瑠璃は暮色に沈みゆく

森陰五十鈴

『どうしてそんなにも蒼いの?』

前篇

「……どうしてそんなにも蒼いの?」


 予定より少しだけ遅れて来た瑠璃の姿を見て、梨沙は戸惑った。

 残暑も涼風にほんの少し和らぐ午後四時。太陽熱に茹だっていた虫も控えめに鳴き出しはじめた駅舎の前で、梨沙と瑠璃は待ち合わせをしていた。隣の駅の前にある神社の祭りに行くためだ。

 せっかくだから、と気合いを入れて、椿の柄の白い浴衣と黄色の帯を用意して、編んだ黒髪に朱色の玉簪を挿してきた梨沙。一方、瑠璃はといえば、青草を染めたような蒼色そうしょく無地の浴衣に、灰色の帯。手提げに持つ巾着さえも群青色。唯一、きれいに結い上げた黒髪に刺さった宝石瑠璃の簪の銀鎖がキラリと美しく光っているものの、気合いがないどころか、およそ年頃の娘のものとは思えない恰好だ。

 祭りだというのに、浮かれるどころか喪服にも近い地味な色合いを敢えて選択した瑠璃の正気を、梨沙は疑わずにはいられなかった。なにせ、彼女は筆で描いたような凛とした美人である。普段の衣服や小物に洒落っ気センスもある。町一番の美少女だと言っても過言にはならない、と梨沙が思うだけの器量良しである。

 そんな彼女が、こんな森や宵闇に溶けてしまいそうな色合わせ。なにかある、と梨沙は見た。


「別に、なにもないわよ」


 涼しい顔で、瑠璃は応える。


「嘘おっしゃい! 小粋ハイカラなあなたがそんな恰好をするなんて、絶対なにかあるに決まっているわ!」

「なにもないってば」


 むきになる梨沙のなにがおかしいのか、くすくすと笑う瑠璃。風のように捕らえられないのはいつものことにしても、今日は一段と掴めない。


「それよりほら、早く行きましょ」


 そうして白く細い手で梨沙の手を引っ張り、浮かれた様子で駅の改札へと向かった。群青の巾着からいつもの蜻蛉柄の小銭入れを出し、梨沙の分と合わせて二人分の切符を買う。代金の支払いを申し出るが、気にするな、と瑠璃は笑って、茶色に塗られた電車に飛び乗った。


 革張りの座席に座った瑠璃は、無邪気な様子ではしゃいでいた。はしゃぎすぎているくらいだった。その様子が珍しいのと、やっぱり地味な衣装が気になって、梨沙はますます首を傾げずにはいられない。だが、存外頑固なところのある瑠璃は、梨沙がなにをしようと白状しないことを知っていたので、電車の中では大人しく、瑠璃の話に耳を傾けていた。

 聞かされるのは他愛のない話ばかりで、酔狂の手がかりもなにもない。恋の話すら出てこない。

 列車の窓から入る涼の風が、瑠璃のほつれ毛を簪の鎖と一緒に揺らして白い首をくすぐる。そのさまは艶かしくて、つい梨沙は食い入るように瑠璃を見つめた。

 ――こんなに美人なのに。

 蒼色の恰好なんて、勿体ない。

 結局なにも分からないまま、梨沙たちは目的地へと降り立った。


 そこは、門前町というにはあまりに小さな通りだった。参拝客を招く店々の立ち並ぶ大通り。だが、神社そのものは小さいので、地元客さえ滅多に来ず、普段は寂れた街並みだ。

 だがそれも、今日に限っては道沿いに建てられた的屋と提灯が打ち消している。近隣から地元住民たちが集い、祭りの賑やかさに一役を買っていた。

 どこからか、甲高い風のような笛の音が流れてくる。

 トントントン、と太鼓の音も空気を揺らし、胸の音が呼応する。

 いつの間にか、梨沙の胸は高鳴って、連れの恰好のことはすっかり頭の隅へと押しやってしまった。どんな服であれ、楽しいものは楽しいのだし。


「参拝してから回る? それとも、向かいながら回る?」


 桃色の巾着を握りしめ、興奮気味に尋ねた梨沙に、回りながら行きましょう、と大人びた声が応えた。

 綿菓子、かき氷、あんず飴。

 水笛なんかも買ってみて、ピュロロロー、と吹いてみたり。

 参拝などそっちのけで、童心に返ったように、二人でお菓子と玩具を買って回る。


 我に返ったのは、提灯の灯りが点った頃で、空はすっかり黄昏れて、赤い雲がたなびいていた。

 辺りが少し昏くなる。


「そろそろ行こうか」


 言い出したのは、珍しく梨沙よりもはしゃいでいた瑠璃のほうで。


 振り返ると、暗がりに一瞬瑠璃の姿を見失って、梨沙の心に一抹の不安が過ぎった。


 その神社は、山に埋め込まれるようにして存在していた。

 麓にある鳥居を潜ると、鎮守の松林を割って玉砂利の道と数段の石階段が交互に三度繰り返される。その先の門をくぐった先の広場には神楽の舞台があって、囃子の音に合わせて舞い方が舞を見せている。

 その一方――天狗の面と目が合って、梨沙一瞬どきりとした。畏怖のようなものを覚えて、すぐさま目を逸らす。

 行こう、と瑠璃を促そうとして。

 彼女が食い入るように神楽を目にしているのを見た――正確には、その天狗の舞い方を。


「……瑠璃?」


 呼び掛けると、少し遅れてゆっくりと瑠璃が振り返った。


「行こうか」


 神楽台をぐるりと周り、拝殿の古びて毛羽立った木の階段を登る。賽銭箱の前に立ち、小銭を放り、二人で一緒に鈴を鳴らした。カラカラ、と低めの音。柏手。目を閉じた梨沙は、日頃の感謝とこれからの平穏を祈った。


「ねえ」


 一礼の後、拝殿を離れようとしたとき、まだ本殿の方に向かい合っていた瑠璃は、じっと前を見つめながら梨沙に話しかけた。


「梨沙にもお願いがあるのだけれど」


 一つの舞台を終えたのか、囃子の音がピタリと止んで。


 その夜、瑠璃は姿をくらました。

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