青い、青い空
高校最後の夏休みが終わり、二学期が始まった。結局、あの後に私も雪も風邪をひいて、あれ以来電話でしかやり取りはしていない。それでも、ふとした瞬間にあの日の出来事は何度も鮮明に思い浮かぶ。初めて見た雪の表情も、初めて聞いた雪の声も、初めて触れた雪の肌の感触も……
「杏奈、聞いてる?」
「えっ? ごめん、何?」
後ろの席に座っている純が大きくため息をついた。
「別にただの雑談だからいいんだけどさ、まあ……」
純は私を見て何か言おうか迷っている。結局言わなそうなので気になって聞いてみる。
「どうかした? 純」
「いや……生々しい話だし、あんまここで言うのもなって思ったの」
「……何の話?」
全く要領を得ない回答に首を傾げていると、純はしぶしぶ小声で話しだした。
「だから、杏奈と雪が二人して風邪ひいたって言うから……察したの」
「えっ」
察した、って。どこまで察したのだろう。いや、純の言い方からして誤解なく正確に察していそうだ。私のリアクションで純は確信したのか、気まずそうな顔をした。
「やっぱり……」
「いや、その……」
どう返せばいいのか。否定はできないし、肯定するのも恥ずかしい。
「まあ、私が勝手に察しただけだからそれはいいんだけど。ただ、雪といい二人ともずいぶんぼんやりしてるし」
「そ、そうだね。気をつけるよ」
「……干渉し過ぎかもだけど、一応言っとくわ。そればっかりにならないように気をつけなさいよ?」
「なっ、ならないよ! まだ一回しか……」
純の言葉につられてつい余計なことを喋ってしまった。純もしまったという顔をしている。
「いや、違くて……その……」
「私こそ、ごめん。やっぱり言わなきゃよかった」
何だかお互い気まずくなってしまったが、ちょうど始業式に移動するタイミングが来たので助かった。
――――――
「あらあら、杏奈ちゃん。久しぶりね」
「はい、お久しぶりです」
以前は正月などの節目には訪れていた雪の実家だが、今年は久しぶりだ。雪の母はしばらく会わないうちに皺も白髪も増えていて、すっかりおばあさんといった風貌だ。それでも持ち前の明るさは変わらない。
「お母さん、ずいぶん老けたんじゃない?」
「うるさいわね。雪だってもうおばさんじゃないの」
「そうそう、この間だって職場の新人の子の会話についていけないって言ってたじゃん」
「あ、杏奈まで……もう、どうせ私はおばさんですよ」
久しぶりだけれど気兼ねなく会話が盛り上がるのも、お互い歳のせいだろうか。
「そういえばお父さんは? いるんだよね?」
「あー。お父さんね、この間段差につまづいちゃって、医者にあんまり無理するなって言われてるのよ」
「え、大丈夫なんですか?」
「そんな大怪我じゃないのよ。けど歳だからね……本人も定年過ぎてるし、もうじっとしてようと思ってるみたい」
「そうなんだ……私、ちょっと様子見てくるね」
雪が奥の部屋に向かったのでついて行こうとすると、義母に呼び止められた。
「杏奈ちゃんは、ご両親に会ってる?」
「いや、うちは……もうとっくに見放されてますよ」
昔はもっと聞きづらそうにしていたような気がするが、それも歳のなせる技だろうか。
「そう……でもたまには連絡くらいしてあげたほうがいいわよ。子どもから連絡貰って嬉しくない親なんて、そうそういないんだから」
「そう、ですかね」
今更何を話せというのか。今だからこそ話せることも、あるのだろうか。考えていると、インターホンが鳴りそこで思考は止まった。
「沙織ですかね。私が出ますよ」
――――――
「はぁー」
放課後、ファーストフード店のテーブルを真希と陽菜と三人で囲んでいた。話が一段落ついたところで、不意にため息が漏れてしまった。
「朱音ちゃん、最近元気無いね」
陽菜が二つ目のハンバーガーの包みを開きながら聞いてきた。食べたことがないと言うから軽い気持ちで連れてきたのだが、思いのほか気に入ってしまったらしい。それまで上品な食事しか入れてこなかったであろう胃袋に庶民の味を詰め込むのは何だか背徳感があって、小さな口で一生懸命ハンバーガーを頬張る陽菜の姿は少し面白い。
「芽衣先輩のこと?」
「うん……最近、勉強が忙しいみたいで」
受験生だから仕方ないのだけれど。
「勉強に付き合ってあげたらいいんじゃないかな?」
「私もそう思ったんだけどさ、この間……」
芽衣さんが図書室で勉強するというので、私も隣で一緒に座った。とはいえ隣に恋人がいるのに真面目にノートに向かい続けられるわけも無く、私は隣で熱心にペンを走らせる芽衣さんの横顔を見た。
長い髪の隙間から覗くメガネの奥の目は真剣そのものだ。普段の優しい表情とは違う眼差しに、思わず息を飲んだ。
しばらく見つめていたが、芽衣さんが私に気づく気配はない。面白くなくて、芽衣さんの頬に指をちょんと当てた。柔らかい頬に指が埋まる感触は、気持ちいい。
「朱音ちゃん、どうかした?」
芽衣さんはいつも通りの優しい眼差しで私のほうを見た。私は頬に当てていた指を開いて、手のひら全体で芽衣さんの頬の感触を味わう。
「ちょっと、休憩しません?」
芽衣さんが好きな、少し低めの甘い声色で話しかける。これで芽衣さんの耳に触れてやれば……と思っていると、私の手を芽衣さんががっと掴んだ。
「そういうのは、受験が終わったらね」
いつも通り、優しい表情……だが、その奥には確かな意志を感じる。ここから先に踏み込めば怒る、という意志を。
「は、はい……」
すっかり萎縮してしまい、私は渋々ノートに向き直った。
「あはは! 朱音ちゃん、きょーさいかだ!」
「いや、ちが……くはない、のかな? ていうか真希、どこでそんな言葉覚えたの」
真希にポテトを差し出すと、飛びついてきた。うさぎのようにサクサク食べる姿は見ていて心地良い。
「とにかく、なんていうか……寂しい、んだよね」
あんまり気持ちを押し付けることはしたくないし、重いと思われたくもない。けれど、気持ちの欠片でも、渡したくなってしまう。
「確かに……気持ちが釣り合ってるかどうか、不安になるよね」
いつの間にか二つ目のハンバーガーを食べ終えていた陽菜が口元を拭きながら答えた。
「それなら、先輩に相談してみたら?」
「先輩って……杏ちゃんと雪先輩のこと?」
陽菜は肯定するように小さく笑った。確かに、お互い受験生である二人なら、そういう所もどうしているか参考になるかもしれない。
「ていうか陽菜、ずいぶん知ってる風だけど……」
陽菜の育ってきた環境を考えると、そこまで経験が豊富だとは思えない。
「ん? 朱音ちゃん、どうかした?」
探ろうにも、陽菜の笑顔の奥は見えてこなかった。
――――――
「というわけで、杏ちゃんを呼んだわけだよ」
「いや、私も受験勉強あるんだけど……」
「杏ちゃんなら大丈夫でしょ……え、もしかしてそんなやばい?」
確かそこまで高いレベルの大学に行くとは言ってなかった気がするけれど、いつの間にか杏ちゃんが勉強ダメダメになっていた可能性もある。
「いや、まあ大丈夫だけど。それで、芽衣とデートできなくて寂しいって話?」
「デート、っていうか……勉強が忙しいのはわかるから、せめてお家デートでも……」
芽衣さんが頑張っているのを、少しでもサポートしたい。そう思うのは間違いだろうか。
「うーん……私と雪も、今はお互い勉強に集中しようって事にしてるからなあ」
「そうなの? 寂しくない?」
一緒にいたほうが頑張れるとか、ないのだろうか。杏ちゃんは言葉に迷いながらも口を開いた。
「……ていうか、二人でいると集中できない」
「あー、確かに」
納得した。事実、私も集中できず芽衣さんに構ってちゃんしてしまったわけだし。
「芽衣もそうかもしれないし、今は少し我慢するのも必要なんじゃない?」
「そっか……」
仕方ないか。それで芽衣さんが頑張れるなら。そう思っていたのだが……
「受験終わるまでは、私も芽衣さんの邪魔にならないようにしますね」
「うん……ごめんね。でも、大丈夫だよ。ほら、朱音ちゃんが過去に配信で頑張って、とか応援してる、とか言ってるところを聞いて頑張るから」
芽衣さんが見せてくれたメモには何回目の配信の何分何秒に頑張ってと言っているかがびっしりと書かれていた。ちょっと、ほんのちょっとだけ、引いた。というか、そんなもの無くても……
「私、いつでも芽衣さんのために言いますよ?」
「そ、それはダメ!」
「なんで……?」
「だって……朱音ちゃん本人までいたら、多分、我慢できない……」
そんなことを言う芽衣さんを前に、私の方が我慢できない。でも、ギリギリ耐えた。芽衣さんも我慢しているのだから。何となくフェアじゃない気はするが。
「だから、大丈夫。朱音ちゃんの声を聞いて頑張るから」
「は、はい……頑張ってください……」
「お母さんが、杏奈に会いたいって言ってるんだけど……」
昼休み、中庭で二人でお昼を食べていると、雪から突然そう言われた。驚いた私は菓子パンを咥えたままの姿勢で固まってしまった。
「あ、杏奈?」
雪に呼びかけられて、慌てて菓子パンを飲み込む。そして言われたことを頭で整理する。
「それって、付き合ってるのを知った上で、ってこと……?」
「うん……前に杏奈と遊ぶ準備してるときに、お母さんに好きな人でもできたの? って聞かれたから。流れで……」
前に雪が、私が宮川さんに付き合ってることを堂々と言ったことが嬉しかったと言っていたけど……確かに、雪が親に私と付き合ってることを隠さないでくれていたことは嬉しいと思った。
「まあ、いつかはちゃんと挨拶しないとって思ってたし。ちょうどいいかもね」
「そ、そんな張り切らなくていいよ」
「いや……引っ越すことも、言わないとだし」
大事な娘の将来を預かるのだから、それなりに誠意を見せないといけない。もしかしたら、付き合うだけなら許してくれても一緒に暮らすことは許してもらえないかもしれないのだから。
――――――
「ここだよ」
雪に連れてこられたのはごく普通のマンションだったが、私は割と緊張していた。あれから色々考えて、正装のほうがいいだろうという事で放課後に制服のまま行くことにした。
「杏奈、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。うちの親、全然怖くないから」
「う、うん」
そう言われても、鼓動は簡単には静まらない。エレベーターの扉をじっと見つめていると、雪が私の手を握った。
「杏奈、手冷たい」
「あはは……緊張してる」
「大丈夫。私もいるから」
雪の暖かい手に包まれて、雪の顔を見ていると、少しずつ緊張がほぐれてきた。
エレベーターの扉が開き、雪の家の前まで着いた。雪が鍵を開け、ドアを開く。
「ただいま。お母さん、杏奈連れてきたよ」
雪の声のトーンが家族と話すときのものに変わる。すると奥から雪の母親が出てきた。雪や雪の妹と同じサラリとした黒髪で、雪と違いショートカットにしている。顔立ちも雪に似て……いや、雪が母親に似ているのか、大きな黒目が印象的だった。
「あら、あなたが杏奈ちゃん? 初めまして。雪の母です」
「は、はい。初めまして。桜井杏奈です」
買っておいた手土産を渡すと、雪の母親は驚いた顔をした。
「まあ、そんな気使わなくていいのに。本当にいい子なのね」
「杏奈、そんなの買ってたの? 別によかったのに」
「いや、一応……その、つまらないものですが」
形式に則ってやったことだが、やってみると余計に緊張する。
「そんなかしこまらないで頂戴。とりあえず上がって」
奥のリビングに通され、三人でテーブルを囲む。雪の父親も仕事を早く切り上げてもうすぐ帰ってくるらしい。
「お父さん帰ってくるまで女子会してましょうか。沙織、杏奈ちゃんからお菓子貰ったわよー」
呼びかけると、部屋から沙織ちゃんが出てきた。私が来ると聞いていたのか、まるで出かけるようなオシャレな服装だ。
「沙織、何でそんな気合い入れた格好してるの」
「別に、いつも通りだけど」
雪が聞くと沙織ちゃんは素っ気なく答えた。何となく気まずくて、話題を探す。
「沙織ちゃん、その上着いいね」
沙織ちゃんがTシャツの上から羽織っていたのはデニム生地の上着。雪と顔は似てるが服の好みは雪とは違ってストリート系だ。
「あ、ありがとうございます……」
照れて口元を隠す仕草は雪と似ている。姉妹だなあと思っていると雪が不機嫌そうに私を見ていた。
「杏奈、私の服はそんな褒めないのに」
「いや、雪の服もいいと思ってるよ」
弁明するが沙織ちゃんが得意げな顔をしたせいで雪はまた不機嫌になった。
「ふふ、杏奈ちゃんはうちの姉妹キラーね」
不意にとんでもないことを言われて驚いた。雪も沙織ちゃんも一気に顔が赤くなる。
「そ、そんなことないですよ」
「そうだよ! 杏奈は、私と付き合ってるんだから……!」
「私だって、別にそんなつもり……」
みんなが一斉に喋りだして、雪の母親は笑いだした。
「それで? 何か大事な話があるのかしら?」
明るい空気はそのままで、本題に突っ込まれる。
「あ、えっと……」
雪の父親も来てからのほうがいいと思っていたけれど、聞かれた以上答えたほうがいいだろうか。雪と目を合わせてどうしようかと考えていると、沙織ちゃんのほうが先に口を開いた。
「お姉ちゃん、杏奈さんと二人暮らしするつもりなんでしょ?」
「さ、沙織!?」
「最近、よく物件調べてたじゃん。一人暮らしにしては広いし、違う?」
驚きで何も言えない。雪も呆気にとられている。雪の母親は予想通りといった表情で、特に驚いた様子は無い。
「え、えっと……そうなんです。雪と私で、高校を卒業したら二人で暮らそうと思ってて……」
「お、お金はバイト代貯めてるから大丈夫」
少し予定とは違ったけれど、言うべきことは言えた。雪の母親はゆっくりとお茶を飲み、口を開いた。
「いいわよ」
「えっ」
「い、いいの?」
「あら、ダメって言ったほうがいい?」
迷う様子も無く、認められた。私も雪も驚いていた。
「い、いや……いいけど。びっくりした。お父さんはいいの?」
「お父さんとも昨日少し話したのよ。雪が大切な人を連れてくるって」
「それで……?」
「私たちも何となく、雪が家を出るつもりなのは察してたから。そう言われたらしっかり送り出そうって。お父さんも」
「そうだったんですか……」
少し、肩の力が抜けた。雪も実際は緊張していたのか、今は安心した表情だ。
「雪は昔から一つのことに執着しない子でね。ピアノくらいかしら。それも中学でやめちゃって……他は物でも人でも繋ぎ止めようとはしなかったの。そんな雪が杏奈ちゃんの話をするときはとっても楽しそうで、それがこの子の幸せなんだなって思ったわ」
話を聞いているうちに、自分の心が満たされていくのを感じた。雪のことを生まれてからずっと見てきた人が、雪の幸せは私なんだと認めてくれている。
「さて、そろそろお父さん帰ってくるわね。夕飯の用意しないと。杏奈ちゃんも食べていくでしょう?」
「あ、はい。手伝います」
「あら、杏奈ちゃん料理できるの? なら安心だわ。雪は全然できないから」
「お、お母さん! 余計なこと言わなくていいから!」
その後、帰ってきた雪の父親にもあっさりと二人暮らしを認めてもらえて、私はようやく安心した。そして、自分の親にも話さなくてはならないんだと思うと、新たな不安がじわじわと湧いてきた。
――――――
「ふうん。この人たち結婚するのね」
休日、リビングでテレビを見ていた母がそう呟いた。テレビでは若手の女優が一般男性と結婚したという報道がされている。聞き流しながらお昼ご飯のカップ麺をすすっていると、母が続けて話しだした。
「しかもできちゃった結婚だって。相手は経済力あるのかしらね。これからが稼ぎ時って感じだったのに……」
私に話しかけているわけじゃないので特に返事もせず黙って食事をしていたが、母が私の方を見て話しかけてくる。
「杏奈はそんな馬鹿な真似しないでよね。ちゃんと経済力のある人と結婚したほうがいいわよ」
頭の奥の方がズキズキと痛む感覚がする。そこから漏れ出す物を出来るだけ抑えながら、言葉を探す。
「……まあ、誰と一緒になるかはその人の自由なんじゃない」
「それはある程度生活に余裕があればそうだけど、ほとんどの人は第一にお金なんだから、やっぱり大事よ」
意気揚々と持論を語り出す。このまま放っておくとまた自分が学生時代にどれだけ努力したかを語り出す。そこから仕事の苦労話に繋がるのがワンセットだ。聞き飽きた話に時間を使いたくなくて、私は適当に相槌を打ってリビングを離れた。
自室に入り、ドアを閉め大きくため息をついた。あの母親をどう説得しろというのだろう。何より、雪を会わせたくない。
父は私が出ていくことには賛成するだろう。私がいなくなれば母と別れやすくなる。
「……早く、雪と暮らしたい」
――――――
杏奈がまだ仕事から帰ってくる前、夕飯の支度をしていると電話が鳴った。表示された名前は杏奈の姉の真帆さんで、わざわざ固定電話にかけてくるなんてどうしたんだろうと思いつつ電話を取った。
「はい、桜井です」
『あ、雪ちゃん? 杏奈はまだ仕事?』
「はい。真帆さん、どうしたんですか?」
杏奈に用事だろうか。真帆さんは『まあ雪ちゃんにも言っとかないとか』と呟いてから話しだした。
『実は、うちのお母さんが倒れちゃってさ。今病院に来てるんだ』
「え……そうなんですか」
杏奈のお母さん……最後に会ったのは何年前だっただろうか。まだ元気な姿だったと思うが。
『まあここ最近ちょっと調子悪そうだったから……しばらく入院すれば大丈夫らしいんだけど、一応伝えとく』
「はい、ありがとうございます……」
『雪ちゃんもまた顔見せに来てよ。杏奈も……来れたら、ね』
電話を切り、受話器を置いた。小さくため息をついて、天井を見上げる。もし私の母親が倒れたと聞いたら私はすぐに向かうだろう。きっと杏奈もついて来てくれる。
でも、杏奈はきっとお義母さんが倒れたと聞いてもお見舞いに行こうとは思わない。真帆さんから容態を聞いて、それきりだろう。間違っているとは思わない。家族の在り方なんてそれぞれで、正解なんてない。でも、何だか……モヤモヤしてしまう。昔とは考え方が変わってきたのか、歳のせいだろうか。
「……杏奈、お義母さんの所にいくつもり、ある?」
杏奈が帰ってきて、二人で夕飯を食べながら聞いてみた。杏奈は少し気まずそうな顔をしたけれど、答えてくれた。
「雪は行くべきだって言うかもしれないけど、行かない。私が行ったって何も変わらないし」
「そ、っか……」
予想通りの答えに何も言えない。それもそうだ。行ったって何も変わらない。そんな急に家族を大事に、なんて思えるほどの関係ではない。
「……ていうか、怖い。今更どんな顔して会えばいいかわかんない」
そう話す杏奈の表情は怒りとも哀しみともとれない、複雑な感情が読み取れた。
――――――
「じゃあ、私はバイト行くね。また明日、雪」
「うん、またね」
駅のホームで杏奈を見送る。その背中を眺めながら、私は違和感を感じていた。私の家に杏奈が挨拶に来てから数日、てっきり私は杏奈の家にも行くものだと思っていたのだが、杏奈からそんな話は一切出てこない。それどころか、その話題を避けているような節すらある。
杏奈が両親に対してあまり良い感情を持ってないことは何となく聞いている。もしかしたら、黙って出ていくつもりなのだろうか。それは何だか、あまり良くない気がする。しっかり話して、ダメだと言われたら私も一緒に説得したい。親子なんだから、話せば分かり合えるはずだ。
「杏奈、両親に家を出ること話した?」
ある日の昼休み、意を決して杏奈に聞いてみた。案の定杏奈は少し気まずい顔をして、笑顔を貼り付けて答えた。
「……まあ、そのうち話すよ」
「私も一緒に行くから、いつにするか決めよう?」
杏奈の手を握りそう言うと杏奈の顔はたちまち曇って、辛そうな表情を見せた。
「雪は……来なくていい。私一人で言っとくから」
「なんで? 二人の問題でしょ?」
「そう、だけどさ……」
杏奈の迷いのある瞳の奥に、本音が見えた気がした。本当は私も一緒に来てほしいんだ。でも杏奈は、自分の親に私を会わせたくない。その間で揺れている。
「大丈夫だよ。私は杏奈と一緒にいるから」
杏奈の目に光が差した気がしたけれど、まだ杏奈は私を真っ直ぐ見ない。
「でも……怖い」
「怖い?」
「うん……お母さんに何を言われるのかも、それを聞いた雪がどう思うかも、私がどうなるのかも、怖い」
杏奈の声は徐々に震えてきて、見たことないほど弱気になっていた。今まで向き合ってこなかった物に向き合わなくちゃいけなくて、どうしたらいいのかわからないのだろう。
「大丈夫、きっと話せばわかってもらえるよ」
杏奈の手を改めてぎゅっと握ると、杏奈は縋るような目を向けてきた。
このときの私は根拠の無い自信を持っていて、知らなかった。どうしようもないことが、世の中にはあるんだということを。
――――――
数日後、杏奈と日程を決めて家を訪れた。杏奈の家には色んな思い出があって、それを思い起こすと胸の奥に熱が集まるのを感じる。対照的に杏奈は家に近づくほど顔が険しくなっていた。
杏奈の父親は仕事が忙しく時間が取れないそうなので、今日は母親にだけ話すらしい。杏奈が鍵を開け、後に続く。玄関のドアを開くと見慣れた杏奈の家だ。杏奈のお姉さんも家にいて、軽く挨拶をした。
「雪ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。お邪魔します」
「仲良さそうで安心だよ……杏奈?」
お姉さんの言葉に杏奈は耳を貸そうとしない。杏奈の肩を叩くと驚いた様子で振り返った。
「な、なに?」
「ううん……杏奈、大丈夫?」
「大丈夫。ごめん、ちょっとぼんやりしてた……」
杏奈がリビングに行って声をかけると、リビングから杏奈の母親が出てきた。杏奈と似たくせっ毛に、つり目。少し濁ったダミ声も杏奈に似ている。
「あら、こんにちは。あなたが杏奈の友達?」
友達、と言われて少し驚いた。でも人に話しづらいのは事実だし、それも含めて今日話せばいいのだろう。
「えっと、友達というか……」
私の言葉を、杏奈が遮った。
「お母さん。ちょっと、話があるんだけど……」
――――――
「杏奈、明日の休み空いてるよね?」
カレンダーを見て杏奈にそう言うと、杏奈は何を今更という顔で答えた。
「そりゃ、空いてるけど」
「じゃあ、ちょっと出かけよう」
翌日、レンタカーを借りて数年ぶりに運転席に座った。少し緊張したけれど、走り出すと感覚が戻ってきて危なげなく走れた。
杏奈はどこに行くのかもなぜ車なのかも聞いてこなかった。もしかしたらどこに連れていこうとしてるのか気づいてるのかもしれない。
「……雪、どこ行くの?」
さすがに耐えかねたのか、会話が無くなったからか、杏奈が聞いてきた。私は一応用意していた言い訳を使う。
「まあ、着けばわかるよ」
「お母さんのとこでしょ?」
やっぱり気づいてたのか。杏奈はふっと笑った。
「別に、無理やりじゃなくても行こうって言われたら行くよ」
「本当に? 怖くない?」
空気が重くならないよう冗談めかして聞いたが、杏奈は意外と真面目に答えた。
「怖いよ。前も言ったけど、今更何を話せばいいかわかんない」
杏奈はどこか遠くを見つめながら話している。
「……でも、まあ。もうそういう歳でもないしね」
助手席で遠くを見つめる杏奈の目に何が映っているのか、私には何となくわかる気がした。
しばらく車を走らせると、病院に着いた。駐車場に車を停め、受付でお見舞いの旨を伝え、通してもらった。病棟では事前に連絡していた真帆さんが待っていて、私たちに手を振ってきた。
「杏奈、来てくれるとはね」
「雪に無理やり連れてこられたんだよ」
「ちょっと、無理やりじゃなくても行くって言ってたじゃん」
軽口を叩くのは目を背けているからか、それだけ余裕ができたのか。
「あれ、雪は行かないの?」
病室の前で立ち止まった私を、杏奈が不思議そうに見た。
「私はここにいるから、杏奈は行ってきて」
「そう? まあ……わかった」
私から伝えることは、もう伝えた。後は、杏奈の番だ。
――――――
「それで、話って何かしら?」
杏奈の隣に座り、テーブルを挟んで杏奈の母親と向かい合う。改めて見ると、顔のパーツは杏奈と似てるけど全体の印象は杏奈よりも強く感じた。何というか、気圧されそうだ。
杏奈もそうらしく、口を開くのを躊躇している。私が頑張らないと、と思って杏奈の母親を見る。
「あの、私と杏奈は……」
「雪、大丈夫。私が、言うから」
杏奈は深呼吸をして、姿勢を正した。
「お母さん、私……雪と、付き合ってるんだ」
そう言うと、杏奈の母親は目を見開いて驚いた。私と杏奈の顔を交互にゆっくり見て、信じられないといった表情だ。
「それで、高校を卒業したら二人で暮らす。この家からは、出る」
杏奈は矢継ぎ早に、言葉を続けた。それにまた驚いて、杏奈の母親は遂に頭を抱えた。深くため息をつくとゆっくり顔を上げて、さっきまでの来客向けの明るい声とは違う、威圧感のある声を出した。
「なんの冗談? あなたも、そんなことを話すためにわざわざ来たの?」
「じょ……冗談じゃないです。私も杏奈も、本気です」
正直、とても怖かった。今まで周りの人たちがみんな優しかっただけで、本来はこう思われるのだ、というのを実感した。世間の偏見が、形を持って私たちに突きつけられている気がする。
「杏奈、馬鹿なこと言わないで頂戴。そんなことして、将来どうするの?」
「私の、将来は……私が決める。勝手に私の幸せを決めないで」
杏奈は声を震わせながらも、言い切った。しかしその言葉は杏奈の母親を逆上させるには十分で、机を叩く音と怒声が響いた。
「勝手にじゃないわよ! 誰がここまで育てたと思ってるの! 私は杏奈のためを思って言ってるのよ!」
杏奈の肩がびくっと震える。今の言葉よりも、過去のトラウマを刺激されているようだ。
「そっちの……久保田さんだったかしら? あなたもあなたよ。親御さんはどう思ってるの? 子どもも作れないで……育ててもらった恩を返す気は無いの?」
「やめて! 雪には……何も言わないで」
凄まじい剣幕に私が怯えていると、杏奈が手で私の前を遮った。見ると、杏奈の目には既に涙が溜まっている。
「……とにかく、認めないわよ。そんな勝手な真似」
「別に、認めてほしかったわけじゃない……ただ、報告しただけ」
「なっ……なんなのよ! その言い方!」
「話は終わり。行こう、雪」
杏奈に強引に手を引かれて家を出た。杏奈の表情が伺えないまましばらく歩いて、立ち止まった。杏奈は膝を抱えて、しゃがみこんでしまった。
「わかったでしょ……うちの親が、どういう人間か」
私よりも、杏奈のほうがよっぽどショックだろう。実の親に、自分を否定されたのだから。かける言葉が見つからず、私は黙ってしまう。
「……雪にはわからないよね。あんな、幸せそうな家庭で育ってたら。雪はいいよね。認めてもらえて」
声に徐々に涙が混ざってきて、震えていく。その言葉が本心じゃない事なんて、すぐにわかった。
私はゆっくりと杏奈の正面に回って、杏奈の頭を抱きしめた。杏奈は限界だったのか、声をあげて泣き出した。
「……っ、ごめん。ごめん……でも、本当に、心のどこかではそう思ってるんだ……雪のこと、羨ましいって……そう思う度に、私はあの人の子どもなんだって、思い知らされてるみたいで……それが、嫌で……っ!」
「私こそ……ごめん。よく知らないくせに、私も自分の考えを杏奈に押し付けてた。そういう人もいるって、考えてなかった」
私たちには、私たちの幸せがある。誰がなんと言おうと、それだけは絶対だ。でも、他人にそれを否定されるのは、とても苦しい。
――――――
「お母さん、久しぶり」
病室のカーテンを開くと、ベッドの上で本を読む一人の老人がいた。それが母だと認識するのに、少し時間がかかった。私の中では、母の姿は高校生の頃のままで止まっている。今目の前にいるのは、痩せ細り、白髪だらけで歩くのもままならない老婆だ。
その老婆は私の姿を見ると、目を大きく見開き、口をパクパクさせた。
「あ、杏奈……?」
「うん。そうだよ」
「なんで……?」
「雪に連れてこられた」
椅子に座り、母と向かい合う。母はまだ信じられないという顔をしている。姉はしばらく入院すれば良くなると言っていた気がするが、私の目にはとてもそうは見えなかった。しかし老人とは皆こういうものなのだろうか。
「雪さんに……そう。そうなの」
母は何か納得したような反応を見せた。
お互い何を話せばいいのかわからず、沈黙が続く。堪らず、私は口を開いた。
「お母さん……私は、まだお母さんのこと許せてない。けど……無理やり家を出ていったことは、悪いと思ってる」
母は何も言わない。私は構わず話し続けた。
「ごめんなさい」
頭を下げるが、母は依然何も言わない。少し頭を上げて母の様子を見ると、窓の外を眺めている。そして、ゆっくり口を開いた。
「……杏奈は、今、幸せなの?」
「うん。幸せだよ」
「そう……」
母は私と目を合わせず、窓の外を見ながら話している。外はいつの間にか夕暮れで、病室をオレンジ色に染めていた。
「……じゃあ、私は帰るね」
これ以上話すことはない。そんな長居する場所でもないと、私は早々に立ち上がった。カーテンを閉めようとすると、母が私を呼び止めた。
「……なに?」
母は私のほうを見るでもなく、視線を泳がせている。こんな狼狽えている母を見るのは初めてだった。しばらく言葉に迷っていた後、ようやく私の目を見た。
「……杏奈、ごめんね」
驚いて、何も言えなかった。母はそう言うと寝返りをうって顔をそらしてしまった。頭の中にはいくつもの言葉が浮かんでいるのに、そのどれも口を出ることはなかった。
「杏奈、おかえり」
「うん……ただいま」
雪は何も聞いてこなかった。外で聞いていたのかもしれない。
「雪ちゃんに感謝しなよ。杏奈が帰ってこない間、何回も家に来てお母さんを説得しようとしてたんだから」
「え……そうだったの?」
全く知らなかった。そんな素振りは全く見せなかったから。
「まあ、ね……結局、許してはもらえなかったんだけど」
「それでも最初に比べたらずいぶん仲良くなってたよ。杏奈が本出したときなんて毎日のように来て読んでください! って頼み込んでたもんね」
「ま、真帆さん。そのくらいで……」
雪が恥ずかしそうに姉を制した。そんなことまでしていたのか。
「もしかして、だから何冊も……?」
「う、うん……で、読んでくれたよ。感想は聞けなかったけど……」
私の知らないところで、そんなに頑張ってくれていたのか。私にとっては今日の一歩はほんの少しだったけれど、そのほんの少しのために、雪は何年も努力してくれていたんだ。
――――――
それから数日後、母が他界したという連絡が入った。それほど体調が悪かったわけではないが、老衰だろうということだった。葬儀は身内だけで簡素に行われた。
葬儀から帰り、ベランダで缶ビールを煽っていると雪が様子を見に来た。
「珍しいね」
「まあ、たまには」
雪は何も言わず私の隣に立っている。夜の風が体を冷やしていく。私はビールをぐいっと飲むと、夜の闇に向かって話しだした。
「……ずるいよね。勝手に満足して、勝手に死んで……まだ、言ってやりたいこと、たくさんあったのに……」
後悔してるわけじゃない。話したところで溝が深まっただけだろう。けれど、どうしてもあの時ちゃんと話し合えば違った結果があったのかもしれないと思ってしまう。
「……うん」
雪が手を握ってくる。暖かい、優しい手だ。
母の最期の姿を見たときも、葬儀のときも、涙は出なかった。我慢していたわけじゃない。なのに、今になって抑えきれないほど涙が溢れて止まらなかった。
「……あんな人でもさ、お母さんだったんだ……私にとっては、ただ一人の、母親だった……」
「うん……そうだね」
悲しいのか、悔しいのか、涙の理由は自分でもわからなかった。
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