Long Hope
――――――
「はい、桜井です……あ、どうも。はい、はい……! 本当ですか? ありがとうございます……!」
会社の廊下で電話していたので、大きくなりそうな声を押し殺しながら答えた。
「はい、じゃあ、また……」
電話を切り、小さくガッツポーズをする。そして、急いで雪にもメッセージを送った。ちょうど休み時間だったのか、すぐに返信が来た。
『出版決まった!』
『おめでとう!』
ちょこちょことウェブサイトに投稿していた小説が少しづつ芽を出してきて、出版社への持ち込みも何度かしていた。先程の電話はそのうちの一つの以前から目をかけてもらっていた出版社からで、遂に本が出せることになった。
その後の仕事は大急ぎで片付けて、足早に退勤した。
「あ……雪!」
駅に着くとちょうど雪の姿が見え、手を振ると雪もこちらに気づいて駆け寄ってきた。どちらからともなく抱きついて、喜びを共有した。
「杏奈、おめでとう!」
「ありがとう……雪のおかげだよ」
普段は家事を分担しているのだが、私が小説に没頭しているときは雪が率先して家事を引き受けてくれていた。申し訳ないと思ったが、その分絶対にその期待に応えたいとも思った。だから、雪のおかげだ。
「お祝い、何にしよっか?」
帰り道、二人でスーパーに寄った。雪が売り場を楽しそうに見渡す。私より嬉しそうな雪を見ていると、私も引きずられるように嬉しくなってくる。
「雪の食べたいものでいいよ」
「もう、杏奈のお祝いなんだから……せっかくなら、ステーキ焼いちゃう?」
「いいね。そしたらこの前優希から送られてきた良いワインも開けちゃおっか」
雪とあれこれ話しながら買い物かごに商品を入れていく。こういう時、大好きな人と嬉しいことを分かち合えることの幸せを実感する。一人では感じられなかったことだ。
――――――
――――――
「純先輩、おはようございます」
聞き慣れた丁寧な言葉遣いに驚き、振り返った。大学の廊下には高校時代より少し大人びた姿の陽菜が立っていた。
「……まさか、本当に来るとはね」
「約束しましたから」
私は約束したつもりは無かったんだけれど。陽菜が私に近づくと、昔より背と髪が伸びたことを実感する。
「純先輩、講義は何を取っているんですか? 普段はどこにいます? 一人暮らしですか?」
「わかったから……一つずつね」
私が本気で逃げる気がないのか、陽菜が本気で追いかけてきてるのかはわからないが、一つ言えるのは、心のどこかで私は陽菜に会えたことを喜んでいるということだ。
――――――
――――――
「芽衣さん!おかえり!」
大学から帰宅し、自宅のドアを開けるといつになく上機嫌な朱音ちゃんが出迎えた。
「ただいま。朱音ちゃん、ご機嫌だね」
「そうなんですよ。ふふ、知りたいですか?」
エプロンをひらひらさせながら朱音ちゃんがもったいぶるようにくるっと回る。そんな仕草もかわいらしい。
「なんだろう……わかんないな」
「実は……オーディション、受かったんです!」
朱音ちゃんは大学生になってから、声優の事務所に所属した。何度かオーディションを受けては、ちょっとした端役での出演が最近はできるようになってきていた。
この間受けたというオーディションは結構大きなものだったと聞いている。それに受かったと言うなら、すごいことだ。
「おめでとう、朱音ちゃん。絶対受かりたいって言ってたもんね」
「うん、これでかなり仕事も増えると思う……あ、ご飯できてますよ」
嬉しそうにキッチンに戻っていく朱音ちゃんの背中を見送りながら、私は以前から感じていた複雑な感情を思い出していた。朱音ちゃんが声優事務所に所属すると聞いたときから、口にはしなかったが感じていたことだ。
私もあまり詳しくはないが、最近は声優もアイドルのような扱いを受けているのを見かける。それを思うと、朱音ちゃんが声優として人気になるためには、私の存在はマイナスになるんじゃないかと思ったのだ。
「今日はオムライスにしたんですよ。美味しいですか?」
「うん。美味しい。朱音ちゃん、オムライス作るの上手だよね」
「昔から好きで色々研究しましたからね。やっぱりとろとろが一番美味しいです」
美味しそうにオムライスを頬張る朱音ちゃんを見ながら、私は未だに心配事を話せずにいた。
贔屓目かもしれないが、朱音ちゃんは声優に向いていると思う。声はもちろんだし、見た目も派手すぎず、しかし華がある。アイドル声優として売っていくことも全然無理じゃないと思う程だ。
「……? 芽衣さん、私の顔に何かついてます?」
「あ、ごめん。なんでもない」
ついぼんやりしてしまって、慌ててオムライスに向き直る。しかし今度は朱音ちゃんが私の顔をじっと見つめてきた。
「……芽衣さん、もしかして私と芽衣さんが付き合ってて一緒に暮らしてるってことがバレたらやばいって思ってます?」
「えっ、えっと……」
そんなに顔に出てたかな、と思うほどずばり言い当てられて驚く。
朱音ちゃんはため息をつくとやれやれというように話し出した。
「大丈夫ですよ。事務所には最初に言ってますし、もしそれが理由で降ろされたり、叩かれたりしたら……そのときはキッパリ辞めますから」
「辞めるって、そんな」
そんなの、ダメだ。朱音ちゃんには才能がある。だからこそ今回のオーディションも受かったんだ。それなのに、その才能を発揮する場所を私が奪うことになるくらいなら……
「そんなことするくらいなら……別れよう」
本当は、嫌だ。でも朱音ちゃんの夢が叶うなら、そのとき隣に私がいなくても構わない。
朱音ちゃんからの返答は無く、恐る恐る顔をあげると朱音ちゃんは呆然としていた。
「なに、それ……」
怒りと失望が混じったような、私が聞いたことの無い朱音ちゃんの声だった。
「芽衣さん、そんなふうに思ってたんですか……?」
「うん……朱音ちゃんの夢が、私にとって……」
「もういい!」
朱音ちゃんはテーブルをばんと叩いて立ち上がった。ドタドタと歩いて最低限の荷物だけ持つとそのまま玄関に歩いていった。
「あ、朱音ちゃん。どこ行くの? こんな時間に……」
「芽衣さんに関係ないでしょ……ちょっと、頭冷やしてくる」
そう言い残すと、朱音ちゃんは出ていってしまった。追いかけなきゃ、と思うが足が動かない。追いかけたところで、かける言葉が私には無い。
テーブルの上には、冷めたオムライスだけが残されていた。
――――――
――――――
インターホンが鳴り、来客を告げた。誰が来たのかは察しがつく。オートロックを開けてしばらく待つと、玄関のドアが開いた。
「純先輩、お邪魔します」
「はいはい……どうぞ」
陽菜は長い髪をなびかせながら私の家の廊下を歩いた。手を洗い、キッチンに向かうとカバンからティーパックを取り出して私に見せてきた。
「どれにします?」
「陽菜の好きなやつでいいよ」
「わかりました」
手際よくキッチンから必要な物を用意して紅茶を淹れる。
陽菜は今年で大学四年生。私はデザイン系の会社で働く社会人。卒業して以来、週末の休みになると陽菜は毎週家に来る。いつも他愛のない話をするだけだ。
「陽菜、ずいぶん髪伸びたね」
二人でテーブルを挟んで紅茶を飲みながらそんな話をした。高校の頃はショートヘアだったが、大学に入ってから伸ばして……思えば、陽菜が髪を切っていた記憶がない。
「はい。純先輩に会ってから切ってないですね」
「そう」
何で、と私は聞かなかったが陽菜は話した。
「純先輩が私の気持ちを受け取ってくれるまで、切らないつもりです」
陽菜の顔を見れない。笑っているのか、哀しい顔をしているのか。
「……なんて、冗談ですよ。そろそろ切ろうと思っています」
横目で見た陽菜の表情は笑っていたけれど、悲しそうに見えた。
それからまた、適当な雑談をした。いつもは楽しそうに話す陽菜が、今日だけは何故かずっとどこか寂しげに感じた。
「さて、そろそろ帰りな……あとさ、陽菜」
紅茶も飲みきり、お開きの時間だ。
「もう、家に来るのはやめなよ」
また、陽菜の顔は見れない。
陽菜ももうすぐ卒業する。いつまでも私に構っている場合ではない。
「純先輩、私……許嫁がいるんです」
陽菜はゆっくり立ち上がり、窓の外を見た。夕焼けに照らされる陽菜の姿はそれだけで絵になる。
「大学を卒業したらその人と結婚する予定です。なので、もう純先輩には会わないです」
振り返って笑う陽菜の笑顔は今まで見たことないほど綺麗だった。
「今まで、ありがとうございました」
昔と変わらない、丁寧なお辞儀。陽菜が初めて美術部に来たときのことを思い出した。ただの後輩だった。私にとっては、沢山いる知人のうちの一人。結婚するからといって何も変わらない、はずなのに、陽菜とはきっともう会わない。
一年ほど前、私は酔った勢いで陽菜と関係を持ったことがある。翌日、私はいよいよ責任を取るときが来たと思った。しかし、陽菜は「お酒の勢いですし、お互い忘れましょう」と言った。陽菜は、この日が来ることを知っていたから。私を縛らないよう、その選択をした。
玄関に向かう陽菜を、私は追えなかった。会うのをやめようと言ったのは私だ。そうすべきだと思う。綺麗な思い出のまま、しまっておこう。
「……っ、純先輩、なんで……?」
気づくと私はエレベーターの扉をこじ開けて、陽菜の腕を掴んでいた。陽菜を引きずり出すと、エレベーターは閉まり下に降りていく。
「はぁ、はぁ……」
「純先輩……」
「……ごめん、陽菜」
陽菜の腕を引き寄せ、抱きしめる。
「な、なんで……どうしてですか……?」
「私……陽菜のこと、好きだ。他の人の所に、行ってほしくない」
「やめて、ください……私に気を使わなくていいです。私は、大丈夫ですから……」
言葉とは裏腹に、陽菜は私にしがみついてくる。
「違う。私がそうしたいの。ずっと、こうしたかった……けど、陽菜の将来を壊すのが、怖くて……」
「大丈夫です……私、純先輩となら、何も怖くないです」
ずっと回り道ばかりしていたけれど、ようやく何が大切なのか気づけた。
――――――
「許嫁の件、実は嘘です」
陽菜と部屋に戻ると、ケロッとした顔でそう言われた。
「は、はあ!?」
「すみません。でもああでも言わないと純先輩が本気になってくれないと思って」
「いや、でも……」
まあ、結果オーライか。実は先程から陽菜の親にどう説明するか、下手したら夜逃げでもしないといけないのかと考えていから。
「ていうか、それで私がどうぞ許嫁と結婚してくださいって言ったらどうしたのよ?」
「有り得ないですよ。それは。純先輩なら絶対私を捕まえてくれると思っていました」
なんでもないような顔で陽菜は答える。この子は私よりも私のことを知っているらしい。
――――――
「ただいまー」
「杏奈、おかえり」
「杏ちゃん、おかえりー」
リビングには朱音が当たり前のような顔をして雪とお茶を飲んでいる。まるで実家に帰ってきたようなくつろぎようだ。
昨日の夜、朱音が突然うちを訪ねてきた。カバンも持たず、携帯と財布くらいしか持っていなかった。あまりにも様子がおかしく、とにかく家に入れたが朱音は泊めてくれということ以外は話そうとしなかった。
芽衣に連絡すると、いきさつを話してくれた。話し終えた芽衣は朱音が無事なことに安心していたようだった。
「雪さん、紅茶はいりましたよ。どうぞ。杏ちゃんのぶんもあるからね」
「あ、ありがと……って、朱音。そのプリン、私のじゃない?」
朱音の前に置かれた空の容器、冷蔵庫の中を見ると確かに買っておいたはずのプリンが無い。
「え、そうなの? ごめん」
「ごめん、杏奈。私も気づかなくて……」
「はあ……まあ、いいよ。そのくらい」
ちょっと楽しみにしてたんだけど。もう仕方ない。
一夜明けて朱音の様子はいつも通りだが、何があったのかは話してくれなさそうだった。もう芽衣から聞いてることを知っているのかどうかはわからないが、話そうとしない以上こちらからも聞けない。
「ねえ杏奈。朱音ちゃん、このままでいいのかな……?」
朱音がお風呂に入っている間、雪からそう聞かれた。朱音は今夜も帰る気はないらしい。
「うーん……良くはない、と思うけどね」
私たちがどうこう言うより、本人たちで解決しなくちゃいけない問題な気がする。
「お風呂上がりましたよー」
朱音が出てきたので、そこで会話が終了した。朱音は私と雪を見て、ニヤニヤしだした。
「……別に二人で入っていいんですよ? 私は気にしませんから」
「は、入らないよ! いつも別々だし……」
一緒にお風呂。思わず、昔を思い出してしまった。付き合いはじめたときと同じくらい、色褪せない記憶だ。
「えー? そうなんだ? 私と芽衣さんなんてよく、一緒に……」
自分で墓穴を掘ってしまい、朱音の勢いはみるみる失われていく。その姿を見て、雪が思い切った様子で話しかけた。
「朱音ちゃん、やっぱり芽衣とちゃんと話したほうがいいよ」
「雪さん……そう、ですよね。わかってるんですけど……」
「私もそう思うな。きっとすれ違ってるだけで、朱音も芽衣も、一緒にいたいって気持ちは同じはずだよ」
雪の言葉と合わせて、朱音の背中を押す。朱音はまだ悩んでいるようだが、あとは時間の問題だろう。
これで解決するかなと思っていると、雪が私にこっそり耳打ちしてきた。
「杏奈……私たちも、久しぶりに一緒にお風呂、入らない?」
雪も初めて一緒にお風呂に入った日を覚えているのか、顔が赤い。
「えっ、いや、まあ……いつか、いつかね」
雪の行動力から察するに、そのいつかはきっともう目の前だろうけど。せめて心の準備くらいは、できる限りしておこう。
――――――
――――――
「雫、ごめん。遅くなって」
「あ、うん。久しぶり、芽衣」
先にカフェの席に座っていた雫はイヤホンを外して会釈した。高校の頃と変わらない幼い顔立ち。背丈も高校の頃からあまり変わってなくて、私よりほんの少し高いくらい。髪も変わらず伸ばしっぱなしだけれど、一応縛ることは覚えたらしい。
店員さんに雫と同じコーヒーを注文し、向かいの席に座った。朱音ちゃんが出ていってすぐ、杏奈から連絡が来た。とりあえず朱音ちゃんのことは見ていてくれると聞いて安心したが、杏奈たちに相談しづらくなってしまった。そこで、久しぶりに雫に連絡をしたのだ。高二の頃の修学旅行で同じ班になり、仲良くなった。それも雪のおかげだ。
「雫のバンド、すごい話題になってるよね。私も聴いたよ」
「ありがとう。バンドっていうか、優希と私の二人だし……ユニットみたいなものだけどね」
本題を言い出せずにいると、雫も私がそんな話をしにきたわけじゃないと察したらしい。
「それで、何の用?」
「えっ、あ、うん……」
「……ごめん。聞き方が悪かった。あんまりそういうの得意じゃなくて」
雫が謝ってきたけど、それはわかっている。雫は冷たい印象を持たれがちだけど、決して本当に冷たい人間ではない。だからこそ私の話を聞こうとしてくれてるのだ。
「大丈夫。ちょっと心の準備が……あのね、私今、一緒に暮らしてる人がいるんだけど……」
「ああ、あの後輩の子?」
「知ってたの?」
「知ってたっていうか、仲良いなと思ってたから」
そこまで他人の感情に敏感ではない雫が思うほどなら、相当仲良く見えていたのだろう。それはなんというか、嬉しいような、恥ずかしいような。
そして、昨晩の朱音ちゃんとのやりとりをかいつまんで話した。雫は途中少し興味を無くしかけていたようだが、一応最後まで聞いてくれた。
「……雫は、そういうの無い?」
「私が? 何で」
「いやほら、雫って立花さんと一緒に暮らしてるんだよね? その、立花さんって人気だし……」
立花さんは別にアイドルではないし、二人の歌手活動も顔を売りにしているわけじゃない。それでもやはり立花さんの周りには色々あるだろう。
「うーん……確かに昔から優希の周りに寄ってくる人たちには色々言われたけど、私はあんまり気にする性格じゃなかったからなあ」
「そうだよね。雫ってすごい自分があるっていうか、芯があるっていうか」
「他人をかえりみなかっただけだよ。そのせいで雪にもすごい迷惑かけてたし……だから少しは考えようとしてるんだけど」
話しているうちに雫の声がだんだん小さくなってきて、目を逸らして頬ずえをついた手で口元を抑えながらぼそぼそと話した。
「……考えてると、優希のことまともに見れなくなってくる」
顔を赤らめる雫は新鮮で、その顔を見ていると今まで遠い存在に感じていた雫も一人の女の子なんだと実感する。
「ふふ、なんかそういう雫、珍しいね」
「やめてよ。恥ずかしい」
「かわいいと思うよ。私は」
「あー、もう。からかうなら帰るよ」
「ごめんごめん。でも、雫は立花さんと二人一組で頑張ってるんだもんね」
私と朱音ちゃんとは、立場が違う。
「芽衣とその子だって、二人で頑張ってるんじゃない?」
「え……いや、私は何もできてないよ」
「そうかな。私にとって優希はたまたま歌の部分で力になってただけで、もしそれが無くても、一緒にいるだけで……とにかく、その子にとって芽衣も、そういうのなんじゃない?」
そうだろうか。私なんかいなくても、朱音ちゃんは大きくなれると思ってしまう。雫はまだ少し照れくさそうだが、言葉を付け足す。
「……一人で努力するより、誰かがいたほうがいいでしょ。それが、その……好きな人なら、なおさら」
「私も……朱音ちゃんの力に、なれてるのかな」
「だからこそ、芽衣が別れるって言ったのがショックだったんでしょ」
「珍しい組み合わせだね」
綺麗なよく通る声に驚いて顔を上げると、立花さんの姿があった。
「姫野さん、こんにちは。久しぶりだね」
「う、うん。久しぶり」
「優希、何でいるの?」
「冷たいなあ。通りがかっただけだよ。雫が言ってた用事ってこの事だったんだ」
さっきまであんな話をしていたからか、雫は真っ直ぐ立花さんの顔を見ようとしない。
「何の話してたの?」
「もう終わった。じゃあ芽衣、またね」
「あ、うん。ありがとう」
雫はさっさとカバンを持つと、伝票を立花さんに押し付けて歩いていってしまった。私が慌てて財布を出すと立花さんがそれを制した。
「いいよ。雫に付き合ってもらったお礼。これからも仲良くしてあげて?」
「それは、こちらこそ……」
にこりと笑うと、立花さんは雫を追いかけていった。
ともかく、雫に相談できてよかった。と思っていると、携帯に着信が入った。表示された名前は、朱音ちゃんだった。
――――――
「雫、待ってってば」
会計を済ませ、急いで雫の後を追う。雫は私を避けるようにずんずん歩いていってしまう。それでも歩幅の差があるので追いつくのは容易だった。
「それで、姫野さんと何話してたの?」
改めて聞いてみると雫は突然立ち止まり、目をじっと細めて私を見た。
「……優希、案外束縛するタイプ?」
「えっ」
意外な返答に、思わず固まってしまう。
「芽衣は束縛するタイプじゃなさそうだったな……」
「な、なになに? どういう事?」
またずんずん歩いていく雫を追いかけるとまた急に立ち止まり、振り返って私を見つめてきた。
「心配しなくていいよ。優希の話してただけだから」
「いや、全然わかんない。私の話?」
雫はたまに会話を端折ろうとするときがある。
「優希、最近遊ばなくなったよね」
また突然話が変わった。遊ぶ、とはおそらく他の女の子とのことだろう。
「まあ……音楽活動も忙しくなってきたし」
半分は本当。もう半分は、別の理由だ。
「ふーん。じゃあ落ち着いてきたらまたやるんだ」
悪戯っぽく雫が笑う。最近、こういう顔をすることが増えた気がする。
「いや……ごめん。説得力ないと思うけど、今は雫のことしか見てないよ」
似たようなセリフを、今まで他の誰かに言ったかもしれない。けれど、この気持ちは、雫だけのものだ。ずっと側にあったのに、見えてなかった。
「知ってる。私こそごめん。いじわるした」
あっさりと謝られる。全部見通されているような雫の深い瞳を見つめる。まるで初めから、ずっとずっと初めから、こうなると知っていたような目だ。
「優希、キスしてよ」
「え、なんで」
また私の頭の中を見透かしたようなことを言う。顔に出ているのだろうか。問いかけても雫は答えようとしない。ただ黙って私を見ている。
「はあ……わかったよ」
雫の顎を指で上げ、口付けをする。色んな人と、幾度となくしてきたことなのにまるで初めてのように緊張した。
唇を離すと、雫は満足そうな顔を浮かべた。まるでゲームをクリアしたような、清々しい顔だ。
「優希、好きだよ」
初めて見る雫の満面の笑顔。見惚れてしまいそうになる。
「私も……雫のこと、好きだよ。本気で」
「知ってる」
いつから知ってたんだろう。もしかしたら、出会ったときにはもう知ってたのかもしれない。雫は、頭がいいから。
――――――
「ふー……」
二日ぶりに見る家のドアは、当たり前だけど何も変わってない。昨日の夜、芽衣さんに電話をした。話がしたいと言うと芽衣さんは快く了承してくれた。
そういうわけで帰ってきたのだけれど、鍵を開けるのが怖い。もしかしたら、芽衣さんが既に別れる準備をしてるんじゃないかと思ってしまう。
ここで迷っていても仕方ないと、思い切って鍵を開ける。ドアを開くと、芽衣さんが倒れ込んできた。
「うわっ!」
慌てて受け止める。芽衣さんが小柄なおかげで何とか倒れずに済んだ。
「め、芽衣さん。どうしたんですか?」
「痛た……朱音ちゃんがなかなか来ないから、どうかしたのかと思って……」
「あー、すみません」
足を挫いたりはしてないようで、安心する。芽衣さんがいつも通りな事にも、安心した。
「おかえり、朱音ちゃん」
「はい……ただいま」
その優しさに甘えたくなるけれど、ちゃんと話さないと。甘えるだけじゃ、ダメだ。
テーブルに向かい合って座る。あれだけ整理してきたはずの言葉が今はバラバラに散らばっている。それを拾い集めて、文章にする。
「芽衣さん、その……ごめんなさい。勝手に出ていったりして」
「うん。杏奈と雪にも迷惑かけたし、そもそも夜遅くに一人で出歩くのも危ないよ。心配した」
「はい……」
「でも、私もごめん。別れるなんて言って」
「……私、今でも気持ちは変わらないですよ。芽衣さんといるためなら、声優辞めます」
芽衣さんがまた暗い顔になってしまう。そうだ、まだ付け足す言葉がある。
「私にとって一番大事なのは今の芽衣さんとの生活なんです。それがあるから、声優を目指せる。芽衣さんと離れるくらいなら、何もいらないんです」
何とか思ってることは伝えられた。後は、芽衣さん次第だ。
「……私のほうが、朱音ちゃんに対して誠実に向き合えてなかったね。朱音ちゃんの気持ちを、考えてなかった」
「いえ……それだけ応援してもらえるのは、嬉しいですけど」
「私だって、別れたくない。でもその気持ちを朱音ちゃんに伝えるのが怖くて、朱音ちゃんが迷惑だと思ってたら……」
「そんなわけない! 私、芽衣さんより大事なものなんて無いです」
「……うん、ありがとう」
いつも恥ずかしがって、そんなことないと否定する芽衣さんが、私の言葉を真っ直ぐ受け止めてくれた。
「はあ……よかった。ちゃんと話せて」
「私も。朱音ちゃん、ご飯冷蔵庫にあるけど、どうする?」
確かにお腹も空いたけれど、今はそれより満たしたいものがある。
「……先にお風呂入りませんか?」
「いいよ。じゃあお湯入れるね」
芽衣さんは私の言った意味を理解してないのか、平然とお風呂場に歩いていく。その無防備な背中にくっつく。
「芽衣さんと、一緒に入りたいって意味なんですけど」
「えっ、えっと……」
私が一緒にお風呂に入りたいと言うと、芽衣さんはいつも少し困った顔をする。結局一緒に入ってはくれるけれど、あまり見せてはくれない。いや、見たいとかじゃ……見たいけど。
「……その、私、朱音ちゃんみたいにスタイル良くないから、恥ずかしいんだよね……」
「え?」
思わず、間抜けな声を出してしまう。もしかして、夜も明かりをつけたがらないのはそういう理由だろうか。全く理解できないが。
「私、芽衣さんの身体めちゃくちゃ好きですよ」
小さくて、柔らかくて、かわいい。何を恥ずかしがることがあるのだろうか。
「あ、朱音ちゃんにはわからないよ! もう!」
「何で怒るんですか? ちょっと、芽衣さん?」
芽衣さんが私を締め出して脱衣所のドアを離さない。それでも私の方が力は強く、結局脱衣所に乗り込んでいく。
「ほら、見せてください」
つい調子に乗って、芽衣さんに馬乗りになって服を脱がせてしまう。芽衣さんも本気で抵抗はしない。そうして二人でふざけあいながらお風呂に入った。
――――――
――――――
「……雪、また買ったの?」
テーブルの上に置かれた一冊の文庫本を見る。同じものが既に三冊、家にはある。先日発売された、私の小説だ。
「う……見かけると、つい買っちゃって」
そもそも献本を貰ってるので買う必要は無いのに、雪は発売日に早速二冊も購入して、またこうして日が経つ毎に増えている。
「あ、でも学校の図書室に置いてもらうから、大丈夫だよ」
「大丈夫なの? それ」
めちゃくちゃ職権濫用というか、公私混同な気がするけれど。
「だって、みんなはもう買ってるみたいだし……」
そう、私たちの身の回り……純や芽衣たちもありがたいことに読んでくれたらしい。
「まあ、気持ちは嬉しいけど……もう買わないでよ。これ以上は」
「はい。気をつけます……」
――――――
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