笑うこども
徒花 繭
第1話
一
大学で発達心理学を学び、卒業後保育士になってから早三年、私は今日も職場である保育園へと足を運んでいた。
保育士という職業を選んだのには理由があった。
ひとつは、人の心に興味があったからである。心の持ち方の根本が決まるのが幼少期であると考えた私は、子どもたちができるだけ生きやすい心を持った人間に育つことに加担したかったのだ。
もうひとつは、私自身が子どもになりたかったからである。学生時代の私は、自分が成長することを恐れ、永遠に幼い子どもであることを望んだ。しかし人の成長は不可逆であった。妥協点として、仕事に保育士を選んだのだった。事実、後者の方が理由として強い。
「せんせえ、よみ聞かせして!」
朝の集会を終え、自分たちの教室に戻った園児たちを遊ばせているとき一人の女の子が私のもとに来てそう叫んだ。
「いいよ。何を読む?」
「えっとねえ、『きつねのりすくん』!」
「『きつねのりすくん』?不思議なタイトルだね。じゃあ絵本読みたいおともだちを集めようか」
女の子にそう言ってから、私は「お話ききたいおともだち、この指とーまれ!」と声を張り上げた。
私は年中クラスの担任をしている。言葉をペラペラ話せるようになり、体力もついてきて、足も舌も元気よく駆け回るようになった子どもたちと毎日接している。
「わたしがさきにつかってたのに!」
「・・・・・・」
そんな声が聞こえて後ろを振り向くと、どうやら怒っている様子の子と、おもちゃを抱いて不貞腐れた顔をしている子がふたり。これはどちらかが泣き出すな、と踏んで、集まってきた子どもたちに「ちょっとまっててね」と声をかけて二人の方へと向かった。
子どもが苦手だという人々がその中でもさらに苦手だと言うのがこの年頃で、保育士として働いている私でも時折骨が折れる。自我を持ち活動が活発になる頃、そんな子どもたちが数十名もいて彼らをまとめないといけないのだからそれはそれは大変で、まだ一人ではほとんど何もできない乳児の方がむしろ楽なのではないかとも思ってしまうくらいであった。しかし私は、このくらいの年頃の子を相手するのは嫌いではなかった。流暢に言葉を話し始めた年頃の子どもたちは、時折大人を驚かせるような発言をすることがある。それは疑問であったり断言であったりと形は様々だが、その言葉にハッとさせられる度、自分が子どもという存在と離れていっていることに嘆くと同時に、子どもの世界を知ることができた喜びを感じるのだった。
「自分がきつねなのかリスなのか分からなくなって悩んでいたきつねのりすくんに、ものしりのおさるさんがやって来て言いました。『リスはね、とおいくにのことばできつねっていみなんだ』それを聞いたきつねのりすくんは喜びました。やっぱりボクはきつねだったんだ!」
十数人の子どもたちの前で声高らかに読み聞かせをする。リスという発音で狐を意味する言葉を持つ国があることは私も初めて知った。子ども向けと言えども、大人でも知らないことが載っている。私が絵本をおもしろいと思う理由だった。
めでたしめでたし、と言って本を閉じると、子どもたちは「きつねさんのことを、りすさんってよぶくにがあるんだねえ」「なんかへんなの」「えいごかな」などと口々に感想を言い合っていた。私はそれを微笑ましく思い見守っていたが、ふとその中に、最初に読み聞かせをねだってきた女の子の声が聞こえる。
「でも、何のどうぶつだとしても、じぶんは自分でかわりないのにね」
私はハッとして彼女の方を向いた。しかし当の本人はもう既に友達と別の話をしている。
その女の子はこうして、ふと子どもではないような発言をすることが多いと感じていた。保育士をしていると、このように大人びた言葉遣いで、大人が言いそうで言わなさそうなことを言う子どもにそこそこの頻度で出会うが、私はそのような子どもたちにとても興味を抱いていた。輪廻転生があるとするならば、彼らの前世である誰かが彼らの身体を借りて話しているようだ。ともすれば乗っ取る気でいるのか、と考えが膨らむ。
「あっちでおままごとしてあそぼ」
「うん」
「じゃあカイトくんはあかちゃんの役ね」
「うん」
対して彼女が話していた男の子は、大人しくあまり目立たない子である。いつもトランプをしている友達の近くで、最初こそやりたそうにウズウズしているものの暫くすると諦めたようにただ見ている。そんな感じの子だった。自分から「入れて」と言えることも大切なので暫くは見守るが、毎度言えずに残念そうな顔をして諦めるのでそこで私は彼に誘いの言葉をかけるのだ。声をかけると喜んで入ってくるので、やはり遊びたいが自分から入ることが難しいらしい。卒園までに自分から仲間に入れるといいなあ、と私は彼を見やった。
「カイトくん、ミルクですよー」
しかし、かの女の子はそんな彼をとても懇意にしていた。最初は不思議な組み合わせだと思ったが、まだ四歳そこらの子どもなので仲良くする裏になにかしら意図があるだとか、上辺だけだとか、そんな女子高校生じみたものがあるとは到底思えない。自分から仲間に入って来られない彼に対しての、彼女なりの純粋な優しさなのだろう。
そう思っていた。
「せんせい」
園児一人一人の連絡帳が入ったカゴを片手にふうっと息を吐いて、大人が快適に座るにはサイズの足りない椅子に腰を下ろした時、私を呼ぶ小さな声が聞こえた。
「どうしたの、カイトくん」
つい先程まであの女の子と遊んでいたのに、いつの間にか彼はそこにいた。
「おはなしがあるんだけど、ぼくとせんせいだけのひみつのおはなしだから・・・・・・」
「それじゃあお昼寝の時間に、みんなが眠ったらお話しようか。それでも大丈夫?」
「うん」
幼児だからと本人の意志を尊重しないのはご法度。「大人秘密を守ってくれない」と思ってしまえばこれから生きていく上で人に相談することができなくなってしまう。秘密だと言うのであれば配慮をし、かわいらしい内容であればその秘密を守るのは至極当然のことである。
「カイトくん!かってにお外にいっちゃだめでしょ!」
どうやらままごとの途中だったようだ。名前を呼ばれた彼は「はあい」と言って呼ばれた方に歩いて行った。
「先生にお話したいことって、なにかな」
午後一時頃、私はカイトくんと向き合って「おはなし」をしていた。
「えっと、あのね・・・・・・ウーン・・・・・・」
とても言いにくいことなのだろうか。尊重するとは言え、対応が必要な悩みや心身の調子が悪いなどの内容であれば保護者や他の職員にも伝えなければならない。
「大丈夫だよ、言ってごらん」
できるだけ優しく促す。暫くウンウンと唸り、彼は意を決したように私の目を見た。
「うん・・・・・・せんせい、おてて出して」
「手?」
私は彼に手のひらを差し出した。すると彼は「あくしゅ」と言ってその手を取る。どういうことだろうか、どう反応すれはいいかと考えあぐねていると、繋いだ手の間から「グチュ」と音がした。
グチャ・・・・・・ヌル・・・・・・・・・・・・
その音のするほうを見て、私はいきをのんだ。彼とわたしの手は、次第にまざりあっていった。わたしは彼のかおを見る。手と同じように、じわじわと原型を無くし、どろどろと重力に従い形を変える。彼は私にとりこまれるように・・・・・・そして私は彼にとりこまれるように・・・・・・。わたしの意識がおちる直前、かれは喜んでいるようすで、にっこりと笑っているように見えた。
「・・・・・・て、・・・・・・おきて・・・・・・カィ・・・・・・」
耳元での叫び声に、私は目を開いた。からだを起こしてあたりを見回す。私が寝ていたマットの上には、小さな子どもが数十人、並んで眠っていた。
「お昼寝終わりだよ!みんな起きてー!」
一人の男の声で、周りは徐々にざわめいていった。私は暫く、呆然とその場に座っていた。
「カイトくん、はやくお布団おかたづけしないとせんせいに怒られちゃうよ」
目の前の女の子は、私に「カイトくん」と呼びかけた。こっそりつねった腕は痛かった。
「ボク・・・・・・」
いつまでも動かない私に女の子はポカンとし、数秒後、何かに気がついたように、どこか気味の悪い笑顔を浮かべた。
「私、おとなになりたくないなあ。カイトくんはどう思う?」
彼女のその声を合図に、私はあのとき繋がれた手の感触を思い出した。音をたて溶けゆく手、顔、からだ・・・・・・いや、しかしそんなことがあるわけ、それに何故この子がそれを、ああ、この子も、まさか。
「カイトくん、いつまでも座ってどうしたの」
声をかけられて振りむくと、先程みんなに向かって声を張りあげていた男がにっこりと笑って私をみていた。
そのかおは、どこがでみたことがあるきがした。
笑うこども 徒花 繭 @amabane___
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