棘とシトラス

秋冬遥夏

棘とシトラス

 校庭に植えられた99本の桜、通称「九十九つくも桜」から微かに春の音が聞こえてくる。その音はゆっくりと近づき、やがて僕の靴に触れ、消えた。


 縛らなきゃ、靴紐。


 この期に及んで靴紐を縛ることを渋っているのは、紛れもなく「高校生活を簡単に終わらせたくない」という気持ちから来るものであった。


 昇降口の扉越しに見える生徒はみんな、卒業証書やアルバムなんかを片手に記念撮影をしている。これで終わりだと言うのに、笑顔でピース。学生というのは(無論、僕も学生なのだが)本当にタフな生き物だとつくづく思う。

「おら、帰るぞ」

「いま帰ろうと思ってたとこ」

 3年間登下校を共にした朝倉に、出来るだけ素っ気なく返してから、僕は一気に靴紐を結んだ。不器用な左右非対称の蝶々結びが、僕らのことみたいで少し笑えた。


「写真、撮らなくていいのか」

「別にいいかな。それよりお前はいいのかよ。最後くらい永野と帰らなくて」

 永野というのは、朝倉の彼女である。

「最後くらい……て、最後だからお前と帰りたいんじゃねえか。ずっと一緒にいたんや。最後まで付き合ってもらうぞ」

 彼はそう言って僕の肩をどついた。その拳に纏わりついていた熱が、ストレートに心に沁みていくのを感じる。彼は変わらない。はじめに出会ったころからずっと、芯の真っすぐな男だった。その性格からよく先生に「尖っている」と睨まられていたが、そんな棘があるところも、僕は気に入っていた。

 今日も朝倉とふたり、昇降口を抜けて歩き出す。いつもダラダラと歩いていた登下校も、これで終わると思うと信じられなかった。もうこれっきり、彼の隣を歩くことは、できなくなるわけだ。僕たちは、写真撮影に飽きない女子たちをしり目に、我が成高を後にした。


 パンパンになったリュックを背負いながら「くそお」なんて溢している彼。最後までポケットに手を入れて、歩く姿勢はすこぶる悪い。

「だから、少しずつ持って帰れって言ったじゃん」

「こんな多くなると思わなかったんだよ。ほらこの卒業アルバムとか、こんな分厚いなんて聞いてなかったし。はあ、いいよなあ、チャリ勢は楽そうで」

 こんな会話をしている内にも、たくさんの自転車が僕らを追い抜いていく。そりゃそうだ。この学校は駅から歩こうと思ったら、少なくとも片道25分はかかる。この長い道のりを毎日歩いていた生徒の方が珍しい。

 横でアーダコーダ言っている朝倉も、実は昔「チャリ勢」だった。それがおかしいことに、一年の夏、通学路にある「作田川」に自転車を捨ててしまったのだという。彼は「やりきれない気持ちと一緒に、投げちまった」と笑って周りに話していたが、僕だけはそれが「僕と一緒に帰るための口実作り」だと気づいていた。わざわざ「歩かなきゃいけない」という状況を作り出すために、川に自転車を放り投げる。(聞かされた当時は、なんて自然に悪い行為なんだと思ったが)彼はそんな人なのである。


 狭い上に車通りが微妙に多い田舎道。後ろから自転車が追い抜いていくこともあり、僕らはいつもここを一列で歩く。前を朝倉が、後ろを僕が。言葉を交わしたわけではないが、いつも朝倉が前であった。

 こんな風に人の後ろをつけていると、自分が歩いていることを忘れることがある。まるで彼に引きずられているような、そんな気分になるのだ。いや、ずっと前から僕は、彼に歩かされているのかもしれない。彼が前だけを見て、がむしゃらに進むから、僕はこの3年間を歩き通してこれたのだ。

「後ろ……」

「あ?」

「車、来たよ」

「了解」

 エンジンとハンドル、というのが一番しっくりくる。朝倉は熱を帯びて、ただ真っ直ぐ進むだけのエンジン。それを操縦して、良い方向に向かわせるハンドルが僕。そう、いつだって僕らは、2人で進んできたのだった。


 彼と出会ったのは一年生の文化祭の時期。準備に張り切る女子から仕事を貰えず、教室の後方で座りながら段ボールの切れ端と睨めっこしていたとき、彼はやってきた。

「お、たくさん段ボールあるやん、一緒にデケエもん作ろうぜ、女子たちびっくりさせてやろう」

 誰より真っ直ぐな目をしていた。なんの汚れもない「ただやりたいから、やろう」という単純な行動力に惹かれて、気づいたら僕は頷いていた。

「俺さ、モノ作んの好きなんよ」

 段ボールを切りながら彼が突拍子もなく言う。

「そう……なんだ」

「ああ、俺こう見えて小説とか書いてっから」

 彼の手は止まらない。目線もこちらに寄越さない。ただ手元だけを見て、自分の世界に入っている。

「小説か……僕は読むことはあっても、書いたことはないな」

「書いてみろよ。意外に書けっかもしらんよ」

「うーん」

 僕はそこから進めなかった。頭の中でずっと「うーん」が繰り返されて、止まらない。僕は今まで自分から何かをやってみるという経験を、したことがなかったのだ。

「俺さ、いま相方募集中やねん。小説を一緒に書いてくれる人を探してんのよ。それで一応文芸部を見に行ったんだけどさ、なんか違うな……なんて」

「何が違うの、その人たちも小説書いてるんでしょ」

「なんだろう……メ、かな」

「メ、って、この目?」

 僕は自分の瞳を指差して聞く。

「そう、その目。みんな、目が笑ってたんよ。自分の小説を読んで満足してた。俺、創作って、そういうもんじゃないと思うんだよな」

 段ボールにカッターを刺す彼の目は、梅雨明けの晴天が反射して、とても澄んでいた。そしてこのとき。僕は彼に、彼のその目に、賭けてみようと思ったのだった。高校3年間を、人生の春を、この朝倉という男にフルベットしたら、僕はどこまでも行けるかもしれない。本能的にそう感じた。


 そして後日。文化祭が終わった頃。僕は小説を書いてみた。ずっと趣味で読んでいた「異世界もの」なら書けるかも、と筆を持ってみたのだ。分量は三千文字にも満たない、今思えばしょうもない物語。でも。それでも。何かひとつ「作り上げた」という達成感が心の内を占めていた。僕はそんな思いの詰まったA4の束を、クリアファイルに丁寧に入れて、リュックに押し込んだ。世界史Bの教科書と一緒に。


 車通りも少なくなってきたところで、僕は彼の隣りを歩いた。僕と彼との距離感は、漫才師のそれに似ている。カップルみたいに近くはないけど、それほど遠くもない。そんなところをずっと保ちながら、僕らはゆく。その距離感がちょうど良かった。

「3年間、あっちゅう間やったな」

「……そうだね」

「テスト期間はあんなに長く感じたのにな」

 朝倉は大きく笑って、石ころを蹴る。思ったより遠くに飛んでいったそれは、沈みだす夕日と、まだ明るいのに灯る街灯に照らされて、ふたつに影が伸びる。

「ねえ、これからどうする」

「あ? 家帰るだろ」

「そうじゃなくて、僕らのこと」

 朝倉は空を仰ぐ。確実に夜が近づいている。

「わからんなあ。俺たち、どうなるんだろうな」

「うん……」

「でも、きっと歩いてるやろな。将来なんて、難しいことはわかんねえけど。今日みたいに歩いてると思う」

 いつもはよくわからない「朝倉の名言」も、今日だけはなんだか理解できた気がした。これから僕らが離れても、きっと各々の道を歩んでいくのだ、とそう言いたいのだろう。でも僕の正直な気持ちを言えば、ずっと朝倉と歩いていたかった。こいつのバカ話を聞きながら、どこまでも遠くに行きたかった。


 少し歩き、小学校を通り過ぎると、小さな公園が出てくる。団地に併設されたそこは、よく朝倉が悩んだときに立ち寄った場所。いつもふたりでブランコに乗りながら話し合った。ああ見えて彼は(感性が鋭いからか)傷つきやすい。些細なことで涙して、すぐ自己嫌悪に陥る。僕はそれが彼の短所でもあり、長所だとも感じていた。あそこまで感情が波打つ人間だからこそ、彼は人の感情を揺さぶる小説が書けるのだ。

「俺はもうダメだわ」

「なにがダメなの」

「なにもかも……かな。優しい心を持っていたいんだけど。ちょっとしたことでイラついて、傷ついて、どうしようもなくなる。人とぶつかるのが、すごい嫌なのに。この性格だから、いつだって衝突して、その度に気持ち悪くなる。ダメなんだよ、俺は」

 ダメなんかじゃない。そう思っても、その言葉は喉に引っ掛かって、出てこなかった。それを口にするのは「正解じゃない」と思った。きっと彼は、こんな言葉で救われるような人間じゃないのだ。

 朝倉はブランコに揺られながら、遠くを眺める。その目は多くの水分を含んでいたように思う。深い夜だからはっきりとは見えなかったが、声だけは確かに泣いていた。

「俺今日さ、倫理の授業があったんだけど、そこで“ヤマアラシのジレンマ”を学んだのよ」

「ヤマアラシ……? なにそれ」

「まだ習ってないか。ヤマアラシってハリネズミみたいな生き物なんだが、寒くて暖を取りたくても、棘が刺さるからお互いに近づくことができないの。近づきたくても、近づけない。この状況を人の心理的距離感と重ねて“ヤマアラシのジレンマ”って言うらしい」

 ヤマアラシのジレンマ、か。確かに周りの人が言うように、彼は尖っていて、棘のある人間だ。そのせいでいつも人を傷つけては、その度に自分も傷ついている。でもそんな部分も含めて朝倉なんだと感じていた。これが彼なのだ。

海凛かいり……」とわざと名前で呼んでみる。

「なんや」

「いや、なんでもない」

「なんだそれ」

 僕は言いたいことも言えぬまま、ただ深い夜空の向こう側に目を凝らしていた。なんでもっと自由に生きられないのか、とばかり考えていた。そして人に意見が言えずに、棘すら切り落としてしまった僕は、いったい何者なのかと悩んでいた。


 卒業を迎えた今日。あの日の夜とは違って、空には雲ひとつない。朝倉は公園なんて気にもせず、真っすぐに歩いていく。

「ねえ、今日はブランコ乗ってかなくていいの」

「あ、ブランコ?」

「うん、たまに乗ったじゃん。最後に乗ってかなくていいのかなって」

「ああ……」

 朝倉は少し考えてから、今日はいいよ、と言った。あの日の彼はもういない。少し前を歩く背中は、苦しい夜を何度も乗り越えて、強くなったように見える。そして僕も。ほんの少しだけ胸を張って歩けている。僕らは3年間で変わったのかもしれない。


 ただ歩いているだけ。いつだって微妙な距離感で、小説のことを語っていた。書いた小説をお互いに読んでは、感想や指摘を言い合ったり。最近読んだ小説について話したりしていた。

「なあ、現代文で今『羅生門』取り扱ってるじゃんか。ほら、芥川龍之介の」

「うん」

「あれ、改めて読んでも、すげぇよな」

「わかる」

 朝倉はずっと話していた。僕もそれをずっと聞いてて、飽きなかった。そんな言葉や価値観を重ねるたびに、一歩また一歩と踏みしめるたびに、僕という人間がはっきりと見えてくるようだった。

 薄い街灯の灯りだけを頼りに、僕らは夜を縫っていく。ときおり整備されてない道路に足を躓かせたが、そんなことは気にならない。たとえ転んでも、僕らは歩くのだ。趣味の小説の話をしながら、いつまでも、どこまでも、進むのだ。


 いつまでも、どこまでも、あの夜はそう思っていたのに。今日は終わりが近づいている。もうかれこれ15分は歩いたから。駅に着くまであと10分。追い越していく自転車も少なくなって、ここは、ふたりだけの世界。

「朝倉はさ……」

「あ?」

「いつ栃木に行っちゃうんだっけ」

「いつとは決まってねえけど、4月4日の入学式には間に合うように、行かなくちゃな」

 彼は春から栃木の大学に行くことになっている。千葉と栃木。距離的にはさほど遠くはないが、やはり遠く感じる。今まで毎日と一緒に歩いた相手と、4月にはもう会えなくなると思うと、淋しいものがある。

「栃木に行っても、小説書いてよ」

「ああ、お前もな。勝手に筆折るんじゃねぇぞ」

「うん、わかってる」

 わかってる。小説を書くのをやめたら、朝倉との関係も切れてしまうのも、わかってる。もともと小説という「理由」がなければ、一緒に歩かなかったふたり。筆の切れ目が縁の切れ目になるだろう。

「これから小説で悩んだらさ。電話していい?」

「ああ、もちろん。いつでも待ってる」

 僕はいつからか。彼にだけは意見できるようになっていた。少しだけだが、彼には自分の思いをぶつけられる。彼も下手なりに、僕の思いを受け止めてくれる。そんな僕にとって唯一の存在との別れが待っているのに、僕は足を進めるしかなかった。

 2つ目の公園も通りすぎ、喫茶店「山びこ」を超えた辺り。もう駅もそう遠くないところで、僕は彼の手を引っ張った。

「ねえ、ちょっと寄り道してこうよ」

「あ?」

 僕らの目の前には、山肌に寄り添うように建てられた不動尊が赤くそびえ立っていた。


 僕らはよく「小説賞」に応募した日に、験担ぎの目的でこの不動尊を訪れた。毎度参拝をしては、選考に落ちての繰り返し。それでも朝倉が、綺麗な目で応募を続けると言って聞かないから、僕も一緒に書いては応募していた。


 上っている途中で僕は、この石階段を上るのも今日で最後なんじゃないか、と考えた。ふたりで一緒の小説賞に応募するようなことも、これからはなくなるのかもしれない。思えば今日は験担ぎが理由ではない。ただ、別れが惜しいのだ。このまま後5分ほど歩いて、お別れなんて悲しすぎる。

「ねえ、未練……とかないの?」

「未練?」

「うん、名残惜しさとか。これから数日したら、もう千葉を去っちゃうわけでしょ」

 朝倉はただ上っていく。僕と目を合わせることもなく。足だけは動かしながら「もうない、かな」と答えた。朝倉の横顔は、いつか文化祭で段ボールを切っていたそれに似ていて、すこし微笑ましかった。


 頂上まで上った。そこからは私たちが過ごした千葉の田舎を一望できる。手前側は信号ひとつない通学路。奥の方の国道は、すこし栄えている。そして、左側には「作田川」が流れていた。そう、朝倉が一年生の頃に自転車を捨てた川である。

「さっきはいいって言ったけどさ」

「あ?」

「やっぱり写真、撮りたいかも」

「おう、そうか」

 朝倉のスマホに向けて、僕は不器用な笑顔を向けてみる。もともと写真は得意ではない方だが、形に残る写真だけでも、笑顔で写っておきたかった。

「よく撮れてるべ、後で送るわ」

「うん、ありがとう」

 きっとその写真は僕のところには送られてこない。いつも朝倉は撮るだけで満足してしまう。思えば女子たちも、写真そのものには価値を見出してないのかもしれない。写真を撮った、という行為そのものに意味があり、それだけが記憶の泡となる。そういうものなのかもしれない。

「やっぱりさ、良いところだよな」

 朝倉が背伸びをしながら、呑気に言う。

「そう、だね」

「チャリ勢はここを登ろうともしないなんて、もったいねぇよな」

 僕は改めて川が絶えず流れていることに気づく。寄り道や回り道もしない。地元にある源流から、海まで、真っ直ぐ進む。そしてそんな姿が、隣にいる朝倉と重なった。

「俺さ、川に自転車捨てたじゃん……その時に、やり切れない気持ちと投げた、とか言ってたの覚えてる?」

「うん」

「あれさ……嘘なんだよね。すまん」

「そうだったんだ」

 知ってた。だって成高生にとって自転車は「足」である。それがなければ、僕のように毎日と歩かなくてはならない。自転車を捨てるには、それなりの大きな理由がいるはずなのだ。


 あの日の僕のように、遠くの空を見て黙り込む彼。きっと「本当の理由」を言い出せずに、困っているのだろう。

「自転車さ……僕と歩くために捨てたんでしょ?」

「え、なんで」

「違う?」

「いや、そうなんだけど」

 朝倉は、気づいてたかー、と大きく笑った。その声は作田川に乗って流れていく。ずっと南を進んで、いずれ海にたどり着く。ここから海は見えない。僕らにとって、近いようで遠い場所。それが、地平線の奥に広がっている。

「あれ、自然に悪いことしたよな」

 唐突に朝倉が言う。

「いま気づいたんか」

「いや、ずっと思ってた」

 朝倉は自分の罪を忘れない。やってしまった、とばかり感じて生きている。だからこそ、ずっと悩んでいるし、息苦しい世界なのだろう。でも彼はその中をひたすらに歩いている。結論を言えば、僕の賭けは当たったように思う。彼のおかげで僕はどこまでも行けた。何度も応募した小説賞だって、彼は最後には「佳作」を受賞した。惜しくも僕は「二次選考」で落ちちゃったけど、彼はこの賞はふたりのものだと言ってくれた。もちろん悔しい気持ちはあったけど、それを拭うほどの嬉しさが僕の心を占めていた。あの日、僕がフルベットした彼の目は、間違っていなかった。と今、本気でそう思えた。

「こんなこと言うのもなんだがよ」

「え?」

「俺たちも青春、してたよな」

 僕は大きく頷いた。正直、青春ってわからない。女子たちみたいに、卒業の写真をSNSにあげるようなことは、してこなかった。キラキラした学校生活も送っていなかった。それでも、確実に、僕らなりの青春を歩んできた、と胸を張って言える。海からやってきた潮風が、僕らの心を揺さぶっていた。


 駅が近づくほど、別れも近づく。僕らはとうに作田川も過ぎ、もう駅のすぐそこまで来ていた。あと3分。理髪店のある角を曲がったら、もう終わり。僕らの青春が幕を閉じる。

「喉渇いたな……」

 そう言い、朝倉は自販機でジュースを買った。缶に詰まった100円のしあわせ。この自販機でしか売っていることを見たことがない、謎の飲み物。製造会社はどこなのだろう。と余計なことを考えながら、僕も同じのを買った。


 3年間と歩いてきた体に、シトラス味が沁みる。昔に九つの古墳があったことから「九陵」と呼ばれるこの地を、よくもまあ、毎日と歩き通したものだ。僕は自分が少し誇らしく思えた。

「ねえ、このジュース美味しいね」

「そうだろ。俺が飲んでたのもわかるやろ」

 わかる。今なら、わかる。美味しいってのも、もちろんあるけど。彼は消毒してたんだ。自身の棘で傷ついたその身を、心を、100円で買えるこのジュースで、時々治していたんだ。

「沁みるわあ」

 彼は風呂に入ったような感想を吐く。僕は最後のひと口を飲んでから、栃木にもこの飲み物があることを願った。心の消毒液(シトラス風味)。僕が彼の隣にいることは出来ないから、せめてこのジュースがある自販機だけでも、彼の新しいアパートの近くに置いてあってほしかった。


 駅に着いた。本当にあっという間であった。この帰り道も、3年間も。舌にはまだシトラスの爽やかな酸味が残っている。朝倉は駅にあるゴミ箱に空き缶を捨ててから、踵を返した。

「え? 電車、乗らないの?」

「ああ、最後に海を見に行きたくなってな。九十九里浜まで歩くことにした。捨てちまった自転車を探さねえと。環境破壊が進むだろ」

 僕は耳を疑った。海、と言ったのか? ここから歩いて? そんなの無茶すぎる。それでも朝倉の背中はどんどんと前に進んでいく。彼は行くと言ったら、行く人だ。やると言ったら、やる人だ。真っ直ぐな目をした彼を、もはや誰も止めることはできない。無茶をするのが彼なのだ。僕は走って彼のことを追いかけた。

「なら、僕もついて行こうかな」

「おう、勝手にしろよ」

 シトラス風味の残る中、僕らの青春は延長戦へと突入した。

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