僕の村はディストピア

デストロ

僕の村はディストピア





 秋田県北秋田郡の上兄村かみあにむらがディストピアになったのは、去年の暮れのことだった。

 思い返せば、いくつかのメディアが取り上げて話題にもなっていた気がする。ただ、そのころは折悪く選挙や自然災害などニュースが重なっていた時期で、大きく取り上げられることもないまま忘却の海に埋もれていった。

 実際、僕も今日この日になるまで意識に上ることさえなかったのだが。

 

「え、お客さん、ディストピア見学の方じゃないの? ちょうどディストピアになった頃にはそういう人でもちきりだったんだけどね」

「違いますよ! 僕、去年の夏には家内と上兄村を見学させていただいて、引っ越しを決めてたんです。

 そのあと色々あってごたついてたんで1年近く経っちゃいましたけど、まさか知らないうちにディストピアになってるなんて」

「お客さんねえ、ニュースは見ないと駄目ですよ~? ほら、こんなに大きく取り上げられたのに」


 目の前の色黒の男が、誇らしげな表情を浮かべて壁を示す。

 見ると、事務所の奥の壁に貼られた新聞紙の切り抜きに『上兄村ディストピアへ 新知事、地方創生の第一歩として』という見出しがでかでか躍っている。

 

「……秋田新報、ですか」

「ええそうですよ、なんとあの秋田新報の一面に! お客さんはとってない?」


 このネット全盛の時代によくこんな地方紙がやっていけているものだ、などと益体もないことを考えていると、男――地域振興課の佐高さんは揉み手を作って口を開いた。

 

「ま、こりゃいい機会ですから、お客さんももう一度上兄村の見学に来てくださいよ。

 ディストピア化は長年の村人たちの悲願でしたからね、以前とは違った魅力をお伝えできると思いますよ」

「いや、でも、ディストピアって……」

「まあまお客さん、何も取って食うわけじゃありませんから。これはね、役所の人間としてじゃない、わたし個人として言ってるんです。

 実はね、わたしも生まれは上兄村でしてね」

 

 佐高さんの言葉につい目を丸くする。

 

「じゃあ、あなたは故郷をディストピアに」

「ええ。いやね、恥ずかしい話、わたしも最初はディストピアなんてちょっとねえ、と思ってたんですが……」

「どうしてディストピアなんて受け入れたんです? ディストピアなんて、その、あんまり良くないでしょう」

「そう思うでしょ? それがそうでもないんでして……。

 ……おっと、ここから先は村で話しましょうか。不動産の方にも、話はつけときましたんで」

 

 佐高さんが視線を僕の後ろへ向ける。振り返ると、正面の自動ドア――役場の正面玄関にワゴンが停まるのが見えた。ワゴンの側面には『ディストピアのむら 上兄村』というポップ体の文字が印刷されている。

 

「これは……」

「わたしが呼んでおいたんですよ。最近は上兄村見学ツアーの人たちも暇してたみたいでねぇ、10分で駆けつけてくれるとは」


 佐高さんがにっこりと笑いかける。

 どうやら、すっかりはめられてしまったようだ。僕は観念して、佐高さんの後ろについていくしかなかった。

 

 

 

 

 身体の芯まで冷え切るような冷たさだった。

 傷つき、凍え、冷たい世界の中ですっかり冷え切った僕の心――それを溶かしてくれたのがこの上兄村だった。

 あのとき僕は、ここなら人生をやり直せる、そう思ったのに。

 

 

 

 

『ゆめときぼうとディストピアのむら 上兄村へようこそ』


 丸文字でそう書かれた横断幕が道の上に渡されている。

 ワゴンから降りた僕は周囲を見回した。

 遠方に青みがかって聳え立つ山々、青空を映して輝く一面の田んぼ、その中にぽつりぽつり点在する時代がかった木造家屋――その光景は、1年前に妻と見た光景とまるで変わらなかった。

 ――ある一箇所を除いては。


「佐高さん、あれは……」

「おお、やはり気になりますかあ。いいでしょう、あれ」


 佐高さんの笑顔が初夏の日差しにますます光る。

 それは、一見して大きなこけしのように見えた。高さ10メートルはあろうか、コンクリート製の円筒が小高い丘の頂上に屹立している。

 コンクリートの表面には色とりどりのペンキで顔や服が描かれ、その巨塔をまさしくこけしのように装飾していた。こけしの口に当たる部分には四角い穴が穿たれ、そこから白い霧がかった空気が噴出している。

 

「あれこそ我が上兄村の誇るマザーコンピューター、アニコさんですよ!」

「アニコさん、ですか……」


 見れば、佐高さんはいつの間に取り出したのか、両手に竹製の人形を持ち左右に揺すぶっていた。竹筒を使った人形には、まさしくあのこけしと瓜二つの顔がペイントされている。アニコさんのグッズのようだ。

 ふと辺りを見回してみれば、通りに面した家々の玄関にもアニコさんの印刷されたステッカーが貼られていた。よく見れば、今しがた乗ってきたワゴンのバックミラーにもアニコさんストラップが2~3個吊るされている。今流行りのゆるキャラ、というやつに見えなくもない。

 

「これは……」

「おっと、まだ説明していませんでしたか、こりゃ失礼。

 アニコさん――正式には、次世代人格模倣型知性社会管理システム……ANdoroid Intelligent Controll Organizer、通称"ANICO"――ま、早い話がアレ、『人工知能』てやつですわ。

 あれこそ上兄村がディストピアたる所以、この村を管理・支配する機械の『村長』てワケです……ほら君、あれを」


 佐高さんの隣のスタッフが懐からチラシを取り出す。A4サイズの紙には『大解剖!アニコさんのスーパー機能』という見出しの下に、アニコさんの内部機構の図解が載せられていた。

 

「見てください、アニコさんの胸の部分……これこそ文字通りアニコさんの心臓部、CPUです。

 聞いて驚くなかれ、あのG社と共同開発した量子コンピューターの性能は100エクサフロップス……世界中のスパコンをかき集めてもとても敵わん頭脳ですよ」

「世界中のスパコンより、ですか……? そんなとんでもないモノを、どうして」

「それはもう、わたしたちの頑張りですな。

 G社も人工知能を使った社会実験をできないか模索してるとこでしてね。そこを渡りに船と、役場総出で何度も交渉して。いやあ、あれは大変だった」

 

 佐高さんの目が遠くを見据える。言葉にはしないが、おそらく血のにじむような努力があったのだろう。

 

「そう、あれは確か3年前の冬でしたかね。このプロジェクトは、一本の電話から始まりました。

 その日は朝から雨で……」


 しまった、この武勇伝は長くなりそうだ。僕は前のめりに喋り出そうとする佐高さんを制するように話をそらした。

 

「えーと、ではこの図の、これは」


 慌ててアニコさんの解剖図の適当な部分を指さす。

 

「む、これからいいトコなのに。まあ今の話はあとでたっぷりさせていただくとして、こいつですか?

 こりゃただの冷却機構ですよ。アニコさんの見かけはでかいですがね、中身はほとんど液体窒素を使った冷却管なんです。ほら、口から吐き出してるのは冷気です」


 僕はふたたびアニコさんに目をやった。抜けるような青空をバックに、巨大なこけしが口から靄を吐き続けている。

 

「何しろ量子コンピューターってやつはとにかく極低温の環境を維持してあげないといけないシロモノでしてね。村の消費電力の半分はこいつに使ってます。

 ま、とんでもない暑がりさんと思うとなんだか可愛いでしょう」

 

 佐高さんの話を聞いているうちに、ふと僕の中で疑問が芽生えた。

 

「……でも、こんなのすごいコストですよね? 言っちゃあ何ですけど、村人からすればこんなのが村に来たら受け入れられないんじゃ?」

「おっと、そこに気づくとは。

 いやお客さん、あなた聡い。この村を気に入るタイプの人ですよ」

「はあ……」


 佐高さんはアニコさん人形を懐にしまうと、ワゴンへ足を向けた。

 

「それじゃ、見ていきましょう。アニコさんが、なぜ上兄村に受け入れられたかを」





 ワゴンが村の入り口の集落を抜けると、道の両側は一面田んぼが広がっていた。

 田んぼのところどころには農家が立ち、田植えに精を出している。僕は車窓を眺めながら、今日び田植え機を使わない田植えもなかなか見ないな、これは大変だ、などとぼんやり考えていた。

 違和感を覚えたのは、道路のそばで農作業をする農夫を目にした時だった。

 

「えっ……」


「ん、お客さん、どうしました?」助手席の佐高さんがこちらを向く。

「え、いや、だって……」僕はふたたび窓の外の農家を見つめた。

 異様に速い。泥の上で身をかがめた作業着の老人が、目にも止まらぬスピードで上半身を振るい苗を植えているのだ。

 田植えをしながら老人はゴキブリのような速度で移動し、あっという間に水田の端から端に青苗を植え付ける。その並びはぴっしりと揃い、わずかも乱れることがない。

 よく見てみれば、遠方で田植えをしていた老人たちも目を凝らすと有り得ない速度で動いている。車窓に早回しの映像を映し出しているのかと疑うほどだ。


「あ~、そう言えばそうか。確かに見慣れてない人には驚きですよね」佐高さんがうっかり、といった表情を作る。「じゃ、ここで停めましょう」


 車の外に出ると、否が応にも目の前の光景が現実感をもって迫ってきた。初夏の日差しの下、浅黒い肌の老人が高速で田植えをしている。

「ケンさーん」佐高さんが老人に向かって声を張ると、風を切って動いていた老人の身体がぴたりと静止した。前傾姿勢を崩さないまま、顔だけこちらに向いた老人は無表情で、一言も発さずじっとこちらを見つめている。

 そのまま老人と佐高さんが見つめあい、数秒経った。……かと思うと、ふたたび老人は地面に向き直り高速で田植えを始める。

 佐高さんの方を見ると、満足げな笑顔を浮かべながら汗をぬぐっていた。隣のスタッフもなぜか微笑みながらこの様を見ている。

 

「あ、あの、今のは一体」

「……えっ? あっ、そうですよねえ、何が何だかわからなかったですよねえ。

 こりゃ失礼、順を追って説明しますね。おい、君」

 

 佐高さんはふたたび隣のスタッフにチラシを出させた。チラシには、『長寿のヒケツ! 農業用電子身体化キャンペーン』という虹色のゴシック体が躍っている。

 

「電子身体……サイボーグ、って言ったらわかりますかね? 身体のパーツを機械に取り替えて、人工知能、つまりアニコさんと接続するんです」

「さ、サイボーグ……」突然出てきた映画のような用語に二の句が継げない。

「ええ、見ての通り作業速度も段違いですし、アニコさんの方で村人全員の作業を一括管理して仕事を割り振りますから無駄な作業がありません。

 なんと今年の作付面積は去年の17倍、収量は300倍になる計算ですよ。もっとも国内ではコメの需要は低下の一方ですから、海外向けに『ディストピア米』ブランドとしてアピールできないか検討しているところです。

 他にも『ディストピア野菜』、『ディストピア小麦』やバイオエタノール用の『ディスもろこし』ブランドなんかも考えています」

 

 佐高さんが解説するうちに老人は目の前の畑一面の田植えを終え、バッタのように畔を乗り越えて奥の田んぼへと移っていった。なるほど、確かにこの速度ならその数字も頷ける。それだけの生産性向上が見込めるのなら、先ほど気になったアニコさんの稼働コストも賄って余りあるのだろう。

 

「でも、サイボーグって、そんなの……皆さん抵抗とかはなかったんですか?」

「いえいえ、むしろ青汁やナントカ水よりよっぽど健康にいいと評判ですよ。

 今話したケンさんも、肩腰の痛みが消えたと喜んでいました」

 

 佐高さんの言葉に違和感を覚える。

 

「『今、話した』とは……?」

「そうです、さっきね。ほらここ。見てください」


 佐高さんがチラシの一箇所を指で叩く。

 

「『電脳拡張』……」

「そう、脳の一部を電子ユニットに置き換えて拡張するんです。ほら、コンピューターのメモリを拡張したり周辺機器をつなぐのと一緒ですよ!

 一番低級のプランでも思考速度は10倍程度、記憶容量も500倍程度はアップしますが……何より魅力的なのがこれ、通信ユニットの接続です。

 現にね、今の数秒で、わたしとケンさんは1MBほどの雑談を交わしてたんですよ。無線通信で」

 

 僕は思わず目を剥いた。

 

「ってことは、佐高さんも……」

「ええ。まあ僕はいちおう部外者ですから、最低限のユニットを導入しただけですがね。

 ほらここ」佐高さんが七三分けの髪を掻き分けると、つむじの辺りにフタのような四角い切れ込みが走っていた。

 フタの中央にはハンコで『佐高』の印が押されている。

 

「このフタは検査口みたいなものです。無線ユニットに不具合があったりしたら、ここを開けてプラグを繋いでソフトを修正したり。中身見ます?」

「いえ、結構です……」


 目の前がぐらぐら揺れているようだった。先ほどまで人間と疑ってかからなかった僕の目の前の男は、頭が半分機械なのだ。

 

「あ、費用でしたら心配には及びませんよ。実はね、この電脳化はタダ……それどころか受ければ補助金が出るんです」

「は、はあ……。

 って、手術するのにお金が貰えるんですか?」

「はい! というのもね、村民が電脳化手術をすることはアニコさんにだってメリットがあるんです。アニコさんの計算能力にも限界がありますでしょう?

 そこでわたしたちの脳の使用率が低いときには、脳の一部を『計算資源』としてアニコさんに接続、いわば間貸ししてあげるわけです。人間の脳も量子コンピュータに劣らぬ優秀な計算機ですからね。

 つまり村人が増えれば増えるほど、アニコさんの計算能力も上がってより生産性が向上し、みんなが豊かになる。

 これはご近所で調味料や農具をシェアしあう、農村のたすけあい精神を参考にした心温ま~るシステムなんですよ。どうです、お客さんも早速脳を貸したくなってきたでしょう?」

 

 ますます気味の悪い話をされ、僕は思わず吐き気を催した。

 いったい、こんなシステムを村人たちはどうして受け入れたのだろう。醤油を貸すのと同じ感覚で人工知能に脳を捧げるなんて、普通は話を聞くまでもなく拒絶するのではないか。

 

「い、いえ、大丈夫です。大丈夫ですから……」


 僕がかろうじて口を開くと、佐高さんは押し黙って何事か考えているようだった。

 しばしの沈黙ののち、佐高さんは口を開いた。

「店通りにでも行って、何か飲みましょうか。これだけ暑いと、喉も渇いたでしょう」





 村の中心部となる通りには、数軒の商店が連なっていた。米屋、八百屋、食堂……数十年前から変わらないであろう色褪せた看板が、僕たちを見つめている。

 僕たちは食堂の、表通りに面した二人掛けの席に腰かけていた。同伴のスタッフらは離れた席で食事を囲み、他愛もない世間話に興じている。食堂の隅のカウンターでは、手持無沙汰のおばさんが何をするでもなく店内を眺めていた。

 僕の向かいでは、佐高さんが大盛りの模造アジフライ定食を満面の笑みで口へ運んでいた。

 

「にしてもお客さん、お昼ナシで大丈夫なんですか~? 倒れちゃいますよ」

「いえ、小食なものですから……」


 すっかり食欲の失せた僕は昼食を断ったが、それでも何か食べないと、という佐高さんの言葉を抑えきれずデザートのアイスだけを注文した。

 しかし今やそれすら喉を通る気にならず、手つかずのアイスが蛍光灯の光を受けて少しずつ溶け始めている。

 ここに来るまでに、僕はさまざまなものを目撃した。壊れた録音テープのように生活の知恵袋を垂れ流すお婆さん、10頭身の筋骨逞しい身体で虫取りにはしゃぐ小学生たち……。

 それらを見ながら、佐高さんはうっとりと村の展望を語るのだ。

 

「革命てのはね、田舎から始まるんですよ、お客さん。

 ほら、明治維新だって九州とか四国とかから始まったでしょう? 世界初の社会主義革命だってヨーロッパの片田舎のロシアが成し遂げた。田舎ってのは中央の支配の外にありますから、新しい時代の体制を柔軟に受け入れられるんですよ。

 わたしは、ディストピアこそ現代社会のネクストステージだと考えています。都会じゃなく、この日本の片田舎からこそ、それを世界に発信できると思うのです。ゆくゆくはディストピア県樹立、ディストピア連邦建国、やがては地球を『みんななかよしディストピア星』に改名……どうです、夢のある話だと思いませんか、お客さん。お客さん……」

 

 頭を振って回想を打ち切る。目の前では佐高さんが相変わらず紫色の人工アジフライをがっついていた。佐高さんが屈んで虹色の合成ウスターソースを掛けるたび、頭頂部のプラグ挿入口がちらちら見え隠れする。それがたまらず、僕は窓の外の通りへ目をやった。

 通りでは昼間から主婦と思しき中高年や、仕事上がりの農夫らが集まり、じっと互いを凝視している。それは異様な光景だった。

 きっと彼女らも脳に埋め込まれた機械で「会話」をしているのだろう――そこまで考えたとき、はたと合点が行った。

 この村でディストピアが受け入れられた理由……そんなもの決まっている。あのアニコさんとやらが、村人の脳をいじって抵抗の意思を抱かないよう操作しているのではないか。

 そこに思い至ったとき、こみ上げる吐き気につい僕は口元を抑えた。

 

「お客さん、どうしました? ずいぶん顔色が優れないですが」


 いつの間にか模造アジフライ定食を平らげた佐高さんが、銀色に輝く口元をぬぐいつつこちらを伺う。

 

「だ、……大丈夫です、ちょっと、疲れただけで」

「気味が悪いでしょう。この村は、ずいぶん」


 佐高さんの言葉にはっとする。

 そんな僕にかまわず、佐高さんは箸を置くと窓の外を見つめた。

 

「一時期にぎわった上兄村ツアーもね……、ま、そういう反応の人ばかりでしたよ。

 おかげで移住者はさっぱりでね。今じゃツアーも閑古鳥です。村おこしだと頑張ったつもりが、ますますド田舎のおかしい村扱い。こりゃ失敗しましたよ……あはは」

 

 佐高さんが力なく笑う。その目はどこか愁いを帯びていた。

 

「おまけにお客さん、あなたは去年の時点でこの上兄村に引っ越したいって決めたっていうのに。

 そんな人にまで引かれちゃうなんてね、わたしゃとんだ恥晒しですよ。あっはっは……」

 

「僕は」つい、声を荒げる。


「僕は……、去年、色々あって。家内が、病気を抱えて……それで看病のために会社の欠勤が続いて。そうしたら、今度は社内で浮くようになっちゃって。

 いじめ紛いのこともされて、もう全てが嫌になって……。心も身体も冷え切って、何もできなくなりました。

 そんなときに、家内の勧めで上兄村に見学に来たんです。家内の親戚筋がここの出身っていうんで」

 

 僕の脳裏を思い出がよぎる。

 

「……一目で、目を奪われました。気さくな村の人たち、おいしい料理、豊かな自然……。

 ここなら、やり直せるんじゃないかって。ひさびさに、人のやさしさを信じられるんじゃないかって……」

 

 声がかすれ、鼻声になる。

 気が付かないうちに、僕は涙を流していた。

 

「それなのに。いつの間にか、こんな、おかしな事に……。

 佐高さん、この村の魅力はこんなんじゃなかったはずです。あの時出会った皆さんのやさしさ、それだけで十分だったのに」

 

 1年前、この村を訪れた日――道端で出会っただけで、とれたての梨をぽんとくれたおばさん。この村について知りたいと聞いただけなのに、宴を開いてもてなしてくれたおじさん。

 たった3日の滞在だったけれど、僕にはそれがどれほどの救いだったか。彼らの笑顔が、僕の冷え切った心をどれほど溶かしてくれたか。

 

「佐高さん、考え直してくださいよ。こんな上兄村は上兄村じゃない。どうして皆さん、こんなおかしなシステムを平気で受け入れているんですか!? 異常ですよ!

 これじゃ、僕が苦しんだ冷たい社会とおんなじだ! 僕は、こんな村なんかには……」

 

「ふざけないでくださいよ。お客さん」


 静かな、しかし有無を言わさぬ迫力を帯びた声に思わず怯む。

 目を上げると、佐高さんは鋭い目でじっとこちらを睨んでいた。

 

「お客さん、あんたはこの村を何もわかっちゃいない。見せかけに踊らされ、あーだこーだ勝手に批判するのはいいが……。

 この村は何も変わっちゃいない。何も変わっちゃいないんです」

 

 佐高さんの低い声が響く。

 何も変わっちゃいない? どういうことだ。

 だって、現にこうして……

 

「……お客さん、そのアイス、食べてみたらどうです?

 溶けちゃいますよ」

 

 佐高さんが僕の前のアイスをずい、とこちらに押し出す。

 

「な、なんですかいきなり、話をそらさないで……」

「いいから」


 佐高さんの凄みの利いた声に圧され、僕はしぶしぶアイスをスプーンで掬った。

 そういえばこのアイス、微妙に黄色がかっている。メニューに『アイス』とだけあったからバニラアイスと思い疑わなかったが、何味なのだろう。

 スプーンに乗ったアイスを口にする。たちまちひんやりとした感触が口内に広がり、ふんわりと果物の香りが鼻に抜けた。

 これは……。

 

「梨、味……?」

「そうです。あなた、去年にこの村に来た時、ハナさんに梨をもらったでしょう。

 それでとっても美味しい、この梨はぜひまた食べたいって喜んだ」

 

 言われてみれば、そんなことを言った気がする。半ば社交辞令のような言葉ではあったが……。

 

「ハナさんね、それで大層喜んでね。

 そん時あなた、アイスが大好物とも言っていたでしょう?

 それで食堂のマユミさんに掛け合って、次来たときはうちの梨味のアイスをご馳走してあげるって。ずっとねえ、待ってたんですよ。ほら」

 

 佐高さんが食堂のカウンターを顎で示す。

 ――ああ、そう言えば――僕はカウンターに座っていたおばさんを見て、ようやく思い出した。彼女こそ、僕に梨をくれたおばさん張本人ではないか。

 おばさんは僕と目が合うと、そっと微笑んだ。

 

「あなたは1年前会った村人の顔も、何を話したかも覚えていないでしょうが……みんな覚えてるんですよ」佐高さんはトン、とつむじのフタを指で叩いた。


「お客さんからするとね、ディストピアなんて気色悪い、電脳化なんて人間性がない……なんて思うんでしょうが。

 逆です。こうして人と出会ったこと、繋がったことを忘れない。

 この村だって1年前は決して平和な村じゃなかった、村人のいさかいが絶えない村だった……それがね、ディストピアのおかげで人々が繋がれたんです。

 ほら、向こうだって」

 

 佐高さんの視線につられ、窓の外を見る。

 先ほど通りに集まっていた村人たちが、こちらを見て笑顔を作っていた。

 そうだ――彼らも去年僕をもてなしてくれた人たちではなかったか。

 

「あなたが村に来るのが決まってからね、あなたについて交わされた会話は300MB超。今日の通信の42%ですよ。

 どれも祝福、歓迎の内容ばかりです。それでこうして、あなたと思い出のある人たちが集まってくれた。

 全部、あなたをもてなしたい一心で。

 ……どうしてこの村がディストピアを受け入れたか、って、ずっと気にしてましたよね。

 簡単なことです。ディストピアが、人々を繋いだからですよ。村人たちは自分の意思で、この道を選んだんです」

 

 佐高さんが頭を下げる。

 

「お客さん、どうか、ディストピアを『冷たい』なんて一言で片づけないでください。『みんなと繋がれる』――これも、ディストピアの真実なんです」


 そうか――僕はようやく気付いた。

 この村は何も変わっていない。変わってしまったのは、僕のほう――心を擦り減らし、他人の気持ちに寄り添えなくなり、ものごとを表面上でしか判断できなくなっていた。

 ディストピアも、電脳化も、本質じゃない。今こうして皆んなが向けてくれる笑顔、やさしさ、そのための道具のひとつでしかないというのに。

 

「すみません、佐高さん……頭を上げてください」


 僕は涙をぬぐい、佐高さんの方へ向き直った。佐高さんもうっすらと微笑みを湛えてこちらを見つめている。

 僕は。僕は――。

 

「僕は、ディストピアに移住します」





『バックオーライ、バックオーライ……はい、箪笥はそこ。そうそう』


 夏の日差しが差し込む居間に、威勢の良い通信が響く。居間にはテーブルや椅子など数個の家具が運び入れられていた。

 そして今、縁側からふたりの老人が箪笥を運び入れる。彼らが腕を振ると、箪笥は張りぼてのような軽さであるべき位置に収まった。

 

『わあ、こんなに早く家具を入れ終わるなんて……ありがとうございます、ケンさん、マサシさん』


 僕は老人に頭を下げた。ケンさんが、額の汗をタオルで拭って笑う。

 

『いやいや、俺たちも日頃の仕事だけじゃオイルが固まっちまうべさあ。

 たまにゃこうして電気を引き締めねど』

『そうさ、わしも家でごろごろしてっとカミさんが口から衝撃波吐くでさ』


 隣のマサシさんも笑顔で応じる。

 

『そうだ、ちょっと早いですが、これ』


 僕がクーラーボックスからペットボトルのお茶を取り出すと、ふたりから歓声が上がった。

 

『いいね、気ぃ利くべえ。んだば、あんたも嫁さん貰ってねば、うちの孫を貰ってほしかったべさあ』

『あんたの孫はまだ10歳じゃろ、気ぃ早いんだから』


 3人で縁側に腰かけ、しっとり冷えた緑茶を喉に流し込む。さわやかな風が、ふんわりと夏の香りを運んできた。

 

『んだ、あんた、知っとるべ? 今夜の夏祭り』


 一足先にお茶を飲み干したケンさんが話しかけてくる。

 

『祭り、ですか?』

『知らんで来たべさあ? そら運がいいべえ。

 今夜、村の真ん中で祭りやるべさ。1年に一度、『アニコさん』さ捧げモンする、ありがてえ祭りだべさあ』

 

『んだんだ、でっけえ灯篭を神社さ運んだり、花火も上げたりの大騒ぎでさ。行かんべさ?』


 ふたりの声が弾む。どうやら「アニコさん」を祝うお祭りのようだ。

 これほど熱烈に語るからには、きっと楽しい祭りなのだろう。

 

『それじゃ、僕もあらかた引っ越しの準備が終わったら行かせてもらいます。

 楽しみにしておきますよ』

『んだば、それが良いさあ。

 見てるべ、たらふく食わせて呑ませるかんの』

『あーあー、新入りをいじめるでね!

 ったく、こいつぁ酒飲むことしか頭にねんだから。んだら、いつか『アニコさん』のバチが当たるべ』

『そらねえべさ、今年も『アニコさん』への貢ぎ物はおれが村一番だべ。

 それにな、おれが困ったときはアニコさん、アニコさん、お助け下さい……て祈るとな、アニコさんの声がすんべさ』

『こいつ、飲み過ぎでとうとうここまで行っちまったべか?』


 マサシさんとケンさんが笑いあっていると、家の門から人影が現れた。

 

『あらあなた、もう家具入れ終わったの?』


 彼女――妻がにっこり笑いながら通信を飛ばす。

 妻の買い物かごにはどっさりの野菜や果物が詰められていた。

 

『うん、ケンさんとマサシさんが手伝ってくれてね。

 君も、もう買い物は終わったのかい?』

『ええ、お店で会ったハナさんが手伝ってくれて。梨もいっぱい貰っちゃった。

 どうもケンさん、マサシさん、お手伝いありがとうございます』

 

 妻が二人に向かいぺこりと頭を下げる。

 

『んだあ、いいのいいの。

 じゃ、俺らもお邪魔みたいだし、そろそろ行くかね』

『んだ、あんたもこんなめんこい嫁さん大事にするべさあ』


 ふたりは気恥ずかしげな表情を浮かべながら立ち上がる。

 ああ――僕は口元に触れ、自分の頬が緩んでいることに気づいた。

 この生活こそ、僕が望んでいた日々だ。

 上兄村に住んでいれば――きっと、あんな冷たい日々のことはいずれ忘れてしまうだろう。

 僕は今、とっても幸せだ。

 

『それじゃあ君、荷物を開ける前にお昼にしようか。

 今日は僕が作ろうかな……』





 轟音と共に、夜空に花が咲いた。

 二連、三連と絶え間なく打ちあがる花火はめくるめく光の洪水で夜の帳を彩っている。

 僕は新居の縁側に腰かけ、汗ばむ肌を夜風にさらしていた。築何十年であろう、ずっしりと構えた木造の家を通り抜ける風が、新品の畳の爽やかな香りを運んでくる。

 家具の入った段ボールはあらかた片付いた。どうしてもお祭りに行きたいと言っていた妻は先に出かけさせ、ひとり開封作業を続けていたのだ。

 全身が重く、腰はきりきりと痛む。全身をサイボーグ化したら、こんな苦痛ともおさらばなのだろうか。

 

『お客さん、調子はどうです』


 ふいに脳内に声が響く。佐高さんの声だ。

 

「佐高さんもいらしてたんですか。今どちらに?」


『そりゃあ、ここの夏祭りは見なきゃ何のために生きてるかわかりませんよお。

 今はねぶ流しを見てるとこです』

 

「ねぶ流し?」


『ちょっとお客さん、知らないんですか? でっかい灯篭を男衆が抱えて運ぶんですよ。

 こりゃ見なきゃソンですよ。引っ越しの作業はまだ終わらないんで?』

「いえ、ちょうど終わったところです」

『じゃあ今から来てください。一年に一度ですよ~?

 場所は……そうですね、上兄神社の鳥居前、って言ってわかります?』

「ええ、今検索しました。

 今行きます、10分くらいで着きますよ」

『おお、さっそく使いこなしていらっしゃる。

 それじゃあすぐ来てくださいね、本当に! 見逃したら一年後悔の日々を送りますよぉ~!』

 

 ぷつりと通信が切れ、あたりに静寂が戻る。

 僕が受けたのは最低限の手術、通信ユニットとそれに伴う電脳拡張のみだ。

 しかし、それでも世界が変わるのが分かった。ほとばしる思考、底なしの記憶。今まであんな貧弱な脳みそでどう生きていたのか、もはや思い出せない。

 それにしても、佐高さんには随分お世話になった。電脳化の手続きから、この家の手配まで……この家だって、たまたま村民が引っ越したばかりで家が空いていたのを格安で譲ってもらったのだ。僕ひとりではこんな好物件にはありつけなかっただろう。

 佐高さんのお誘いとあっては、行かないわけにはいくまい。ケンさんら村人や、妻とも合流してお祭りを楽しみたいし。

 花火をぼんやり眺めながら、そろそろ出掛ける支度にかかろうか――そう思いを巡らせていたとき、ふとクロックアップされた思考の片隅で何かが引っかかるのを感じた。

 そういえば、この家の前住人はどうしたのだろう。

 村人であった以上、電脳化はしていたはずだ。電脳はアニコさんの支配下にあってこそ能力を発揮する。村外に出ては、無意味な鉄の塊でしかないのだ。

 引っ越しに際して切除したのだろうか? しかし脳に癒着したユニットをそう簡単に切り離せるとも思えない。記憶や脳機能に影響が出ては医療事故になるはずだ。

 そう考えてみると、電脳化というのは極めて重い「枷」にもなりうるものだ。今の村人たちは、どうしてこれを簡単に承諾したのだろうか。普通は反対する人がいてもおかしくないはずだが、今のところ「素のまま」の脳を持つ住民に会ったことはない。

 この村は、どうやって「アニコさん」を受け入れたのだろうか。

 

「……ま、どうでもいいことか」


 僕は傍らのポーチを腰に掛け、縁側から立ち上がった。

 

 

 

 

『遅いですよ、お客さん。まだまだ電脳のルート機能には不慣れですか~?』


 神社に着くなり、佐高さんが声を――もとい、データを掛けてくる。

 

「いえ、電脳のルート検索は完璧だったんですが、なにぶん夜道を歩くのが不慣れでしてね。

 まさかここまで暗くなるとは」

『あっはっは、東京じゃこんな闇はまず無いでしょうからね~!

 どうです、今なら10万で暗視機能もおつけしますよ』

「それはありがたいですが、引っ越しやら何やらで財布もスッカラカンでして……また今度にしますよ。

 ところで、佐高さんはどちらに? なにしろ暗くて……」

 

 予想に反し、神社の鳥居付近は暗い海のような夜闇に沈んでいた。辺りには人っ子一人おらず、蛙の鳴き声ばかりが四方に反響している。

 てっきり神社は祭りの喧騒真っただ中だと思っていたのだが……。

 

『お客さんが来るのが遅いんで、とっくに皆さん上まで来ちゃったんですよ。

 ほら、お客さんも早く登ってきてください』

「上……ですか」


 僕は闇の中に目を凝らす。鳥居の向こう側は石段になっていて、夜空を覆う木々の下を長い階段が連なっていた。

 

「皆さん、この上……にいるんですか」

『ええ、皆さんいらっしゃいますよぉ。ほら、早くしないと。

 それとも夜の階段は怖いですか?』

「いえ、まさか……このくらい登れますよ。

 それじゃ、向かいます」

『ええ、急いでくださいね~』


 通信を切ると、僕はじっと石段を見つめる。

 僕の中で、言いようのない不安が形を結び始めていた。

 本当にこの上に、皆がいるのだろうか……? それにしてはあまりに静かではないか。

 しかし、佐高さんが言うからにはそうなのだろう。だいいちそんな嘘をついて何になるというのだ。

 そうだ、上には皆がいて、僕はねぶ流しを眺めながら妻と合流し、村の皆と酒を吞み、夜更けまで楽しむのだ。

 引っ越し初日で不安に駆られているだけだ。そんなことでは、上兄村ではやっていけないぞ、僕。

 ぴしゃりと両の頬を叩くと僕は意を決し、石段に足を踏み出した。

 

 

 

 

 石段は100段ほどあったであろうか。

 数十年前に拵えられたであろう、バリアフリーの思想の欠片もない急な階段はあまりに恐ろしく、幾度となく落ち葉に足を取られて転びそうになった。

 やはり佐高さんの言うとおり、暗視機能は早めに付けた方がよいのかもしれない……そんなことを思いつつ、一歩ずつ山の上へと歩を進める。

 やがて、ふいに石段が途切れた。神社の境内に着いたのだ。

 そこには――。

 

「……佐高さん、本当にここで、あってるんですか? 誰もいないようですけど」


 僕は辺りを見回す。広々とした神社の境内は、やはりくろぐろとした闇に塗り潰されていた。

 孤独に思わず押しつぶされそうになっていたそのとき、通信が入る。

 

『ああお客さん、そこではないんですよ。今は境内の奥でやってましてね。

 ほら、本殿の右に道がありませんか? その先ですよ』

 

 言われて目を向けると、確かに本殿の脇、木々の間に人ひとり通れるほどの道が拓かれていた。

 

「いやいや、でも佐高さん、これ、森の中に……」

『ええそうです。お客さん、どうしたんですか? もしかして怖いんですか……?』

「そ、そんなことは……」


 そうだ、何を怖がっているのだ。僕は上兄村に心を開き、皆と支えあって生きていくと決心したのではなかったか。

 それがまたこうして疑いの目を向け、村へみだりな不安を抱いている。そう思う僕の心こそが、諸悪の根源だとわかったはずなのに。

 

「……そうですね、今向かいます」


 僕はぎゅっ、と拳を握りしめた。

 ああ、アニコさん、これを聞いていますでしょうか。

 アニコさん、アニコさん、どうか僕に勇気をください。村を、皆を信じる勇気を。

 お願いです、お願いです、どうか、アニコさん……。

 僕は荒ぶる鼓動を抑えながら、そっと、森の中へ分け入った。

 

 

 

 

 森に入って数分経った頃だろうか。

 押し潰されそうな闇の中、足元の感触だけを頼りにどうにかか細い道を辿っていると、いきなり視界が開けた。

 

「これ、って……」


 森が開けた円形のスペース、その中央に無骨なコンクリートの壁が立ち塞がっている。

 コンクリートの壁は丸く閉じて円形の塔を形成し、その上端は夜空へと消えていた。塔の上方では壁の一部から靄のようなものが吹き出し、どこからか重低音が響き渡る。

 僕はこれを知っている。

 昼間、幾度となく見たそれを僕は思い浮かべた。アニコさん――その巨体は、丘の頂上から聳え立っていたはずだ。

 夜闇に覆われて今まで気が付かなかったが、この神社の境内こそアニコさんの鎮座する丘だったのだ。

 僕の目の前、アニコさんの壁の正面には簡素な鉄扉が据え付けられ、「立入禁止」の赤文字がペンキで記されている。

 それが目に入るや、僕はずんずんと扉めがけて進み――鉄扉を開け放った。

 扉の中は暗闇に閉ざされ、あちらこちらから響く機械音が地面を揺るがしている。冷却機構の影響か、室内の空気は真夏だというのに鳥肌が立つほど寒い。

 そんな闇の中を、ふしぎと僕は戸惑うことなくすいすい歩いて行った。

 なぜ僕はこんな事を――そんな疑問も浮かんだが、すぐに考えを打ち消した。なぜだか、僕にはここに来ることを当然のように受け入れていたのだ。

 通路を進み、扉を開け、階段を上り――しばらくアニコさんの内部を進むと、闇の中に灯りが見えた。蛍光灯の光がコンクリートの床をぼうっと照らしている。

 蛍光灯の下には人影が立っていた。恰幅のいい色黒の男だ。

 男がにんまりと笑みを浮かべる。

 

「よくいらっしゃいました、お客さん。さあさ、どうぞ上へ」


 ――佐高さん?

 そのときになってようやく、僕は事態の異様さに気づいた。なぜ僕はこんなところへ……佐高さんはここでいったい何を……? 疑問がとめどなく湧き出し僕の頭を満たす。

 だが、そんな僕の思いとは裏腹に僕の足は止まらない。

 

「さ、佐高さん……へ、ヘンなんですけど……僕の、体が勝手に……」

「ええ、そう思うのも無理もありません。今、お客さんの身体は電脳を通じてアニコさんが動かしていますから」


 つい息を吞む。

 

「佐高さん、何を……いや、どうして……」

「混乱していらっしゃいますか? まあまあ、落ち着きましょうよ。

 このあと、お客さんはアニコさんと会うのですから」

「アニコさんに……会う?

 アニコさんは、ただのコンピューターなんじゃ……」

「コンピューター? ああ、それは半分正解ですが、半分不正解。

 そもそもあなた、量子コンピューターなんて本当に信じてたんです? あんなもの、まだまだ実用化には程遠いですよ」

「え……」


 僕が何を言っていいかわからず困惑していると、佐高さんはにんやりと笑った。

 

「そう言えばあなた、『どうして村人がこんな異常なシステムを受け入れているのか』気にしていましたよね?

 んっふ、これも縁。どうせですから、アニコさんについて言わなかったことを最後に話しておきましょうか」

 

 佐高さんの低い声が、暗闇にこだまする。

 

「わたしたちの当初の目的こそ、人格を模倣する高度な人工知能の実現でした。社会を管理し、思想を統制し、人類を導く……その実験場として選ばれたのがここ上兄村。

 ところが、社会を束ねる人工知能の開発もうまくいかなければ、何よりその導入にも大きな壁が立ちはだかりました。村民の、想定以上の反対です」

 

 佐高さんは残念そうにため息を漏らした。

 

「わたしたちプロジェクトメンバーは、村人たちに社会管理システムの導入を粘り強く勧めた。

 ところが村人たちは村の『余所者』を快く思わず、わたしたちは執拗な嫌がらせに襲われました。

 陰口、無視、罵倒……えてして田舎の人間は、『お客さん』には優しいが『新入り』には厳しいものです。

 耐え難いストレスに晒され続けたチームメンバーからは、ついに自殺者まで出る始末……計画は完全に暗礁に乗り上げました」

「な……」


 信じられない。

 あの優しかった村人たちが、そんなことを……?

 

「驚くには値しませんよ。あなたはこの村の自殺率の高さをご存じで?

 人口2,000人のうち、毎年の自殺者が5~6人。異例の自殺率です。

 余所者やあぶれ者は、村八分にして自殺させるのが当たり前……日本の田舎は、もとより『反理想郷ディストピア』なんです」

 

 佐高さんはそこで言葉を切り、こちらに顔を近づけた。暗闇の中、佐高さんの瞳がかすかな光を反射して妖しい輝きを放っている。

 

「あっはっは。東京の方にはちょっと刺激的な話でしたかな?

 ま、とにかく起きたことはしょうがないんで、何とかしなきゃならんと話し合ったんですわ。

 で、そこで出てきたのが――逆に、人工知能の開発にこの村の特性を利用する、という案です。

 社会の異端を排除する強固な共同体……これこそ管理社会の本質。人工知能は、言わばそのための道具であればいい」

 

 佐高さんが、懐から何かを取り出す。

 それは、あの日佐高さんが見せてくれたアニコさんの竹人形だった。

 

「『アニコさん』……という名前は、もともとこの地で信仰されていた神の名前。この人形は、この村に伝わるお守りです。

 これを利用しない手はない。わたし達は村長や神主に根回しして、この塔を神社の『奥の社』という名目で建立することにしました。いわば御神体をすげ替えたんです。

 村の権力者を通じて村人を説得させたら、案外すぐに話はまとまりましたよ。いつの世も庶民は目上の者に弱いですからね……」

「お前……そうやって、村人を騙したのか……!」


 つい声を荒げる。

 しかし、佐高さんはおかしくて堪らないといった顔でこちらを見つめ直した。


「騙したぁ? あっはっは……!

 違いますよ、彼らは自分からこのデカブツを祀ることを受け入れたんです。わたしたちの提示した、あるメリットのためにね」

「メリットだと?」

「ええ。言ったでしょう、この村はかつていさかいが絶えない村だったと。土地、水利、生まれ……人々はささいな事で互いを嫌いあい、あぶれた者を追い詰めて殺していた。

 それがね、『アニコさん』を導入してからぴたりと治まったのですよ。いや、正確には、『アニコさんへの捧げもの』を導入してから、ですか」

「『捧げもの』……? って、一体」

「うん、ちょうどいい。着きましたよ。

 ま、見ればわかります」

 

 いつの間にか、僕たちは通路の突き当たりに立っていた。佐高さんが突き当たりの観音扉を開くと、冷ややかな光と共に肌を切るような寒風が吹き付ける。

 扉の向こうは塔をくり抜いた円形のホールになっていた。遥か高い天井からは幾本ものつららが垂れ、びっしりと床を這うチューブやケーブルは真白の霜で包まれている。部屋全体が氷点下に冷却されているのだ。

 僕はそこに広がるものを見た。

 それは、昔修学旅行で見たお寺の仏像に似ていた。お堂の中にひしめく、何十体もの金色の仏像たち。

 だが、よく見るとそれは像などではなく、一体一体違う顔をしていた。そのどれもが苦悶の表情で固まり、今にも叫び出しそうにこちらを見つめている。金色と見えたのは、彼らの肌を隙間なく覆う銅線のためであった。

 

「驚きましたかあ? この冷凍庫はね、コンピューターの冷却機構なんかじゃないんですよぉ。

 彼らは、ここ数か月で村民たちによって『アニコさん』に捧げられた者たちです。

 自治会の改革を訴え腫れ物扱いされていた若者、名家に生まれた殻潰しの息子、家族の負担にしかならない呆け爺に、村に馴染めない余所者……」

 

 佐高さんがそれらを順に指差した。いたいけな子供から老人に至るまで、さまざまな顔ぶれが生気を失った顔で宙を眺めている。

 

「こういう邪魔者はね、昔から『アニコさんへの捧げもの』と称して山奥に捨ててたんですよ。『姥捨うばすて山伝説』なんて聞いたことあるでしょう? でもこの地方では伝説じゃなく事実だった。アニコさんとか蓮台でんでらとか呼び名は色々ありますがね……。

 『アニコさん』なんて言やあ御大層な神様に聞こえますが、要は正当化のための方便にすぎなかったワケだ。

 流石にこんな風習は昭和の昔に無くなりましたがね……わたしたちはね、こいつを現代版に復刻アップデートしたんです。

 邪魔者は山に捨てるかわりにこの冷凍庫で脳死させることで、脳だけ生かしてアニコさんの『計算資源』として利用させてもらう。こいつこそ村人の悲願、村の平和の秘訣なんでしてねぇ。

 つまらない争いもなくなるし、アニコさんは脳という優秀な計算機を得て活動できるし、まさに三方よし、てやつです」

 

「な……」


「村人は喜んでこのシステムを受け入れましたわ。今じゃ毎月、町内会の会合で『捧げもの』を選んでる始末……。

 このやり方をモノにすれば、ゆくゆくは他の地域でも同様の相互監視社会を実現できる。上兄村はまさに理想的な『日本の田舎』なんですよ、面白いでしょう? あっはっは……」

 

 佐高さんの笑い声が、僕の脳を素通りしていく。

 馬鹿な。ありえない。こんなこと、現代に……。夢だ、これは……。

 そんな感情の動きとは正反対に、僕の強化された電脳はこれが現実だとはっきり受け入れていた。

 物言わぬ像たちの正面――そこに、よく知っている顔を見つけてしまったからだ。

 さっき別れたばかりの妻――笑顔の良く似合うその顔は、目を剥いてだらしなく口を開きながら銅線の中にうずもれていた。

 

「……ありえない。なんで、なんで。

 どうして。僕、こんなとこに…………」


 思わずつぶやいた僕を見て、佐高さんがきょとんとした表情を浮かべる。

 

「え、あなた、自覚ない? 困ったなあ~。

 ほら、村の見学をした日。ろくに村の人に挨拶しなかったでしょ? あれ心証悪かったですよ~。

 今日だって、引っ越しの準備にかまけて挨拶回りしなかったじゃないですか。普通は奥さん連れて村長から順に面通しですよ。

 引っ越しの手伝いに出たケンさんとマサシさんにしてもね、金一封くらい包んで渡すのが礼儀でしょうよ。お二人とも都会モンに舐められたっておカンムリです。

 お祭りにだって顔出さなかった。他にも他にも……、まあ皆さん怒ってましたよお。

 きょう村でされた通信1.9GBのうち、68%はあなたへの陰口です。気づかなかったかな~」

 

 僕の脳裏を村人たちの笑顔がかすめる。馬鹿な、あれは僕への、やさしさだったんじゃ……。

 

「そりゃ、もちろん優しさですとも。

 でも覚えておくといいですよお。田舎じゃね、んですよ。

 さ、そろそろ行きましょうか」

 

 佐高さんが手を叩くと、僕の足は部屋の中へと歩を進め始めた。

 やめろ……僕は、こんなところで……いやだ……。

 

「んっふっふ、ディストピアはね、人工知能だとか思想統制だとかそんな凄いもんがなくても、意外とすぐそばにあるんですよ。勉強になりましたかなあ?

 ……じゃ、これで失礼。ま、これからはアニコさんとせいぜい仲良くやってください」

 

 扉が閉まり、部屋の照明が消える。

 違う、こんな…………僕が望んだディストピアは、こんなはずじゃ……。

 アニコさん……助けて、どうか……お願いですから…………。

 アニコさん……アニコさん……アニコさん……アニコさん…………。

 僕が祈っているうちに僕の身体は芯まで冷え切り、僕の意識は冷たい世界に溶けていった。





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僕の村はディストピア デストロ @death_troll_don

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