅へと到着するなり異物を吐き出すかのように降ろされる。

 やっとのことで降りた駅は初めて見る駅だった。だが、周りには何かあるわけでもなく住宅ばっかり。どうやらこの辺りは住宅街らしい。目立った商業施設もなく地平線の彼方まで住宅が広がっているかのよう。歩いても、歩いても、見える景色は変わらない。没個性の戸建てが道沿いに建っているだけ。

 こんなところまで来て何がしたかったのかと、自問するが自答できないもどかしさ。歩くだけなのに、自分に嫌気が差す程にその工程はつらかった。


「あれ? 玲ちゃん?」


 声がかかったほうを見る。そこにいたのは伊達だった。買い物終わりなのか、ビニール袋を持っている。なぜここにいるのかと言わんばかりの顔で、こちらを覗き見る。


「お久しぶり……です」


 以前合った時は、あくまでも親友の友人という感覚だったが、体が萎縮してしまう。思わず会釈をし、丁寧な挨拶を返す。はっきり言って、彼女に敵うものなどないのだ。学歴も、女性としても。それ故、玲自身伊達に対してはコンプレックスを抱かずを得ない。


「どうしたの? こんなところで。あんまり外に出ないって聞いてたけど、もしかして迷子? とりあえず、家来ない?」


 卓とのコンプレックスで外に出たというのに、伊達に会う。実家に戻っても奇怪な目で見られる。

 自分が不運になるのは運命で変えようがないのか。そんなことを思ってしまうほどに安堵できる場所がない。どうせ他の何をしても同じ運命を辿るのならと、もう抵抗する気力すらなかった。


「はい」


 ついてきてとの言葉の後、玲は伊達の後をついていく。だが、ここは東京の高級住宅街。学生がそんなところに住めるわけもないため、実家ぐらしなのかと思いきや独り暮らしなのだという。

 そして、徒歩数分で伊達は家についた。大きさ自体は田舎では一般的だったが、ここが東京だということを考慮すれば必然的に値段は跳ね上がる。


「独りで住んでるんですよね?」


 先程の発言は聞き間違いか、或いは嘘か。伊達に確認する。


「うん。そうだよ。4000万で買ったんだ」


 自慢するわけでもなくさも当たり前のことのように平然と言いながら、伊達は家の扉を開けて玲を自宅へといざなった。

 すぐに来客用のカップに紅茶を注ぎリビングにあるソファに座らせた玲の元まで持ってくる。


「何か悩み事? もしかして、恋の悩み?」


 玲に恋にうつつを抜かす余裕などない。玲は重たそうにしている頭を横に振る。予想以上に重症だと悟った伊達は、何の躊躇もせずに玲の隣に座る。


「弗島くんと何かあったんでしょ?」


 伊達が優しく声をかければ、感極まった玲の頬に一筋の涙の轍が残る。


「卓は悪くないんです。全部、私が悪いんです……」


 玲は、人間が信じられなかった。本当は信じたいのに。だからこそ、自分自身のそんな性格が嫌だった。怖かった。

 先のショッピングセンターでの一件も踏まえると言動からして卓のことを好きなのだろう。しかし、言動を全く隠す気がない。

 人間不信と自己嫌悪に悶え苦しんできた玲は、むしろ本性をさらけ出してる伊達のほうが安心できた。


「玲ちゃん? あなたはどうしたいの?」


 玲を心配するような探るような発言を受け、玲は反射的に口を開ける。


「私は──」


 逃げたい。

 でも本当は、東京での生活は心地が良かった。しかし、暮せば暮らすほどに自分と卓たちとの差を知ってしまい見窄らしく思えてしまう。

 卓にとっても同様だ。名門大学に入ったというのに高校中退の居候が入れば活動が制限されるほかない。

 このコンプレックスを解消できるのであれば、もっと卓たちと一緒に暮らしたい。


「どこか遠くに……。私は卓に迷惑かけっぱなしだから」


 どこか遠くにと言っても、行く宛なんてない。金もない、何か知識や技術があるわけでもない。高校中退の最終学歴中卒が逃げたところでなんにもできないとはわかっていても。


「私は、卓のお荷物だから」


 それを聞いて伊達は苛立っていた。自責ばっかりで、何の活路も見いだせないそんな玲を。


「だったら、東開大に入れば?」


 こういうところだと、玲は思った。

 平然とそういう発言をした。伊達にとってはその程度でも、玲にとっては無理難題のほかない。玲は落胆し項垂れる。


「東開大入れば、ほとんどの人から馬鹿にされないよ。まあ、旧帝医学部とかよりは見劣りするし、あんまり誇っても印象悪くなるけどね」


 笑いながら喋るその伊達の様子は、もはやただの自慢だ。少しは見直した伊達の印象も、どんどん悪くなっていく。


「私は、頭が良くないですし。何より、高校も出てないですし」


 信じられそうだと思っていたのに。この調子では彼女も信じられない。並べられた言葉を否定する文言を並べ、この会話を早めに終わらせようとする。

 もう諦めよう。そう思っていた矢先のことだった。


「なら、私とおんなじだ」


「え?」


 思わず玲は顔を上げ伊達の方を向いた。

 伊達は笑っていた。けれども、そこに嘲笑の意図なんてまるっきり入っていないように感じられた。


「私ね、高校中退したの。でも、諦めきれなくて二浪して入ったんだ」


 窓から風が吹き、そしてすぐに風が止む。時計の秒針の音が明確に聞こえるほどに静かだ。


「学校で色々あって入院したんだ。そしてそのまま退学。惰性で生きてきた。でも、だめだって思い心機一転。一年半も勉強してなんとか受かったよ」


 伊達の発言に誇示のニュアンスは全く感じない。ただ、思い出の一つとして偲ぶように語る。


「玲ちゃん。あなたならきっと行けるよ私も教えてあげるからさ?」


 親愛に満ちた優しい瞳で伊達は玲を見る。


「うん……」


 馬鹿なことだと思う。

 そんなちょっとの努力で日本最高峰の大学に入れるのであれば、多くの人がそれを成し遂げている。でも、そのような社会になっていないのは単に東京開成大学がそんな生半可なことで入れる大学じゃないから。

 それでも、玲が首肯できたのはそんなことのためじゃない。

 ただ、居場所が欲しかったから。


「だってさ? 弗島くん?」

「え?」


 場違いな卓の存在の名前を呼んだことに対し、玲は何事かとあたりを見渡す。

 だが、誰もいない。

 伊達はポケットからスマートフォンを取り出した。そこには、通話中の文字が。ミュートになっていてあちら側の音声は聞こえないようになっているが、こちら側の声は向こうに聞こえている。

 伊達は何も言わずに通話中のスマートフォンを玲に渡すと、玲はミュートを外した。


「ねぇ、卓。話したいことがあるんだ」



 卓が伊達の家に到着したのは通話を終えてからすぐのことだった。

 通話を終え、卓が来るまで気持ちの整理でもつけようかと考えていたがそんな暇はなかったようだ。

 卓は脇目も振らず、ただ自転車に跨り闇雲に伊達の家まで目指したのだ。伊達の家に入ってきたときには、汗だくで息を切らしておりまともに会話できそうもなかった。

 卓が伊達の家で一息つき、コップを静かに机においた後包み込んでいた静寂を破るかのように卓が口を開いた。

 

「まず、玲。伝えたいことがあるんだよな……?」

 

 最初に卓が喋り始めたが、何かを懸念するかのように語末に向かうにつれて覇気がなくなっていく。


「うん。私ね、とりあえず高認受けようと思う。そして、できれば東京開成大学に入りたい……」


 伊達は落胆した。けれども、安堵した。諦めのため息が出てしまう程に。


「やっぱりお似合いだね……」


 伊達が呟いたのは、相手にまるで聞かせる気のないそよ風のような声。緊張で頭がいっぱいの卓と玲には、伊達が喋ったことなど到底知り得なかった。


「……そうか」


 消極的肯定。卓は先程の発言からトーンを引きずったまま嘆いた。玲は言い方の時点で卓が何を言いたいかは察する。


「高認は難しくない。普通に勉強すれば受かるさ。ただ、東開大は甘くないぞ」


 東開大に受かった人がいう甘くないと言っているのだ。地頭がよくない玲は人一倍努力しなければならない。とはいえ、勉強は後からすればいい。これはある種の決意表明なのだ。


「うん。わかってる」


 そこに威勢はないが、重みはある。

 第一関門を突破した玲は飲み物を口に含むと、ゆっくりとそのコップを震わせながら置いた。


「あと、もう一つ。卓に聞いてほしいことがある」


 玲の顔、握っている拳は真っ赤に染まり、隙間からは汗がにじみ出ている。体の震えは全身に伝わるほどに大きくなっていく。そんな玲を見ていた伊達は、静かに立ち上がると邪魔にならないよう部屋を出た。


「わたしの──ぼくが家出した理由を」


 玲が育ったのは、田舎も田舎。地域内には一体化した小学校と中学校がそれぞれ一つずつ。気動車に乗り、少ししたところにある別の自治体に最寄りの高校はある。

 高校と言っても、本校舎ではなく分校。少し前までは独立していたが、少子化の煽りを受け近隣の高校の分校になった。一学年一クラス。しかし、近くに私立高校はないため事実上この周辺の同年代はほぼ全入であった。全員が近くの山村出身。授業内容も、大した物ではない。かといって、治安が悪いのかと言えば別にそうでもない。近所に屯できるような施設もなく、一度悪名を轟かせてしまったら家族全員もうそこでは住めなくなるからだ。

 だからこそ、玲は緩みきっていた。ある日、授業中に突如意識を失った。その時の玲は思ってもみなかった。自分が悪名を轟かせる側に回ってしまうなんて。

 玲は、田舎にある診療所では対処などできず政令指定都市にある大病院に担ぎ込まれた。かろうじて意識が戻ったが、そこで医師はこう告げた。


『急性性転換症候群』


 近年発現し始めた病気で、原因は不明。当然治療法も不明であり、一度発症してしまえば元の性別に戻ることなど不可能であった。急激な骨格の変化で複雑骨折をも生じるケースが多く、致死性も高い。

 幸い、命に別状はなかったもののその代償として全く異なる容姿になってしまった。

 だが、悪夢はこれで終わらなかった。主人公の住んでいた田舎では噂はまたたく間に拡散。人々は原因不明の病気を恐れた。直接的に何かされたわけではないが、陰口を叩いていることを幾度も遭遇してしまったのだ。

 学校でも直接的に何かはなかったが、入院し留年したことも相まって友だちもできずそのまま学業不振により自主退学。家業を手伝うも、売上が落ちた。家族はたまたまだの不景気だのを口にして繕っているが、実際にはどうだかわからない。

 家族に気を使わせ、周囲はみんな自分自身を怖がっている。玲に落ち着ける場所なんてなかった。


「だからこそ、卓が最後の救いだった。実際、卓は玲に優しくしたよ」


 そう涙ぐみながら過去形で卓との思い出を綴る。


「じゃあなんで」


 続きを言おうとした玲は、卓の言葉に驚き、遮られた。そして言葉の意味がよく理解できずに首を傾げ唸る。


「なんで黙って出ていったんだ。近くを探してもいなかったし、心配して何か事件に巻き込まれたんじゃないかって本気で──」


 座っている椅子を勢いよく押しのけるほどに荒立てて卓は席を立つ。すぐに動揺していたことに気づき、言葉を止めたままゆっくりと椅子に座った。そして、卓は顔を真っ赤に染める。


「本気で心配したんだ。勝手にいなくならないでほしい」


 恥ずかしさのあまり顔をそらしつつも、視線はちらちらと玲へと向く。


「というか、もっと一緒にいてほしい」


 何気ない一言だったが、どういう意味なのかを理解すると玲も顔を真っ赤に染める。両者ともに顔を紅潮させ、両者ともに何かを喋ろうと口は開くも喉まで出かかった言葉が止まってしまう。


「大学で講義受けて、バイトして、後は寝るだけだった。でも、玲が来てから毎日が楽しいと思えたんだ。だから、玲がいなくなったときいてもたってもいられなかったんだ」


 卓は再び立ち上がり、照れくさそうにしながらも体を玲の方へ乗り出して熱弁を振るう。


「正直、この気持ちはよくわからない」


 卓は自分自身の左胸に爪を立てる。まるで激動する心臓をえぐり出そうとしているかのようだが、服越しでは傷一つ付けられずもどかしい。ただ、服にしわができるのみである。


「多分、玲のこと好きなんだと思う」


「え? あ、うん……ありがと」


 直接的な愛情表現に動揺し、返す言葉を探す玲。咄嗟に考えて出たものは、感謝の言葉だった。


「わ、私も。そ、その、卓のこと好きかもしれない……」


 一緒に居たいと思っているのは本心だ。しかし、卓のことが好きかどうかについては内心よくわかっていない。言われたから言い返しただけなのか、或いは一緒に居たい口実のためにでまかせを並べたのか。

 もしこれが本心でなかったのだとすると、卓には大変なことを言ってしまったと悟り変なことを言わないように口を閉ざす。卓も、玲からの告白を受け嬉しくはあれども必死に口を閉ざしてもじもじしている玲を見てどうすればいいのか黙る他なかった。


「あのさぁ?」


 静寂を打ち破ったのはずっと外にいた伊達だった。扉が開き、苛立った伊達が頭を抱えながら入ってくる。


「ふたりとも黙りすぎ。聞いててイライラするんだけど。それにさ、玲ちゃん。あなた実家に連絡したの? ここという居心地のいい場所を見つけたんだから、わざわざ黙っている必要性ないでしょ? さっさと連絡して気兼ねなくこっちに暮らしたら?」


 それだけ言い残すと、伊達は呆れたように部屋を出ていった。

 伊達の言葉には説得力があり、それらは玲の心を容赦なく刺激する。そして、卓が口を開くのより前に玲は決意した。


「ねぇ、卓。一緒に来てほしい」


 玲は卓に手のひらを差し出す。卓は玲の変わりように驚いた。しかし、それもつかの間。「ああ」と頷くと、卓は差し出された手のひらを握った。


「よし、今から行こうか」


 卓はスマホを取り出し、何かを確認し始める。直前の発言がまさか本当だとは、玲も思っても見なかった。


「え? 今日?」


 玲はさすがに無茶ではと言いたげだ。


「早ければ早いほどいいからな。ところで、玲の家の最寄り駅ってどこだっけ?」


 マップアプリを開いた卓は目的地の入力欄で止まっていた。


「町役場の前の駅だよ」


 駅の大まかな場所を教えると、「ああ」と唸りながら入力していく。


「たしかあそこって確か単線盛土でよく運休になるんだよな」


 二人共思い出すのは頻繁に運休する辛苦の日々。けれども、今となってはいい思い出だ。


「大丈夫だよ、町がお金出して線路沿いの土砂撤去してたよ。もう終わったんじゃないかな?」

「なら安心だな。じゃ、玲。行くぞ」


 卓はスマホをしまい込むと、手を玲に伸ばした。


「うん」


 玲は大きな声で同調すると改めて卓の手を掴んだ。

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都会に聳える高い壁 豊科奈義 @yaki-hiyashi-udonn

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