スナップドラゴン

大澤めぐみ

スナップドラゴン



 昨年の十一月、あなたは生まれて初めて裁判所からの郵便物を受け取った。


 開けてみると、あなたが裁判員の名簿に記載されたという通知だった。あなたは質問票に記入をし、同封されていた返信用の封筒で送りかえした。


 そのまますっかり忘れていたが、夏の終わりごろにまた裁判所から封筒が届いた。文書には、あなたが裁判員候補者に選ばれたと記されていた。


 指定された日時に、あなたは裁判所へ出向いた。候補者待合室にはあなたをふくめ、三十人ほどが集まっていた。この中から六人の裁判員と二人の補充裁判員を選ぶということだった。


 事件の概要について説明があり、被告や被害者の名前が明かされた。被告や被害者と面識がある場合には裁判員に選ぶことはできないからだ。



 被告人は渡来圭司、三十五歳。罪状は殺人と死体遺棄。

 被害者は広岡正孝、九十二歳。



 あなたは被害者を知っていたが、知り合いというわけではなかった。広岡はフィールズ賞も受賞した高名な数学者だったからだ。名前だけではピンとこなかったあなたも、プロフィールを参照すれば、ああ、あの人かと思い出すことができた。


 筋委縮性側索硬化症ALSを患い、ほぼ寝たきりでありながら、わずかな筋収縮で超高性能な電動車椅子を操縦し、視点移動でタブレットを操作して合成音声で話すその老数学者の姿は、たびたびテレビでも取り上げられていた。


 広岡は専門的には、いわゆる『第16の問題』の再定式化と、そこから発展したボレアルジオメトリ(冷たい幾何学)の発明によって知られているのだが、彼の抽象的で哲学的な発言は繰り返し様々なメディアで引用されていたため、あなたにはそちらの印象のほうがはるかに強かった。


 たとえばこういうものだ。



『自由な思考が最も大事だ。そのためには、綺麗な目でものごとを見なければならない』 ~数学者 広岡正孝~



 ちなみに、インターネット上にひろく流布する、これらの広岡の名言とされるものは、よく調べてみると大抵は出典が不明だった。




 その広岡のバラバラ遺体が発見された事件はテレビでも報道されていたので、あなたはこの事件についてもすこしは知っていた。


 被害者の広岡は九十二歳と高齢であり、おまけにALSを患っていて余命いくばくもなかった。事件は当初、なぜ間もなく死ぬ老人をわざわざ殺してバラバラに切断しなければならなかったのか? といった部分が謎としてクローズアップされていた。


「ただ死ねばよいわけではなく、どうしても自分で殺さないと気が済まなかったのかもしれませんね。なにか、強い怨恨のようなものを感じます」


 テレビのコメンテーターがそんなことを言っていたのも、あなたは覚えていた。


 あなたは裁判員に選ばれた。宣誓と、書類に署名、捺印をし、数字の入った裁判員カードを渡された。以降、あなたはこの番号で呼ばれ、氏名が公表されることは一切ないということだった。


 あなたはそのようにして、この事件に裁判員として関わることとなった。




 ☆




 年末の深夜、埼玉県警の紺敦巡査は国道脇で飲酒検問に立っていた。


 気温計は氷点下を示していた。支給品の蛍光イエローのコートは見た目は分厚いが、ちっとも寒さを防いでくれなかった。紺はちらりと腕時計を確認した。あと十五分で交代の時間だ。休憩中は暖房の効いたワゴン車の中でぬくぬく過ごすことができる。


 紺は高知の出身で寒さが苦手だった。埼玉になど来たくなかった。暖かい南の海が恋しかった。


 同僚の巡査が赤い『とまれ』のフラッグでスバルのレヴォーグを止めた。色は白色で練馬ナンバー。グリルには上級グレードを意味する赤のエンブレムがついていた。てらてらと街灯を反射するぴかぴかのボディは、まるで液体のようだった。ライトもすべて点灯している。整備不良はなさそうだ。

 窓をあけたドライバーに、紺はかるく頭を下げた。


「飲酒検問です。ご協力をお願いします」


 同時に素早く視線を走らせる。

 車内はドライバーの男ひとりだけだった。シートベルトもしているし、車内は綺麗だ。酒臭くもない。アルコール検知器を向けると、ドライバーは素直に応じた。みじかい電子音のあとでグリーンのライトが光った。


「はい、大丈夫ですね」


 なにも問題はなかった。もう車を行かせて構わない。しかし、どういうわけか紺は妙な胸騒ぎを覚えた。なにかを見落としている気がする。


「免許証を確認させて頂いてもよろしいですか」


 今回の定常手順に免許証の確認は含まれていなかったが、紺はそう言った。

 違和感の正体を見極めるための時間を稼ぎたかった。ずっとぼんやりとしていたせいで頭が働いていない。それもこれも、この厳しすぎる寒さのせいだ。


 ドライバーは内ポケットから財布を取り出し、免許証を提示した。

 住所は文京区。写真映りが妙によく実物のほうがずっとうらぶれて見えたが、本人で間違いない。色はゴールドだ。なにも問題はない。


 しかし紺は、自身の直感にある程度の自信を持っていた。この程度の「なにかおかしいぞ?」という直感から麻薬や覚せい剤の所持を挙げたことは一度や二度ではなかった。あのときは微妙な残り香が気になったのだった。


 不意に紺は気づいた。

 気づいてしまえば、なぜ今まで気づかなかったのかが不思議に思えた。


 臭いだ。


 まるで新車のようにぴかぴかなのに、車内から妙な、不愉快な臭いがわずかにする。汗臭さにちかいが、ドライバーの体臭ではなさそうだった。


「後ろになにか積んでます?」


 紺はドライバーに訊ねた。一瞬の間を置いてから、ドライバーは答えた。


「先週つかったバーベキューセットを洗いもしないままで積みっぱなしなんです。片付けなきゃと思いながらも、いろいろと忙しくて」


 ドライバーは落ち着いた様子で、軽く微笑んでさえいたが、紺はドライバーの眼球の運動だけを注視していた。一瞬、瞳がぶるぶると震えるように左右に動くのを、紺は見逃さなかった。


「ちょっとトランクも見せて頂いていいですか?」


 ドライバーは「え?」と困惑の表情を見せた。

 紺の要請に法的な根拠はなく、飽くまで任意の聴取に過ぎない。断られればそれまでだった。しかしドライバーは「ええ、構いませんよ」と頷いた。


 ドライバーが運転席を下りてリアゲートを開いた。ハッチが大きく口を開くと、ますます臭いが鼻についた。紺は懐中電灯でトランクルームを照らした。トノカバーの下に、ブルーシートに包まれたなにかが置いてあった。


「バーベキュー道具ですか」紺は言った。


「ええ。でもひょっとしたら残った肉もそのままだったかも。腐ってますねこりゃ」そう言って、ドライバーは肩をすくめた。


 紺は何気ない風を装って、スッと自然な動作でブルーシートをめくった。そのとたんにギョッとして飛び退き、リアゲートに頭をぶつけ、アスファルトにうずくまった。顔を横に向け嘔吐した。すこし後ろで様子を見ていた同僚が異変を察知し、よく分からないまま警棒を抜いて、ドライバーを車体に押し付け拘束した。


 駆けつけてきた別の同僚が積荷を見て、外国人風に「わお」と声をあげた。


 ブルーシートの中身は、衣類圧縮袋に詰められた人間の切断遺体だった。




  ◇




 渡来圭司は死体遺棄の容疑で逮捕された。


 遺体は胴体と四肢が切り離されており、頭部は車内からは発見できなかった。遺体は検死のため、所沢の防衛医科大学の法医学研究所に送られた。


 逮捕直後、渡来は弁護士への連絡を希望して以降は黙秘を貫いた。



 弁護士の三澄尊は渡来が逮捕された翌日の午前中に、渡来と接見した。


「ドジを踏みましたね」と、三澄は言った。


「ええ」と、渡来は頷いた。「でも、どうせいつかはやらなければならないことでした。多少、前倒しになってしまっただけです。以前にお話した通りでお願いします。覚悟はできていますから」


「正気ですか?」三澄は渡来に確認した。「死体遺棄は仕方がないにしても、殺意を否認すれば過失致死を主張することはできるでしょう。過失致死であれば執行猶予がつく可能性もあります。しかし殺人罪には原則、執行猶予はありません。有罪となれば確実に刑務所に入ることになります」


「過失致死では、裁判員裁判にならないでしょう。裁判員裁判にすることに意味があると考えています」


「常識的に考えて、勝ち目はまずないと思ってください。正直に言って、わたしもあまり、いえ、かなりやりたくありません」


「はい。しかし、一石を投じることはできるかもしれない。お願いします」


「分かりました。引き受けた以上はわたしも仕事です。やれるだけはやってみましょう」なにかを振り切るように、三澄は頭を横に振って、パンと両手を打ち鳴らした。「重要なのは理屈ではなく、物語です。最大限、裁判員の感情に訴えかけてみるしかありません」




 渡来の交友関係から、遺体の身元は容易に特定された。被害者の広岡が乗り回していた、例の超高性能な車椅子を作成したのが渡来という関係で、十年来の付き合いだった。


 渡来が社長を務める墨田区の私設研究所に家宅捜索が入った。

 下町の町工場のような外観とは裏腹に、内部には最新のコンピューター機器が並び、奥の一室には手術台が据えられていた。骨剪刀、手術用ハンマー、切開刀、頭部用消息子など、様々な医療器具が押収され、その多くから広岡の血液や体組織が検出された。


 ここが殺害現場と断定され、研究所の唯一の従業員である佐野幸弘も警察に事情を訊かれた。佐野は関与を否定し、諸々の状況証拠からも渡来がひとりで広岡をバラバラにし、遺棄するために車に積み込んだものと考えられた。


 三澄との接見後、渡来は取り調べで、広岡の頭部を切り離し遺体をバラバラにしたのは間違いなく自分であると、容疑を概ね認めた。


 渡来の容疑は殺人に切り替えられた。

 しかし、犯行の動機と残る頭部の所在については、頑として口を割らなかった。



 

 渡来と広岡のふたりをよく知る人は、みな口をそろえて「本当に仲がよかった」と証言した。


 六十歳ちかくもの年の差があったが、ふたりの関係性は、まさに親友と呼ぶべきものだったと。同時に「それが、なぜあんなことを」と。


 当初想定されたような、遺体をバラバラに刻むほどの「強い怨恨」は一向に明らかにならなかった。犯人が渡来であることはまず間違いなかったが、その動機だけが不明なままだった。



 

 ◇




 渡来圭司は中学校で不登校を経験した後、香川電波工業高専に入学し、親元を離れ寮生活を送った。


 高専の雰囲気は渡来の気質に合っていた。

 香川には一般的な十代の若者が遊ぶようなところはなにひとつなかったが、もとよりそういったものに関心のない渡来には関係のない話だった。友人も幾人かできた。ここでの渡来の興味は主にAIで、もっぱらプログラムやソフトウェアを触って過ごした。


 命令すれば、その通りに動く。想定通りに動かないのであれば、自分の命令が間違えている。そのシンプルさを渡来は気に入った。いくつかのプログラムを完成させ、賞もとった。


 転機が訪れたのは、渡来が早稲田大学創造理工学部に進学した二年目のことだった。高専時代に最も親しかった友人のひとり、大森光がALSを発症したのだ。


 久しぶりに対面した大森は、車椅子の上で窮屈そうに首を傾げていた。渡来には、大森がとても不自由そうに見えた。


 渡来はテクノロジーを活用することで、大森の生活をもっと快適に維持することができるのではないかと考えた。近視になれば眼鏡をかけるように、難聴になれば補聴器をつけるように、失われた機能はいくらでも機器で補えばいい。たとえ寝たきりになろうとも、充分な補助機器があれば健常者に近い暮らしを送ることは可能なはずだと。


 渡来はALS患者でも自在に操作できる、わずかな筋収縮で制御可能な電動車椅子というアイデアを思いついた。思いついたならやってみるというのが、渡来が高専で身に着けた最も重要な資質のひとつだった。


 しかし渡来の試みのほとんどは、ハードウェア性能の未熟さによって阻害された。筋収縮を感知しモータを動かすプログラムを書くことはできたが、市販の電動車椅子やサーボモータでは求めるレスポンス精度を得ることはまったくできなかった。


 大森は筋収縮によって電動車椅子がのろのろと前進し、ゆっくりと左右に曲がっただけでも喜んだが、それは渡来のイメージする「健常者に近い暮らし」とは程遠かった。



 ないなら作るしかない。思いついたならやってみる。渡来はまったくの素人だったが、電動車椅子の自作に乗り出した。


 隅田川精工の小島社長と知り合ったのは、要求を満たす十分なレスポンス性をもった大容量のサーボモータを探していたときのことだった。


 ちかい将来、確実に寝たきりになってしまう友人がいる。彼のために、身体のかわりとして機能するくらいに高性能な電動車椅子を作りたい。そのためには大容量でレスポンス性の高いサーボモータが必要だ。渡来がそう説明すると、小島社長は「できるよ」と即答した。


 できるのはできるだろう。隅田川精工は自宅のガレージで老齢の小島社長がひとつひとつサーボモータを手作りしている小さな町工場だが、その製品はロボットコンテストの世界大会で高い採用率を誇っている。なにか画期的な技術を持っているのではなく、ただ精度が高かった。


 問題はいくらかかるのかということだった。渡来はすでに二百万ちかい私財を投入していた。


「いいよいいよ、お金は」と、小島社長は簡単に言った。「なんも言わずに注文書だけ送ってくれりゃいいのに、そんな話聞いちゃったら、もうお金の話なんかできないでしょうよ」


 小島社長はモータを無償で提供してくれただけでなく、作業場として空き家となっていた近くの元工場の建物も紹介してくれた。埃をかぶった三菱製の古いマシニングセンタがそのままに置かれていて、別にこれも好きに使ってくれていいと大家の老人は言った。


「動作は保証しないがね」


 わずか100キロバイトほどのプログラムしか読み込めない古い機械で精度も出ていなかったが、大まかな動作に問題はなかった。渡来は独学でCADとNCを勉強し、三軸の加工をすぐに覚えた。


 隅田川精工の工場にも通い、小島社長の仕事を見学した。理屈として難しいことはなにもなかった。小島社長は渡来に「丁寧にな」「丁寧に」とだけ、繰り返し説明した。



 試作品を作っては大森に試乗してもらい、フィードバックを受けて改良を重ねた。半年後、電動車椅子は完成し、渡来はそれを「スポッター」と名付けた。あまりの運動性能の高さに、搭乗する大森の身体を四点式のシートベルトで固定する必要があった。渡来はスポッターを操作する大森を「パイロット」と呼んだ。


「すごいよ、渡来。久しぶりに自由に走り回れる楽しさを思い出した。いや、違うな。初めて知った。スポーツが大嫌いだったから。自由に身体が動いていたころは、走り回るのを楽しいだなんて思ったこともなかった」


 大森は笑って言った。今度は渡来も一定の満足が得られる出来だった。その半年後に大森は声が出せなくなった。渡来はスポッターに、視点移動で入力可能なキーボードを取り付けた。


 テキストで大森と意志疎通をすることはできたが、渡来はやはり満足しなかった。視点移動による入力では遅すぎる。もっと普通に喋るのと変わらないくらいの速度でテキストを出力できる仕組みが必要だと考えた。


 大森の病症は急速に進行した。じきに呼吸器が必要になり、スポッターに乗ることすらできなくなった。パイロットを失ったスポッターはマシニングの脇に放置された。




 見舞いに訪れた渡来に、大森は視点移動でポインターを動かし、言った。


「渡来。スポッターを僕専用のスペシャルな機体で終わらせちゃダメだよ。あれにはもっと多くの人に希望を与える力がある。ちゃんと収益を上げて、産業として成立させないと」


 翌週、大森は息を引き取った。




 葬儀の翌日、渡来は隅田川ダイナミクスという会社を立ち上げた。書類を提出しただけで、渡来が社長で唯一の従業員だ。持っているのは古い町工場と精度の出ないマシニングと、パイロットを失ったスポッターだけだった。


 渡来はスポッターの製品化に向けて動き出した。資料を作成し、いろいろなところに電話を掛け、興味を持ってくれた人のところには、オンボロのカローラフィールダーの荷室にスポッターを積んで、どこだろうと出掛けた。


 面白がってくれる人や、意義に共感を示してくれる人はいくらかいた。

 しかし、使ってくれる人は現れなかった。


 パイロットの大森を失ったことがなによりも大きかった。

 大森が搭乗するスポッターはまるでサーカスの曲芸のように自由自在に動き回ったが、渡来は大森ほど巧みにスポッターを操ることはできなかった。渡来が操るスポッターの動きはいかにも大味でぎこちなく「ヘンテコで高価な電動車椅子」以上の価値を感じさせるものではなかった。




 肩を落としてハンドルを握った帰り道、カローラフィールダーのカーナビに表示されたワンセグ放送で、渡来は広岡正孝がフィールズ賞を受賞したニュースを見た。車椅子の上で首を傾げ、低能なレポーターにすこし皮肉の混じった喜びのコメントを返す広岡は、今の日本で最も有名なALS患者だった。


 数学者の広岡のメールアドレスは全世界に公開されていた。渡来はダメ元で広岡にコンタクトをとってみた。意外なことに、レスポンスは迅速だった。ぜひ話を聞かせてほしいと書かれていた。


 渡来はカローラフィールダーを走らせた。




 広岡の広大な邸宅は三鷹の高台にあった。


 瀟洒な二階建ての洋館で、レンガ造りの煙突が立っていた。介護の女性に付き添われた広岡が前庭まで出て待っていたので、渡来は邸内には一歩も入らなかった。


「これがそれかね?」


 挨拶もそこそこに、広岡は渡来の持ってきたスポッターを見て言った。まるっきり新しい玩具を目の前にした少年のようだった。


 渡来が介助して広岡をスポッターに座らせ、シートベルトで固定した。介護の女性は終始、心配そうな顔をしていた。


 広岡の飲み込みの早さは驚異的だった。ぎこちなかったのは最初の十分程度で、すぐに操作に習熟し、急制動やスピンなどのアクロバティックな動きを見せた。


「これはいい」と、広岡は繰り返し言った。「これはいい」大きな声をあげて笑っていた。


 大森向けにチューニングを重ねたスポッターを、広岡は「まるでわたしのためにあつらえてくれたようだ」と評した。広岡はその場で渡来への資金援助を申し出た。


 スポッターを乗り回す広岡の姿が繰り返しテレビで放送されたのが、なによりも宣伝になった。


 渡来の隅田川ダイナミクスには問い合わせの電話が入るようになり、量産化を検討する段階になった。もうひとりでこなせる作業量ではなかった。渡来は従業員を募集した。




「隅田川ダイナミクスってここッスか?」


 長い髪を野球帽に押し込んだ黒縁眼鏡の小太りの男が、挨拶もなくドアを開け作業場に入ってきて、渡来に質問した。


「えっと、そうだけど」渡来はスポッターの二号機を組み立てていた手を止めて、首を傾げた。


「面接の佐野ッス。今日で合ってるッスよね」


「ああ」と、渡来は頷いた。たしかに今日、面接の約束が入っていた。渡来は決して作法やマナーにうるさいタイプではないが、まさかジーパンにTシャツで来るとは思わなかったのですこし混乱した。誰かを雇うために面接するというのも初めての経験で勝手が分からなかった。


「えっと、なんでこの仕事をしたいの?」椅子に案内もせず、渡来はその場で佐野に質問した。


「ミニ四駆が好きなんスよ」佐野は答えた。「小学生のころからミニ四駆の大会で勝ちまくってて、他にやりたいことはなにもなかった。大人になったら、ひたすらミニ四駆を改造して走らせるような仕事をしたいって思ってたけど、そんな仕事は存在しないって思ってた。でもあった。広岡博士が乗り回してるようなすごい電動車椅子を作るっていうのは、かなり僕の理想に近い」


 渡来は佐野の実直さを気に入った。


 なにより使命感や正義感に突き動かされているのではないのがよかった。使命感はやがて燃え尽きるが、好奇心は尽きることがない。佐野は隅田川ダイナミクスのふたり目の従業員になり、すぐに欠くことのできないパートナーとなった。




 渡来と佐野のふたりで、何十台ものスポッターを様々な場所に納入した。


 ある一部は試験的に、ある一部は実践的に使用された。連日徹夜でスポッターを組みあげねばならないことも何度かあったが、佐野は嬉々として手を動かしていた。モータと配線と制御基板がなによりも好きだった。


 ようやく経営は軌道に乗り、佐野にはボーナスも支給できるようになった。オンボロのカローラフィールダーは新車のレヴォーグになった。



 

 広岡も佐野を気に入った。


 佐野の興味はスポッターの性能を引き上げることにしか向いていないので、誰しもどうしても入り込んでしまう障がい者に対する哀れみというのがなかった。佐野は実にフラットに「博士以上にこいつの限界性能を引き出せるやつはいない」と、テストパイロットとしての広岡の優秀さを褒めた。


 改良すべき点は次々に思い浮かんだ。渡来と佐野と広岡は、よく三人でそれらを実現する方法について話し合った。あるときは実現可能性の高い現実的な改良点についてだったし、あるときは荒唐無稽にも思える夢物語についてだった。


「レスポンス性については、もうひとつの到達点まできたと思う」


 心地良い風が吹く秋の日の午後、広岡邸の前庭で広岡が操縦する最新バージョンのスポッターの動作を確認した佐野は、そう所見を述べた。「これ以上は、根本的な技術革新がないとなかなか難しい」


「筋収縮や視点移動での操作では、ここらへんが限界かもしれないな」と、渡来も同意した。


「やはり、ここから先はもっと直接的な、侵襲的な手法による脳と機器の接続が必要になるのではないか」と、広岡は言った。


「脳とスポッターを直接コードで繋いで、思うだけで動かせるようにするってこと? そいつはヤバいね。本当にできたら、それはもう操縦じゃなくて、博士自身の身体だと言っていい」佐野はいつものように、気楽そうに手を叩いた。


「いや、さすがに危険すぎます」渡来は首を横に振った。三人とも、医学の心得などなにもなかった。渡来は誰にも教わらないまま、ほぼ独学でスポッターを作り上げたが、それは相手が鉄や機械だったからだ。生きた人間を相手に「思いついたならやってみる」でやるわけにはいかない。「死にますよ」


「なにを恐れるものか」と、広岡は笑った。「わたしは間もなく九十歳になる。ALSも進行し、いつ死んでもおかしくない。家族もなく、死んで困る者もいない」


「死ぬのは怖くないんですか?」


 渡来の質問に、広岡は答えた。

「もちろん死は恐ろしい。それは未知だからだ。解決への道筋がまったく見えないなら、黙って受け入れるしかないだろう。だが、わずかでも解決への道筋が見えたとあれば挑まないわけにはいかない。わたしは数学者なのだ」




 ◇




 渡来の取り調べを担当したのは捜査一課の村松警部補だった。


 村松は、渡来を殺人罪で立件するのは難しいかもしれないと考えていた。どうも渡来は広岡を殺そうとしたのではなく、正当なものではないとはいえ、本人の意図としては医療行為のつもりで広岡の頭をカチ割ったらしい。


 頭が良すぎるやつの考えることはよく分からない。村松は頭を振った。


 殺人罪の成立には、殺意の有無というのが非常に重要になる。過失致死になるだろうか? だがどう考えても死んで当たり前の素人手術だ。重過失致死まで問えるかもしれない。


「つまり、アンタは広岡博士の頭を開いて脳に直接電極を刺して、そこから伸びたコードで直接、電動車椅子を操作する。そういうことがやりたかったってことですか?」


「それも、一部ではあります」

 村松の質問に、渡来は答えた。


「なるほど」村松は頷いた。「だけど、アンタは医者じゃない。素人が人の頭を割ったら殺してしまうに決まってる。当然のように、アンタは誤って広岡博士を死なせてしまい、困ったアンタは広岡博士の遺体をバラバラにして捨てることにした。その途中で運悪く検問に引っ掛かり、遺体を発見されてしまった。そういうことですね?」


「いいえ、違います」渡来は首を横に振った。「もちろん、我々にとってもすべてが初めての挑戦でした。最初からすべてがうまくいくなどと考えていたわけではありません。我々はリスクを承知のうえで、それでも前に進んだのです。ところが、非常に驚くべきことに、どういうわけか、すべては我々の最もポジティブな予想の通りに、いいえ、それ以上にうまくいきました。なにひとつ失敗はありません。すべては想定されたとおりに成功しました。失敗は、思っていたよりもかなり早く、わたしの身柄が拘束されてしまったことだけです」


「え~っと、よく分からないんですが」と、村松は言って、手に持ったペンでこめかみを掻いた。「現に広岡博士は死んでいますよね? で、アンタはそれを想定通りの成功だと言っている。それはつまり、アンタは広岡博士が死ぬのを分かっていて頭をカチ割って、その結果、広岡博士が死んで、で、それが成功だと。こういう話で合ってますか?」


「一部を除いて、その理解で間違いありません」

「ほう。で、その一部とは?」


「広岡博士が死んだ、という部分です」


「えっと、なんですか?」渡来の言葉に、村松は机に身を乗り出して肘をついた。渡来との距離が近くなる。「死んでるでしょ、広岡博士。アンタが首切って身体をバラバラにしたんでしょ?」


「はい。わたしが首を切って、身体をバラバラにしました」


 頭痛を覚えた村松は取り調べを切り上げた。検察は渡来を殺人罪で起訴した。


 渡来の裁判は、裁判員裁判によって争われることとなった。




  ◇




 裁判員の選出のために初めて裁判所を訪れ、あなたが裁判員に選ばれた日の、その日の午後には第一回目の審理が始まるということだった。なるべく予断のない状態で示された証拠だけからフラットな判断を下すため、裁判員は抜き打ちとでも言うべき慌ただしさで事件と向き合うことになる。


 あなたは評議室という部屋で、椅子に座り待機していた。裁判員は予備裁判員も含めぜんぶで八人いたが、お互いに会話をすることはなく、それぞれが渡されたファイルを読んだりスマホでゲームをしたりしていた。


 時間になり、裁判長から今回の裁判のおおまかな流れについて説明があった。裁判は出たとこ勝負で検察側と弁護側が争うのではなく、公判前整理手続きというのでお互いの主張や提出する証拠、争点などが事前に決まっているのだと、裁判長が説明した。つまり、これからやるのはすべて台本のある芝居のようなものなのだと。そのお芝居を見てなにか感想を言うのが、あなたたち裁判員の仕事といえた。


「今回の裁判は、鼻で笑ってしまうかもしれないし、ひょっとすると、ものすごく判断に迷うかもしれません。我々は質問をされれば答えますが、あなたたち裁判員の判断に介入することはありません。予断を持たず、自分の判断を最優先にしてください」



 それでは行きましょう、と裁判長に促され、あなたは評議室を出て、秘密の通路で法廷に向かった。裁判長を先頭に法廷に入る。裁判員席からは傍聴席がよく見えた。満席だった。


 裁判長が開廷を宣言し、まず検察側の冒頭陳述から始まった。


 壇上の裁判官と裁判員にA4版の資料が配られた。被告人の車からバラバラの遺体が発見されたこと。被告人が社長をつとめる会社の建物から、凶器とみられる数々の手術道具が押収されたこと。そこから被害者の血痕が採取されていること。それらの証拠から、被告人は被害者を殺害し遺体をバラバラにして遺棄を試みたのは間違いないこと。また、被告人の自供から殺意が明らかだったこと、など。


 資料は非常に分かりやすくまとまっており、被告人が被害者を殺害したことは間違いのない事実だろうと、あなたも考えた。



 対して、弁護側の冒頭陳述はよく分からなかった。


「広岡教授はまだ生きています。死んでいないのですから、当然、殺人罪は適用されません」弁護士は言った。「人の死の判定基準に関する法律では、人の死とは脳の機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥ったことをいう。とされています。検察が証拠として提出しているのは、広岡教授の首から下だけです。広岡教授の脳は、まだ生きているのです」


 たまりかねたのか、検察官が「荒唐無稽な主張と言わざるを得ません」と口を挟んだ。「我々はSF映画の話をしているのではなく、今ここの現実の殺人事件について裁判をしているのです。首を切られて生きていられる人間などいません。常識的に考えて、広岡氏は死亡していると考えるのが普通でしょう」


「我々は今ここで、この現実において、その常識に挑もうとしているのです。時代は変わります。我々は今まさに、これまでの常識を問うことを、意識の変革を、アップデートを、パラダイムの変移を求められているのです」


 弁護士は弁護人席から立って法廷を歩き回り、大きく身振り手振りを使い、声に抑揚をつけて大きな、しかし落ち着いた声音で話した。あなたが連想したのは、アップルの新製品発表会だった。



 次に証拠調べが行われた。提出された証拠を、すべて確認するのだ。


 検察の提出した証拠は犯行に使われた車や、現場の写真などで、衣類圧縮袋に詰められた遺体を写したものも含まれていた。凶器は写真ではなく、ビニール袋に入れられた現物が提示された。ハンマーなどは、あなたが文面から想像していたよりも実物はずっと大きく禍々しかった。いずれも、いい気分のするものではなかったが、難解ではなかった。すべての証拠は被告人による被害者の殺害という、ひとつの事実を指示していた。


 

 弁護側から証拠としてまず提出されたのは、ラットを使ったある実験に関する論文だった。弁護人が説明を加えた。


「非常に専門的な論文ですので、内容をかいつまんで説明します。この実験は、ラットの脳に小さなチップを埋め込むことで、外部記憶領域をつけ加えることに成功したというものです。チップを埋め込まれたラットは、有意に他のラットよりも優れた学習機能を示しましたが、スイッチを切るとすべてを忘れてしまいました。スイッチを入れると、思い出す。切ると忘れる。つまり埋め込まれたチップをラットは外部記憶領域として使用していたのです。」


 また検察官が弁護人の言葉を遮った。語調から、検察官が苛立っているのをあなたは感じた。


「アメリカのネズミがこの殺人事件にどう関係しているというんですか。証拠として不適切です」


「いままさにその説明をしているのですが、すこし難しかったですか?」と、弁護人は検察官に訊ねた。「分かりにくければ、分かりにくかったところを言ってください。何度でも説明いたしますので」


 検察官が弁護士を睨みつけ、弁護人は検察官に微笑みかけた。数秒おいて、弁護人が話を続けた。


「この論文が示しているのは、つまり、ごく単純に、脳に外部記憶装置を接続すると、脳のほうは勝手にそれを利用し始めるということです。プログラミングもなにも必要ありません。ウィンドウズにUSBを挿せば勝手に記憶領域として認識し、利用可能な状態にしてくれるのに似ています。ただ繋ぐだけでいいので、現代の技術水準でもそう難しいことではありません。さて……」


 弁護人はそこで腕を組んで、裁判長のほうに目を向けた。「正直、わたしが説明するよりも、被告人自身から直接に説明をお聞きになったほうが話は早いのではないかと考えます。順番がすこし前後しますが、被告人質問を要請します」


 裁判長は検察官に確認をとり、要請を認めた。あなたは検察官の態度から「どうとでも好きにしろ」とでも言いたげな、投げやりな雰囲気を感じとった。



 被告人の渡来が証人台に立った。無精髭が伸び着用したスーツもヨレていて、弁護人に比べるとかなりくたびれた印象だった。


「広岡氏に施した処置について説明してください」

 弁護人が渡来に質問した。


「SF的な用語で説明するのであれば、要は電脳化です。有機物である脳のニューラルネットワークにより保持されている広岡氏の記憶や情報をシリコンに移し替え、広岡氏の肉体が生命活動を停止した後も人格を継続させることが目的でした」


「つまり、広岡氏に避けられない死が迫るなかで、ある意味、広岡氏を延命させる目的で行われたわけですね」

「その通りです」


 渡来の答弁を受け、弁護人は壇上の裁判官と裁判員に向け、大げさに言った。「お分かりでしょう。被告は広岡氏の殺害を意図したのではなく、むしろ助けようとしたのです」再び渡来に視線を戻し、質問した。「それで、具体的にどのような方法で広岡氏の人格をシリコンにコピーしたのですか?」


「コピーではありません」と、渡来は言った。「シリコンへの移行はゆるやかに行われ、人格は断絶せず存続し続けます。そこがひとつ重要なポイントです」

 渡来は壇上に目を向け、それぞれの理解度を探るように、裁判官と裁判員の顔を確認した。


「個別具体的な技術的解説は、しても、おそらく理解が難しいでしょうから、抽象的に説明します。たとえば、一万ピースの紙のジグソーパズルをイメージしてください。実際には一万ピースでは到底足りないのですが、飽くまでものの喩えです。今ここに、紙でできた一万ピースの風景画が描かれたジグソーパズルがあるとします。そこから1ピースだけを取り除き、かわりにシリコンでできたピースをはめ込みます。シリコンに置き換えられた部分は当然、なにも描かれていません。しかし、周囲の絵は完璧に揃っていますから、その抜けたピースに描かれていたであろう絵を推測することは容易です。周りのピースと辻褄が合うように、置き換えられたシリコンに絵を描き入れます。これを一万回繰り返します。元は紙だったジグソーパズルが、完全にシリコンに置き換わりました。そこに描かれていた絵も、もとんど元の絵と変わりありません」


 渡来は再び、意図して間をとった。五秒待って、話を続けた。


「実はこれは、普通に生きているわたしたちが常にやっていることです。人間の記憶というのはSDカードに記録されたテキストデータのようにかっちりとした静的なものではありません。脳をどれだけひっくり返してみても、記憶が溜め込まれている場所というのは存在しません。脳に人格が宿っているのではなく、人格が脳を利用しているのです。記憶とはシステムに起こった変化のことであり、記憶を書き換え続けるシステムそのものが人格なのです。難しいプログラムなど必要ありません。人間の脳は、というよりも、人格や思考システムは、ユニバーサルです。脳を利用しているのと同じように、脳に接続されたシリコンをも平然と利用して書き換え続けます。脳とシリコンの比率が逆転し、ついにはシリコンだけになっても、このネットワークは失われません」


「つまり」と、弁護士は渡来の話を引き継いだ。「バラバラになった広岡氏の肉体はすでに機能を停止しているが、その人格はシリコン上のネットワークとしてまだ存続している。つまり、広岡氏はまだ生きているということですね」


「私はそのように考えています」

 渡来は壇上を見上げ、頷いた。



 続いて弁護人は、証拠としてDVDを提出した。


「広岡氏がまだ生きている証拠として、ひとつ映像を流させてください。本当は広岡氏に直接証言してもらうのが一番なのですが。もちろん、広岡氏はまだ生存しているので、たとえば電話での通話やインターネットを介した通信が認められればそれも可能なのです。しかし、現代の裁判制度においては証人の出廷は肉体が前提とされ、リモート参加が認められていないので、やむを得ない処置です」


 法廷にモニターが持ち込まれ、弁護人がリモコンの再生ボタンを押した。




「みなさん、こんにちは」

 生前の広岡氏を模した3Dアバターが合成音声で挨拶をした。


「私は広岡正孝です。肉体を失いましたが、このように以前と変わらず思考し、意思表示をすることができます。私の実感としては、これは生きていると言って差し支えのない状態です。この映像を録画しているのは8月12日で、昨日は熊本で集中豪雨による土砂崩れがあり、千葉では歩道に乗り上げた自動車が児童5人を相次いで撥ねる痛ましい事故がありました」


 自身を広岡氏と名乗るその3Dアバターが話した事件は、実際にその通りに起こっていた。録画日時が検察の主張する広岡氏の死亡日時より半年以上後であることは間違いなかった。


「私の脳の大半はすでに機械に置き換わっています。まだ有機物の部分もありますが、順次置き換わり、いずれは完全に機械になるでしょう」


 あなたは他の裁判員の反応を見ようと視線を巡らせた。しかし、みな一様に神妙な顔をしているばかりで、誰がなにを考えているのかは伺い知ることはできなかった。


「肉体は私にとって、もう不要のものでした。渡来くんに処分を頼んだのは私自身です。私はまだ生存しているのですから、あれは遺体ではなく、医療性廃棄物とでも解釈すべきものでしょう。たとえば、切断して肉体から切り離された指を遺体と呼びますか?」


 映像が再生されているあいだ、誰もなにも言わなかったし、あなたも黙って視聴していた。


「脳は電気信号だけでなく、化学物質の伝達によっても成り立っています。機械に置き換わった部分はそれらの影響を受けないので、私の感情は以前に比べてずいぶんと平板になりました。しかし、それは私にとって望ましい変化です。思考に関しては、かつてないほどクリアです。二十代のころの無限の集中力を取り戻した感覚です」


 すこし間を置いて、3Dアバターは合成音声で話を続けた。

「私がまさに私自身、他ならぬ広岡正孝であることの傍証として、ひとつの事例を報告いたします。私は今年の初めに開かれた世界的な数学のカンファレンスにオンラインで参加し、新たな論文について講演をしました。これは数学上の未解決問題について、まだ完全な証明には至りませんが、部分的な証明と、新たな筋道を示すものです。世界中で、私以外にはなしえなかった仕事であると、私は確信しています」


 最後に再び挨拶をして、DVDの映像は終わった。弁護人が補足的な説明を加えた。


「当該の論文はすでに広岡氏の名で査読つきの数学誌で公表されています。広岡氏以外に、この分野で査読付きの論文を提出できる人物は、極めて限られるでしょう」


「バカバカしい」と、検察官は鼻から息を吐いた。「広岡氏が生前に書き溜めていた未公開の論文を、広岡氏の死後に公表しただけではないか」


 弁護士は微笑み、頷いた。

「その可能性は否定できないかもしれません。しかし、世界的な数学者が集まるカンファレンスにおいて発表をし、聴講者からの質問に適切な答えを返すには、広岡氏と同等の知性が要求されるでしょう。誰もがそう易々とこなせることではありません。さて、それではここで、私はひとりの証人を召喚します」



 証人として出廷したのは、藤原由雄。日本の若手の中では最も優秀な数学者のひとりで、専門は代数幾何学。かなりの部分で広岡と研究分野が重なっていた。


「ALSの進行によって広岡教授は既に自身で発声することができず、視点操作による入力の合成音声で話すことはすでによく知られていましたから、そこに3Dのアバターが加わったのは単に技術的な進歩であって、違和感はまったく感じませんでした。カンファレンスにおいて、私もいくつか質問をしましたが、その返答は非常に明晰かつ的確で、おかしなところはまったくありませんでした。誰かが広岡教授に成りすましていた可能性は完全には排除できませんが、だとすれば、当該の人物は広岡氏と同程度に代数幾何学、特に非常に専門的な冷たい幾何学の領域に精通していたことになります。世界中を探しても五人はいないでしょう。かなり容疑者は絞られますから、手間さえかければ調べることも可能です。しかし私としては、あれは広岡教授本人であるというのが、最もシンプルに状況を説明できる解釈ではないかと考えます」


「あなたは、広岡氏が生きていると思いましたか?」

 弁護人の質問に、藤原は数秒、押し黙った。


「生きているか生きていないか、といった判断を下せるほどの知見が自分にはありません。生きているということの、正確な定義を知らないという意味です。しかし、わたし自身はたしかに、広岡教授と話をしていると考えていました。たとえば、あれがそれらしく、天才数学者、広岡正孝らしく振る舞うようにプログラムされた人工知能に過ぎないというのであれば、それはそれで、ひとつ驚異的なことではあります」



 すべての証拠調べと証人尋問が終了し、最後に、検察による論告求刑と弁護側の最終弁論が行われた。


「被告は施術の結果、被害者の肉体的活動が停止することを知りながらも、歪んだ狂信的な信念に従い被害者の頭を開き、当然の結果として、被害者は死亡しました。これは殺意があったと見做すのが相当であると考えます。また、被害者の遺体をバラバラにして遺棄しようとするなど、犯行の隠蔽も試みています。犯行は非常に狡猾で残虐。さらに法廷においてさえ、被害者はまだ生きているなどと詭弁を弄し、反省の色は一切なく、再犯の可能性も高いと考えざるを得ない。懲役十五年を求刑する」


 検察官は強い口調でそう主張した。


「広岡氏が日本有数の数学者であるからこそ、広岡氏に成りすますことは容易ではなく、また名だたる数学者たちさえも欺ける水準で、氏を模した人工知能をプログラムするなども現実的ではありません。あり得ないように聞こえるかもしれませんが、広岡氏はまだ生きていて、広岡氏本人が話していると考えるのが、最もシンプルに現実を説明可能な、説得力のある解釈なのです」


 弁護人は芝居がかった仕草を交え、朗々と述べた。


 裁判長が被告に、なにか言いたいことはありますかと質問した。


「時代がまだ追いついていないことは重々承知していました。しかし、それを待っていては広岡博士の人格はただ失われるしかありませんでした。私にも、脳の大部分がシリコンに置き換わった広岡博士が、かつての広岡博士と連続した人格なのかは分かりません。それは各自の主観でしか判断できないのです。誰も、昨夜の寝る前の自分と、目覚めてからの今日の自分が本当に連続しているのかを確信することができません。自分自身で体験し、自分が連続していると感じるのであれば、それは連続しているのだと扱われるべきだと考えます」


 渡来はもう一度、法廷内をぐるりと見まわして、言った。


「私は自身の良心のみに従い、行動しました。裁判員のみなさんも自身の良心のみに従い、判断をしてください。どのような判決が下されようとも、私はそれを受け入れるつもりです」




 ◇




 評議室に戻り、参加した裁判官と裁判員の全員で評議が行われた。裁判長が各人に発言を促し、あなたもいくつか発言をし、不明な部分を質問した。ここで具体的に誰がどのような発言をしたのかについては、決して明かされることはない。あなたにも守秘義務があり、裁判長には「この部屋の中でのことは、すべて墓場まで持って行ってください」と説明された。


 最後に評決があり、ともあれ、あなたはひとつの判断を下した。しかし、それが具体的にどういうものだったのかは、当日その場に居合わせた者を除いて、誰も知らない。


 そして今日、あなたは壇上で判決の言い渡しを迎えている。



「判決を言い渡します。被告人は前へ」



 裁判長が厳かに告げた。

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スナップドラゴン 大澤めぐみ @kinky12x08

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