太陽に向かう
「それでは、説明は以上になります」
オープンキャンパスが終了し、私と七瀬さんは講堂を出た。
「いやー、良かったね。色々聞けて」
「うん。やっぱりここに決めてよかった」
高校よりさらに広い大学をキョロキョロと見渡しながら歩く。夏休みで学生の姿はあまり見えないが、ここに毎日通う自分を想像して楽しみになった。
七瀬さんも何かを探すように顔を動かしている。
「久保田さん、学食ってどこだっけ?」
「えーっと……あっちのほうかな」
「そっか。ねえ、お腹空かない? ちょっと食べてみようよ」
そういえば、学食を解放しているとさっきの説明で言っていた。確かに少し見てみたほうがいいかもしれない。
「うん。そうしよっか」
学食のメニューは高校より豊富で、目移りしてしまう。
「私は……カレーにしようかな。あ、でも跳ねちゃうかな」
今日は制服で来ている。シミになると面倒だなと思っていると、学食の方が紙エプロンもあると案内してくれた。
「あー、いいね。カレー。迷うなあ……どれも美味しそう」
七瀬さんはしばらく迷った後、カツカレーを注文した。料理を受け取り、席に着く。思っていたよりなかなかボリュームがある。
「うわ、美味しい。これなら毎日食べられるよ」
七瀬さんはスプーンを休めずどんどんカレーを食べ進めていく。量は多いが味が濃すぎないので、確かにさらっと食べてしまうかもしれない。
ある程度食べたところで、七瀬さんに少し質問をしてみる。
「七瀬さん、ちょっと聞きたいんだけど……中学の頃の杏奈って、どんな感じだった?」
聞いてみると、七瀬さんは少し驚いたような顔をした。
「私に聞くより、杏奈から聞いたほうがいいんじゃないの? それに、姫野さんのほうが杏奈とは仲良かったと思うけど」
「まあ、そうなんだけど……七瀬さんから見てどうだったかも知りたくて」
実際、杏奈から少しは聞いているのだが、あまり話したがらないので私からもあまり聞かないのだ。芽衣には何かと辛い話なので聞きづらい。
「そういうことなら。とはいっても私も杏奈と知り合ったのは中三の頃だったからなあ……その前から名前は知ってたけど」
「そうなの?」
「うん。杏奈が男子相手にケンカしたって……ごめん、知らなかった?」
それは、芽衣から聞いていた。芽衣のことをからかっていた男の子とケンカになったことがあるらしい。杏奈はあまり話さなかったけれど、芽衣の話を聞く限り芽衣のためを思ってのことだったのだろう。
「ううん。知ってる。それが原因で?」
「そう。なんかめちゃくちゃな暴れん坊がいるみたいな話が広まってて……もちろん、実際は全然そんなことなかったけどね」
「そうだったんだ……」
「私も同じクラスになったときはちょっと身構えてたけど、話してみたらあんな感じだからさ。すぐ友達になったよ」
七瀬さんがいてくれてよかったな、と思った。杏奈にとって、分け隔てなく接してくれたことはきっと心強かっただろう。
「それでも割と避けてる人は多かったかな。杏奈自身は全然怒りっぽくもないんだけどね。そういうイメージが付いちゃってて」
そう言われると、杏奈の中学時代の話でそのケンカの話だけが浮いてるように感じる。でも誇張されているようにも思えないし、不思議だ。
「杏奈がケンカしたのって、その一回だけ?」
「そうだね。あとは全然……ちょっと嫌な話、杏奈にちょっかいかける奴もいたんだけど、それも杏奈は全然気にしてなかったみたいだし」
「そんなことあったの?」
それは、全然知らなかった。
「まあ、先生がすぐ注意してそんな大事にはならなかったけど……杏奈も本当に気にしてないみたいだったし」
「そっか……」
もう今更なことではあるけど、私は内心腹がたった。スプーンをぎゅっと握る私を見て七瀬さんが察したのか、慌てて言葉を付け足した。
「でも、今の杏奈は私から見てもめちゃくちゃ幸せそうだよ。久保田さんといるときは特に」
「そ、そうかな」
今度は急に恥ずかしくなる。感情の移動が忙しい。
お互いカレーを食べ終えたので、食器を返却して大学を出た。改めて、入学の意志を固められて良かったと思う。
七瀬さんと駅のほうに歩いていると、向かいから二人の女の子が歩いてくるのが見えた。その内の一人、フリルの付いた可愛らしい服装の女の子に見覚えがあった。
「浅倉さん……?」
向こうも私に気づいたようだが、目を合わせようとはしない。七瀬さんのほうをチラリと見ると、苦い顔をした。
「……? 久保田さん、何か言った?」
「あ、いや……」
別に言うほどのことじゃない。お互い知らないフリをしてすれ違うだろうと思っていると、浅倉さんがすれ違いざま、私に小声で話しかけてきた。
「……なんでいるのよ。うざ」
私にしか聞こえないほど、小さい舌打ち。驚いて振り返ったが、浅倉さんは何も言ってないような明るい顔で歩いていった。
「久保田さん?」
「な、なに?」
「大丈夫? 何か調子悪い?」
七瀬さんが心配そうに聞いてくる。そのとき初めて、私は自分の手が震えてることに気づいた。
「ううん。大丈夫。ごめん、ちょっと用事思い出したから、先に行くね」
「え? ちょっ……」
七瀬さんの返答は待たず、走り出した。駅まで走ると、それほどの距離じゃないのにひどく息が切れた。手はまだ震えたままだ。
浅倉紫音。私が中学で優希ちゃんとバンドを組んだことが原因で、私を無視するよう仕向けた子だ。転校したと聞いていたが、引越し先がこの辺りだったのだろうか。
「はぁ……」
落ち着いて、深呼吸をする。それでもまだ心臓はうるさく鳴っていた。目を閉じると、さっきの浅倉さんの蔑むような目と中学の頃のトラウマが脳裏に浮かぶ。
何も言えなかった自分が情けない。あれほど、浅倉さんに深い傷を与えてしまっていたのに。
杏奈に会いたいと思い携帯を取り出したが、何も言えなかった。何と言えばいいのか、わからなかった。
夏はさらに勢いを増して、これでもかと太陽はその存在を主張してくる。それでもエアコンの効いた教室にいる私には無関係で、心地よくノートにペンを走らせていた。
「嬉しいわ。桜井さんが頼ってくれて」
私の向かいには椎名先生が座って、勉強を見てくれている。家でやってもいいのだが、家で勉強をしていると母が何かとうるさいのだ。
「私こそ、教えてもらえて助かります」
私自身、自分がこんな熱心に勉強する事になるとは思っていなかった。雪に出会わなければ、雪に夢を話さなければ、きっと私は昔のまま、呆然と生きていただろう。
しばらくノートを進めていると、教室のドアが開いた。見てみると、笠原先生が立っている。私を見ると少し気まずそうな顔をした。
「あお……椎名先生、ちょっといいですか?」
「あ、瑠衣さん。すみません。桜井さん、とりあえずお昼にしましょう」
椎名先生はさっと立ち上がると、笠原先生と共に教室を出た。何となく、二人のやり取りが引っかかった。そういえば、以前は何も無かったはずの椎名先生の薬指に指輪が光っていた。
「もしかして……」
笠原先生の指は見てないけど、何となくそんな気がした。だからといってという話だが。
笠原先生の顔を見て思い出したこともあり、お昼は体育館に向かった。思った通り、そこには純と未来がいた。
「杏奈、来てたんだ」
「うん。椎名先生に勉強教わってた」
「へー。杏奈がねえ」
二人のお昼に混ぜてもらい、菓子パンを頬張る。
「そういえばバスケ部、結構いいとろまで行ったらしいね」
つい先日、引退を控えた試合がありそこで割といい結果を残したらしいと聞いていた。聞いてみると、純も未来も少し悔しそうな顔をした。
「いやー、そうなんだよね。もうちょっとだったんだけど……純とのコンビネーションもバッチリだったんだけどね」
「そうね。まあ、うちの学校にしてはかなりいい線いってたし、何より楽しかったから、私は満足かな」
全然悪い結果では無かっただろうに、二人とも向上心がすごい。だからこそ、引退した今もこうしてたまに顔を出しているのだろう。
「ん? ……あの子、どうしたんだろう」
ふと、校門のほうを見ると一人の女の子が校舎をじっと見ている。私服だけれど、同い年くらいだろうか。
「誰か知り合いでも探してるんじゃない?」
「あれ? あの人、どっかで……」
未来が何やら首を捻っている。見覚えがあるらしい。
「どこだっけ……? うーん……」
考えているうちにその人はいなくなってしまった。特に気にすることでもないかなと思っていると、急に後ろから声が聞こえた。
「紫音……」
「わっ。立花さん」
その後ろには天羽さんもいて、二人して校門のほうをじっと見ている。軽音部の機材を運んでいたのか、二人ともでかい機材を持っている。
「立花の知り合い?」
「あー、うん。中学の頃、ちょっとね」
「行かなくてよかったの?」
聞いてみると、立花さんは珍しく気まずそうな顔をした。
「今更、話すこともないよ」
「あー! 思い出した!」
突然、未来が大声を出して驚く。
「あ、ごめん。この前、久保田さんとオーキャン行って、その帰りに見たんだよね。あの子」
「それ、本当?」
立花さんの表情が変わり、七瀬さんに詰め寄った。
「う、うん。でも久保田さん、何も言ってなかったけど」
「紫音……いや、あの子も何も言ってなかった?」
「そう言われると、どうだろう……なんか聞こえた気も……」
「ていうかそもそも、あんたとどういう関係なのよ? 雪も関係あるの?」
純が耐えかねて立花さんに尋ねる。立花さんが言葉に迷っていると、天羽さんのほうが口を開いた。
「中学の頃の優希のストーカー。私と雪はかなり恨まれてた」
「す、ストーカー!?」
「ちょっと雫、そんな言い方……」
「違う? 少なくとも私にはそう見えたけど」
天羽さんの言い方は当たらずも遠からずといった具合らしく、立花さんが訂正した。
「まあ、その……他の子よりちょっと独占欲が強いタイプの子で、何かと問題があったんだよね」
詳しく聞くと、以前聞いた雪が中学の頃に周りから無視されるようになった原因を作った子らしい。
「転校してからは連絡も来なくなったから、もう諦めたんだと思ってたけど……」
立花さんの話を聞いて、私はいつの間にか拳を握りしめていた。
「その浅倉さん、どっち行ったかな。まだ近くにいるよね」
「ちょっと、何するつもり?」
純が私を遮る。その顔はどこか不安げだ。
「別に、ちょっと話すだけだよ」
「そうは見えないんだけど……そんなことしても、雪は喜ばないわよ」
確かに、ただ話すだけという結果にはならないだろう。けれど、そうしたって雪が喜ばないのは事実だ。それでも苛立ちは収まらず、つい立花さんに矛先を向けてしまう。
「大体、立花さんがちゃんとしなかったのが悪いんじゃない? 雪にもしものことがあったら……!」
立花さんの胸ぐらを掴む。立花さんは抵抗せず、俯いたままだ。
「ちょっと、杏奈!」
「……いいよ。殴って。私もそう思うし」
誰も、動かなかった。静かな緊張感が流れる。
私は握った拳を壁に叩きつけて、立花さんを離した。
「……それこそ、雪が悲しむでしょ」
ぶつけようの無い怒りが、胸の中を渦巻いていた。
「雪、お待たせ」
夏休みの終盤、勉強の息抜きにと雪と遊ぶことにした。学校以外だとお互いバイトもあってなかなか予定が合わせられない。電話は頻繁にしているが、やっぱり直接会いたい。
けれど、私はまだ浅倉紫音のことが引っかかっていた。あれから雪と何度か電話で話したが、雪からは何も言ってこなかった。いつもと変わらず、明るい雪のままだ。
そのことを考えていたら、少し時間に遅れてしまった。珍しく家に誰もいなかったこともあり、油断していたのだろうか。
「じゃあ、行こっか」
二人で服を見たり、本を見たり、ショッピングをした。その途中、雪が不動産屋の前で足を止めた。
「雪、どうかした?」
「杏奈、家って探してる?」
家とは、卒業後に二人で暮らす予定の家のことだろう。そういえば、まだ特に決めてない。
「あー、全然探してないな。雪は何か希望ある?」
「私も特に……少しずつ、決めないとね」
確かに、ギリギリになると大変だろう。やることはきっと沢山あるだろうし。
「そうだ、ちょっと家具とか見てみる?」
「そうだね。見てみよう」
目的地をホームセンターにして、歩き出す。いつもより足を伸ばして都市部に出てきたこともあり、お店は充実していた。
ホームセンターに向かう途中、雪が突然足を止めた。視線の先を見ると、そこには浅倉紫音が立っていた。待ち合わせでもしているのか、携帯を見てこちらには気づいてない。
「……雪、大丈夫?」
私が話しかけると、雪は咄嗟に笑顔を作って答えた。そういえば、雪は私が浅倉紫音の事を聞いたとは知らない。
「な、何が? 全然平気だよ?」
明るく話そうとしているが、その声は微かに震えている。足早に立ち去ろうとしたが、前を通るときに浅倉紫音がこちらに気づいた。私と雪が繋いでいる手を見ると、かわいげのある外見からは想像できないほど憎悪のこもった低い声を出した。
「また別の女に手出してんの? 尻軽すぎでしょ」
私にも聞こえるほど、はっきりとそう言った。
「……っ、」
雪の体が固まる。手は震え、息も苦しそうだ。雪を支えつつ、浅倉さんを睨んだ。
「今の、雪に言った?」
「そうだけど、何? あんたも騙されてかわいそうね」
頭に血が上る。感情を隠す気もなく、浅倉さんとの距離を詰めた。
「騙されてない。雪のこと何も知らないのに勝手なこと言わないで」
「やめて、杏奈……」
雪が私の袖を掴むけれど、私は構わず浅倉さんを睨む。一瞬怯んだように見えたが、浅倉さんは気を取り直して私に向き直った。
「……何でよ。何でみんな、そいつの味方するのよ。あのとき、優希を奪ったのはこいつなのに、何でのうのうと幸せそうにしてんのよ!」
浅倉さんが雪に向かってさした指を掴んで、壁に押し付けた。
「な、何すんの!」
「……雪は努力したからだよ。ちゃんと向き合って、立ち向かった。だから、邪魔しないで」
浅倉さんはそれでも納得した様子は無く、私を睨みつけている。私も目をそらさず、睨み返す。
「何で、こんな奴が……最低……っ!」
私から目をそらし、雪に向かってそう吐き捨てた。その瞬間、私は耐えられなくなった。浅倉さんがそらした顔をぐっと向き直させて、拳を振りかぶった。
しかし、その拳は動かなかった。動かせなかった。雪が私の腕を掴んでいたからだ。
「やめて、杏奈。お願い……」
雪は涙を流しながら私にすがりついている。私の腕を掴む力はとても弱かったが、私にはその手を振りほどけなかった。
「な、なによ……殴るなら、殴りなさいよ!」
浅倉さんはそう叫んだが、その目は潤んでいる。気がつくと周りの人たちも何か察したのか不安そうな目が並んでいる。
「……もういい。行こう、雪」
浅倉さんを離し、振り返らず雪の手を引いた。雪はまだ泣き止まないままだ。
しばらく歩いた後、公園のベンチに座った。
「はい、雪。お水」
「ありがとう……」
雪は泣き止んだが、まだ手は震えたままだ。ゆっくりと水を飲んで、深呼吸をした。雪が落ち着いたのを見て、質問をする。
「……何で、止めたの」
わかっている。あのまま手を出していたら、もう引き返せなかった。雪がいたから、引き返せたのだ。でも、引き返せなくてもいいと、あのときは思った。
「だって、良くないよ。私、杏奈がそんなことするの、見たくない……」
「でも、あんなこと言われたんだよ? それに雪だって……震えてた」
「そうだとしても、嫌なの。私は大丈夫だから……!」
嘘だ。大丈夫なわけない。そんな嘘をつく雪に苛立ってしまう。
「何で、そんな自分を大切にしないの……! 私が心配してるのが馬鹿みたいじゃん」
「私は大丈夫だからって言ってるでしょ!」
雪が大きな声を出してばっと立ち上がる。その強い言い方に私も腹が立つ。
「雪は、優しすぎるんだよ……!」
「優しくて、何が悪いの」
雪は引き下がる気は無いらしい。私は真正面から雪と向き合えなくて、目をそらして立ち上がった。
「……今日はもう、帰ろう」
その後、駅に向かう間は何も会話が無かった。
初めて、雪と分かり合えないと思ってしまった。
「お先に失礼します。お疲れ様です」
バイト先の本屋を出て、携帯を確認する。雪からの連絡は無い。あれ以来、私からも何も言えてない。何を言うべきか、まだわからないままだ。
真っ直ぐ帰る気になれず、少し遠回りをする。今日は早番でまだ時間も早い。歩きながら考えよう。
実際、雪は正しいのかもしれない。私が浅倉さんに手を出していたらただでは済まなかったのだから。でも、そういう問題じゃないのだ。それよりその後、雪が自分のことなどどうでもいいかのような発言をしたことが問題だ。
雪が本気で大丈夫だと思っていたとしても、その無理はいつか限界がくる。そうなったら、雪は本当にダメになってしまう。そうならないよう、自分を守るためにも優しさを捨てることも大事だと思うのだ。
なんて、私こそ自分を蔑ろにして生きていたくせに言えた義理じゃないが。だからこそ、雪には自分を大切にしてほしい。
――――――
「あの、すみません。この本を探してるんですけど……」
「こちらですね。確認しますので少々お待ちください」
ずらりと並んだ本棚の向こうから杏奈とお客さんの声が聞こえる。杏奈が歩いてくる気配がして慌てて雑誌で顔を隠した。幸い、杏奈は私に気づかず去っていった。
前回のデートの後、何だか嫌な空気で解散してしまったので改めて杏奈と話がしたかった。メッセージや電話も考えたのだが、何を言えばいいかわからず、かといってじっとしてもいられなくてこうして杏奈のバイト先まで覗きに来てしまった。
「お待たせしました。こちらでお間違いないですか?」
「はい、これです。ありがとうございます」
雑誌からこっそり目だけを覗かせて杏奈の様子を伺う。杏奈はエプロン姿でテキパキと仕事を進めていて、普段とは違う仕事モードの杏奈に不覚にもドキドキしてしまう。違う違う。そんなことをしに来たわけじゃない。
仕事中に話しかけたら迷惑かなと思いつつ杏奈を見張り続けていると、上がる時間になったらしく杏奈は他の店員さんに挨拶をして裏に戻っていった。
お店の外に出てみると杏奈が裏口から出てくるところで、少し辺りを見渡してから歩きだした。話しかけたいけれど、あと一歩が踏み出せなくて私は杏奈の後ろをついて行った。
「どこ行くんだろう……?」
歩いているうちに、不自然さに気づいた。杏奈は目的地が無いのか、適当に歩いている風だった。右に曲がったと思えばまた右に曲がり、同じ道に戻ってきたりする。
空を見上げるといつの間にかだいぶ曇りがかっていて、今にも雨が降り出しそうだ。私は傘を持ってきてないし、杏奈も傘を持っているようには見えない。もし降り出すならその前に話しかけないと、杏奈が家に帰ってしまったらタイミングを逃してしまう。しかし、未だに私は杏奈になんと言えばいいのかわからない。謝るのも違う気がするけれど、杏奈に謝ってほしいとも思わない。どちらかが悪いとかいう問題じゃない気がする。
私もいつの間にか思考に意識が奪われていて、はっと前を見ると、杏奈はさっきまでと同じ迷いのない足取りで赤信号の横断歩道に向かって歩いていた。
「あ、杏奈!」
考えるよりも先に言葉が出て、足も動いていた。杏奈は私が呼んだことに気づいてないのか、歩くのをやめない。あと一歩で横断歩道に入るかというタイミングで、ギリギリ杏奈の手を掴めた。
――――――
どれほど歩いていたのだろうか、完全に無意識に歩いていたところを突然、後ろから腕を引かれた。
「うわっ!?」
驚いて振り返ると、雪がいた。私の腕を掴んで、驚いた顔をしている。
状況が飲み込めないでいると、雪が私をぎゅっと抱きしめてきた。微かに制汗剤の香りが漂う。
「杏奈、何してるの……っ!」
「え、え……? どうしたの、雪」
訳が分からず、動揺する。雪は涙目で私を見つめている。
「杏奈が、急に車道に飛び出そうとするから……!」
「え……?」
言われてみると、私がぼーっとしたまま進もうとした道は横断歩道で、赤信号だ。幸い、車の通りは無かったのでよかったが危うく事故になるところだった。
「あ、ごめん……ぼーっとしてて気づかなかった」
そう言うと、雪は怒り出してしまった。
「ぼーっとしてたって……もうちょっとで轢かれるかもしれなかったんだよ!?」
「わ、わかってるって。気をつけるよ」
「怪我でもしたら……万が一、死んじゃったりしたら……」
雪は今にも泣き出しそうだ。自分が事故りかけたわけでもないのに……そのとき、腑に落ちて思わず笑ってしまった。
「ふっ、あはは」
「あ、杏奈……?」
「いや、ごめん。おかしくって……私たち、自分の事よりお互いの事のほうが大事なんだって思ったら」
おかしい話だ。相手が誰かに悪意を向けられたら本人より怒って、相手が車道に飛び出したら本人より心配している。私たちは自分のことより、相手のほうがよっぽど大事らしい。
「そんなの……杏奈のほうが大事に決まってるよ」
「私も、雪のほうが大事」
「私はいいの。杏奈は杏奈のことを大事にして」
「あはは、ほらまた。いいんだよ、私たちはお互いが大事にしあってるんだから、心配しなくて」
誰よりも信頼している相手が、自分のことを信頼している。これほど頼りになることはない。
「そういうことでいいの……?」
「いいの。私たち、これに関しては一生分かり合えないかもね」
きっと一生、お互いを大事にしあっていくんだろう。
雪はまだ不思議そうな顔をしているけれど、私が笑っているのを見て、雪も笑った。
「まあ、杏奈がいいならいいけど……」
「そうそう……ん? 雨?」
手に雨粒が当たった気がして、空を見ると瞬く間に降り出してきた。夕立だろうか。周りでも傘を持ってない人たちが慌てて走っている。
「わ、どうしよう……!」
「家、近いから、走ろう! 携帯だけ気をつけてね」
なるべく濡れないよう、急いで家に向かう。それでも家に着く頃にはお互いびしょ濡れになってしまった。
「はあ……よかった。誰もいないみたい」
鍵を開け、家に入ると家族の姿は無かった。
「お邪魔します……」
「雪、ちょっと待っててね。タオル持ってくる」
急いでタオルを持って玄関に戻り、雪に被せる。そこで初めて、雪のワンピースが透けているのに気づいた。青い下着が、透けている。
「……っ!」
「杏奈? どうかした?」
「いや、全然。雪、お風呂入ってきなよ。服も乾かさないと」
雪から顔をそらしながら言うと、雪も察したのか、ばっとタオルで胸元を隠した。
「う、うん……でも杏奈も、お風呂入らないと風邪ひいちゃうんじゃない?」
「私は平気だから。ほら、早く」
「でも前も風邪ひいてたし……」
始まった。こうなると、きっとお互い引かないだろう。
どうしようかなと思っていると、雪が名案を思いついた顔をした。
「そうだ。一緒に入ればいいんだよ」
「え……ええっ!?」
それは、そうかもしれないけど。理論上は正しいけど、実際やるのはまた話が違うんじゃないだろうか。少なくとも私には不可能に思える。
しかし雪はもうその気で、私の手を引いて脱衣所に向かっている。
「い、いやいや……待って、待って……」
ギリギリ踏ん張って、雪を止める。
「もしかして、そんなに広くなかった?」
「いや、そういう問題じゃなくて」
何で雪はこう、無防備なんだろうか。それか私が煩悩まみれなのか。
「杏奈、気にしすぎだよ。修学旅行でもみんなとお風呂入ったでしょ?」
「それとこれとは……」
そもそも、修学旅行では雪のクラスとは時間が違ったからお風呂は一緒に入ってない。そのときもめちゃくちゃ安心したのを覚えている。
それに、大浴場と家の風呂じゃまた話が違う。
「……っくしゅん!」
話しているうちに体が冷えてきたのか、くしゃみが出た。雪はそれ見た事かと改めて私の手を引いた。
「ほら、風邪ひくから」
「……あー、わかった。わかったよ」
自分の精神力をきゅっと縛って、覚悟を決める。いつも通りお風呂に入るだけ。たまたま、雪もいるだけ。何も起きない。何もしない。
――――――
あれほど固く結んだはずなのに、脱衣所での雪の一言で私の理性は一気に緩んでしまった。
お互い背中を向けて服を脱いで、私は無心で脱ぎ終えお風呂に入ろうとすると、雪が下着姿で私を見るでもなく視線を泳がせていた。
「雪、どうかしたの?」
雪にピントを合わせず遠くを見ながら話しかける。
「えっと、その……自分で言い出したことだけど、やっぱり恥ずかしいね」
ばっと、顔を背けた。危ない。今の一瞬見えた雪の顔、あまりにも危なかった。
「もう、早くしなよー」
普通に言うつもりがめちゃくちゃ声が震えた。もう振り返れない。振り返れば、終わる。
程なくして、雪も入ってくる気配がした。
「あ、ゴム借りていい?」
「うん。はい」
ヘアゴムを渡すために振り返ってしまった。終わりだ。湯気に包まれた雪の白い肌が視界を埋めた。
「杏奈、恥ずかしいから……あんまり、見ないで」
そう言って顔を赤くして体を隠す雪。私はゆっくり近づいて、雪の手をどけた。
「あ、杏奈……?」
――――――
「くそー。杏奈のやつ、寝てんのかな」
駅前で杏奈に何度も連絡を試みるが返事はない。この雨の中を傘が無いまま家まで行くのは無理がある。
「姉の危機を無視するとは……杏奈め……」
仕方なく、駅の中にある喫茶店で時間をつぶすことにする。
雨はまだ止みそうにない。
――――――
「い、一回出よう。お風呂出てから……ね? 杏奈」
雪のその言葉で何とか持ちこたえ、何とか風呂場からは出てこれた。あのまま続けていたら、お互いのぼせて大変だっただろう。
しかし、今こうして雪が髪を乾かしているのを待っているこの時間。ベッドに座り雪を待つこの時間。少しずつ冷静になってきてこれから起こることを想像してしまう。さっきは勢いに任せていたが、冷静になるとどうしたらいいかわからない。
「……杏奈、お待たせ」
部屋に、雪が入ってきた。私が貸したTシャツ一枚しか着てなくて、その顔は僅かに紅潮していて、思わず息を飲んだ。
「う、うん……」
雪が、ゆっくり私の隣に座った。会話は無い。なのに、お互いの気持ちが筒抜けになっている気がする。ただただ、触れたいという気持ちが。
どちらからともなく、指が触れた。ゆっくりとそのまま手を繋いで、顔を見合わせる。お互い目を泳がせて、視線が合う。ゆっくり目を閉じ、唇が触れた。雪の唇は微かに震えている。緊張をほぐすために手を握ると少しずつ震えはおさまってきた。雪の唇に舌を当てると受け入れるようにゆっくりと唇が開いた。お互いの舌が絡んで、息が苦しくなる。
「は、あっ……」
漏れる吐息は熱を帯びていて、思考を溶かしていく。雪が私の手を引いて、ベッドに倒れた。私は雪に覆い被さる形になって、そのままゆっくりと唇を離す。雪の口の端についた唾液を拭う。雪の目は焦点が合ってなくて、ぼやけている。
「雪……大切に、するから」
雪のことも、この日のことも、これからの雪との日々も、全部を。
「私も……杏奈のこと、大切」
そして、私たちはお互いを確かめあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます