火事場の馬鹿力

――――――

「ただいまー」

 ドアを開けると、キッチンからいい匂いと共に雪のおかえりという声が聞こえた。

「お、カレー? いいね」

「うん。ちょっと作りすぎちゃった気もするけど……」

 確かに二人分にしては鍋にはなかなかの量が煮込まれている。まあ何日かに分けて食べてもいいだろう。カレーならアレンジの幅もある。

「入社式、どうだった?」

「まあ、特には……実際働いてみないとわかんないかな」

 大学で人文学を学んで、私はとりあえず旅行会社に就職した。色々な土地のことを知れるのは小説にも役立つと思ったからだ。

「雪は? 中学校、どうだった?」

「私もまだあんまり……まだ春休みだしね」

 雪は教員免許を取って、中学の音楽教師になった。やはり、ピアノが好きだったらしい。

「雪が先生だったら、私も真面目に学校行ってたかもなー」

 頭の中で教師姿の雪を少し妄想してしまう。授業に集中できないかもしれない。

「もう、何それ? 同級生でも真面目に来てたでしょ。風邪ひいて休んで、泣いて謝ってきたくせに」

「そ、それは忘れてよ……」

「忘れないよ。大事な思い出だもん」

 まあ……あれがあったおかげで、今こうして雪と二人でいられるとも言える。

「よし、早く食べよ。明日からも頑張らないと」

――――――



「ふう。着きましたよ」

「わぁ、本当に大きいですね」

 車を停め、鍵を閉めた。数年ぶりに訪れた実家にはもう自分の帰る場所という感覚は残っていなかった。玄関に向かう足取りが少しずつ重くなる。

「……葵さん、やっぱり私一人で」

 言いかけた口を、葵さんが指で塞ぐ。

「もう、何度も言わせないでください。瑠衣さんと私、二人の問題なんですから」

 葵さんはそう言うとすぐいつもの笑顔に戻った。その表情を見ていると、私は安心できる。

 インターホンを押してしばらく待つと玄関から父の秘書が出てきた。数年ぶりに見る顔には皺が増え、少し年月が感じられる。きっとお互い様なんだろうが。

「瑠衣様、お待ちしておりました。社長がお待ちです」

「様はやめてください。私は家を出てるんですから」

 やたらと長い廊下を進み、奥の部屋の前に連れてこられた。ここに父がいるらしい。

 深呼吸をして気持ちを落ち着けていると、葵さんが手を握ってきた。その手を握り返し、答える。

「お父さん、入るよ」

 ノックに返事は無かったが、ドアを開けた。中では父が窓の外を見ていて、私が入ってきた事に気づくと表情を変えず椅子に座った。

「あの、初めまして。私、椎名葵です」

「ああ、話は聞いてるよ。とりあえず座りなさい」

 思っていたより穏やかに迎えられて少し安心する。どう話が伝わっているのかわからないが、悪い印象は無いみたいだ。

 お互い話を切り出せず、空気が重くなる。これ以上話しづらくなる前に深呼吸をして、葵さんの手を改めて握り、口を開いた。

「お父さん。私、葵さんと一緒に暮らすから」

 父の表情は相変わらず変わらない。返答を待っていると、父は私と葵さんの顔をゆっくり見て、ようやく答えた。

「……瑠衣が教師になると言い出したときは、すぐに辞めると思っていた。あまり、他人に興味を示す人間ではなかったからな」

 私にというより、葵さんに対して話しているようだった。葵さんは黙って父の話を聞いている。

「驚いたよ。今まで教師を続けていることも、こうして共に生きたいという人を連れてきたことにも」

「……私は、そうは思いません」

 父の言葉を、葵さんは力強く否定した。

「葵さん……?」

「瑠衣さんは、ちゃんと生徒たちに向き合っています。確かに、ちょっと言葉足らずだったり難しい表現をしてるときもありますけど……生徒たちも瑠衣さんのことを頼りにしています。なにより……私とって、瑠衣さんは素敵な教師です」

 葵さんの手も声も少し震えていたけれど、目は真っ直ぐ父を見ていた。父は少し驚いた顔をして、ふっと笑った。

「いや、すまない。悪い意味で言ったわけじゃないんだ。ただ……自分が娘の可能性を見極められなかったことを悔やんでいる。私の会社を継がせることが一番だと思っていた傲慢さも、だ」

 父の言葉は私にとっても意外で、驚いた。そんなふうに思っていたのか。

 私はただ父に用意されたレールを歩くのが嫌で、その道を弟に押し付けて逃げ出したと思っていたから。

「お父さん、わがままばかり言ってすみません。でも……そのおかげで、葵さんに出会えたから、私は後悔はしてないよ」

 もっと早く、ちゃんと話せば良かっただろうか。いや、きっとこうなるべくしてなったんだ。この道だったから、葵さんと出会えた。

 父との話を終え、庭でタバコに火をつけた。緑に囲まれた広い庭を見渡していると、向こうから弟の光一が歩いてきた。

「光一、久しぶり」

「……良かったな。認めてもらえて」

 光一は感情の無い声でそう言った。あえてそういう言い方をしているようだ。

「別に、報告しに来ただけだから。認められなくても」

「嘘つけ。父さんにけじめをつけたかったんだろ?」

 光一は見透かしたような目で私を見ている。答えたくなくて、私はタバコとライターを光一に投げた。

「あげる。私はもう吸わないから」

 タバコを靴でもみ消し、携帯灰皿に入れた。

「……俺は、俺の意思で会社を継いだからな。姉さんのことは関係ない」

 光一の言葉に振り返るか迷い、もしかしたらもう会うことも無いかもしれないと思って、振り返った。

「……ありがとう」

「あ、瑠衣さーん!」

 車の前で葵さんが手を振っていて、私はそれに手を振り返した。光一はまだ何か言いたそうだったが、私はもう振り返らず真っ直ぐ歩いた。

「瑠衣さん、久しぶりなのにもう少しゆっくりしなくてよかったんですか?」

「いいんですよ……もう、いつでも来れますから」

 車の窓から庭の方を見ると、タバコの煙が見えた。



「位置について……よーい、どん!」

 ピストルの音が鳴り、皆が一斉に走り出す。グラウンドには生徒たちの声援が響いていた。

 三年生になってからは受験に向けて何かと忙しく、勉強ばかりになっていた。体育祭ではそのストレスを解消するように、皆めいいっぱいに体を動かしている。

「……よし。芽衣さん、できましたよ!」

 隣では朱音ちゃんが芽衣の髪型をいじっていて、見てみるとかわいい三つ編みになった芽衣がいた。

「わあ、芽衣。かわいいね」

「あ、ありがとう……」

「当然、私の力作ですから。芽衣さん、写真撮りましょう。雪先輩も髪型変えてみます?」

 朱音ちゃんがやりたそうに私を見ている。私は普段は髪を下ろしているし、運動をするときはポニーテールにするくらいであまり髪型に凝ったことはない。

「いいの? じゃあ、お願いしようかな」

「やった。雪先輩の髪、綺麗だから色々やってみたかったんです」

 朱音ちゃんは意気揚々と私の背後に周り髪をいじりだした。

 しばらくすると、朱音ちゃんが写真を撮って私に見せてくれた。

「どうです?」

 両サイドから編み込みがされて、後ろで一つにまとめてある。いつもより手がかかったポニーテールだ。

「すごい。ありがとう、朱音ちゃん」

「いえいえ、私こそ楽しかったです」

 髪型が変わると気分もちょっと上がってくる。自分の携帯でも髪を確認していると、朱音ちゃんがこっそり耳打ちしてきた。

「杏ちゃんにも見せてあげたら、きっとかわいいって言ってもらえますよ」

「そ、そうかな」

 そういえば杏奈にかわいいって言われたこと、あまり無いような気がする。自分で自分のことをかわいいなどと思っているわけじゃないけれど、やっぱり好きな人にはかわいいと思われたい。

「……杏奈に、見せてくるね」

「はい、頑張ってください」

 自分のクラスの場所を離れ、杏奈のいるB組の方に向かった。

 B組の席がある場所に着いたが、杏奈の姿が見えない。周りを見てみると、どうやら今行われている玉入れに参加しているらしい。おかしな姿勢で玉を投げる杏奈が見えた。一応真面目にやろうとはしているらしいが、ハチマキはだらしなく首から下げられているし、投げられた玉はあさっての方向に飛んでいっている。そういうところが、杏奈らしい。

「あ、久保田さん」

「七瀬さん。杏奈、玉入れ出てるんだね」

「うん。ほらあそこ。あーあ、全然ダメだ」

 杏奈が投げた玉はカゴに届いてすらいなくて、七瀬さんが呆れて笑っている。

「そういえば久保田さん、教育学部目指してるんだって?」

「え? うん、一応ね」

「私もなんだよね。どこの大学にするかとか、目星ついてる?」

 聞くと、七瀬さんは体育教師になりたいらしい。

「うーん、この辺りだと……」

 お互い情報交換ができて、かなり助かった。私も候補はいくつかあったけれど、七瀬さんのおかげでだいぶ絞り込めそうだ。

「じゃあもしオーキャン行くなら一緒に行こうよ。久保田さんいるなら頼もしいし」

「私も、知ってる人がいたら嬉しいな」

「あ、私そろそろ行かないと。じゃあまたね!」

 七瀬さんは次のリレーに出るらしく、準備に向かった。玉入れが終わったので杏奈もそろそろ戻ってくるかなと思っていると、突然後ろから髪を触られて思わず飛び跳ねてしまった。

「わっ! ゆ、優希ちゃん……」

「あはは。ごめんね、驚かせて」

 優希ちゃんは私の髪を珍しそうに見ている。

「雪、かわいいね」

「えっ、あ、ありがとう」

 急にそう言われて、少し照れてしまった。嬉しいけれど、やっぱり杏奈に言われたいなと思っていると、また急に後ろから腕を引かれた。

「あ、杏奈」

「……立花さん、何か用?」

 いつの間にか玉入れから戻ってきていたらしい。杏奈は何か勘違いしているのか、優希ちゃんを睨みつけて敵意を剥き出しにしている。珍しく力強く杏奈に腕を引かれて、内心ドキドキしていた。

「ち、違うよ杏奈。ただちょっと話してただけで……」

「そうそう。ただ雪の髪型がかわいいなって話をしただけだよ?」

「髪型……?」

 言われて気づいたのか、杏奈は私の髪を見ると一瞬固まって、目を逸らした。

「桜井さんはどう思う?」

「え、いや、まあ……」

 杏奈は目をぐるぐるさせながら必死に言葉を考えている。その姿を見て、優希ちゃんは満足そうに笑った。

「ふふ、じゃあ私はそろそろ行かないと。またね」

 優希ちゃんが立ち去ると、杏奈はため息をついて私の腕を離した。しかしまだ杏奈から髪型の感想を聞けていない。

「はあ。雪、本当に大丈夫だった? 立花さんに何かされてたり……」

「大丈夫だってば。それより……どう、かな?」

 杏奈の顔の前で頭を振る。それに合わせて、杏奈の顔がぼっと赤くなった。杏奈のこういう所はかわいいと思う。

「いいと、思うよ」

「……他には?」

「えーっと……あ、朱音にやってもらった? すごいね、ほんと」

 全然私の求めている言葉を言ってくれなくて、つい意地悪をしたくなってしまう。

「他には?」

「うっ、えっと……うん。かわ、いいよ」

「なに?」

「かわいいと、言いました」

 杏奈はもう限界というように降参のポーズをしながらそう言った。言ってもらえて私も満足しているのだけれど、もっと欲しくなってしまう。

「もう一回」

「な、なんで」

「嫌なの?」

「嫌とかじゃ……」

「本当は、思ってないんだ」

 ちょっといじけたフリをしたら、杏奈が焦っている。やっぱり、かわいい。

「いや、本当に思ってるよ。その、かわいいって……」

「ふふ、ありがとう」

 ちょっといじめすぎたのか、杏奈はかなり恥ずかしそうだ。

「杏奈、かわいい」

「は、はあ?なんで……」

「本当だよ?かわいいよ」

「わ、わかったから」

 ニヤニヤしながら詰め寄ると、杏奈に顔を逸らされてしまった。

 どうしも我慢ができなくて、周りを確認してから杏奈の首から下げられたハチマキをぐいと引っ張って、杏奈の顔を引き寄せた。お互いの唇が、軽く触れ合った。

「……っ、ちょ、ちょっと雪。急に……」

 ほんの一瞬だったけれど、柔らかい感触が伝わった。

「ご、ごめん。つい……」

 皆が今行われている三年生のリレーに夢中とはいえ、誰に見られるかわからない。少し反省した。

「でも、杏奈がかわいいから……」

「それはもうわかったから。やめて」

 またすぐ恥ずかしそうになる杏奈はやっぱりかわいい。けれどこれ以上言ったらさすがにかわいそうなので止めておく。もしかしたら、私は言われるより言いたいタイプなのかもしれない。



――――――

「杏奈、まだ寝ないの?」

 雪に話しかけられ時計を見ると、いつの間にかかなり遅い時間になっていた。

 仕事しながら小説を書こうとすると、大学の頃よりもずっと時間が無くて大変だ。今日のような休みの前の日になるとつい遅くまで作業をしてしまう。

「うーん……もうちょっと、キリのいいとこまでいったら寝るよ。雪は先に寝てて」

「そう? じゃあ……あんまり遅くならないでね」

「うん、おやすみ」

 雪が部屋から出ると、一度メガネを外して目の周りを軽く揉んでから作業を再開する。もうひと頑張りだ。

「ふー……このくらいかな」

 とりあえず、一段落はついた。雪にもああ言ったし、今日はこのくらいにしておこう。

 寝室のドアをそっと開けると、雪がわざわざベッドの端に寄って寝ている。一人なんだから広々と使っていいのにな。そういう優しさも好きなところではあるけど。

 雪の穏やかな寝顔を見ていると、疲れが癒された。つい夜遅くまで作業してしまう理由は、実は雪の寝顔が見たいからというのもある。

 そっと布団に入り、雪の手を握ると雪も反射で握り返してきた。

「……おやすみ、雪」

――――――



 体育祭から数日が経ち、また受験に向けた学校生活が続いていた。七瀬さんと話して志望校は決まったがそうなると今度は勉強を頑張らないといけない。今の成績を維持できれば問題ないだろうが、どうしも不安になってしまう。

 色々考えつつ、部活のため更衣室に向かった。テニス部は夏で引退なので、もうあと少ししかテニス部にいられる時間はない。貴重な体を動かせる時間を有効に使おうと意気込んで、テニス部の更衣室のドアを開けた。

「あ、真希ちゃん。お疲れ様」

 中では先に真希ちゃんが着替えていた。私が挨拶をすると真希ちゃんはびくっと驚いた反応をした。

「ゆ、雪先輩っ!? お疲れ様です!」

「……? 真希ちゃん、どうかした?」

 何か焦っているのか、しどろもどろだ。

「いえいえ、なんでも……なんでもないです! えっと、準備してきます!」

 慌てた様子で着替えを終えると、真希ちゃんはさっさと出ていってしまった。

 その後の部活でも、真希ちゃんは私の方を気にしていて、でも話しかけると何でもないですと言って逃げられてしまう。

 結局、そのまま部活は終わり、下校時刻になった。真希ちゃんは相変わらず私の方をチラチラ見ている。どうしたんだろうと思うが、無理に聞くこともできない。

 着替えを終え、校門に向かうとちょうど杏奈も出てきていた。

「雪、おつかれ」

「うん。お待たせ」

 杏奈はバイトが無い日はこうして私を待っていてくれる。本当はこのまま手を繋いで帰りたいけれど、杏奈はあまり見られると嫌がりそうなので我慢している。

 帰ろうと歩き出すと、駐輪場から真希ちゃんが出てきた。私と目が合うと、真希ちゃんはビクッと驚いた勢いで自転車ごと倒れてしまった。

「ま、真希ちゃん!?大丈夫?」

「いてて……は、はい。すみません。大丈夫です」

 幸い、怪我は無いみたいだ。でも、本当にどうしたのだろう。

「真希ちゃん。その……どうかした? 今日ずっと様子がおかしいけど」

 何か悩みや、問題があるなら話してほしい。それくらいは力になりたい。そう思って聞いてみると、真希ちゃんは言葉に詰まりつつ意外な事を言った。

「え、えっと……その……お二人は、その、つ、つ、付き合ってるんですか!?」

「えっ?」

 思いもよらないことを言われて、気の抜けた声が出てしまった。杏奈もびっくりしている。

「そ、その……この前、体育祭で……お二人が、ち、ちゅーしてるの見ちゃって……」

「えっ」

 今度は杏奈から声が漏れた。まさか、見られていたとは……しかも、後輩に。

「す、すみません! 偶然、たまたま、見ちゃって……」

 真希ちゃんは何故か顔が真っ赤だ。私たちまでつられて恥ずかしくなる。

「いや、その……」

 言っていいのかな、杏奈は嫌がるかも。と思い杏奈の方を見ると、杏奈は顔を赤くしながらも私の肩を引っ張って、抱き寄せた。

「う、うん。付き合ってるよ」

「あ、杏奈……いいの?」

「あっ、ごめん。嫌だった?」

「ううん、ていうか私も杏奈が嫌がると思ってたから……」

 杏奈が堂々と付き合ってると宣言してくれたことがちょっと、かなり、すごく嬉しくて、熱くなってしまう。

 真希ちゃんは真っ赤になって口を抑えている。今にもその隙間から声が漏れそうだ。

「そ、そうなんですね……! えっと……あの、素敵だと思います! ちょっとびっくりしたけど……やっぱり、三年生ってすごいですね!」

「す、すごい、かな……?」

 感想が不思議だけれど悪い意味ではなさそうだし、いいのだろうか。

「はい、だって、その……ちゅーしてたってことは、その……」

 真希ちゃんの顔はさらに赤くなっていく。倒れたりしないだろうかと心配になる。

「その……あ、あかちゃ……いや、すみません! なんでもないです! 帰ります! お疲れ様です!」

 真希ちゃんはまくし立てると、自転車に飛び乗り猛スピードで走り去った。

「え、あ、気をつけてねー!」

「はーい!」

 遠くから大声で返事が聞こえる。一瞬で見えなくなってしまった。

「ていうか、さっき真希ちゃんが言いかけてたのって……」

 高校二年生で、まさか知らないわけないと思うけれど……真希ちゃんは座学がとにかく苦手だと言っていたが、いやいや……

「いや、宮川さんだってほら、うさぎの話してたじゃん」

 杏奈もまさかという顔をしている。確かに、以前に学校で飼っているうさぎが妊娠しているのを真希ちゃんは見ていた。

「そうだけど……その、行為自体は……」

 そう言うと思わず行為が頭の中で連想されてしまって、二人して恥ずかしくなった。

「ご、ごめん……変なこと言って……」

「い、いや、私こそ……忘れよう。うん」

 それ以上この話を深掘りするのは危険な気がして、お互い黙る。

 学校からしばらく歩いているうちに杏奈との距離がもどかしくなってきて、試しに手を握ってみた。杏奈は驚いたが、振りほどきはしなかった。

「嫌、かな?」

「う、ううん。いいよ、雪がしたいなら」

「ありがとう。さっき、杏奈が付き合ってるって言ってくれたの、嬉しくて」

「そっか……まあ、何となく内緒にしたほうがいいのかなって思うよね」

 こうして堂々と手を繋ぐのも変に思われるかもしれないと思っていたけれど、すれ違う人たちは案外気にしてる様子は無くて、ただ無関心なだけかもしれないけど少し安心した。

「……じゃあ、登下校のときは手繋いでいい?」

「え、う、うん。いいよ」

 嬉しさを伝えたくて、杏奈の手をぎゅっと握った。

「いたた、雪、痛い」

「え? そんな力入れてないよ」

「本当に? 私こんなもんだよ?」

 杏奈がぎゅっとしてくるが、全く力を感じない。本当に本気が疑わしいほどだ。

「杏奈、さすがに……」

「ちょ、そんな目で見ないで! 本気だから!」

「あれ? でも体育祭のときはもっと強かった気がするけど」

 あの時は私もびっくりするくらい力強く体を引っ張られた覚えがある。

「あ、あれはその……雪が心配だったから……」

 そう言われると、嬉しいような、恥ずかしいような。私のためとなると力が出るなんて、愛されてる証みたいじゃないか。

「あ、ありがとう」

「う、うん」

 頼りにならないようで、頼りになる。杏奈のそういうところにも、私は弱いらしい。



休日、朱音の誘いで芽衣と雪と私の四人で遊んでいた。朱音曰くダブルデートらしい。

「杏ちゃんと雪先輩が付き合ってること、真希にバレたらしいですね」

 フードコートでポテトをつまんでいると、朱音から話題が振られた。

「まあ隠してるわけじゃなかったし、ね」

 もう少し自信満々に言えたら格好がつくのだけれど、最後まで勢いを保てない。雪のほうをチラリと見ると、雪も少し恥ずかしそうに同意して頷いていた。

「キスしてるとこ見ちゃったって、真希が言ってたよ。あ、言いふらしたりはしてなかったから」

「そ、そうなんだ……やっぱり、恥ずかしいかも」

 確かに、人に見られて構わないと思える行為ではない。

「真希はあんまりその辺の耐性無いですからね。高二にもなってキスくらいであの反応じゃ、心配になりますよ」

「……え?」

 流したほうが無難な気もしたけれど、思わず引っかかった。雪も同じようなリアクションをしている。私たちにしてみれば最前線だし、宮川さんの反応が大袈裟だとは言いきれないと思っていた。朱音と芽衣はそれを見て不思議そうな顔をした。

「え? あれ……もしかして杏ちゃんと雪先輩って、まだ……?」

 まだ、に続く言葉は容易に想像できた。思えば、いつの頃からか芽衣と朱音の距離感がおかしくなっていた。くっついていることに不自然さを感じさせなかったし、お互いのパーソナルスペースがゼロになっている感じがいつの間にかあった。あれは、そういうことなのだろうか。

「あ、朱音ちゃん……!」

 芽衣も察したのか、顔を赤くした。そのリアクションで確信した。この二人、している。

「ご、ごめん。付き合いだして割と経つし、もうしてると思ってて……」

「い、いやいや。まだ高校生だし。それは、早いよ。清い……清い交際をさぁ!」

 動揺して、声が裏返った。なんか年寄りみたいなことを言ってる気がするけど……いや実際そうだろう。

 朱音のことは小さい頃から知っているし、芽衣のこともまだ気が小さい頃を知っているから余計に思うのかもしれないが……そんな二人が関係性の階段を猛スピードで駆け上がっているなんて、信じられない。

 雪にも刺激が強すぎるだろうと思っていると、それまで黙っていたのに何を思ったか信じられないことを口走り始めた。

「で、でも私も杏奈の裸は見てるよ! 体だって拭いてあげたし!」

「雪……雪!? 何言ってるの!?」

 いやあったけど。そんなこともあったけど。あれはそういうのじゃなかった。そういうの抜きに、お互いの信頼が現れてるやつだったはずだ。

「あ、杏ちゃんってそういうの好きなんだ……」

「違う違う違う! 違う!」

 あらぬ誤解を生んでいる。芽衣もちょっと引いた目で私を見ている。

「もしかして杏奈、あれ嫌だった……?」

「いや……雪、ごめん。後でゆっくり話そう。今はちょっと黙っててほしい」

 雪まで暴走して、収集がつかない。この後、全部の誤解を解くのに一日を使い切った。





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