Extra edition

後日譚 レンズ越しのサマーブルー

 スマートフォンの無粋なシャッター音が、歩行者用信号機の黄色く点滅する交差点に鳴り響く。点字ブロックのすぐ後ろにグレージュのレインブーツの爪先を揃えて立ち止まった百々は、徐にトートバッグを顔の前まで引き上げ、目線を足元のタイルの染みに落とした。

 先刻まで降り続いていた豪雨も今はやみ、強い陽射しに照らされた路面はてらてらとひかりを弾いて、万華鏡のように揺らめいている。台風一過にふさわしく、強風に吹き飛ばされた青葉はそこここにくったりと横たわり、水たまりにはちいさな虫たちの死骸がぽつぽつと浮かんでいた。

 ふたたびカシュー、カシューというシャッター音が何度か響き、百々はいっそう亀のように首を竦める。


「あんたら」


 百々の少し後ろから、声が上がった。

 呆れて振り返ってみれば、案の定、声の主は累である。

 しかしいつにもまして、出で立ちがいかつい。今日の午前中の事情聴取の相手は私立の名高い中高一貫校で、百々も累もクールビズというわけにもいかなかった。それゆえ、累はチャコールグレーのスーツにサックスシャツ、ネイビーのネクタイを合わせている。そこまではいいのだが、先ほど眩しいからとサングラスをかけたせいで、強面度五割増しになっていた。

 少し離れたところで百々の姿をカメラにおさめていた若い会社員風の男性と女性二名の三人組は、あからさまに顔を引き攣らせて累を仰いでいる。


「今撮った写真、消して」


 累がスマートフォンを指差して言う。

 会社員風の男女三人組がひそひそと「マネージャー? ボディーガード?」「やばい方面の人じゃね?」などと囁くのが漏れ聞こえた。


 グリスタの写真をゼロコンマ数秒で次々にスワイプしていくみたいに、世の関心は目まぐるしく移り変わる。けれども、いまだに百々が悪名高い世紀の悪女の忘れ形見であることを忘れずにいる人はいるもので、こうして時折、思い出したように日常にふっつりと影を落とす。

 職場の顔見知りなど、ある程度百々の事情に通じている人間に向けられる奇異の目は、あらかじめ用心しているので受け流せる。しかしこうして思いがけない場所で遭遇するとなると、そうもいかない。いまだにひやりと心臓に氷を押し当てられたような心地になる。


「消してっつってんだけど、聞こえねぇの?」


 累は端末を寄こせとでも言うようにその手を差し出して、首を傾げる。


「境木さん、いいですから」


 たまらず百々が間に割って入って、青になった信号を指し示す。しかし累は一歩も譲らない。今度は女性が「彼氏じゃない?」と声をひそめたのがかろうじて聞こえた。


「分かりました、消せばいいんでしょ、消せば」


 累と同い年くらいの男性が投げやりにそう言って、スマートフォンを操作する。すぐ隣にいた女性もそれに倣って端末をいじり始めた。

 累は累で、なぜか自分のスマホの画面をじっと眺めている。

 少ししてから端末をパンツスーツのポケットに滑らせようとした女性に、累は一歩歩み寄って掌をひらいた。


「見せてくれます?」

「……いい加減にしないと警察呼びますよ」


 女性はそう言いながらも怯えたように後ずさりする。

 さすがにまずいと思って累の腕を取れば、彼は上着のポケットから警察手帳を取り出した。


「残念、ケーサツはもう出動済みなんでね」


 その場にいた誰もが、そんな馬鹿な、という表情になる。

 まさか“やばい方面の人”とまで疑っていた人物が、それとは正反対の立場にある警察官だとは思いもよらなかったのだろう。

 累は思い出したように目元を覆い隠していたサングラスを押し上げ、頭に引っ掛けた。


「今の写真、トリラーに上げたってネタは上がってんだよ。今消すか、それともせっかくのお昼休み、そこのカフェにでも付き合ってくれます?」


 累は自身のスマホの画面を突きつけると、横断歩道を渡った先にあるコーヒーチェーン店に顎をしゃくる。

 後ろの方に隠れていた女性の一人が青ざめた顔でスマートフォンを操作して、消え入りそうな声ですみませんとまくし立てた。

 累は投稿が消えたのを見て取って、小さく嘆息する。


「はい、どーも。許可なく人の写真撮りまくってSNSにのっけたりしないでくださいね。肖像権の侵害で訴えられることもあるし、単純にやられたこっちはいい気がしないんで」


 累は一行にそう釘を刺して、踵を返す。

 そんな問答をしている間に、ふたたび信号は黄色く点滅していた。

 百々は今度こそ横断歩道の前に累と肩をならべて並んで、ぼそっと呟く。


「……職権乱用」


 累も多少は自覚があったのか、こちらをちらりと一瞥しただけで、反駁はしてこない。


「あんなに高圧的な態度に出て、それこそSNSで悪徳警官だなんて吹聴されたらどうするつもりなんですか」

「クレーム入れられたら始末書は書く」

「そんなことで始末書なんか書かないでください。べつにちょっとSNSにのっけられるくらいかまいません」

「根も葉もないこと書かれたら?」

「かまいません」


 百々は即答する。

 百々や百々の身内の不始末のためにSNSにデマが乗るのは、或る意味身から出た錆とも言える。そのために累が警察官としてあるべき正義を捻じ曲げて、まかり間違って処分だなんてことになったら百々はどうしていいか分からない。

 それなのに。


「俺はかまう」


 躊躇いもせずに、累は断言する。

 百々はなにか言おうとして、開きかけた唇を閉じることを繰り返した。

 大事にされている。とてもすごく。百々とてそれは理解できる。モリミヤジンの事件のあとはとくにそうだ。

 だからこそ余計に心にかかることもある。

 果たしてこの男から受けとったうちのどれだけを、返すことができているだろうか。卑屈になるつもりはなかったが、どうしたってそう考えてしまう。

 思えば百々は、十二歳のときにあの海底じみた暗がりから八森に引き上げられて以来ずっと、誰かに与えられるなにかを貪るようにして生きてきた。分け与えられるものなどなにひとつなかったから、与えかたはいまだによく分からない。

 累がこうして息をするように差し出してくるやわらかないたわりに見合うなにかを、この振ればからからと骨が鳴るような身体でどうやったら返せるだろう。そう思うと途方に暮れてしまう。


 百々がじっと見つめているのをどう取ったのか、累は首筋をさする。


「あー。態度と言葉遣い? に気をつけりゃいいんだろ。次からそうする」


 累も一応反省はしたらしい。彼の先ほどの言葉は正論だったが、やり方にはやはり少々問題がある。累の振る舞いは、八森にもしばしばたしなめられていた。

 しかしまあ、なんとも説得力がない。百々は脱力してしまう。今度からは百々も撮られたときは自分でやめるように主張するか、せめて累の暴走は止めようと心に決めた。


 青信号になった横断歩道を今度こそ渡る。

 向かいから歩いてくる人たちがやたらとこちらを見ているような気がして、百々は俯く。息がくるしい。自意識過剰かもしれないが、あのようなことがあったあとは少々敏感になってしまうのはいたしかたなかった。

 横断歩道を渡り終え、しばらく行くと小さな公園が左手に見えてくる。

 ブランコと鉄棒、滑り台とベンチがあるだけの昔ながらのそっけない佇まいだ。郊外ということもあってか、わりにグラウンドが広い。真昼間だからか人っ子一人いなかった。

 その前には目の覚めるような夏空の色をしたキッチンカーが佇んでいた。ギンガムチェックのシャツを着たお兄さんが、紺色のエプロンをして車の中から控えめな呼び込みをしている。サンドイッチを売っているらしい。


「食ってかねえ?」


 累が公園を指差して言う。路面は灼熱地獄だったが、公園には濃く木陰ができていて、気持ちがよさそうだ。

 けれど、周囲に視線を走らせて百々は躊躇う。公園には囲いもなにもなく、道路から丸見えだ。さっきのことがあったあとだと、どうも気が乗らない。

 百々が返事にまごついていると、累がおもむろに頭にかけていたサングラスをつまんで、ハンドタオルでさっと拭く。それから、ん、と言って百々に寄こしてきた。


「それかけてりゃ、ゲソつけてる奴も逃げてく」

「ゲソつけてる?」

「暴力団関係者の隠語」


 それはかけているのが累だからではないだろうか、と百々は内心思いつつ受け取る。

 明星の事件のときにも見たサングラスだった。縦幅の狭い、パープルグレーがかったレンズの、いかにも輩っぽい代物。ところどころ傷ついているが、日頃からよく手入れされているのか一点の曇りもない。

 おずおずとつるを耳に引っかけて、ブリッジを鼻の頭に押し当ててみる。グレーがかって褪せた色をした世界に目をぱちくりとしながら、百々は顔を上げた。

 すぐ横で、累が噴き出す。


「似合わねぇ」


 百々は憤慨してブリッジを下にずらして、横目で累を睨んだ。


「分かりきっていたことですよ。境木さんが似合いすぎなんです」

「俺にも似合わねぇ時代があったんだよ」


 疑わしい思いで、百々は累を仰ぐ。

 他人の顔のことをあれこれ言いたくないが、累は前世から輩ファッションが似合いそうな顔立ちをしている。

 累はふたたび口を開く。


「お守りだっつってヤーさんがくれて、似合うようになるまでに結構かかった」


 響いた声音は、沫雪のようにひそやかだった。

 法村が。

 そうか、と思う。だから以前累は明星のサイコメトリーにあれほど動揺したのかもしれない。

 百々はサングラスのつるにそっと触れる。累をすくいあげた顔も知らないそのひとに、心のなかで頭を垂れる。

 法村がいなかったら、もしかすると百々は累に出逢えていなかったかもしれない。このぬくぬくと頬を寄せたくなるような心地よい日だまりを、生涯知ることはなかったかもしれない。そうしたら百々は当たり前のように人を殺して、母のように首を吊っていただろう。

 百々はちょっと考えてみる。サングラスひとつ自分の身体の一部にできずにまごついていた頃の累のこと。法村からもらういたわりに、天邪鬼な態度でしかいられなかった頃の累のこと。正直ほとんどイメージもつかなかったが、そういう時代を経て今の累があるのだと思うと、なんだか励まされる心地がした。


 百々はブリッジを上げて、レンズ越しに辺りを見渡す。

 悪目立ちしている気がしないでもなかったが、レンズ一枚分の隔絶が、百々の背筋をしゃんと伸ばして目線を上げさせる。


「最強だろ」

「かもしれません」


 アニメか漫画みたいな累の台詞に、百々はあるかなきかの笑みを引っかけつつ応える。

 今日の空と同じ夏空色のキッチンカーに並んでいくつかの品を買い求め、公園をふたり占めする。ベンチにハンカチを敷いて、四種類買ったサンドイッチを几帳面に並べ、その両サイドに分かれて腰掛けた。まだ多少ベンチは湿っていたが、これくらいなら許容範囲だ。

 種類のちがうサンドイッチをすべて半分に分け合って、百々は水筒を取り出す。正面にあるブランコの柵にはすずめが三羽留まっていて、ちゅんちゅんと愛らしい鳴き声を上げていた。

 健啖家ではないので四つもサンドイッチを食べられるかと思っていたが、あっという間にひとつ残らず胃袋におさまってしまう。最後に食べた照り焼きチキンサンドは絶品で、タレの味が絶妙だった。

 食休みの間、百々も累もほとんど言葉を交わさなかった。ただ黙って、すずめたちの囀りや、さやさやと揺れる梢の音を聴いていた。首を反らして見上げた空は高く、グレーがかったレンズ越しにも鮮やかな青色をしている。満腹感と心地よい静寂に、とろとろと眠気が忍び寄ってくる。


 暫くしてから、なあ、とやわらかな声に揺り起こされ、百々はサングラス越しに累に目をやった。


「フルーツサンド、八森さんに買ってってやんない?」

「メタボが加速します。最近は境木さんまで甘やかすんですから」

「いちばん甘やかしてるやつがなんか言ってら」


 累は組んだ足に頬杖をついて、百々を見上げる。


「だめです、今度の水曜日の境木さんの誕生日会の焼肉屋さん、スイーツも評判のところにしちゃっ――あっ」


 百々は口元を手で押さえる。

 そっと累を盗み見れば、眦に皺をつくって首を傾ける。


「こないだ水曜の予定聞いて空けとけっつってたの、それ?」


 百々はむっつりと黙り込むが、今さらそうしたところで後の祭りだ。

 八森から累の誕生日が来週の水曜だと聞いたのはつい先日のことだった。それで百々は八森に相談して、人生で初めてのサプライズパーティを企画したはいいのだが。サプライズのはずが、みずから暴露しているのだから世話はない。

 ちょっとばかり寝ぼけていて抜かった。


「慣れねぇことすっから」


 累はふはっと笑みを大気に絡める。

 大きな口から歯並びのよい歯が見えるこの累の笑いかたが、嫌いではないと百々は思う。


「……いけませんか」

「いんじゃね?」


 累はまだ楽しそうに笑いながら、サンドイッチを包んでいた惣菜袋をまとめている。律儀に、百々のハンカチまで綺麗に折り畳んでいた。


「んじゃ、あのへたくそな欲しいものリサーチはやっぱ、なんかくれるつもりだったの?」


 累は百々の反応を窺うように、横目でこちらを見やりながら続ける。完全に遊ばれている、と感じながらも強く出たら出たで動揺しているのが筒抜けになると思って、百々はつんと押し黙る。


「怒んなよ。噛みしめてんだから」

「……噛みしめる?」

「相棒から、大事にされてんなって」

「だ――っ」


 その言葉に、累を睨みつけたいような、今にも叫び出したいような、その場から裸足で逃げ出したいような衝動に襲われる。けれど百々はそのどれもせずに、やたらと熱く潤んだ視界をきゅっとひきしぼって、唇を結んだ。

 サングラスの作りだす防衛線に力を借りて、仰向く。累を見つめる。木洩れ日を写しとったその眸は、まばたきをする間にもひかりと翳が踊るようにその濃淡を変えていた。


「……大事にしたいと思っています」


 ほとんど吐息じみた百々の言葉に、累は目を見ひらく。それにちょっと胸のすく思いになりながら、百々は現金にも、今の累の顔をレンズ越しにしか見られなかったのはちょっともったいなかったなとも思う。


 百々はいまだに何度も夢に見る。

 母のこと。モリミヤジンのこと。それから、モリミヤとの対決前夜、傘を差しかけてくれた累のこと。

 この口の悪い、けれど雄弁な男が、身動きもできなくなるような過去を引き摺って、たどたどしく言葉を尽くしてくれたとくべつな日のこと。

 あの夜の累の言葉が、モリミヤの額に銃口を突きつけて引き鉄に手を掛けた百々を、こちら側に引き戻してくれた。年中雨降りで洪水を起こしている水はけの悪い土壌みたいな胸に、未練と執着を芽吹かせた。

 あのとき引き鉄を引いていれば、百々はきっと楽になっただろう。雨音はもう聴こえず、誰の声も聴こえず、満たされて死んでいっただろう。でも累は、この呪わしくも慕わしい音を聴きながら、楽ではない道をともにゆこうという。

 他人の痛みや苦しみを理解することができるというのは、幻想だと百々は思う。まるごと正確にそのかたちをかたどることなど、決してできやしない。百々が累の喪失の痛みをこの胸におぼえることができないように、累もまた、百々の母への憎しみも怒りも哀しみも罪悪感も淋しさも恋しさも理解できない。畢竟ひとは、どこまで行ってもひとりでしかない。

 けれど、ひとりとひとり、隣り合って傘を分け合ってそうやって縺れ合うように、生きていくことはできる。そういう歩きかたをしていくことを信じられると思った。累となら。


 だから百々も足を踏ん張って、言葉をかたちにする。

 まだその内側に、累の差し出すもののようにきれいでやわらかなものが詰まっていなかったとしても。それがいつか、中身を伴うように。願って、誓って、言葉を織る。

 今、百々が累に手渡せるものが、いつかの累を生かすように。祈りを込める。


「鳥居はいつ?」

「え?」

「誕生日」

「……十二月」


 ふぅんと言って、累は立ち上がる。

 百々もそれに倣い、ぬかるんだ砂利道を歩きはじめる。


「なら鍋パだな、鍋パ。闇鍋やんねぇ?」

「いやですよ。小学生ですか。そんなのひとりでやってください」

「それじゃ闇鍋にならねぇじゃん」

「やです。牡蠣のお鍋がいいです」

「いい酒買ってこねぇとな」

「ふたりして潰れても面倒見ませんからね」

「なら、鳥居も一緒に潰れりゃいいじゃん」

「大惨事じゃないですか」


 馬鹿みたいなやりとりをしながら、地下鉄への道を辿る。お昼前の息のしづらさが嘘のように、呼吸が楽だった。

 地下鉄へと続く階段の手前、百々は名残惜しい心地で空の青を仰ぐ。

 レンズ越しにぎらぎらと照りつけてくる日のひかりは、いつもより少しばかり手心を加えて、百々を見下ろしていた。

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パラノーマル・ケース 警視庁超常犯罪対策班 雨谷結子 @amagai_y

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