カスタードアップルパイ

くれは

カスタードアップルパイ

 何かがあって、カナ兄はしばらく日本を留守にしていた。久しぶりに帰ってきて、すぐはバタバタしてるだろうからと思って、それにテスト期間だったし、だから会いに行くようなことはしていなかった。

 幼馴染の妹枠をはみ出るのはなかなか難しい。

 それでもメッセージだけはと思って「お帰り、お疲れ」と送ったら、ちゃんと「ただいま」という返事もきたし、ついでに「お土産があるからそのうち来てくれ」とも送られてきて、わたしはそれだけでかなり満足してしまった。まだお土産を見てもいないのに。かなり単純なのだ、わたしは。

 それでようやくテストが終わって、カナ兄ママに有名店のものらしいアップルパイを持たされて(家がご近所なので家族ぐるみで仲が良い──そういうところも、なんとなく妹枠に収まり続ける原因な気がする)、わたしはカナ兄の研究所に向かった。日本に帰って来てからも、カナ兄は結局研究所にこもりきりらしい。




 インターフォン越しに「二階にいるから」と言われて、中に通される。事務室とか何かの会社みたいな雰囲気の一階を通り過ぎて、プライベートスペースの二階に上がる。

 この建物を訪れる人は多いけど、二階に上がれる人は少ない。ただの家族扱いとはいえ、そのことはわたしの優越感をかなりくすぐる事実だ。

 カナ兄は肘置きに頭を置いてソファーに仰向けに寝転んでいた。タブレットを顔の上に掲げて、真剣な目で何かを見ている。珍しく眼鏡をかけている。

 カナ兄は普段は眼鏡をかけていないけど、たまにこうやってかけることがある。細いシルバーフレームはカナ兄を余計に大人っぽく、理知的な雰囲気に見せるから、わたしはその姿をかっこいいなと思いつつ、いつも自分の子供っぽさを突きつけられてるような気持ちになる。


「カナ兄、改めてお帰り」

「ああ、ただいま」


 カナ兄はタブレットから目を話さずに、ぼんやりとした声で返事をした。今は忙しいのかもしれない。テーブルの上に置かれたカップはいつのものか、コーヒーが入っていた気配はあるけど、冷めきって空っぽになっている。

 邪魔はしたくないけど、飲み物くらいは入れようかと思ってそっと声をかける。


「コーヒーと紅茶どっちにする? カナ兄ママがアップルパイくれたよ。なんか、有名店のやつなんだって」

「コーヒーと紅茶どっち。コーヒー」


 カナ兄はやっぱりこちらを見もしない。その返事も、きちんと脳みそを通ったものか不安になる。ただわたしの言ってることを反射で繰り返してるだけなんじゃないかって気がする。

 まあ、いつもの集中してる時のカナ兄なので、わたしはそれ以上邪魔するのはやめた。

 アップルパイの箱をテーブルの上に置いて、カナ兄のカップを持って、一度部屋を出た。




 台所と呼ぶには狭いそこは、多分給湯室と呼んだ方がしっくりくる。

 そもそもこの研究所は、家じゃなくて研究室でしかないらしい。最低限、シャワーを浴びたり寝起きしたりはできるけど、ここで完璧に生活できるような場所になっていない。ここで寝泊まりしている間、ご飯はいつも宅配らしい。あるいは、レンジで温めて食べるようなものとか、お湯を入れるだけのものとか。

 なんとなくカナ兄の食生活が不安になるけど、あちこち出かける時には美味しいものを食べてるらしいので、わたしなんかが心配するようなことじゃないのかもしれない。

 それでも、来客が多いからか飲み物の種類は揃っている。コーヒーフィルターでコーヒーを淹れるやり方を、わたしはここでカナ兄に教えてもらった。そのやり方で、今日もコーヒーを淹れる。二人分。

 豆にじんわりとお湯を染み込ませて、香りが立ち上ってくるのを待つ。

 カナ兄はコーヒーをたっぷりの牛乳と合わせて、砂糖は入れない。わたしもカナ兄に合わせて牛乳を使って、スティックシュガーを一本。

 カップを二つトレイに乗せる。それから小皿と小さなフォークも二つずつ。戻ったらカナ兄の何かが終わってると良いな、なんて思っていたのだけど、そんなことはなかった。

 カナ兄の格好は、さっきわたしが部屋を出たときと何一つ変わっていなかった。


「コーヒー、淹れたよ」


 集中を邪魔しないようにそっと声をかけて、テーブルにカップを置く。


「うん」


 カナ兄はぼんやりしたまま頷いたけれど、それ以上の動きはない。

 わたしは自分のカップもテーブルに置いて、それからアップルパイの箱を開けた。甘い香りが、コーヒーの香りと混ざり合う。

 アップルパイは四切れ入っていた。きっと、元は大きな丸いアップルパイだったんだろうなってわかる形。網目状に乗せられた生地はぱりっとした茶色で、つやつやとしていて、断面から覗く内側はさっくりと白い。

 その断面に覗くフィリング。櫛形に切られたりんごの形がほとんどそのまま見えていて、りんごの周囲にはぐずぐずと崩れたフィリングと、とろりとしたカスタードクリームが詰まっている。

 つんとした酸っぱい香りと、甘い香り。ほんのりとシナモンの香りもわかる。

 つまり、とてもとても美味しそうなアップルパイだった。

 清楚な雰囲気の白いレースペーパーに乗ったそれを一切れ、そっと持ち上げて、小皿の上に乗せる。フォークを添えて、カナ兄のコーヒーの隣に置いたけど、カナ兄は見向きもしない。


「先に一切れ食べちゃうね」

「ああ」

「コーヒー冷めちゃうよ」

「ありがとう」


 カナ兄はやっぱり返事はするけど、わたしの声は素通りしてるみたいだった。よほど集中してるんだなと思って、わたしはアップルパイをもう一切れ持ち上げて、もう一つの小皿に乗せる。こっちはわたしの分だ。

 パイ生地にフォークを当てて、さくりと沈める。りんごのフィリングが柔らかくて、カスタードクリームはとろとろで、フォークが沈むと形が崩れてしまう。ぽろぽろと崩れた生地と、なんとか小さく切り取ったりんごと、潰れたせいで溢れ出したカスタードクリームをフォークでまとめて、口に入れる。

 シナモンの香りの後に、ぽろぽろに崩れた生地の乾いた感触。カスタードクリームがそれをまったりと包んで、その中から酸味の強いりんごの味が現れる。

 ひょっとしてこれは、すごくお高いものなんじゃないだろうか。こんなついでみたいに、わたしが食べてしまって良かったのだろうか。そう思ったけど、小皿の上の食べかけのアップルパイは、もうかなりぼろぼろだ。コーヒーを一口飲んで、一息ついて、わたしは覚悟を決めて二口目に取り掛かる。

 何口か食べた頃、カナ兄がようやく動き出した。不意に起き上がって、片手でコーヒーカップを掴んで、冷めかけてしまったコーヒーを一口飲む。カップを戻す。その姿勢のまま、タブレットからは目を離さない。

 コーヒーの香りにつられて飲んだだけで、まだ意識はタブレットの向こうみたいだ。カナ兄はいつから集中してるんだろうと思いながら、わたしはアップルパイの続きを食べる。




 最後の生地の塊に、お皿の上に流れ落ちたカスタードクリームとりんごのフィリングを絡めて口に運ぶ。唇に貼りついた生地のかけらを舌で舐めとって、最後に残ったコーヒーで余韻を流し込む。胸元に零れ落ちてしまった生地をそっと払う。

 美味しかったと溜息をついて正面を見れば、カナ兄はまだ起き上がった格好のまま、タブレットを見ていた。コーヒーは何口か飲んだみたいだけど、アップルパイは手付かずだ。

 眼鏡越しに、その顔を眺める。こうやって黙っていると、本当にすごく大人っぽく見える。実際、わたしなんかよりもずっと大人なんだけど。

 わたしはただの妹枠で、こんな距離感が許されるのも家族みたいなものだから。でもそれに甘んじながらももうちょっと別の距離感が欲しくなることだってあるんだ。

 行動を起こしたら家族の距離感を失ってしまうんじゃないかって不安と、何もしなくてもいつかは妹じゃなくなってしまうんじゃないかって不安。そのぎりぎりのところを探りながら、わたしはいつもカナ兄の隣にいる。


「カナ兄、まだ忙しい?」

「ああ、もうちょっと」


 カナ兄の返事はまだかなり上の空だ。わたしは、立ち上がるとテーブルをぐるりと避けて、そっとカナ兄の隣に座った。タブレットの方はできるだけ見ない。わたしが見てもわからないし、多分あまりカナ兄以外の人が見て良いものじゃないと思うから。


「アップルパイ、食べる?」

「食べる」


 上の空のまま、カナ兄が答える。わたしは一人頷くと、カナ兄の分の小皿を持ち上げて、そのアップルパイにフォークを沈めた。相変わらず、生地はぽろぽろと崩れるし、カスタードクリームは流れ落ちる。けれど、切り分けたりんごと生地をフォークに刺して、カスタードクリームで無理矢理まとめあげた。

 小皿を置いて、左手をその下に添えて、フォークをカナ兄の口の前に持ってゆく。カナ兄は、この状況に気付いているのかどうか、大人しく口を開いた。そっと差し出したフォークの先を、カナ兄の唇が咥える。視線は相変わらずタブレットのまま。

 カナ兄の唇からフォークを抜けば、カナ兄は何回か咀嚼して飲み込んだ。喉仏がゆっくりと動く。


「美味しい?」

「美味しい」


 こんなに上の空な人の口に放り込むのは、この美味しいアップルパイが少しもったいないような気がした。けれどなんだか少し面白くなってきて、わたしはまたパイ生地にフォークを沈める。

 そうやって、三口め。りんごが少し大きすぎたかもしれない。カナ兄の鼻先にフォークを持っていったとき、カスタードクリームをたっぷり身にまとったりんごが、フォークの先からずるりと落ちた。

 それは、フォークの下に添えていた手のひらの上にぺとりと落ちてきた。はらはらと、パイ生地のかけらが舞う。もったいない、お行儀悪いけど舐めちゃおうと思って手を引きかけたとき、カナ兄が急に、タブレットを持っているのと反対の手でわたしの手首を掴んだ。

 手のひらにりんごとカスタードクリームを乗せたわたしの手が、カナ兄に掴まれている。カナ兄はまだ、タブレットを見詰めたまま。

 そしてそのまま、カナ兄はわたしの手のひらに唇を寄せて、そこに乗っているりんごとカスタードクリームを舐めとった。

 手のひらに当たるカナ兄の舌は、少しざらりとしていた。

 いっそ、そのまま気付かなければ良かったのに、よりによってカナ兄は、何かに気付いたようにタブレットから顔を上げてわたしの手のひらを見た。眼鏡の奥で何回か瞬きした後、わたしの方を見る。

 その唇にはアップルパイの生地が貼りついて、唇の端にはカスタードクリームも付いている。そんな状態で、カナ兄はまるで今始めてわたしに気付いたみたいな顔で、わたしを見ていた。わたしの手首を掴んだまま。


「今の、甘くて酸っぱくて、美味しかった。良いにおいもして」


 集中が途切れたせいか、カナ兄はなんだかぼんやりとした声のままそう言った。


「カナ兄のママが持たせてくれたよ。まだあるから、一休みするなら食べたら」


 わたしがフォークを差し出すと、カナ兄はようやくわたしの手首を離して、フォークを手に取った。わたしはほっと息を吐いて手を引っ込めて、その手で口元を覆いかけて、カナ兄の舌の感触が蘇って思いとどまった。手のひらが熱い気がして、ぎゅっと拳を握る。

 カナ兄はタブレットを脇に置いて、ようやく目の前の小皿とそこに乗っている食べかけのアップルパイに気付いた。眼鏡を外してそれをテーブルの上に置くと、小皿を持ち上げてさくさくとフォークでパイ生地を崩し始めた。


「邪魔しちゃってごめん。何かやってたんだよね」

「ん? いや多分、集中力の限界。ちょっともう……だいぶぼんやりしてるし、甘いものがちょうど良かった。ありがとうな」


 カナ兄は、ぼろぼろとパイ生地をこぼしながら、小皿の上でカスタードクリームをぐちゃぐちゃにしながら、アップルパイを口に運ぶ。それを飲み込んで、ほうっと一息をつく。

 続いてりんごのフィリングをフォークの先で掬い上げて、それから急にわたしを見た。


「ハルカは食べないのか?」

「わたしはもう食べたよ」


 カナ兄は何度か瞬きをすると、フォークに乗っかったりんごを差し出してきた。


「だから、わたしは食べたよ。それに、まだアップルパイ残ってるし」

「いや、ハルカが食べてるところ、見てなかったから」


 小さい頃、わたしはカナ兄に可愛がられていたのだそうだ。本当に小さい頃の話だし、わたしも少ししか覚えてないけど。周囲の大人に聞いたところによれば、カナ兄は幼いわたしにおやつを食べさせて、わたしが美味しいと言う様子を見ては、可愛い可愛い良い子良い子と繰り返していたらしい。

 そんなことを思い出して、カナ兄の中ではいまだにわたしは小さい子なのかもしれないと思って、わたしは渋々口を開いた。隣で食べさせるような行為だって、カナ兄の中では家族の距離感なのかも。

 カナ兄が差し出すフォークを咥えると、ほんのりとシナモンの刺激。口の中に入ってきたりんごのフィリングはとびっきり酸っぱかったけど、絡んだカスタードクリームの甘さがそれも押し流した。


「美味しいか?」

「うん、美味しい」


 わたしの答えにカナ兄は満足そうに頷くと、またアップルパイを切り崩しにかかる。

 その横顔を見て、今はまだ妹枠で良いかと自分に言い聞かせる。わたしがもうちょっと大人になるまでは。

 そう思いながらも、わたしはまだ握った拳を開けないでいた。

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