第7話 恋と食の最終決戦・避難所にて
一体どこから来たのか、発生源も感染経路も未だ不明。
形は狂犬病に酷似していて、空気感染や飛沫、接触感染はない。だが、経口感染の危険性が極めて高く、類を見ないほど強い感染力を持つ。
潜伏期間はほとんど無い。ウィルスが体内に侵入すればすぐに発症する。
今のところ、キャリアの報告はない。
症状として、新陳代謝の異常な亢進と、それに伴う理性の破壊。行動が凶暴化し、他者に対する攻撃性が増幅する。食人行動は、その関連なのか。
政府は、この感染病を指定感染症の第一類と指定。ウィルスの感染の国内での拡大を防ぐとともに、感染者の隔離を行うことを決定。
感染拡大の恐れが高い区域を封鎖し、その近隣住民を避難させ、隔離する。
周辺全ての徹底した消毒により、ウィルスを死滅。
今現在、ウィルスの特効薬は未完成であり、完成の見通しも無い。
感染しているとみられる住人は……
山田三曹に課せられたのは、この東苑和町区域の住民を、全員避難所にて隔離し、外の消毒作業が済むまで監視するというものだった。
緊急事態だった。避難といってもほとんど強制連行に近く、住民の反発は当然予測されるものだった。
理由も状況もよく分からないまま、こんな場所に閉じ込められた住人の反感が、何かの拍子に火がつき、暴動に燃え上がる懸念もあった。
銃の携帯は、危険な感染者への対処だけではなく、暴動が起きた際の鎮圧用でもあった。
しかし。
……ちがう。
目の前の光景に、手や足が震えた。
今まで、任務で災害地に赴いたことが何度もあった。中東の紛争地帯も経験がある。
本格的な戦闘経験は無くても、日常を奪われた人々の悲劇や、絶望の風景を幾度もこの目で見つめ、そして冷静に対処できるだけの経験は積んだと、自分ではそう思っていた。
「……っ……ぅうっ……」
「――っ」
人間の咽喉から出ているとは信じられないような声が、音が体育館に充満し、反響していた。
獣というには、おぞましすぎた。人の姿をした獣鬼たちが同胞を食いちぎり、引き裂いている光景は、戦争という殺し合いではない。暴動でもない。
人と人の争いを超えた狂気の風景に、山田三曹はなす術もなかった。
――感染者は射殺しろ。
目の前で繰り広げられている惨状に、思考はついていけない。しかし、前もって下されている上官の命令が、勝手に体を動かしている。指を動かし、銃のトリガーを引く。
この世を作ったのが神なら。
ここは、気の狂った神が作った世界だ。
撃った。ひたすら住人を撃った。
傷口から血を流していると見れば、射殺した。この場にいる怪我人は、感染者に襲われての負傷の可能性が高い。この瞬間は常人でも、ウィルスによってすぐに食人鬼に変貌する。
銃を向けた相手の口から、命乞いを聞いた気がした。死に逝くものから、憎しみと呪詛を吐かれた。しかし、任務と狂気に溺れた山田三曹は、他者の言葉が分からなくなっていた。
悲鳴が上がった。
同僚だった。複数がかりで押し寄せられている。ヘルメットを奪われ、頭部が剥き出しになった。同僚の銃によって、住人が二人倒れたが、あっという間に同僚は食人鬼たちの中に消えた。
気がつくと、自分と同じ、白い防護服姿がほとんど消えている。立っている自分の仲間は、もう半数以下になっていた。後は死んでいた。
悲鳴が聞こえた。
「暴動発生! 感染が拡大!」
「指示を! 本部、しじ……」
指令を求める声が響き渡った。上の指示に従って動く組織は、方向を定めなければ動けない。勝手に動けば作戦の成果そのものが出せず、崩壊するだけだ。当然、どんな状況下においても本部は常に無傷であるべきだ。
その本部から、指示が来ない。どうなっているんだと、山田三曹は声なき絶叫を上げた。
「総員、退去!」
上司の声が轟いた。
「この場所を封鎖しろ! すぐにここから離脱する!」
五〇人はいたはずの仲間たちは、一〇人も残っていなかった。
食人鬼と、生存者の間を山田三曹は駆け抜けた。体育館の出口に向かってひた走る。どうやらパニックの最初に人が殺到して、将棋倒しが起きたらしい。折り重なった住人たちの山が出来ていて、出入口は閉まったままだった。
「早く出ろ!」
仲間の防護服が、死体を踏みつけながら体育館のドアを開いて叫ぶ。
他の自衛官たちが次々と外に飛び出していく。
「待て! 住民たちを置いていく気か!」
怒鳴り声が叩きつけられた。
「ここは封鎖だ! もう我々の力では抑えきれない。こうなると、この場所から感染者を外に出さないことが優先だ!」
仲間が怒鳴る。
そうだ、と山田三曹は、沸き起こる罪悪感を押さえつけた。
もう、ここは壊滅同然だった。生き残りも感染者も入り乱れ、誰を助ければいいのかも分からない状態だった。助かる可能性すら無かった。
そうなると、次の悲劇を防がなくてはならない。一番の懸念は、この避難所から感染者を外に出して、更に感染の拡大を引き起こしてしまう事だ。
多大な犠牲を防ぐためには、非情にならねば。
背中に燃え上がるような視線を感じた。山田三曹はつい振り返った。
そして、一瞬後悔した。中学生くらいの娘を抱えた父親が、燃え上がるような目で、逃げ出す自衛隊員たちを睨みつけている。だが、その父親の背後に迫る食人鬼たちの姿を認めた時、自衛隊員たちは、この親子の運命を決めつけた。
「何をしている、早くしろ!」
「待て!」
生き残ったわずかな住人たちが、開いた出入口に気がついた。殺到する前に、自衛隊員たちは外に飛び出し、ドアを閉めた。
鉄製のドアがミシミシと鳴った。内側から狂ったような振動が伝わるが、山田三曹は必死でそれを抑え込み、仲間と閂をかける。
地獄から追いかけてくる、亡者のような呪詛を聞かされながら、仲間たちと一緒になって、体育館に生存者ごと食人鬼を封じ込めた。
生き残りの住民に対する謝罪も辛さも、良心の呵責も感じないほど、山田三曹は擦り切れていた。頭の中はぼろ雑巾が突っ込まれたように、使いものにならない。
他の隊員も同様だった。へたり込む者、呆然と立ち尽くす者、それは防護服を着た幽鬼だった。
ようよう声を出したのは、一番階級が上の隊員だった。
「……撤収だ、本部に報告して、迅速に作業を……」
「待って……」
誰かがそれを遮った。
「あれを……」
不吉な風に気がついたのは、その時がようやくだった。山田三曹は体育館の外、運動場の風景に気がついた。
運動場には、装甲車にジープ、トラックが数十台停車し、すぐに動き出せるように、ドライバーと共に待機中のはずだった。
その全ての車体が横転し、ひっくり返されている。しかも、事故や衝突のせいではない、まるで巨人の手によって返されたようだ。
自衛隊員たちは目を剥いた。普通の車よりも装甲が厚く、装備が施されている車体が、大人数の手によってでも、簡単にひっくり返されるはずがない。
そして、その周辺に散らかっている死骸。
全て引き裂かれ、ぶちまけられ、まともな人の形をとどめたものは無い。
地獄の外に出たと思った。だが、自分たちは脱出したのではなく、次の地獄に移動しただけだと「死」が目に突き刺さる。
てっしゅう……誰かが虚ろに嘆いた時だった。
「あれは……?」
横転したトラックが、不自然に揺れている。そのギイギイと狂った軋みに、山田三曹は生存者の希望を見つけた。
大きくトラックが揺れた。わっと皆が叫ぶ。
「どおおおおぐぅぅぅやぁぁぁぁ」
巨大な影がトラックから飛び出し、横転したトラックのてっぺん部分に着地した。
大音響が轟いた。ミシィッと鉄が軋んだ。自衛隊員たちは、枯れた悲鳴を上げた。
怪物は、吼えながら飛び降りたトラックを掲げて持ち上げ、投げ捨てた。
「どごよお、どぐやはどこぉぉぉおっ」
横転したトラックが、通常の位置に着地した。怪物はぐるぐると周囲を見回し、そして山田三曹たちに気がついた。
「どぐやあああっ」
地響きを起こしながら、突進してくる巨大生物に自衛隊員たちは凍りついた。
何だ、アレは。
山田三曹は恐怖に絡めとられ、口を開閉させるのがやっとだった。
封じ込めた感染者たちは、少なくとも人間の姿だった。だが、これは人間というには巨大過ぎる。肉で出来た土管。異形そのものだった。
まるで妖怪が中途半端に人間に化け、服の代わりにボロキレを巻きつけて、人間らしさを装いながら、かえって大失敗しているような姿形。
「うあぁぁああああっ」
錯乱した自衛隊員が、怪物に向かって銃を乱射した。
それは銃弾をかわしながら接近し、ひらりと宙を舞った。そして狙撃手の上から落下した。
ぐえ、とひしゃげた声と同時に、彼は怪物の下で潰れた。
怪物の目が赤黒く光り、自分が潰した男の手足を引き千切り、仲間たちに投げつける。
「おじえろおおおおっ! どぐやはどこだあああっ」
「ぎゃあああっ」
次に銃を構えた仲間は、銃筒を掴まれ、そのまま壁に叩きつけられた。壁が陥没した。
逃げようとした仲間は、グローブのような手でヘルメットごと頭を粉砕された。
「どぐやはあああっ」
目の前に怪物が迫った時、山田三曹は、自分が最後の生き残りであることに、ようやく気がついた。
肉迫する怪物の息は、毒ガスさながらだった。至近距離での有毒な二酸化炭素に、山田三曹は気が狂いかけた。
どぐぅううやあああ。
怪物の咆哮には、わずかに人の声の響きがあった。
どごよおおおおお。
こいつは、誰かを探しているのだと、暗黒の意識の中で山田三曹は理解した。
手が勝手に上がった。
指が体育館を示していた。
ぞごかああああああぁ。
目をきつくつむり、山田三曹は頷いた。もう生きる気力も希望も失っていた。
目を閉じて見えない中、ぐう、と掴まれた首根っこを感じた。体が強力な遠心力によって振り回され、体重が消えるのを感じた。
ああ、俺は空高く放り投げられて、落下するところだなと分かった。
砂地らしい場所に、叩きつけられて首が折れる。
不思議と、痛みは無かった。
「待て! 住民たちを置いていく気か!」
悲痛な怒鳴り声は、鉄製のドアに跳ね返った。
ドアはそのまま閉じられた。外から鉄の軋んだ音がした。
それだけで、十分思い知らされた。
見捨てられた。
広志は、呆然となった。自衛隊が、自分たちを守ってくれると信頼していた組織が、この場から逃げ出してしまった。
武器も持たず、戦闘の経験も無い。全くの空手だ、そんな我々だけで、どうしろというんだ? その問いの答えは明白だった。
『ここで喰われてしまえ』
「おとうさん……」
胸元を掴む娘の手に、広志は気がついた。泣き出さんばかりの娘の顔へ向かって、広志は声を荒げた。
「泣くな、泣いたら消耗するぞ!」
肉片を蹴り飛ばして、血の床から広志は立ち上がった。このまま、家族ともどもあっさり殺されてしまうのは、自衛隊に対しても、運命に対しても、本当の敗北だった。
娘の前で、父親が簡単に諦められるか。
ゆらゆらと向かってくる喰人鬼を、拡声器で殴り倒す。喰人鬼、人間、屍骸の中で、広志は絶叫した。
「里美! 秀! どこだぁ!」
瞬間、強烈な音が耳をつんざいた。ホイッスルだ、広志は音の方向を探す。
斎藤家の登山リュック兼避難グッズには、笛が入っている。遭難時や、がれきの中で埋まった時などに、自分の居場所を知らせるためのものだ。
秀の声が轟いた。
「お父さん、姉ちゃん! こっち」
体育館の二階部分、張り出した通路から、秀が手を振っている。
「秀!」顔を上げた真理の顔が、歓喜に変わった。
体育館の奥、二階へ上がる階段へ顔を向けると、里美が目の中に飛び込んだ。
「早く、お父さん!」
階段を背にして、真っ赤に染まったバールを持った妻が叫ぶ。その間を潜り抜けるように、一人二人と住人が二階へと駆け上がっていくのが見えた。
二階へ上がる階段は、あそこ一か所しかない。広志は瞬時に悟った。生き残りを二階へ上げて、階段を封鎖してしまえば、喰人鬼から時間を稼ぐことが出来る。
外へ脱出するチャンスが見つかるかもしれない。
階段へ近づく喰人鬼を、バールを手にして蹴散らす妻の雄姿は、高校時代『学園の守護鬼神』と銘打たれた風紀委員長が蘇ったようだった。
「みんな、あの二階へ上がれ!」
逃げ惑う生き残りへ向けて、広志は怒鳴った。
「行くんだ、あの階段へ向かって走れ! あそこまで行けば、俺の嫁が守る!」
転んだ男を引き起こし、泣き叫ぶ女性の肩を捕まえて、妻が守る階段を指さして叫んだ。
「二階に上がるんだ!」
錯乱して、泣き喚く娘をひっつかんで立たせ、誰かに託す。転んだ男を立たせて走らせる。
生存者を探す広志の目に、知っている少年の顔が飛び込んだ。
「掛井くん! 怪我でもしたのか!」
血だまりの床に座り込み、足を延ばしているのは間違いなく、あの掛井得也だった。
血まみれの顔と手足。しかし、目は間違いなく意思を持つ人間の色だ。喰人鬼ではない事に、広志は安堵した。生存者は多いほど良い。しかも、まだ彼は子供だ。
「早く二階に行きなさい!」
「二階、な……」
得也が目を上げた。二階通路には、生き残った住人が集まりつつあった。それを見る目は、場違いというより、異端なほどの落ち着いた物腰だった。
「結構、今は腹が膨れてるけどな……まあ……」
どうせ、また腹は空くんだ。よっこらしょ、そんな動きで立ち上がった得也に、広志は驚嘆する思いだった。確かに、多少変わった少年とは感じていたが、人間離れした落ち着きぶりだ。逆に狂っているのかと思うほどに。
「はやく……」
広志の言葉に、野獣の咆哮が重なった。
「どおぐうううやああああああ」
――空気が重く震えた。
血染めの凄惨な空間に、黒い不吉が混じった。その禍々しさは、二階に逃げ込んだ人々を新たな恐怖に震わせ、ヒトの意識を失った喰人鬼ですら、動きを止めたほどだった。
得也が凍りついた。
鼓膜を切り裂く、大音響が世界を揺るがした。
「うわああああっ」
人々の悲鳴が上がった。喰人鬼までもがおののいた。
さっきまで体育館を封鎖していた、重厚な鉄の扉が空を飛んだ。鉄の巨大な板は、数名の喰人鬼を跳ね飛ばして床に落ち、地面を震わせた。
「どおおおおおおおおぐううううういやあああ」
ドアからの日差しが逆光となり、侵入者を黒く照らす。
埃っぽい風が館内に吹き込んだ。
風は体育館の床を染める血と死の匂いを、大きく巻き上げた。
まさか。
広志は咽喉を喘がせた。間違いなかった。昨夜よりも巨大化しているような気がしたが、それでもシルエットは「アレ」だ。
いかんいかんと広志は訂正した。「アレ」ではない、彼女は菅田梨恵という名の、東園和地区のれっきとした住人なのだ。この体育館に避難してきたとしても、おかしくはない。
しかし、どう見ても「命からがら避難してきた住民」には見えない。ゾウの妖怪にボロキレを巻きつけたような姿は、むしろ喰人鬼側に見える。
いや、喰人鬼とはレベルが違う。
むしろ、もっとヤバい存在のような気がする。危険ブザーが生存本能に鳴り響く。広志はつばを飲んだ。
自治会から預かっている、菅田家への見舞金が入っている胸ポケットを押さえた。
「か、菅田さんちの……」
「どぐやはどごおおおおおっ」
体育館が、ピリピリと震えた。
『アレ』こと菅田梨恵の手が、立っていた喰人鬼の頭を掴むのを見た。
喰人鬼は、頭をリンゴのように持ち上げられた。空中でじたばたと身をよじり、足掻くが、それは全く意に介されないままだった。梨恵は口を大蛇のように開いた。そのままぱっくりと喰人鬼の頭は丸呑みされた。
梨恵の手に、手足のついた胴体のみが残った。
「まずういっ」
我儘な幼児が、おもちゃを振り回して駄々をこねるように、胴体が振り回された。
「ひぃえぇっ」
広志はバックステップした。頸部からあふれ出す血が、スプリンクラーのようにまき散らされる。
「な、なんてことだ、あの娘も感染していたのか!」
「今頃気づくな! 間抜け!」
年長者に対する、得也の無礼を諫めるより、感染した相手に見舞金を渡して良い物なのかという迷いに、広志は襲われた。
「どくやを出せええええっ」
「うわわわわわっ」
梨恵が、次々と喰人鬼が掴み、床に転がる死骸を拾い、あちこちに投げつける。その行動は怒り狂った幼児が、床にあるおもちゃを掴んで投げつけるがごとくだった。空を切り裂くように人体が飛ぶ。広志は頭を抱えて伏せた。ぶつけられて巻き添えになったら、目も当てられない。
腹に響く重い音を立てて、体育館の壁にいくつもの喰人鬼が激突した。壁がへこんだ。下手に動けない。
「どぐやをだせえええっ……んんっ!」
何かに気がついたように、梨恵は掲げた屍骸を下ろした。グルグルと顔を回す。鼻の穴が大きく開き、ぴくぴくと動いた。
「……どぐやのにおい!」
ぐるっと音を立てて、梨恵の顔が横へ回った。梨恵から視線をぶつけられ、うわあああと広志は得也を背後に回し、悲鳴で命令した。
「に、にげるんだ掛井くん!」
「……」
「は、はやくにげろぉっ」
動かない気配に、広志は振り向いた。そして、息を呑んだ。
……得也は、立ち上がっていた。鋭く、怒りと決意を煮詰めた目で。
どけ、と得也の口が動いた。
「邪魔だ、どけ!」
「ど、どけではない! 大人として君を……」
守らねばならん、と広志は得也に取りすがる。その時、猛烈な力が広志を吹っ飛ばした。
床に叩きつけられ、思い切り腰を打った。周囲は散らばる死骸だらけだった。痛みを堪えてようよう起き上がると、五メートル離れた場所で、梨恵と得也が対峙していた。
「かけい……」
「邪魔だ、さっさと消え失せろ!」
声が雷鳴のように叩きつけられた。
「貴様が役に立つか!」
得也の燃え上がる目が、広志を射抜いた。
――その時、広志の脳裏に去来したのは、日本軍とペリリュー島の逸話だった。原住民を戦いに巻き込まないために「貴様ら原住民と一緒に戦えるか!」と、あえて彼らに暴言を投げつけた軍人の気概。
精神が鞭打たれた。
「そうなのか、君は……」
心の底から、広志は恥じた。
ひねくれた可愛げのない少年と思っていた。顔は良いけど、そんな性格では将来苦労するぞと。
しかし、俺は君を誤解していた。間違っていた。
広志は、梨恵を見た。
彼は、男として責任を取ろうとしているのだ。彼女をあんな風にしたのは自分だと。
たとえどんな姿の女子であれ、幼馴染を結果的に傷つけたのだ。その結果、ここまでこじれた泥まみれの関係に、この場で決着をつけようとしているのだ。
そうやって、かいじゅ……いや、彼女を引きつけておく間に、我々に逃げろと、そう言っているのか。
そうだ、と広志は気がつく。
ここで横たわる二人の関係は、大人と未成年という役目ではない。役目を持つ男同士だ。
感染した彼女への思いを全うする役目を持つ男、そして、自治会長という役目を持つ男。
「分かった」
広志は立ち上がった。
「住人は、俺に任せろ」
生き残った住人を、今度こそ安全に避難させねば。
「頼んだぞ、掛井くん!」
どくやあああと、咆哮が響き渡った。
「みづけだああああっ」
梨恵が得也に突進する。注意が完全に逸れた、その隙に広志は一階に残された住人たちを探した。
そこで、床に転がる母親にしがみつき、泣き叫ぶ幼女を見つけた。母親は懸命に娘を押し戻し「逃げなさい!」と悲鳴を上げているが、娘は離れようとしない。
足を捻挫して、動けないのだ。広志は母娘に駆け寄ると、問答無用で母親を担ぎ上げた。娘の手を握ったが、喰人鬼が数人、こちらに気がついた。
ぎくしゃくと近づいてくる。二人を抱えて、突破する決意に広志は身構えた。その時、笛の音と共に、知らない声が轟いた。
「自治会長、こっちだ!」
広志は驚嘆した。数メートル先にそれぞれ二つ、ロープをくくりつけた車のタイヤが上から吊り下げられている。住民の男が叫んだ。
「お母さんと子供の体を、タイヤの中に入れてくれ! 俺たちが上に引っ張り上げる!」
「おう!」
タイヤにくぐらせた母子の身体が、ゆらりと浮かんだ。二階へと引き上げられていく。
「お父さん!」
バールを手にして、階段の前の里美が怒鳴る。
「早く来なさい!」
「わ、分かった!」
もう生存者は全て二階に上がったことを確認し、広志は叫んだ。
階段の中に飛び込み、里美と二人で階段口のドアを閉めた。
閂をかけた瞬間、腰が崩れ落ちそうになったが、ここでへばると死に直結する。気力でもって広志は足に力を入れた。
里美と共に階段を駆け上がり、踊り場に出た。
「お父さん!」
目の前が一気に広がった。ボールにネットなど、体育用具の備品置き場としても利用されている場所だ。タイヤも体育授業で使う部品だったらしく、三つほど積み上げられている。
そのタイヤで救助された母娘が、数人に囲まれながら、抱き合って泣いていた。
卓球台の向こうから、駆け寄ってくる真理と秀の姿があった。安堵が容量を超えて、気絶したいところでもあったが、まだ早い。
「会長!」
知らない顔が口々に叫んで駆け寄ってくる。感激と涙と感謝の騒音に取り巻かれ、もみくちゃにされながら、広志は横で平然と立っている里美へ聞いた。
「な、な、何人いるんだ?」
「全部で一八人よ」
二階まで上がってくることが出来たのは、避難住民全体の一割にも満たなかった。
若者から中年、老人に子供。年代もバラバラだ。恐怖と疲労に晒されて、無事な姿は一人もいない。家族か友人を失ったのか、呆然自失、号泣している者もいたが、それでも生き残る事が出来た、という安心感が、この踊り場のスペースにあった。
広志は顔を回した。
生き残った住人の中に、自治会の人間や、知り合いの姿を探す。
里美の声が飛んできた。
「ええとね、平川さんは、千田川さんに食べられていて、中田さんは雲山さんを食べて、鴻池さんが千田川さんを……ええと、食べたのか食べられたのか、どっちだったかな」
「……もういい。つまり、自治会の副会長も書記も、主要メンバー全員が喰い合いして全滅か」
自治会の中でも、頼りにも戦力にもならない顔ぶれだったが、それでも今後の避難行動について、相談できる相手がいない。手すりにつかまってへたり込もうとした時だった。
「どぐやああああああああああああっ」
体育館の空気が鞭打たれた。踊り場の住民たちが悲鳴を上げた。
「そ、そうだ、掛井くん!」
広志は踊り場の手すりにつかまって、身を乗り出した。
上から改めて見下ろすと、人間と備品をぶちまけた体育館の床は、酸鼻を極めた。
その中で、波打つ巨体が目に突き刺さった。
得也は、壁を背にして梨恵の前に立たされている。
その体格差に、広志は呻いた。すでに高校生の男女というものを超え、大人と子供という、大小の範囲もすでにはみ出していた。
子供のアニメは、主人公と戦う敵キャラが、異常に巨大にデフォルメされているものだが、まさか現実にあろうとは。
広志は呻いた。
「掛井くんは、あんなの……いや、あの娘と付き合っていたのか」
うむ、確かに相当の覚悟と愛が無ければ、あんな相手とは交際出来ない。度を越した得也の趣味と、男らしさに感じ入る広志の横で、住人たちが手すりに連なっている。
「ねえ、あれ、菅田さんとこの娘さんじゃない?」
「何を食べたら、あそこまで肥えるのかしら」
「ヒトを食べたからでしょ? あの子セガワの事件の生き残りじゃないの」
「あ、あの男の子、掛井さんとこの息子さんじゃないの?」
「えー、まだあそこの息子さん、彼女につきまとわれてたの?」
「だってあの娘、噂じゃ小学生の頃からストーカーしているらしいのよ。そうそう簡単に止めるはずないじゃないの」
「どぐやあああああっ」
ひぇ、と住人たちが耳を押さえた。
「あんだがくいたいぃぃぃっ」
地響きが踊り場を揺らす中、広志は目を凝らした。肉のダンプが得也に向かって突っ込んでいく。
「いかん! 掛井くん、避けるんだ!」
得也が床を蹴った。体が空に舞い上がる。
舞い上がった得也は、突進してくる巨体をかわし、梨恵の頭を踏み台にして、床に着地した。得也を捕まえ損ねた梨恵が壁に追突する。車なら間違いなく、大破だった。
うおおっと二階で感嘆が沸いた。
「よし、仕留めたか!」
「いや、待て! 油断するな、動いているぞ!」
「あいじでいるのよおおおっ」壁から体を引き剥がし、立ち上がった梨恵の咆哮に、ダメージは見られない。
皆は恐怖した。
「あんだがだべだいいいっ」
ビュン、と大蛇のような腕が得也へしなった。捕まえられたら、もう脱出は不可能と思えるほどに太くて禍々しく、そして速い。腕を振り回すようにして襲い掛かる梨恵から、得也はかいくぐるように、タップを踏んで避け、逃げる。
梨恵の繰り出す荒々しい攻撃、捕獲を紙一重で避けている。このままでは捕まるのではないかと、広志は息を止めて見守った。
「凄い。掛井くん、菅田さんの動きを完全に見切っているわ」里美が呻いた。
「でも、逃げてばかりじゃダメだよ。反撃しないと」秀。
「ああやって間合いを詰めてんのよ。きっと懐に飛び込むチャンスを狙っているんだ」真理。
「実力は互角だ。これはスタミナ勝負になるぞ」知らない若い男。
うわぁ、と驚きの声が沸いた。
広志も目を剥いた。
避難所の備品として使われていた会議用テーブル、床に転がっていたそれを、得也が軽々と、本でも拾うかのように持ち上げたのだ。
会議用テーブルが唸りをたてて半円を描いた。その先に梨恵がいる。
「むんっ」
迫るテーブルの角を、梨恵は両腕を交差してブロック。会議用テーブルの木製部分が割れる。だが、それはフェイントだった。ノーガードになった梨恵の腹部へ、得也の折り畳み椅子が叩きつけられる。
まともにヒットすれば内臓破裂、そうでなくてもレバーをやられて昏倒するはずだった。
折り畳み椅子は腹部の脂肪に吸収された。勢い余って、得也がバランスを崩す。
「むだよおおおおおっ」
梨恵が吼えた。折り畳み椅子をもぎ取り、それを放り投げる。
「うわっ」
梨恵が放り投げた折り畳み椅子が、野次馬たちの頭の上を通過し、壁にぶち当たった。そして跳ね返り、再び一階に落下した。
金属が壊れる音が響き渡った。
梨恵と得也が、それぞれ同時に折り畳み椅子を掴んだ。
鉄と鉄が激突した。猛スピードで入れ替わる二人の位置と体勢、椅子同士で目まぐるしく切り替わる攻撃と防御は、人間の目では追いつくことが出来ない。
「何という戦いだ」
広志は息を呑んだ。
いくら彼が男らしく、彼女と向き合おうとしていても、あれはもう完全にかいじゅ……いや、人間性を失っている。話し合いそのものだって無理だ。
この俺が止めなければ。しかし、素手はコワい。何か武器になるものはと周囲を見回した広志は、妻の得物に気がついた。
「おい、里美、そのバールを貸せ!」
ドラゴン殺しならぬ、喰人鬼殺し。幾人もの喰人鬼を叩き潰し、鉄に血が染み渡ったバールである。この場においては最強の武器である。
「待って下さい会長! 危ないです!」
「そうですよ、せっかく助かったのに!」
「しかし、あのままでは掛井くんがっ……」
叫んだ広志の背に、得也の声が叩きつけられた。
「……ぇ手を出すんじゃねえ!」
得也はこちらに背中を向けたままだった。梨恵との猛攻が一段落し、再びお互いの間合いと気を探り合っている。気と気がぶつかり合い、静かな火花を散らしていた。
凄惨な血染めの床の上で、睨みあう二人。それは痴話喧嘩という次元をはるかに超越した、張りつめた緊張感の戦いだった。
その研ぎ澄まされた、強者同士の空間。
手を出すな。その得也の言葉に、広志は再び己を恥じた。
そうだ、これは二人の戦いだ。二人だけの戦いなのだ。
例え発端が痴話喧嘩であっても、今までに見たことのない真剣勝負。その神聖な場に、この部外者が割って入ろうとしたのだ。
そうだ、彼の言う通り。この俺が割り込むなど、掛井くんの誠意に対する冒涜だ。
見届けなくては。
広志は得也の背中を見つめた。そして横に立つ里美へ、バールを返した。
「汚ねぇ手を出すんじゃねえ!」
梨恵への嫌悪と憎悪が、咽喉からほとばしった。
今、目に前にいるのは、只の隣のストーカーでぶではない。
執念は肥大した食欲と混じり、人を超えた怪物となっているのは、得也の目から見ても明らかだった。
不気味な呼吸音、暗褐色の狂気の目に晒されて、得也はめまいさえ感じた。鉛で咽喉が埋まったようだ。
これが、恐怖なのか。
生命の危機、圧倒される自分に、得也は愕然とした。
「どおおぐうやああああ」
怪物の口から流れる自分の名前。そのおぞましさに、いっそ、己の名を捨てたいほどの激情に得也は駆られた。
「あいじでるうぅぅ」
「もうやめろ!」
怒鳴り声で哀願した。体が引き裂かれそうな憎悪で、得也は梨恵へめがけて跳躍した。
その顔面めがけて、折り畳み椅子を振り下ろす。
「むんっ」
梨恵のグローブのような手が、空で折り畳み椅子を挟んで止めた。白刃取りした椅子を、得也ごと大きく横に振る。
両手が椅子で塞がれている。それを狙って、得也は空で脚を梨恵の両目に叩きこんだ。
ぎゃふぅっと梨恵が悲鳴を上げた。いかなる怪物でも、弱点は目だ。
着地した得也の前で、両目を押さえ、雄叫びを上げる梨恵が、ゴロゴロと七転八倒する。
視力を奪えば、勝ったも同然だ。このままトドメを刺せばいい。
得也は安堵の息を吐いた。このまま逃げるという手もあったが、以前から付きまとわれてきたどす黒い記憶と、刻み込まれた恐怖心がそれを制した。忌まわしい怪物を葬り去り、存在を消してしまわなければ、梨恵から一生逃れられない気がした。
「いだいいいいいいい」
両目の痛みに梨恵が咆哮した。咆哮しながら床をいつまでも転がっている。巨肉の樽は、体育館の床を縦横右往左往に転がり続けた。
梨恵の身体の下に、死骸が巻き込まれて潰され、内臓が床にぺったりと貼りついた。死の尊厳もない、正に凶悪なローラーだった。
視力を失っている間に、あの頭を潰してやる。
得也は、床に落ちていた壊れた折り畳み椅子を拾い、パイプの結合部分をねじ切った。歪な先端を持った鉄棒が出来上がった。
「うあああああんっ」
梨恵が転がりながら、得也の目の前に向かってくる。獲物を仕留める高揚感と、決着の瞬間に舌なめずりをした。身構え、鉄棒を強く握りしめる。
その時だった。
「!」
腰の力が、急に抜けた。足がもつれたが、立つことが出来ない。
床にへたり込んでしまった。
立とうとしても、下半身に力が入らない。自分の身体に何が起きたのか、得也は一瞬理解できなかった。目の前に肉のブルドーザーが迫る。
「くそっ」
這い出すような屈辱的姿勢で、なんとかかわせた。のしいか寸前だった。
「何なんだ、クソ!」力の入らない足を罵った時、信じられない音が腹から鳴った。
気がついた。少し前に、同じ症状を起こしたではないか……ハンガーノック。
まさか。得也は青ざめた。さっきまで腹が膨れていたはずの身体が、もうガス欠状態に陥っているのだ。
そして、床について自分を支えている腕に気がついた。呼吸が止まった。
肩口から手首へ向かって、肌が濃く変色している。
緑色の混じった、不気味な茶色。腐食、そんな言葉が頭に浮かんだ。
急速度で失われるエネルギーと、腐食する肉体。それを食い止めるためにも、方法は一つしかない。得也は屍骸で埋まる床を見回した。落ちている腕を掴んで齧る。
「うぇっ」
思わず吐き出した。空腹なのに、体が拒否するほど不味い。多分これは感染者の肉だろう。
この体育館の騒ぎに紛れ込んで、色々な「試食」をして分かった事がある。自分と同族、人を食う奴の肉は、不味くなっているのだ。人を食う奴同士の喰い合いをほとんど見なかった理由に、得也は思い当たっていた。ウィルスに侵されると、人間の味は変わるらしい。
ウィルスに侵されていない新鮮な肉を、感染者は栄養素として求めるのだろう。
散らばる死骸は、感染者か否か、一目では判別できない。
鳴り響く腹の音は、内部から脳みそを直撃する勢いだった。空腹どころか、自分で自分が喰われていくのを感じた。梨恵の泣き声が轟き渡る。
視力を失っている梨恵の巨大肉ローラーの勢いは止まらない。床の上を踏み潰し、備品を跳ね飛ばして暴走する。
次に向かって来られたら、避けきれるかどうか。
「どごよ、どぐやあああああっ」
視力を失った梨恵の絶叫が体育館を揺るがす。場所を感知され、潰されるのも時間の問題だった。
死神が髪の毛を掴む。呼吸が苦しくなって面を上げると、目の中に希望が突き刺さった。
体育館の二階から、張り出す通路がある。そこに大勢の人間が、身を乗り出してこっちを見ている。
どう見ても、感染者ではなかった。目の向こうで連なっているのは、新鮮な肉たちだった。
「……おいっ」
得也は叫んだ。
「誰でもいい!」
肉どもがどよめいた。得也に向かって、口々に何かを叫んでいる。
助けてくれ、おびき寄せるための誘い文句を、絶叫しようと口を開こうとした、その時だった。
「掛井くん、待ってろ!」
男の声が得也の聴覚を叩いた。
見覚えがある男だった。さっき、二階へ行けと言って来た中年男。その時は腹が満タンなので、食わずに見逃してやった。
「すぐ行く!」男が身をひるがえす。周囲が制止しようとするが、男はそれを振り払って消えた。もうすぐここにやってくる。得也は安堵で口を吊り上げた。
あれを食えば力が出る。そうしたらあの怪物を殺し、残った奴らも食ってやろう。
鉄棒を支えにして、得也はゆっくりと起き上がった。男が降りてくる階段を見つめ、食物を待つ。来い、早く来いと念じながら、空腹は限界点を超えていた。
「掛井くん!」
武器らしい鉄の棒を持って、階段を駆け下りてきた男を見た瞬間、得也は凄まじい食欲と至福を感じた。
「どぐややああああああ」
「!」
得也に向かってくる男の背の向こうに、梨恵がいる。
「来るな!」
梨恵へ向かって得也は絶叫した。
「もう見ていられん! 何と言われようが、君を助ける!」男が怒鳴る。
得也は叫んだ。
「やめろ、来るんじゃない!」
突然、男が死骸に躓いて転倒し、脇に転がった。梨恵は男を追い抜いた。
得也は呻き声を上げ、鉄の棒を握りしめた。
「来い!」
殺してやる。
追い詰められた憤怒が、体を焼いた。
転がる巨体が目の前に迫る。梨恵は閉じていた瞼をくわっと見開いた。
「どぐううううやああああっ」
「畜生!」
絶叫しながら、得也が鉄の槍を振り上げる。梨恵が肉迫する。二つの視線が激突し、火花を散らせた時だった。
金属が破裂したような音が、外から体育館に飛び込んだ。
一瞬おいて、地面が大きく揺れた。地響きと共に、固く閉じられた体育館の鉄の扉がひしゃげた。
轟音を立てて、次々と体育館に雪崩れ込んできたのは、暗緑色の鉄塊だった。
装甲車? 得也は目を剥いた。
装甲車は三台、次々と体育館に乱入した。そして体育館を右往左往に走り回る。
スピードは遅いが、人の意志が感じられない滅茶苦茶な走行だった。勝手に走り回り、壁にぶつかる。壁にぶつかり、同じ装甲車と接触する。エンジン音と衝突音がつんざいた。
轢かれてしまう。鉄塊に気を取られたのが隙だった。目の前に真っ赤な目があった。
「とぐやぁああっ」
どす黒い歓喜の咆哮が轟いた。首筋に、サメのような歯が食いこむ。凄まじい激痛に襲われながら、得也は梨恵の頭を掴んだ。
肉をえぐられる痛覚が頭を焼く。ぐちゃぐちゃと咀嚼音。
「あははははははははーっ」
うまい、ウマイよと梨恵が口から血と肉をまき散らす。笑い声をあげる梨恵の首を得也は掴んだ。その太い首を絞めた、その時だった。
仰向けになった視界の中で、巨大な鉄塊が梨恵の上に圧し掛かった。笑いの形に歪む梨恵の口から、血の奔流が噴き出した。
梨恵に圧し掛かる鉄の重量が、得也にもかかる。肉をえぐられた首を押さえる間もなく、内臓がひしゃげた。
「ぎゃははははははっ」
梨恵の笑い声が、血と共に顔に降りかかった。
「つかまえだあああ、どくやを捕まえだあああ、ずっとどぐやといっじょに……」
梨恵の勝利の笑いが得也の目に突き刺さり、梨恵と自分を潰す音が耳の中に響き渡る。
身体が動かない。
覆いかぶさってくる梨恵を押しのけようとしたが、筋肉そのものが停止している。
激痛も遠のいていくが、視界も徐々に失っていく。治癒ではなく、機能停止を示している。
まさか。
思ってもみなかった。
死ぬのか?
自分の身には起こらないと、無意識のうちに遠ざけていた運命が黒々と口を開けている。
カケイクン! 声が聞こえた。カケイクン! シヌナ、カケイクン!
駆け寄ってくる男へ、得也は腕を伸ばした。そうだ、アレを食えば復活する。
俺は腹が減って、力が出ないだけだ。
カケイクン! 男が手を掴んだ。節くれだった、固くて弾力のある肉。噛み応えがあり、味も濃そうな肉へ、得也は歯をたてようとした。だが、口が開閉しただけだった。
「掛井くん!」
広志は絶叫した。
「死ぬな、掛井くん!」
梨恵の巨体と、得也は抱きあうようにして折り重なっていた。下半身は装甲車によって潰されている。もう助からない事は、誰の目にも明らかだった。
得也は、しっかりと広志の手を掴み、口を動かした。しかし、言葉は聞き取れなかった。
「会長!」「お父さん!」
「何なんだ、コイツは! ちきしょう!」
突然乱入した装甲車の内二台は、壁を突き破って停止していた。一台が得也と梨恵を押し潰したのだ。
広志は二人に圧し掛かって停止したままの装甲車を、あらん限りの力を込めて蹴った。殴った。フロントガラスは狭く、外から内部が見えない。
「ドライバー出てこい! 殺してやる!」
若い男が、荒れ狂う広志を羽交い絞めにした。
「待って下さい! これは無人装甲車です。自衛隊の九十六式装甲車だ。多分、どこかからの遠隔操作です。哨戒か何かの目的で、ここに来たんですよ」
「じゃあ、親はどこだ!」
「……この滅茶苦茶な走り方で、想像はつかない? お父さん」
羽交い絞めにされた広志の前に、里美が立った。
「途中で、親もやられたのよ」
虚脱感が広志を襲った。
得也と梨恵に、皆の視線が落ちた。
「……とにかく」
広志は咽喉から声を押し出した。
「この二人を、引き出そう」
紙のように薄く、意識はあった。だが意識だけだった。声は聞こえるが、もう体は使いものにならないという自覚はあった。
沢山の腕が、自分の身体を引っ張った。だが、その腕を掴んで口に入れることは、もう出来なくなっていた。意識は飢えの中に沈み込む以外、何も出来なかった。
「……君のことは、忘れん」
アップになった中年男の口が動いた。旨そうな体臭だった。
「もう、自衛隊や国なんかあてにするか。君を殺した、それだけでもう終わりだ」
何人もの声が聞こえる。
もう、我々の力で、何としてでも生き延びてやる。負けてたまるか。
これだけの人数が残っているんだし、皆で協力すれば何とかなりますよ。なあ、さっき、タイヤを皆で引っ張り上げたようにさ。
そうよ。カケイくんに恥じないように。
どうでもいい、と意識は無念でよじれた。コイツらが食えるはずだったのにと、口惜しさだけが全てだった。
生命への執着よりも、飢えを満たす渇望が深い。センパイ、と泣きじゃくる女の声が聞こえた。
得也はいつか食べた、柔らかな肉の味を思い出した。
女は味が淡泊だが、柔らかい。ああ、食いたいと沈み込むような諦めが、意識を動かそうとした時だった。
「……センパイのこと、忘れません……でも、センパイ、本当は菅田センパイが好きだったんですね」
違う! 否定の炎が意識を焼いた。それは猛烈な怒りだった。
怒りによって、意識は燃えた。
そして、そのまま燃え尽きた。
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