青くなくても春は来る



 二学期も終わりに近づき、私たち三年生にはもうほとんど授業という授業は無い。ほとんどの時間が受験勉強に当てられている。今日も例によってほとんど自習のみで、午前中で帰れる。

 ずっと机に向かって凝り固まった体を伸ばしつつ、私も帰り支度をしていた。机に向かっていたとはいえ、今日は朝からそわそわしてしまっていた。何せ、今日は雪の誕生日である。

 お互い受験があるため、今年の誕生日は簡素に済まそうということになった。それでも勉強漬けの毎日の中で雪とゆっくり過ごせる時間があるだけで、私にとっては最高のプレゼントだ。

 足早に教室を出て、隣の雪のクラスに向かう。ドアの前に来ると、ちょうど雪も出てきた所で、ぶつかりそうになってしまった。

「わ、杏奈。私も今行こうと思ってた」

「そっか。じゃ、行こっか」

 二人で駅に向かい、同じ方向の電車に乗る。最近は登下校の時間しか一緒にいることがなかったからか、自然と距離が近くなってしまう。

「そういえば、好きな物買ってきなさいって、お母さんが」

 雪がスーパーの前で立ち止まりそう言った。夕飯のためにいくらかお金を預かっているらしい。

「なら、雪の食べたいもの探そうか」

 スーパーに入り、カゴを持って二人で店内を物色する。こうしていると、二人暮らしをしているような気分だ。

「杏奈って、どのくらい料理するの?」

「んー、そんな手のかかるのはやらないけど……炒めたり、煮込んだり?」

 味は適当。自分とたまに姉しか食べないので本当に雑な物だ。

「まあレシピ見ればできるだろうし、何かリクエストがあれば言ってね」

 すると雪は少し胸を張って、自信ありげに答えた。

「私も、最近ちょっとずつ料理覚えてきたんだよ。お母さんの手伝いして」

「お、じゃあ大学生になったら料理は任せようかな」

 そう言うと、雪の自信はたちまちしぼんでいってしまった。

「ま、まあそこは分担していこうよ。杏奈の手料理も食べたいし」

「ふふ、了解」

 ある程度食材を買い揃えたところで、雪が私の顔を見て少しはにかんだ。

「これからは、こういうのも日常になるんだね」

 そうだ。今はこんなに特別に思えるけれど、これから何年、何十年と私たちは二人で買い物をして、何が食べたいかと話し合う。

「……私も、同じこと考えてた」

――――――

「ただいまー」

「お邪魔します」

 雪の家に上がると、奥から雪のお母さんが出迎えてくれた。

「杏奈ちゃん、いらっしゃい。夕飯の用意するから、ちょっと待っててね」

「あ、私も手伝いますよ」

 そう言ったが、買い物袋を取り上げられ雪と共に背中を押されてしまった。

「いいのいいの。久しぶりの息抜きなんでしょう? ゆっくりしてて」

 そう言われたら何も言い返せない。導かれるまま雪の部屋に入る。

「荷物は適当に置いといていいよ」

「うん」

 以前に訪れたときは緊張であまり落ち着いて見れなかったけれど、雪の部屋はまさしく女の子の部屋という感じがする。私も女だけど、私の部屋と違って飾り気がある。

「じゃあ、何しよっか?」

 雪がカーペットの上に座ったので、私も恐る恐るその向かいに座る。部屋中から雪の生活が感じられて少し落ち着かない。

「何かゲームでもする?」

 引き出しをガサガサと探し、雪がゲームソフトを取り出した。人気のレースゲームだ。コントローラーも探しているようだが、一つしか見当たらないらしい。

「あ、沙織の部屋かな。ちょっと待っててね」

 雪が廊下に出るとちょうど沙織ちゃんが出てきていて、お互い軽く会釈をした。

「沙織、ちょうどよかった。コントローラー借りるね」

「いいけど……お姉ちゃん、着替えないと制服が皺になるってまた怒られるよ?」

「うっ……もうすぐ冬休みだし、大丈夫だよ」

 雪の言い訳も虚しく、話を聞きつけたのかキッチンから「そうよ、着替えちゃいなさい」と雪の母の声がした。

「で、でも……」

 雪が私の方をチラッと見た。

「あ、私は外で待ってるから。全然大丈夫」

 何だか前よりも、肌を見せることに恥じらいを感じるようになった気がする。慌てて部屋を出ようとすると、雪が微妙な顔をした。

「それはそれで、悪いし……」

「いいよ。杏奈さん、私の部屋にいて」

「えっ」

 沙織ちゃんの提案に雪の顔が曇る。普通にそれでいいと思うのだが……

「じゃあそうさせてもらおうかな。雪、終わったら声かけてね」

「うー……わ、わかった……」

 雪は渋々といった様子で自分の部屋に戻っていった。私は沙織ちゃんに連れられ隣の部屋に入った。

「どうぞ、ちょっと狭いですけど」

 通された沙織ちゃんの部屋は雪の部屋とは全然違って、壁の棚には所狭しとCDが並べられ、どこかのバンドのポスターもたくさん貼られていた。

「沙織ちゃん、音楽好きなんだね」

「はい……お姉ちゃんの影響でピアノ初めて、それから」

「そっか……」

 沙織ちゃんは机に置かれたキーボードを指でなぞりながら懐かしむように話し出した。

「お姉ちゃんがバンド始めたって聞いたとき、嬉しかったんです。でもしばらくしたら辞めちゃって、何でって聞いても答えてくれなくて……それに腹が立って、ちょっと反抗的になってました」

 雪はきっと、家族に心配をかけたくなかったんだろう。でも、沙織ちゃんは本気で雪のことを心配していたから、逆に反発してしまった。

「お姉ちゃんがまたバンドやって、音楽の先生になりたいって思ったのはきっと杏奈さんのおかげです。ありがとうございます」

 沙織ちゃんが深々と頭を下げてくる。私は慌てて手を振った。

「いやいや、私は何も……雪が自分で決めたことだよ」

「いえ、杏奈さんが支えになってくれたからだと思います。こんなこと……お姉ちゃんの前では言えないですけど」

 恥ずかしそうに笑う沙織ちゃんの表情は、雪に似ていた。

「杏奈、お待たせ」

 ノックの音と共に部屋に入ってきた雪の服装を見て、私と沙織ちゃんは目を疑った。グレーのロングスカートに白いセーター。部屋着というには不自然過ぎる。

「みんなー、ご飯よそってくれる? って、雪。何よその格好」

 ちょうどキッチンから出てきた雪の母も雪の服装を見て驚いた顔をした。

「え、変かな……?」

「ご飯食べるだけなのにそんな気合い入れても仕方ないでしょ! もうパジャマにしときなさい」

「は、はぁい……」

 雪はまたすごすごと部屋に戻っていった。その後ろ姿を見て、私たちは顔を見合わせて笑った。

――――――

 しばらくして寝巻きに着替えた雪を加え、食卓を囲んだ。大人数で囲む食事には、まだ少し慣れない。

「この鶏肉、美味しいね」

「うん。雪が好きそうな味だと思った」

 タンドリーチキンだろうか。辛味が強めで美味しい。

「そしたら杏奈ちゃん、レシピ教えましょうか?」

「はい、お願いします」

「お母さん、私にも教えてよ」

「そう? 杏奈ちゃんが作ったほうが美味しいわよ?」

 どういう意味だろうか。雪も少し不満げだ。私たちの顔を見てから、雪の母親はふっと笑った。

「自分の好きな物より、家族の好きな物を作る方が美味しくなるのよ」

「そ、そう……」

 今度は二人して恥ずかしくなってしまった。家族、という言葉が私たちにも当てはまることを意識してしまう。

「逆に雪は杏奈ちゃんの好きなレシピを覚えたら? 杏奈ちゃんのお母さんに聞いてみたらいいじゃない」

 悪気のないその言葉に、雪が少し気まずい顔をした。私はなるべく場の空気が悪くならないよう、何でもないように話した。

「うちはあんまり料理とかしない親なんで、特にないですよ」

「あら、そう?」

 私の発言から察したのか、それ以上は聞かれなかった。

 しかしその後、雪がお風呂に入っている間に雪の母と二人で食器を洗っていると雑談の合間に私の親について聞かれた。

「杏奈ちゃんの親御さんは、二人で暮らすことはいいって言ってくれたの?」

 一瞬、許してもらったと嘘をつこうかと思った。けれどそんな嘘をついても仕方ない。何より、そんなことは口が裂けても言えない気がした。

「……いえ、母には反対されました」

「そう……」

 私はまた、なるべく暗くならないよう努めて話した。

「まあ、出ていく感じにはなりますけど……そんな変わらないですよ。元々仲のいい家族でもなかったですし」

 何とか、上手く笑いながら答えられた。皿洗いも一段落し、雪の母は濡れた手を拭うと私の頭をポンと撫でた。

「これからは私も杏奈ちゃんのお母さんになるんだから、何でも頼ってちょうだいね」

 その手の温もりに、幼い頃の母の面影を重ねてしまい少し目が潤んだ。それを隠すように、私は俯いたまま答えた。

「はい……ありがとうございます」



 新幹線にしばらく揺られ到着したのは、修学旅行で訪れた場所のすぐ近く。無事に受験を終えた私たちは連休を利用して卒業旅行に訪れていた。

「雪先輩、本当に私たちも来てよかったんですか?」

 朱音ちゃんが心配そうに尋ねてきた。今回の卒業旅行は私たち三年生の友達の他にも朱音ちゃん、真希ちゃん、陽菜ちゃんも来ている。

「もちろん。陽菜ちゃんが別荘を貸してくれるんだし、芽衣も朱音ちゃんがいたほうが嬉しいと思うよ」

「そうそう。ていうか、立花が来てることの方が私は疑問なんだけど」

 同意しつつ、純は優希ちゃんをチラッと睨んだ。優希ちゃんはそんな純からの視線をものともせずにこやかに話す。

「雪が誘ってくれたからさ。ありがとね。私も雫もなかなか遠出するタイプじゃないから」

「はあ……まあいいけど。それより、どこから見て回る?」

 純がそう声をかけると、皆それぞれ遊園地や食べ歩きなど、まとまりの無い意見が飛び交った。どうせ大人数で動くのも大変だということで、自由行動ということになった。

「杏奈はどこ行きたい?」

「んー、まあどこでもいいけど……とりあえず何か食べる?」

 杏奈と話していると、七瀬さんと真希ちゃんに話しかけられた。二人とも波長が合うのか、行きの新幹線ですぐに仲良くなっていた。

「それなら、私たちと食べ歩きしようよ」

「そうしましょう! お好み焼きとか、たこ焼きとか!」

「じゃあ、そうさせてもらおうかな。杏奈もたこ焼き好きだったよね?」

「え? あ、ああ。うん。そうだった」

――――――

 七瀬さんたちの誘いに乗り、四人で食べ歩きができそうな場所に向かう。少し歩くとすぐにお店が並ぶ通りに出た。七瀬さんと真希ちゃんは全部食べる勢いでずんずん進んでいく。

「ちょっと未来、あんまり買いすぎないでよ」

「そうだね。ちょっと一旦食べようかな」

 四人でベンチに座り、買ってきたたこ焼きなどを食べる。

「ふふ。何か夏祭りのこと思い出すね」

「そうだね。なんかずっと昔みたいな気がする」

 あの頃はまだ、私は杏奈に対する気持ちがよくわかっていなかった。

「多分、私……あの頃から杏奈のこと好きだったのかも」

「そ、そう?」

「杏奈のこと、もっと知りたいって思ってた。杏奈は?」

 杏奈は少し迷った後、顔を赤くしながら答えた。

「私は……あの頃はもう雪のこと好きだった。だから雪の行動にいちいちドキドキしてたよ」

 確かに、思い返すと杏奈はたまに不自然なことがあった。けれどあの頃はそんなこと全然気づいてなかった。面白いものだ。

「私は、雪先輩と桜井先輩、とってもお似合いだと思います!」

 いつの間に話を聞いていたのか、真希ちゃんが大きな声を出した。

「桜井先輩、うさぎちゃんが元気ないときすぐ先生を呼びに行ってくれて……優しい人なんだって思いました。雪先輩もとっても優しい人なので、二人が一緒ならとっても優しくて……えっと……」

 言葉の最後がぼやけてしまっていたけれど、真希ちゃんの言いたいことはしっかり伝わった。とても嬉しく思う。

「私も、二人はすごくいい関係だなって思うよ」

「み、未来まで? そう、かな」

「うん。杏奈って周りの人のことしっかり見てて……私と純がケンカみたいになったときもすぐ動いてくれたじゃん? 久保田さんも。それってなかなかできることじゃないし、二人ともお互いをすごい尊重してるって思うな」

 二人の真っ直ぐな言葉は嬉しいと同時に恥ずかしくて、照れてしまう。杏奈も驚いた顔をしている。

「未来がそんなしっかり言語化して話せるなんて……!」

 ちょっと私とは違う方向の衝撃を受けているみたいだった。

「いやできるよ! 仮にも教職志望だし」

 一通り食べ終え、私と杏奈は満腹になったが七瀬さんと真希ちゃんはまだ食べ足りないらしく、そこで別れた。

――――――

 お腹も満たされたので少し遊ぼうと遊園地の方に向かった。飲食店の多い通りを出ると、優希ちゃんと雫ちゃんの姿が見えた。

「雪、桜井さんも。どうも」

「二人は何してたの?」

「雫が食べすぎないように見張ってた」

 優希ちゃんが笑いながらそう言うと雫ちゃんは心外そうな目をした。

「食べすぎないし。優希が食べたいって言うから少し分けてあげたけど」

「あー、はいはい。そうでしたね」

 私と二人が話していると、杏奈は少し気まずそうに距離を取ってあまり喋らない。優希ちゃんと少しギスギスしていた時期があったからそのせいだろうか。

「桜井さん、そんな警戒しないでよ」

「え? いや別にしてないけど……」

 そう言いつつも、杏奈は優希ちゃんとの距離を保ったままだ。

「私、桜井さんのことも結構好きになってきたんだよ?」

 優希ちゃんの誘うような笑顔が杏奈に向けられて、私は反射的に杏奈の前に立っていた。杏奈も怯えた顔をしている。

「優希、あんまりからかうのやめな」

「あはは。そんなつもりは無いんだけどなあ」

「も、もう。優希ちゃん……」

 自分の行動が少し恥ずかしくなって、慌てて杏奈の前から離れる。

「でも、桜井さんのことを見直したのは本当だよ。私にはできなかったことをやってのけたんだから」

「できなかったこと……?」

 杏奈が不思議そうな顔をする。私もよくわからない。

「そう。雪を幸せにすること」

「なっ……」

「最初は桜井さんにはできっこないと思ってたんだけどね……段々、本気なんだってわかって、実際に今こうなったわけだから。すごいよ」

「あ、ありがとう……?」

 優希ちゃんから褒められて、杏奈は混乱した顔だ。珍しい表情に少し笑ってしまう。

「私は……意外だった。雪は私と似てると思ってたから」

「私が、雫ちゃんに……?」

「うん。自分の好きなものさえあればあとはどうでもいいっていうタイプ。でも私にとってそれが音楽だったのと同じで、雪にとっては桜井さんだったんだよね」

「え、えっと……そう、かも」

 そう言われるとすごく恥ずかしいけど、たしかにそうかもしれない。どうでもいいは言い過ぎだけど、杏奈が一番大切なのは事実だ。

「雫は本当に音楽さえあればあとはいらない?」

 優希ちゃんが悪戯っぽくそう聞くと、雫ちゃんは目を逸らしてそっけなく答えた。

「……そりゃ、優希がいないとそもそも始まらないでしょ」

「ふふ、それはどうも。私は色んな人を幸せにできたらいいなって思ってたんだけど……一人を全力で幸せにするのも、いいかもって思ってきたかな」

 優希ちゃんが雫ちゃんのほうを見て優しく微笑んだが、雫ちゃんは不思議そうな顔だ。

「じゃあ、私たちは行くね。雫、行こっか」

――――――

 二人と別れ、改めて遊園地に向かう。夕方からのチケットを購入し、園内に入った。どこから見ていこうかと杏奈と話していると、朱音ちゃんと芽衣が手を振りながらこちらに向かってきた。

「雪たちも来てたんだ」

「うん。さっき来たとこ。二人はずっとここにいたの?」

「はい。すっごく楽しいですよ!」

 朱音ちゃんの言う通り、二人ともキャラクターの飾りを身につけていて楽しんでいるのが一目でわかった。

「そしたら案内してくれない? どこから見るか迷っててさ」

 杏奈がそう聞くと朱音ちゃんは任せてと胸を張った。どうやら人気のアトラクションに連れて行ってくれるらしい。少し待ち時間があって、話しながら待つことにした。

「それにしても、芽衣がそういうの付けるの意外だな」

 杏奈が芽衣の付けた飾りをちょんちょん触ると、芽衣は恥ずかしそうに顔を赤くした。

「これは、朱音ちゃんが付けてって言うから……」

「だってすごい似合うんですもん。芽衣さん、めちゃくちゃかわいいです」

 そう言って朱音ちゃんはさり気なく携帯で写真を撮った。芽衣はもう慣れているのかため息をつくだけで何も言わない。

「でも、私も信じられない。みんなで卒業旅行に来れるなんて」

「もう、またそれですか? 芽衣さん、ここに来てからずっとそれ言ってますよ」

「だって本当に信じられないんだもん。高校生になってからずっとそう。雪と友達になって、朱音ちゃんに会えて……まさか、付き合うなんて思ってもみなかった」

 芽衣は少し遠くを眺めてから、私の方を見てふっと笑った。

「雪と杏奈のおかげ。本当に、ありがとう」

「それは……芽衣が頑張ったからだよ」

「そうだとしても。頑張るきっかけをくれたのは二人だから」

 出会った頃の芽衣のことを思い出す。あの頃よりずっと、芽衣は明るくなった。修学旅行で芽衣が私に気持ちを打ち明けてくれたとき、私はとても嬉しかった。なんて素敵な友達を持ったんだろうと。そしてその勇気を与えたのが自分だと言ってくれることが、とても誇らしかった。

「それで言ったら、私も杏ちゃんと雪先輩にとっても感謝してる」

「朱音も?」

「うん。小さい頃に家に居場所が無かった私を連れ出してくれたのは杏ちゃんだし、雪先輩がいたから芽衣さんと付き合えたんだもん」

「朱音……ありがとう」

「あと杏ちゃんが雪先輩のことずっと好きだったの知っててサポートしてたから、二人が付き合い初めたのもすごく嬉しかった」

 朱音ちゃんの言葉に驚いて杏奈のほうを見ると、杏奈も驚いた顔をしている。

「朱音ちゃん、その話詳しく聞かせて!」

「もちろん、いいですよ」

「あ、朱音! それはいいから!」

 その後の待ち時間は朱音ちゃんの話をじっくり聞かせてもらった。杏奈は途中までは止めようとしていたけれどいつの間にか諦めて放心していた。

 順番が回ってきて乗り込んだアトラクションはなかなかスリリングで楽しかった。終わってから杏奈のほうを見るとまた放心していた。

「杏奈、大丈夫?」

「え、あー、うん。やばいかも……」

「杏ちゃん、結構こういうの弱いんだね」

「もう、しっかりしてよね」

 杏奈以外は楽しめたようで、杏奈だけがふらついている。他を見て回る余裕は無さそうだったので杏奈を連れて先に宿に向かうことにした。

「ごめん、雪……」

「全然いいよ。私もそろそろ休みたいって思ってたし」

――――――

 朱音ちゃんたちと別れ、宿のある駅に向かう。到着するとそこは温泉が近くにあるらしく、浴衣姿の人が数人見えた。その中に意外な人影を見つけた。

「あれ、笠原先生と椎名先生?」

「あ、本当だ」

 浴衣姿で一瞬見間違いかと思ったが、向こうも私たちに気づいた。笠原先生には少し面倒そうな顔をされた。

「どうしたんですか? こんなところで」

「……まあ、もう卒業だしな。別にいいか」

 諦めたような顔の笠原先生の腕に椎名先生がくっついて、にっこり笑う。

「久保田さんたちは卒業旅行? 私たちは新婚旅行で来たの」

「し、新婚!?」

 私は思わず大声を出してしまったが、杏奈はどこか納得した表情だ。

「杏奈、知ってた?」

「いや、知らなかったけど……何となく、そうかもとは思ってた」

「だよな……桜井にはバレてる気がしてた」

 仲睦まじく腕を組む先生たちを見て、私はつい口を開いてしまった。

「あの、私と杏奈も……付き合ってるんです」

「あら、そうだったの?」

 今度は椎名先生が驚いて、笠原先生は納得した表情を見せた。

「笠原先生、気づいてました?」

「まあ、薄々。クラスが違うのにここまで仲が良いとな」

 二人の薬指にはお揃いの指輪が光っていて、羨ましく思った。いつか、私もこんな関係になりたい。そのために……

「先生、その……」

 流れで言おうとしたが、言葉に詰まってしまう。椎名先生が察したのか、私の言葉を待たずに答えた。

「久保田さん、色々不安があるのかしら?」

「う、えっと……」

「雪、そうなの?」

 杏奈が心配そうに声をかけてくれる。

「不安、というか……なんていうか」

「まあ、どう思われるかとかは気になるよな」

 笠原先生の言葉に頷いて同意すると、椎名先生はなるほどという顔をした。やっぱり、先生というのはすごい。私も、そんなふうになれるだろうか。

「私の考え方だけど、ある意味偶然なのかもしれないわ」

「……? えっと、それは……?」

 椎名先生の言ったことが、すんなり理解できない。杏奈も不思議そうな顔をしている。それを見て、椎名先生は補足をした。

「私は瑠衣さんと出会って救われた。久保田さんは桜井さんに救われたのかしら。それはとても素敵なこと。でも必ずしも誰もが誰かに救われるわけじゃない。一枚の絵画に救われる人もいれば、一編の小説に救われる人もいる。音楽に救われる人もいる。どの出会いもかけがえのないものだと思うわ」

 言ってることはわかったけれど、椎名先生の言葉を飲み込むには私はまだ子どもで、幼すぎる。けれど、私もそう思いたいと思った。他の誰でもない、杏奈を好きになったんだから。

「葵さん、そんなこと思ってたんですか」

「ふふ、私も色々言われてきたんですよ」

 椎名先生は優しく笑っているけれど、その裏でたくさんの苦労を抱えていたんだ。けれど笠原先生といればそれも辛くないと思える。それほど、大切に思っている。羨ましいと思った。

「ありがとうございます……お邪魔してすみません」

「いいのよ。卒業旅行、楽しんでね」

――――――

 先生たちと別れ、宿に向かった。到着したのは大きな屋敷で、本当に宿にしか見えない。しかしこれが陽菜ちゃんの家の所有する別荘だというのだから、驚きだ。

 恐る恐る中に入ると、ロビーで純と陽菜ちゃんが話しているのが見えた。安心して二人のもとに向かう。

「雪、杏奈。早かったわね」

「うん。純たちは何してたの?」

「私は……陽菜のお守りかな」

「あら、そう言っていただけて嬉しいです。ずっと守ってくださいね?」

「はあ……はいはい」

 純は呆れた様子でため息をつく。いつの間にか随分と仲良くなっていたらしい。

「あ、先に鍵だけ渡しとくね。二人部屋で雪たちの部屋は三号室。他は朱音と芽衣、立花と天羽さん……」

「そして、私と純先輩ですね」

「違うから。私と未来で陽菜と真希。言っとくけど、鍵かけるからね」

「私はマスターキーを持ってますよ?」

「怖……」

 純が珍しく押されている。陽菜ちゃんもこんなに押しが強い性格だとは知らなかった。

「ふふ。二人、仲良いんだね」

「はい。仲良くさせてもらってます」

 純の言葉を待たず陽菜ちゃんが食い気味に答えた。

「いや……まあ、悪くは無いけど。先輩と後輩としてね」

 陽菜ちゃんが私と杏奈を交互に見て、改まった様子で口を開いた。

「お二人に聞きたいのですが、どうしたらそのように深い関係になれますか?」

「えっ」

 純が堪らず吹き出してしまった。私と杏奈も呆気に取られている。なんて大胆な子だろう。

「ちょっと、陽菜……」

「私は真剣ですよ? お二人はとても素敵な関係に見えます。どうしたらそのようになれるのか……」

 陽菜ちゃんの目は本当に真剣で、思わず姿勢を正してしまう。純は答えなくていいという顔をしたが、陽菜ちゃんの真剣さに杏奈が折れてしまった。

「えっと……受け売りだけど、東雲さんの好きって気持ちは東雲さんだけの唯一な物だから、他の人の幸せを参考にする必要は無いんじゃないかな」

「杏奈……」

 さっきの椎名先生の言葉を杏奈なりに解釈して陽菜ちゃんにアドバイスできる形に変えたらしい。咄嗟にそんなことができるのはすごいと思う。

「なるほど。相対的なものではなく、絶対的なものとして幸せがあって、それが客観的に美しく見える、ということですね」

「うん、うん……? まあ、それでいいかな」

 杏奈の説明が上手かったのか陽菜ちゃんの理解力が高すぎるのかわからないけれど、とにかく陽菜ちゃんは満足そうだ。

「ありがとうございます。参考になります……すみません、お茶もお出しせずに」

 陽菜ちゃんが慌ててお茶を用意しに行ってくれたのを見届けると、純はまたため息をついた。

「純、珍しいね。そんな風になるの」

「あー……まあ、友達以上の関係を求められるとね……」

 純は少し考え込む素振りを見せてから、杏奈のほうをじっと見た。

「さっきの杏奈の言葉、ちょっと響いた。私は割と他人から見て幸せかどうかを気にしちゃうタイプだったから」

「あ、全然。それならそれでいいと思うよ」

「いいわよ。フォローしなくて……それでもいいかなって。都合のいい存在でも、都合の悪い存在よりずっといいと思って納得しようとしてた」

「そう、だったんだ……」

 純のことを都合のいい人なんて思ったことは無いけれど、純の中にも色々と葛藤があったらしい。

「けど杏奈の言葉聞いたら、何か……私だけの幸せも、あるのかなって」

「……うん。きっとあるよ」

「ありがと、雪」

「純は私の一番の友達だもん。応援してる」

 それからしばらくすると他のみんなも合流して、みんなで夕飯を食べた。お風呂に入り、部屋に戻ると今日一日のことを思い返した。みんなの想いがたくさんあって、それが繋がって、重なって、今がある。

「ねえ、杏奈」

「ん?」

「好きだよ」

 突然、言いたくなった。杏奈は少し驚いたようだけど、笑って答えた。

「私も、好きだよ」

 高校生活、三年間。たくさん間違いもしたし、失敗もした。けれど、今こうして大切な人と一緒にいる。これからも、ずっと。それが青春と呼べなくても、私たちにとっての春は、確かにここにあった。



――――――

「ただいま」

 そう言って家に入るが、ドアの軋む音以外には何も返事は無い。帰りに買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、ソファに座ってひと息つく。

 雪がいなくなった今となっては、平日に通うデイケアサービスが私の心の拠り所だ。それでも老いた体には施設までの往復も堪える。

 冷蔵庫から下味を付けておいた魚を取り出し焼く。サラダを用意し、ご飯を盛って晩御飯にする。雪はずっと自分がいなくなったら私がちゃんとご飯を食べるか心配していた。高校生の頃に私がご飯を食べないことがあると言ったのをずっと覚えていたらしい。

 食後にふと思い立ち、押し入れからアルバムを引っ張り出した。初めは、雪からの誕生日プレゼントで貰ったのだった。何十年も過ごしてきた割に、冊数はそこまで多くない。お互い写真を撮る習慣がないせいでうっかり忘れてしまうのだ。

 初めの頃はまだ張り切って撮っていたので写真は多いが、年月が経つにつれ減っている。それでも記憶には鮮明に雪の姿が残っている。

 アルバムの中で笑う雪の姿を見ていると、あの頃の、雪と出会った頃のことがまるで昨日のことのように思い出された。あのときから今まで、私は幸せだった。

 アルバムを見ているうちに段々と眠気が襲ってきて、ソファに座ったまま意識が薄れていった。



「ん、んぅ……雪?」

「杏奈、おはよう」

 いつの間に眠っていたのか、目を開けると雪の姿が見えた。何か夢を見ていたような気もするが、思い出せない。

「あれ? ここ、学校?」

「ちょっと杏奈、寝ぼけてる?」

 見渡すと、確かに高校の教室だ。でも周りには誰もいない。

「もっと寝ててもよかったんだけど……杏奈が来てくれて、嬉しい」

 そうか。私が寝てる間、雪はずっと待っててくれたのか。

「ごめん。寂しかったよね」

 私の表情が暗くなったのを見て、雪は慌てて手を振った。

「ううん。杏奈のこと見てたから、寂しくはなかったよ」

 実際、雪はとても楽しそうに見える。

 雪は私の手を取り、にっこり笑った。

「行こう、杏奈。私、まだ杏奈とやりたい事いっぱいあるんだ」

 そのまま雪に手を引かれ、私は歩き出す。この手に導かれて、私は生きていた。

「うん……私も」

 何色にも染まらない。私たちだけの、春だった。






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青くなくても春は来る 空き箱 @aki_bako

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