後篇

 瑠璃は、道ならぬ恋をしていた。

 相手は行きずりの男であるらしかった。

 ふらり、とこの辺りを立ち寄ったところ、ひょんなことから瑠璃と出会ったらしい。二人はそのまま意気投合し、たびたび会う仲となった。

 会う、といってもなにをするわけでもない。ただ話すだけ。特別に何かあっても、喫茶店に連れ立っていくだけだったそうだ。

 それでも通じ合うものがあるの、と瑠璃は言っていた。すっかり恋仲になっているものと、少なくとも彼女は思っていたらしい。

 その真偽については、梨沙には判別がつかない。なにせ、梨沙は相手の男の顔も知らないのである。

 だが、周囲――町の人間は、瑠璃の相手を見知っているようだった。あんな男に熱を上げるなんて、お嬢もどうかしている。そんな風に噂するのを梨沙は何度も聞いたことがある。


 瑠璃は、この辺りの地主の娘だった。決して広くもなく栄えた土地でもなかったが、お嬢様であることには違いない。みなが彼女を持て囃し、慣れ親しんだ。

 だから、他所者の男に熱を上げていることは我慢ならなかったのだろう。ここ最近は、瑠璃を見かけると、忠言を指してくる者が多かった。そして、瑠璃はそれを疎ましく思っていた。

 そして、そんな娘を危ぶんで、彼女の父は最近になって縁談を用意したという。本人が気の進まない様子を見せているというのに、話はあれよあれよと進んでしまい、父親にとっては良い感じにまとまりかけていたらしい。

 そんな折での、行方不明。

 駆け落ちだ、と誰からともなく言い出した。


「あの日を境に、相手の男も見なくなっちまってるんだよ」


 夕食の支度の折、台所で豆の莢を剥きながら、母親は何処からか拾ってきた噂を梨沙と祖母の前で披露した。信じられない、と呆れたように口にしつつも、その眼は面白がっている。井戸端会議に精を出す母は、噂話が大好きなのだ。


「だから駆け落ちに決まってる。お嬢さんも、梨沙を隠れ蓑にして、祭りの日に逃げ出すなんてやるもんだね」


 あれだけ〝お嬢さん〟と呼び慕い、梨沙が友人であったことを誇りに思っていた母は、嫌みたらしく瑠璃を卑下する。いつもなら我慢ならずに反論しているところだが、梨沙はそうしなかった。きっと心の何処かでそのことが引っ掛かっていることが一つ。母の声音に悔しさが滲んでいたことが一つ。

 それにしても、と母は矛先を黙々と作業している梨沙に向けた。


「悔しくないのかい、お前さんは。友達と思っていたお嬢さんに、良いように利用されたんだよ?」

「うん。……でも、まだ実感なくて」


 曖昧に返答する梨沙は、もちろん駆け落ちの共犯である。



***



「梨沙にもお願いがあるのだけれど」


 参拝の後、そう持ち掛けた瑠璃。その微笑の妖艶さに、有無を言わせぬものを感じ取り、とりあえず話を聴こう、とその場から離れた。神社の建物の影に隠れてすぐ、瑠璃は切り出した。


「今日はここで別れてほしいの」

「え?」


 楽しみに来ていたはずが、そんな意表を突いたようなことを言われてしまい、呆気に取られる梨沙だったが。


「私これから、逃げようと思って」


 薄闇が掛かっていた。ひぐらしの鳴き声が耳をつく一方で、鈴虫も合唱の準備を始めていた。この山際では、再演した神楽の囃子は遠く、虫の合奏に負けていた。


「何処へ」


 ようやく立ち直った梨沙が聴けたのは、その一言だけだった。


「まずはこの山を越えて、湖のほうへ行こうと思ってる」

「今から?」

「今から」

「危ないよ。もう暗くなってるっていうのに」


 突然の展開に動揺していたのだろうか、梨沙は瑠璃に月並みな言葉しか掛けることができなかった。聴いた瑠璃の笑みが深まる。嫣然とした表情の中に冷めたものが混じる。その程度のことしか言えないのか、と呆れられているような気がした。


「だからよ」


 瑠璃はくるりと身体を一回転させた。棚引く裾。しかし、華やかさが感じられない。後ろの宵の森の風景と同化してしまっているからだ。

 それから、ふと瑠璃が神楽台の方へと視線を向ける。さっき踊っていた天狗面の舞い方がこちらへと向かって来ていた。瑠璃の顔が少しだけ晴れやかなものに変わる。

 あれが恋の相手か、と直感的に悟った。


「……本当に、行ってしまうの?」

「ええ。もう、決めたの」


 なにを言われてもやめる気はないのだ、と瑠璃は言う。本気だろう、と梨沙は感じ取った。長い事友人を務めているのだ。酔狂で言っているかどうかくらい、察しが付く。


「そっか。分かった」


 観念して梨沙は頷き、瑠璃と別れた。一人で参道に戻り、人混みに紛れて、適当な頃合いに独り帰った。

 夜道を走る電車の中。薄暗い蛍光灯に照らされた車内で、窓ガラスに映った自分の虚像を透かし見ながら、梨沙は瑠璃のことを考える。

 瑠璃が梨沙と祭りに行ったのは、その男性に会うための隠れ蓑にするためだった。

 あの妙なはしゃぎぶりは、男ととうとう逃げ出すことができるからだろうか。

 それとも、最後になる梨沙との遊びを精一杯楽しもうとしてくれたからだろうか。

 後者ならともかくも、前者であれば……と梨沙は考える。

 寂しさと悔しさが同居したこの感情を、どうするべきだろうか。



***



 それから数日を経って、今に至る。

 あのときのことを思い出すと現在でも気分が沈んでしまう梨沙だったが、玄関でガタガタと慌ただしい音がしたのを聴いて、意識がそちらへと向かっていった。


「おい、大変だ。聴いたかい」


 大きな声量で台所に飛び込んできたのは父だった。普段から汗だくの作務衣にさらに汗を吸わせて、口早に話し出す。


「それが、お嬢さん、湖に落ちたかもしれないんだってよ」


 波打ち際に、瑠璃玉の簪が落ちていたのだという。自分と同じ名の石だから、と瑠璃が気に入っている一本であるのを誰もが知っていた。

 見つかったのは、その一本だけだった。遺体が見つかったわけでもなく、他の持ち物が見つかったわけでもないらしい。

 だが、瑠璃の家族は、瑠璃が湖に落ちたものとして遺体を捜すことに決めたそうだ。恋人である行きずり男への恨み言を呟きながら、現在人手を募っているらしい。


「そういう訳だ。俺、ちったぁ行ってくるよ」


 父親はそう言って、帰ってきたときと同じく、慌ただしく家を出ていった。

 とんでもないことになった、と母と祖母が話す傍らで、黄昏の湖に沈んでいく瑠璃の姿が、梨沙の脳裏に描かれた。

 彼女は、恋人と手を繋ぎ、嬉しそうに深く深く潜っていって。

 そのまま宵口の水の色に溶けて、想いを遂げるのだ。

 

 そうか。

 ――彼女は、黄昏の向こうに沈んで行きたかったのか。


 梨沙はようやく、瑠璃の浴衣の色の理由わけを理解した。

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瑠璃は暮色に沈みゆく 森陰五十鈴 @morisuzu

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