第8話 伝説の銀行員

灰色と赤褐色、街中の色彩はそれだけだった。

 アスファルトの道路は、まるでぼろ雑巾のように荒れ果てていた。

歩行者はいない。すれ違う車もない。

虚無の中を、一台のライトバンが走っている。

赤信号や交通ルール、歩道も車道も関係ない。スピードだって関係なく、ただ走る。

しかし、ガソリンが問題だった。金を置く必要はないが、どこのガソリンスタンドも、ガソリンそのものがすでに盗まれて、一滴も残っていないかもしれない。

どれぐらい走ったのか、体は運転席で凝り固まっていた。

身体を伸ばしたい、同乗している身重の妻も気がかりだった。しかし車を止めて、外の空気を吸う気にはとてもなれない。車から出て、もしも感染者に襲われたらどうする。

それに、深呼吸したくなるような空気ではない。死臭と血の匂い、埃が混じった悪臭が、肺の中を汚すだけだ。

空き缶やレジ袋と共に、人間の死骸が道に落ちている。カラスが群がり、肉を引き千切っていた。死骸はもう名前も性別も失われ、ただのゴミになっていた。

 人間の新陳代謝機能を狂わせ、脳に異常を起こし、理性を失わせ、人間を凶暴化させるウィルスによる、伝染病が国内に発生。

 ウィルスは、人に感染する度にその型を変え、いかなるワクチンも受け付けず、また、製造が追いつかなかった。

 その結果、国内の感染は急速に広がった。範囲は国内だけにとどまらず、海外にも広がっているらしい。

 アメリカは人口の半分を失ったという。

 ウィルス発生からたった半年のことだった。地球は死にかけている。

 子供の頃、世紀末や、世界滅亡をテーマにした作品、映画や漫画、アニメで見たことのある光景が、延々と続いている。

「……本当に、あるのかな」

 助手席の妻が、小さな声で嘆いた。

「あったら、いいわね」

「……」

 男は、フロントガラスを凝視したまま、声を投げた。

「あのクソとゴミだけの人間の場所より、ひでえとこなんかあるか」

「どこだって同じだって、あの避難所のおじいちゃんが言ってた。集団で固まって、何かを我慢する生活になったら、誰だっておかしくなるし、どんな良い人だって嫌な奴になるって。人間て、自分が生きるのに最優先って、遺伝子にプログラムされているんだって」

「それで、俺たちは今が流行りの避難所ジプシーか」

 男は笑った。

「避難所生活の人間関係や、煩わしさに耐えかねて、ここよりもっと良いところはないか、配給が多いところや、分け前が多いところはないかって、あちこちをさ迷い歩く移民か」

妻が腹を撫でた。

「……あなたが、あなたなりに、私と子供を何とかして守りたいって行動している気持ちは分かってる」

「……」

「避難所で感染者が出た時、真っ先に人身御供にされるのは、逃げるのが遅い妊婦だもの」

 男は黙った。

 配給の少なさや、何事にも不便な生活は、仕方が無いと何とか慣らせることは出来る。

 だが、一番の問題は安全だった。感染者はどんどん増え続けている。感染者が避難所に押し寄せて、一晩で全滅するなど珍しくもない。自衛隊、警察、消防の機構そのものが、人手不足や感染者発生によって、崩壊しているのが実情だった。

 自分で我が身を守るしかない。

 自然、避難所は弱肉強食の世界になる。小競り合いに暴力沙汰。助け合いどころか、弱者や役立たずは、感染者から逃げる時間稼ぎに、生餌にされることすらあった。

「お前と子供のためにも、俺は、あの噂を信じたい」

 妻は淡く笑った

「喰人ウィルスが世の中で最初に発生して、国が自衛隊を使って封鎖した街でしょ。あれからもう、ずっと封鎖されたまま誰も出入りしていないって噂よ。誰がその町を見て知っているの?」

 報道やニュースそのものが瓦解している。ネットもSNSもあてにならず、情報はあるが、ガセネタか真実か、見極める事すら不可能だった。

 そうなると、なぜか信憑性が出てくるのが「人の口から出た噂」というものだった。昔なら一番あてにならないと思われていた情報が、体温というものをまとって、真実に思えてしまう。

 妻の言葉も承知していた。しかし、男は虚実よりも、希望を必要としていた。

「感染者は、二日も食わなきゃ死んでしまう。封鎖された町の人たちは、リーダーの元に力を合わせて感染者から逃げ回り、そして戦った。町は外部から遮断されているから、外から感染者が入ってくる恐れはない。その内、感染者は自然減少する」

「……」

「もう、その町に感染者はいない。住人たちは、力を合わせて畑や田んぼ作って、川の魚を取ったりして自給自足で生活しているらしい」

「平和なのね。今までいた避難所って、皆が力を合わせるなんて考えられなかった」

「町が封鎖されて、感染者が大量に出てきたときに、避難所の住人たちを守った男が、今のリーダーになった。町の人たちは、命の恩人でもあるリーダーに、絶対に逆らわないそうだ」

前の避難所の奴に聞いた、と男はつないだ。

「そいつは、ガソリンの調達のために『橋を渡って』外に出てきた住人に会って、その話を聞いたっていうんだ。でもそいつは信じず、俺に夢物語だって言ったんだけど」

 車を走らせるうちに、無人の工業地帯に入った。

荒れ果て、錆の風景の中に人はいない。

「あと五分も走ったら、川沿いに出る。その町は、橋で外をつないだ中洲のような地形になっているんだ」

 橋が見えてきた。鉄の残骸のような装甲車が何台も並び、鉄条網が張り巡らされ、まるで茨に閉じ込められた王国のようにも見える。

男の妻は、お腹の中にいる我が子を撫でた……パパを信じようか、と話しかけ、顔を上げて夫を見つめた。

「ねえ、その住民たちを守った凄いリーダーって、どんな人なの? 警察官とか自衛隊?」

 男はややひるんだ。

 理想郷を信じることは出来ても、そのリーダーの正体の部分に疑問はあった。

 しかし、もっともらしい職業よりも、妙なリアルがあったのも事実だ。

男は答えた。

「元、銀行員らしい」  

                            了



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喰人輪舞 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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