鯨よりも深く/深い海の底で

秋色

鯨よりも深く/深い海の底で

 海の街ショッピングモールに車が近付いた時、この建物は巨大な鯨に似ているなと思った。

そう言えば去年の春、家族でこのショッピングモールに行こうとした時、じいちゃんがここに入る事を断固拒否したのを思い出した。こんな訳のわからないところへは行けないと言った。キラキラと光るガラス張りの建物はこんなにキレイなのに。

 訳が分からないというのは海の街ショッピングモールに対してフェアじゃない。ウェブサイトに詳しく売り場の説明が載ってあるから。

 ただ、普段じいちゃんのよく行く店は、全てを心得ているような場所ばかりだから仕方がない。じいちゃんが行くのは、誰が経営していて誰がレジにいて、何がどこに置いてあるか店の隅々まで知り尽くしている小売店に限られていた。見るテレビ番組が、主役、脇役ともベテラン俳優に固められた時代劇に限られていたように。



 とにかくそれはじいちゃんが我が家にいた時の最後の記憶。ゴールデンウィークの間に高齢者施設へ行く事が決まって、そのまま人生の最期の時をそこで過ごした。



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 じいちゃんはウチら孫によく昔話をした。その中にはじいちゃんが子どもだった戦時中の頃の話、ワクワクする少年時代の冒険談、昔の田舎の生活の話等があった。ちょっと背中がヒンヤリする怪談系は、いつもウチらに人気だった。

 でもその中でも一番異色で、トラウマ級だったのは鯨の話だ。まさに巨大恐怖症になる話だ。それは実際にはじいちゃんのさらにおじいさんの話。遠洋漁業に出て鯨に遭遇したのは、人生で最大の恐怖体験だったらしい。

 まず大きな鯨が近付くと周りの魚達はいっせいに異常なスピードで逃げ始めるらしい。死にもの狂いで逃げる途中に、他の魚にぶつかる魚もいる。やがて不気味な風が吹いて、そして異様な海にいつの間にか現れる影はやがてビルディングのように巨大に。生き物というよりまるで空や山や月のように自然の一部としか思いようがなく、揺るがないスピードは、どんな相手にもあっという間にすぐ側まで迫って来る……。



 それでいて何事もない夜と言えば、船室の簡易ベッドに座り、本や手紙を読む穏やかな時間を過ごしていたらしい。それはひたすら深い夜の底にいるみたいで、恐怖と表ウラの場所にいるには違いないけど、そして孤独には間違いないけど不思議な程に心地良かったとおじいさんからは聞いていたとか。

 そんな話を聞くのはたいていウチと兄貴。でも次第にクールな秀才の兄貴も勉強を理由に、じいちゃんのはるか昔を回顧する長話を聞くのを棄権するようになっていった。

 それにしてもじいちゃんは、鯨の怖さを語る割には、鯨のヒゲで出来たペーパーナイフを大切にして自室の和室で書斎代わりの部屋の座卓に置いていたっけ。

 ホコリ一つない座卓の上にきちんと並べられたペーパーナイフとメモ帳。このメモ帳は広告の白い所をきれいに取って作られた手製のものだった。時々広告の写真の一部が気に入ると、そこも切り取られてあった。スーパーマーケットの広告の、器に盛られた西瓜やメロンの写真とか、園芸用品店の広告の紅梅の写真とか。そして時々、昔から読み返している文庫本がそこにあったりした。




 じいちゃんは昔食べていたという鯨カツの味をよく懐かしんでいた。その独特な味わいは他のどんな物にも例えようがないと。

 何年前だったか、地元の有名うどんチェーン店の持ち帰りコーナーに鯨カツの冷凍を見つけた父さんがお土産にとそれを買って帰った事がある。

 けれどその味に、じいちゃん以外の家族は口をつぐんだ。

「こんな味だったんだね」位しか、言いようがない。

 鯨カツは薄っぺらい割にとても固く、味はソースでごまかせば何とか飲む込めるってレベルで、独特の匂いもあった。母さんと妹は、後で散々、鯨肉の悪口を言ってたっけ。

 でもじいちゃんはその夕食の時、一口一口味わうように、何かを克服するように食べていた。後から思うと、おそらく怖いとおじいさんから聞かされていた鯨だけにその死を悼みながら、味わいながら、食べていたのだと思う。


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 じいちゃんは、高齢者施設に入って二年少しが過ぎた秋の始まりに、元々の心臓の病気で発作を起こし、亡くなった。

 親が高齢者施設から持ち帰った色々な荷物は身内で分けられる物以外、処分された。

 意外な事に、鯨のヒゲのペーパーナイフを兄貴が欲しがった。

 その秋、兄貴は名門高校の二年目を家の中で過ごしていた。つまり、対人トラブルから不登校を選んでいた。

 ある夜、兄貴は台所で会ったウチにこんな事を訊いた。「じいちゃんが鯨の話をしてたのを覚えてる? 大きくて大きくて怖い鯨の話」


「ああ、じいちゃんのおじいさんの話やろ」


「それと海上でポツンと航行する船の船室にいると、孤独だけど意外と心地良いとか」


「うん、覚えとる。なんで?」


「ああいう事ってあるよなって。船室にいるような気分」



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 そして今日、海の街ショッピングモールに家族を乗せた車が近付き、ウチは、この建物、鯨に似ているなと思った。

 兄貴は「自分は入らなくていい」と言う。「じゃ、その間、車の中で農園と町作りゲームでもやる?」と、ウチが訊いた。それは兄貴がハマってたソーシャルゲーム。


「スマホ、持って来てないし」


「え! 持って来てないん? ないと不安やない?」


「あった方が不安。ほら、じいちゃんの話してた鯨の話、覚えとらん? 突然大きい何かが現れて。ああいう気分にさせられる事あるから」


「大きい何か? 兄ちゃんは繊細やもん。でも分かるよ」

 何となく言いたい事は分かった、兄貴は、今まで色々辛い思いをしていたから。


「サンキュ。分かってくれて」


「でもゲームもやらんの? 色んな人のプロフィール画面とか見るの、好きやったよね? 外国の人とか」


「ん。あれももう、いいかな」と兄貴。


大きい何か。鯨みたいに、か。

どこからかウィーンウィーンと鳴く鯨の鳴き声が聞こえてきた気がした。でも違う。きっとあれは今から出航する船の汽笛に違いない。





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