【〇《出逢い》】

【出逢い】


 広い公園の端にある木製のベンチに、眼鏡を掛けた黒髪の少女が座っている。その少女の胸には『刻雨小学校、二年三組、八戸凛恋』という名札が付いていた。

 凛恋の視線の先では、同じ年頃の子供達が明るい声を上げながら元気良く走り回っている姿が見えていた。だが、凛恋はその輪には居ることはせず、ベンチの上で悲しそうに俯いている。


「あ! あそこに赤ちゃんが居るぞ~!」


 ベンチに座ってる凛恋に、その男の子の笑い混じりの声が聞こえる。その声に、凛恋は太腿の上に置いた両手の拳を握り締め、悔しさと恥ずかしさからキュッと口を真一門に結んだ。


「なあなあ、お父さんとお母さんのことをなんて言うんだっけ?」


 男の子数名がベンチに座る凛恋の前に立ち、ニカニカと人の悪い笑みを浮かべながら凛恋に尋ねる。それに、凛恋は視線を逸らして無言を貫いた。

 凛恋は自分の両親のことをパパ、ママと呼んでいる。同年代で両親をそう呼ぶ子供は少なからず存在するが、凛恋はそれを数日前から同じクラスの男の子達数人からかわれていた。


 からかっている男の子の方は悪気はない。むしろ、凛恋に対して淡い恋心を抱いている。だから、からかうことを凛恋と関わり合いを持つための口実にしているだけだった。それでも、からかわれる凛恋の方は惨めで辛い気持ちに心を覆われていた。


「パパとママなんて言って恥ずかし~」


 無反応の凛恋から反応を引き出そうと、凛恋をからかう男の子はしつこく言葉を重ねる。その言葉に、凛恋は恥ずかしさと悔しさから小刻みに体を震わせて目に涙を滲ませる。


 そして、凛恋の目から涙が溢れ落ちる寸前、凛恋とケタケタ笑う男の子達の耳に落ち着きがありながらも幼い男の子の声が聞こえた。


「笑ってるお前らの方が恥ずかしいな」

「お前、誰だよ」


 声の主の方を振り返った男の子は、キッと声の主を睨んで言う。その男の子に睨まれているのは、凛恋や凛恋をからかう男の子と同年代の男の子だった。しかし、落ち着いた表情と態度は、少し同年代の子供より大人びて見える。


「寄って集って女の子一人をからかって恥ずかしくないのか?」


 声を掛けてきた男の子は、目を細めて少女をからかっていた男の子達を見る。その目は少し冷たく、その目に少女をからかっていた男の子達はほんの少したじろいだ。しかし、一人の男の子が軽く胸を張って声を掛けてきた男の子の前に歩み出す。


「小学生にもなってパパ、ママって言ってるなんて恥ずかしいだろ。赤ちゃんみたいじゃないか」


 胸を張りながら虚栄を張る男の子を見返し、冷たい目の男の子は小さく息を吐いて、呆れた様子で言葉を返す。


「それはお前が決めることじゃない。それに自分の考えに合わないからって、他人をからかって良い理由にはならない。そもそも女の子を男が寄って集ってからかって恥ずかしくないのか?」


 突然現れた男の子に非難された凛恋をからかっていた男の子は、顔を真っ赤にして怒りを露わにする。その怒りは、好きな女の子の目の前でバカにされた、そんな単純な理由からだった。


「そんなの俺達の勝手だろ! 他の学校のやつが口出しすんな!」


 冷たい目の男の子の胸にある『刻季小学校、二年一組、多野凡人』と書かれた名札を見てから、怒った男の子は声を荒らげる。


「じゃあ、遠足にゲーム機を持って来てることを俺がお前らの学校の先生に話すのも勝手だよな?」


 大人びた態度の男の子――凡人は、凛恋をからかっていた男の子が右手に持っている携帯ゲーム機に視線を向ける。

 全国のどこの小学校でも学校にゲーム機を持ってくるのは許可されていない。それは、たとえ今が校外で行われる遠足中だとしてもだ。だから、男の子はゲーム機を黙って持って来ていた。それが知られれば、没収されて男の子の両親に学校から電話が入る。それに、両親が学校に来るまで返してもらえない可能性だってあった。


 それに何より、単純に先生から怒られる可能性に凛恋をからかっていた男の子は焦り始める。


「あっ、赤ちゃんをからかうの飽きた! 向こうでゲームしようぜ!」


 凛恋をからかっていた男の子は、慌てて背中に背負っていたリュックサックにゲーム機を隠すために仕舞うと仲間の男の子を連れてそそくさと走り去る。それを見送った凡人は、呆れた様子で小さくため息を吐いた。


「あ、ここに居た!」

「栄次?」


 駆け寄って来た整った顔立ちの男の子を見て、凡人は少し眉をひそめて首を傾げる。


「黙って居なくなるなよ。結構探したんだぞ。いつの間にこんなに遠くに来たんだよ」

「栄次はクラスのやつらに誘われてたんだから、そいつらと遊んで来いよ」

「あっ! カズ、待って!」


 凡人が気怠そうに歩いて行くのを見て、栄次は慌てながら追い掛ける。その二人のやりとりを見ていた凛恋は、ベンチに座りながら歩き去る男の子二人――ではなく、凡人だけの背中を眺めていた。


「カズ、マ……くん?」


 凡人の名前を呼んだ整った顔立ちの男の子――栄次の言葉を凛恋は思い出していた。しかし、公園に吹く風の音で『カズ』というのが、凡人のあだ名だというのを聞き取ることは出来ず、凛恋は凡人の名前が『カズマ』だと勘違いした。


 ボーッと、歩き去る凡人の背中を見詰める凛恋は、急にドキドキと激しく鼓動し始めた胸を押さえながらもジッと凡人の背中を見続けていた。


 手で押さえても鼓動は収まることはなく、その鼓動を意識すれば意識するほど鼓動は速くなる。その初めての感覚に、凛恋は自分が何か病気になってしまったのかもしれないとほんの少し不安になった。


「あっ!」


 凛恋は凡人に助けてもらったお礼を言っていないことを思い出し、凡人にお礼を言うために声を掛けようとベンチから立ち上がった。


「凛恋ちゃん、遊ぼう!」


 ベンチから丁度立ち上がった凛恋の近くに、同じクラスの友達が駆け寄ってくる。


「あっ……」


 その女の子に一瞬顔を向けてから、凛恋は慌てて目を離した凡人の方に視線を戻す。しかし、公園で遊ぶ沢山の子供達の姿しか見えず、その中に凡人の姿は見当たらなかった。


「遊ぼう?」

「う、うん!」


 凛恋は手を伸ばした友達の女の子の手を握って走り出す。しかし、走り出しながらも、凛恋は凡人の歩いて行った方向を見て、凡人の姿を探し続けた。




「な~な~、さっきの子、誰?」

「さっきの子?」

「さっき、ベンチに座ってた女の子。泣いてたけど?」

「ああ。バカな男子にからかわれてたんだ」

「バカな男子? 俺が声を掛ける前に走っていったやつら?」


 広い芝生の公園で遊ぶ子供達の間を歩く凡人を追い掛けながら、栄次は首を傾げて隣に並ぶ。


「でも、カズが女の子と話してるの珍しいよな。いつも話し掛けないのに」

「別に女子とは話してない。女子をからかってた男子と話してただけだ」

「もしかしてカズ、あの子のこと好きなの?」


 ニヤァ~っと笑った栄次は、凡人をからかう気満々の様子で凡人の顔を横から覗き混む。その栄次にムスッとした表情を返した。


「俺は一人でのんびりしてるから、栄次は友達と遊んでこいよ」

「カズも一緒に遊ぼうぜ! みんなでドッチボールしよう」

「人にボールを当てて笑うような遊びの楽しさが分からないからパス」


 全く子供らしからぬ言葉を返す凡人に、栄次は少し困った顔をしながらも笑顔を戻して付いていく。


「みんなで一緒に遊んだら楽しいぞ?」

「親の居ない俺と遊びたいやつなんていない。それに、多野菌が移るだろうし」

「そんなの俺が止めろって言って止めさせたから大丈夫だって。それに、そんなこと言ったやつは仲間に入れないから」

「俺は人と群れるのが嫌いなんだ」

「群れって、動物だろ?」

「栄次、人も動物の一種なんだぞ。ホモサピエンスって言うんだ」

「ホモって男が好きな男のことだろ?」

「……学校に帰ってから図鑑を見てきてくれ」


 栄次にため息を吐いた凡人は、後ろを振り返って凛恋が座っていたベンチの方を見る。もうかなり遠くになったベンチには既に凛恋の姿はなかった。


「それにしてもさっきの女の子、可愛かったよな~。あれ、絶対に男子にモテモテだぞ」

「栄次だって女子にモテるだろ。今年のバレンタインデーにめちゃくちゃチョコレート貰って告白もされてただろ」

「まあ、二〇人くらいから貰ったかな~。って、俺の話じゃなくてさっきの子だよ。探しに行かなくていいの?」


 栄次は振り返って、さっきまで凛恋の座って居たベンチを見て凡人へ言う。そんな栄次に、凡人は眉をひそめた。


「なんで探すんだよ」

「一緒に遊ぼーって言いに行くんだよ。友達になれるかもしれないだろ?」


 実に社交的な人間らしい思考の栄次に、凡人は小さく笑って視線を落とす。


「俺と友達になりたい人なんて居ない」


 視線を落とした凡人は、自分を諦めて、まるで自分や人生、世の中全てを分かったような達観した様子で呟く。

 凡人は物心付いた頃から両親が居なかった。そして、小学校に入ってからすぐにそれをい同級生達からからかわれ始めた。


 小学生の子供が他人の家庭環境を知り得る方法は親からしかない。だから、どこかの子供の親が家で凡人の家庭の話をし、それを聞いた子供が友達に話を広めた結果、凡人に両親が居らず、凡人が両親に“捨てられた”という話が広まった。


 凡人にとって、母親父親が居ない環境は当然の状況だった。ただ、保育園の頃にお遊戯会や運動会に、友達は母親父親が来るのに自分は祖父母が来ることに疑問を持ち始めた。そして、その疑問はいつしか不安に変わり悲しさに変わった。


 自分に親が居ない。そして、自分は親に捨てられた。そんな現実に、幼い凡人の心が真正面からぶつかって耐えられる訳がない。だから、凡人は自然と自分の心を守るように自分の心に殻を被せていった。その殻は、自分を守るために自分以外の誰かとの関わりを絶とうとした。その結果が、今の凡人のように楽しく遊ぶ子供達に背を向けて公園の端に向かって歩き出すような子供にしてしまった。


「俺はカズの友達だって」

「そんな物好き、栄次くらいだって言ってるんだよ」


 そんな凡人の隣で栄次は凡人の横顔を見て視線を落とす。


「みんな、カズの良いところを知らないだけなんだよ」

「俺に良いところなんて何もない」

「いっぱいあるだろ。毎日メダカの世話してるのはカズだし、休み時間に黒板を綺麗にしてるのもカズだ。それに二年生になって、先生にアレルギーのある子のことを教えておいた方が良いって言ったのも――」


「アレルギーのある子のことを先生に言ったのは栄次だろ」

「それは、カズが言った方が良いから俺に言ってくれって――」

「俺が言うよりも栄次が言った方が良いんだよ。その方が、他のやつらに俺が調子乗ってるとか言われないし、アレルギーがある女子も栄次に心配してもらった方が嬉しいに決まってる」


 凡人は思っている。もう自分は誰からも良い目では見られないと。

 凡人と栄次が同じことをした時、凡人には「調子に乗っている」「先生に気に入られようとしている」という感想を持たれるのに対して、栄次は「優しい」「真面目」という対照的な印象を持たれる。それは、同級生から凡人に向けられるイメージと栄次に向けられるイメージが違うからだ。

 悪いイメージを持たれている凡人は、何をしても悪い方に取られる。それが分かっているからこそ、凡人は他人と関わることになるようなことは栄次に全てを任せていた。


「やっぱりさっきの子探そうぜ。きっと友達になれる」


 栄次はそう言って凡人の手を引こうと腕を掴む。

 凡人が自分から誰かと関わろうとするのを栄次は初めて見た。日頃の凡人なら、絶対にトラブルになるようなことは避けていた。でも、凡人は自ら他校の男の子と喧嘩になるようなことに首を突っ込んだ。それに、栄次は凡人を見た凛恋が嫌な反応をしてないのを見ていた。


 凛恋と凡人は同じ小学校の生徒ではない。だからこそ、凡人に対する先入観を持っていなかった。だから、栄次は凡人に友達が出来るかもしれない。そんな期待を持っていた。


「いいって言ってるだろ」


 自分の腕を掴んだ栄次の手を振り払って、凡人は唇をキュッと噛みしめる。

 凡人は自分でも、自分がなぜ揉め事に首を突っ込んだのか分からなかった。でも、ベンチで俯いて泣きそうな顔をしていた凛恋を見た瞬間、凡人の体は動き出していた。


「俺にはもう栄次以外に友達なんて出来ないし、栄次以外に友達なんて要らない」


 自分の心を闇で覆って、凡人は明るい子供達の遊ぶ声から離れて行く。その凡人の心の闇は、一層濃く厚く凡人の心を覆い隠した。

 公園の端まで歩いた凡人は、金網フェンスの向こうに見えるため池に視線を向ける。


「カズ……ごめん」

「なんで栄次が謝るんだ」


 凡人の隣に立った栄次は、両手で金網フェンスを掴む。そして、強い後悔から唇を噛んで凡人に謝った。


「俺が最初にカズをからかったからだ。そのせいでみんながカズのことを……」

「みんなが栄次のやった通りにするなら、今頃俺はクラスの人気者だな。栄次のやった通りにするなら、人気者の栄次が友達だって言うやつとみんなも友達になりたがるだろ」

「それは……」

「いじめって、いじめる側といじめられる側だけの問題じゃないんだってさ。いじめてるやつといじめられてるやつ以外に、いじめられてるやつを見て面白がるやつらと自分がいじめられたくないって見て見ぬ振りしてるやつらもいじめがある場所には必ず居るんだって。それにいじめが起きるのはストレスがあるから、そのストレス解消のために起きるんだって」


 凡人は本で見聞きした知識を口にする。だが、凡人と違ってまだ精神的に幼い栄次はそれを正しく理解は出来なかった。


「カズは頭が良いから難しいことを知ってるな。俺にはそれがよく分からないけど、でも、いじめは良くないことだろ。先生に言えばもしかしたら」

「大人の世界でもいじめはいっぱいあるだろ。それに人間は完璧な生き物じゃない。先生だって神様じゃないんだから、クラスの隅から隅まで監視出来る訳じゃない。それに知らないのか? 今までいじめが辛くて自殺した人達のニュースで何度も言われて来てる。いじめが起きてるって分かると、給料を減らされたり仕事を辞めさせたりするから学校の先生は隠すんだって。きっとどこの学校の先生も同じだ」

「学校で悲しんでる子供が居るのに放っておく先生なんて居ない」

「先生は正義のヒーローなんかじゃないんだ」


 ため池に視線を向け続ける凡人の目には悲しさや悔しさは浮かんでいなかった。凡人の顔は、悲しいほどに、悔しいほどに……淡々としていた。

 まだ七歳の子供が抱くには冷め過ぎた感情を持ち、まだ七歳の子供が口にするには達観した言葉を持つ。それはたった七年しか生きていない子供の心がどれだけ酷く傷付けられてきたかを、嫌でも想像させられるほどに明らかな重たい現実だった。


「俺はカズとずっと一緒に居る。俺はカズの友達だから」


 ギュッと唇を噛んで、栄次は子供ながらに強くそう決意して言葉を口にする。そんな栄次に、凡人は小さく笑ってため池の周りを歩く子連れの親鴨を見て言う。


「ありがとう。でも、無理しなくて良いから」

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+-∞ 著者名:無記名 @tyosyameimukimei

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