第6話 地区封鎖・隔離

明け方未明。

 街は眠っていた。

動くものも、音もない。街全体が静寂の塊だった。

 その街に向かい、二〇台ほどの車両、ジープやトラックが、忍び寄る蛇のような隊列を作って橋を渡る。その後に数台のパトカーが続いた。

その上を偵察用の無人航空機が追いかけていく。

 無線が飛び交う。

『前方に障害はありません』

『橋を渡り切ったら、そのまま街に入れ。一班から五班までは哨戒。いかなる障害も排除し、街からは一切、出入りを許すな』

車両の隊列は、川を渡る班と向こう岸に留まる二手に分かれた。

半数以上の車両は川を渡り終え、街に入る。

 ジープやトラックの音に、目を覚ました住人が何事かと窓に出て、道路を埋め尽くす車両に目を見開いた。

 トラックが次々と停車する。幌が開き、白い化学防護服を着た男たちが外に降り立ち、クモの子を散らすように夜の中に消えていく。

 橋の前で有刺鉄線が巡らされた。バリケードが貼られる。

 隊列の最後尾に到着したトラックから出て来た男は、まず周囲を見渡し、部下の動きを確認した。取り出したタブレット端末でこの街の全体地図を確かめ、独り言ちた。

「成程、地形が三角州なんだな」

 東苑和区は、雨崎市内の北東部に位置し、一級河川の稲川の三角州として形作ったデルタ地帯だった。外部への交通網は、川を渡る陸橋と交通機関の私鉄路線が一本。これが東苑和区と雨崎市内の他区、隣の市に結びついている。

 地区にある橋と、主要道路を表す画面に、次々と赤いマーカーが点く。

この地区を外部から切り離し、完全に封じ込めるには交通機関を止め、橋を全て封鎖すれば良かった。

『一〇班、東苑和五丁目北、戸倉橋を封鎖。現在異常なし』

『国道一七一号線封鎖。異常なし』

 次々と入る報告を聞きながら、男は胸元のマイクを使って命令を下す。

「電話回線、ネット回線を制限しろ。報道にも規制をかけるように。報道ヘリに注意しろ、ここは侵入禁止空域だ」

「一〇:〇〇までには、全住民の所在を全て把握し、報告するように」

 そして、男は息をついた。

 防護用のマスクから覗く無表情の下、何かが蠢く。男は息を吸い込んだ。わずかに人間臭い影がよぎったが、それはすぐに消えた。

 明瞭で、冷徹な口調だった。

「感染しているとみられる住人を発見したら、射殺しろ」


           ※


 秀は、川のほとりにいる。

せっかく買った雑誌が、ぷかぷかと川の中に浮いている。

 拾わなきゃ、と秀は焦った。

 大事な号だった。特に今回は、囲碁界と将棋界、それぞれの世界で頂点を極めた名人二人の対談が載っている。将棋と囲碁という垣根を超えた、奇跡の特集号だった。

 この号の緊急特集を知って、どんなに驚き、興奮し、発売日を待ち望んだことか。

 それが黒い川の流れに沈もうとしている。あの中に沈んだら、もう記事が一生読めないという、焦りが、理不尽な程に強くこみ上げた。

 拾わなきゃ。

秀は川に入った。膝が水に浸かる。

冷たさも感じない。

グルグルと渦巻く、黒い水中に引きずり呑まれようとしている雑誌へ手を伸ばす。

雑誌に手が触れた。引き上げようとした時だった。

『どおぐやあああ』

 咆哮が頭の中に響き渡った。

『どおぐぅやややああ、あんだがぐいだいぃぃぃ』

 黒い川の水を突き破るように立つ、巨大な水柱が秀の眼前にそそり立った。

 それは、四段腹の肥大したゴジラだった。

 いや、ゴジラのようなものだった。ゴジラを肥大してたるませ、怪獣の造形美を全て剥ぎ取った怪物だった。

 秀は息を呑んだ。逃げようとした。だが動かない、足が前に進まない。

 お父さん、と秀は叫んだ。

お父さん、どこだよ、お父さん?

 ああ、そうだったと秀は思い出す。

 お父さんは、集会所で足止めされているんだった。だから、僕は先に帰っていたんだ。

 足をばたつかせる。背後に怪獣が迫る。

 逃げなきゃ、早く、早く、はやく、はやく……


 ふっと体重が消えるのを感じ、秀は跳ね起きた。

 自分の部屋だ。

遮光カーテンの隙間から、淡い光が漏れているのが目に入った時、さっきのは夢で、今が現実だとようやく理解できた。秀は大きく安堵した。

「……そうだった……無事、逃げたんだ」

 最悪で、理解不能の夜はすでに終わっていたのだ。

秀は、ばたん、とベッドに仰向けに倒れこんだ。しばらくそのまま天井を見上げていたが、ベッドのすぐ隣にある窓の外が、やけにざわついているのに気が付いた。

体を起こし、カーテンを開いた。早朝で、しかも窓は閉めているというのに、車のエンジンの音がやけに耳につく。

何だか落ち着かない朝だな、そう思いつつ、机の上を見た瞬間だった。

 いつも整理整頓が習慣になっている。何かを探す手間を考えたら、余計なものは置かずに、こまめに整理していた方が合理的だからだ。しかし、そんな机上に何か違和感がある。何かおかしい。何も置いていないはずはない。昨日は確か、雑誌を……

「あ」

 秀は声を上げた。


 パジャマを脱ぎ捨て、電光石火で着替えた秀は、部屋から飛び出した。朝食準備中のリビングキッチンに脇目もふらず、通過しようとした時だった。

「おいこら、秀。朝の挨拶もなしにどこへ行こうとしているんだ」

 父、広志の声が飛んできた。秀は玄関口で停止し、振り返った。

「雑誌だよ、昨日の晩の雑誌!」

「雑誌?」

「昨夜、逃げる途中、川沿いで落としてきたんだ!」

 秀は叫んだ。

「今ならまだあるかも、探しに行ってくる!」

 ガタンと椅子の音がした。

「ま、待ちなさい!」

 続いてドタドタと父の足音が迫る。それに構わず、靴を履こうとした秀は、思い切り肩をつかまれた。引き攣った広志の顔が迫った。

「お前、昨夜どんな目にあったか憶えていないのか! 危ない、絶対にいかん! 雑誌はお父さんが同じ号をまた買ってやる!」

「売り切れなんだよ。ネットも本屋にも無いんだよ」

囲碁と将棋の雑誌は、元々発行部数も少ない。

秀がよく行く本屋は、住人の年齢層が高い住宅地の中にあるせいで、趣味系の雑誌が充実した、駅前の本屋には無い品ぞろえだった。

「この号だけは、絶対に逃す訳にはいかないんだ」

 秀は、広志の視線をまっすぐに押し戻した。

「【将棋ワールド】に【囲碁世界】出版社の垣根を超えた奇跡の特集なんだよ。将棋の異才、毛生竜王と囲碁の怪物と呼ばれた山井棋聖の対談なんだ。それぞれの雑誌で、二部構成という形で特集を組んでいるんだ、絶対に読まないと」

「売り切れといっても、探せばどちらかはあるはずだろ」

「将棋ワールドは名人同士の『酔いどれ対談』で、囲碁世界は『迎え酒対談』二冊揃っていないと、二人の対談特集の意味がないんだよ」

「酔っ払いに迎え酒だと!」

 広志が目を剥いた。

「何たる不真面目な対談だ! 酒を飲めない未成年が、そんなもの読んじゃいかん! それに土手は立入禁止だ!」

「読みたいんだよ!」

 今の頭の中は、この言葉で占領されている。

父の制止は当たり前だと思う。自分自身、昨夜の川沿いの土手を思い出すと足がすくむほど怖い。

だが、怖いと同じくらい読みたい特集で、自分の手元に置きたい号だった。

秀は、怯える本心に向かって、勇気を出すように諭す。大丈夫、怪物の出現や狂人の凶行は、己の姿が闇に紛れる夜だ。今は朝だった。もう世間の人たちは起き出して、生活を始める時間帯だ。もう外には人はいるだろうし、明るい太陽の元であんな狂った事態が起きるはずがない。

「いかんいかんいかん!」

 広志が真っ赤な顔を横に振り回した。

「第一、まだ菅田さんが川にいたらどうするんだ!」

 ちょっとお父さんと、呆れた声が割り込んだ。

「もう朝よ。とっくに家に帰っているわよ。昨夜は殺されかけたっていうから、何事と思えば、高校生同士の痴話喧嘩に巻き込まれただけでしょ、大げさな」

「母さんはあの状況を知らんからだ!」

 確かに、あの場にいなかった母に、いくら説明したって分かりはしないだろう。

 だが秀は、思い出しただけで身が硬くなる。

 近所の肥大した女子高生が、更に肥大化していて、しかもこちらに、理由もなく襲い掛かって来る理不尽さ。見知らぬ通り魔よりも性質が悪い、この狂気を伴う恐ろしさ。

でも大丈夫、朝だ。

 大丈夫、明るいんだ。朝からそんな怖いことは無いだろうと、秀が再び自分にそう言い聞かせた時だった、真理が欠伸しながら、不機嫌な顔で食卓に入って来た。

「朝っぱらからお父さん、何怒っているの? 目が覚めちゃったじゃんか」

「あー目が覚めたなら、丁度いいわ、真理」

 母の里美が、真理へ顔を向けた。

「秀が川べりに、昨日買った雑誌を失くしちゃったって。探しに行きたいらしいから、真理、ついて行ってやって」

「はぁ?」

 真理の声が裏返った。

斎藤家のマンションは、川べりに位置している。四階のベランダに出れば、目の前には流れる川面、水鳥の生態や、土と緑の土手が広がっている。

 朝の川の流れは、陽光を鏡のように跳ね返し、光をちりばめていた。お世辞にも清流とは言えない川だが、水質関係なしにまぶしく、輝きが美しい。

 昨夜の恐怖の舞台装置は、太陽が昇ると一気に変わり、恐怖の残滓すらない。

 風景は、昨夜の出来事を全て消し去って知らん顔している。

 その明るさに秀は安堵した。下を向き、顔をあちこち動かしながら土手を歩く。

この川で落としたという確信はあるが、どこでという記憶が無い。

 木刀を持ち、隣を歩く真理がうっとうしげに空を見上げた。

「それにしても、朝からうるさいなあ」

 朝から、一体何の目的で誰が飛ばしているのか、ドローンがさっきから何機も飛んでいる。

 それだけではなかった。空の上を重く響き渡って来るのは、ヘリコプターのプロペラ音ではないだろうか。

 雑誌を探す集中力が削がれる。秀も空を見上げた。

 空には、灰色の米粒のようなドローンがいくつも飛んでいる。

その中で、まるで親玉のようなヘリが旋回している。

 そのヘリの機体をはっきりと目にした瞬間、秀は思わず足を止めた。

民間の遊覧飛行でもなく、報道のヘリでもない。

「……迷彩柄だ!」

 機体に入っている日の丸のマーク。間違いない、災害ニュースなどでしか見たことのない、自衛隊のヘリコプターだった。それが我が家の上空を飛んでいる。

平和な住宅地の上空に、戦闘色の迷彩カラー。そのコントラストが、秀の頭から雑誌を消した。呆然とヘリを見送る中で、真理の呟きが聞こえた。

「えらく橋がトラックで渋滞しているなあ。さっきから全然動いてないじゃん」

東苑和の三角州地帯から、市外に出る橋だった。いつも朝は通勤の車で渋滞している橋だったが、その光景も、秀に息を呑ませた。

隣で呑気な姉の声。

「モスグリーンの同じトラックばっかりだな。しかも、橋にいるオジサンたち、こんな晴れた日に皆がお揃いの雨がっぱを着ているし」

「姉ちゃん、あれは自衛隊のトラックじゃないか! しかもあんなにたくさん」

 広さは二車線で、長さは一〇〇m。何の変哲もない橋が、モスグリーンの車両に占拠されている光景は圧巻の一言だった。

 空には、再び自衛隊のヘリが飛来し、旋回している。

 まるで、映画に出てくる戦闘待機シーンだ。何かが攻めてくるのを待ち受けているような、重厚な不穏さが漂う光景。

「姉ちゃん、携帯持ってる?」

 そうであっても、装飾性を完全に排除し、攻撃と防御に実用性を特化した機能美そのもののあの装甲車をぜひカメラに収めたいと、つい秀は声が弾む。

自衛隊という、火器や武器を携えたモスグリーン集団は、男の子の戦闘本能と憧れを無条件にかき立てる存在である。

 囲碁も将棋の頭脳戦は、その一部の模倣に過ぎない。

 しかし感動の中でも、秀は頭を傾げた。

 普通の住宅街、市外に続くその橋を、何故自衛隊が占拠しているんだろう。

「まさか、あの菅田さん相手に自衛隊が出動?」

 真理が呆れ果てながら、秀の後頭部にポカリと木刀を当てた。

「あんた、それ本気で言っているなら超失礼」

「姉ちゃんは、あの時の菅田さんを知らないからだ! 僕らの知っている只のデブじゃなくて、空を飛んだり、狂ったように突進してきたり、怪獣そのものだったんだぞ。掛井さんを助けようとするお父さんを助けるために、俺だって死ぬところだったんだ! 怪獣や宇宙人と戦うのは、警察じゃなくて自衛隊だろ」

「宇宙人は地球防衛軍担当だ。アホな事を言っていないで、早く雑誌探しなさいよ。学校遅刻するぞ」

「それより、姉ちゃん携帯持ってないのか?」

「今は持っていない」

 低い呻き声を上げて、秀は落胆した。がっくりと下がった頭と肩が、地にめり込むかと思うほどだった。

その時だった。真理が声を上げた。

「秀、人が倒れてる!」

 一〇メートル程向こうに、何かを囲んで膝をついている人たちが見える。

 陰から二本の脚が見えた。

 大変だ、そう思った秀の隣で、真理が眉間にしわを寄せた。

「そういえばずっと前、マラソンの途中で心臓発作起こして死んじゃったおじいちゃんがいたっけ」

「あ……」

 秀は目を見開いた。

 マラソンや散歩していた人たちが、河川敷で倒れている人を見つけて介抱している。

そのすぐ傍に落ちているのは、見覚えのある紙袋だった。

「あった!」

 秀は駆けだした。真理が追う。

 あったあったと、秀は安堵しながら二冊の雑誌が入った大事な紙袋を拾い上げた。

 目の前の人たちは、急病人を介抱しているらしいが、救急車を呼んでいるようなそぶりはない。もしかしたら、携帯を持っていないのかもしれない。

秀は市民感覚を取り戻し、真理に聞いた。

「この辺り、電話ボックスあったっけ?」

「いや、無いけど、家、すぐそこだし、もし必要なら走って帰って、救急車を呼ぼう。声かけようか」

真理が、介抱している人たちの背中に声をかけた。

「すみません、救急車を呼びま……」

 その時だった。

秀は思わず息を止めた。獰猛な臭いが嗅覚に突き刺さる、今までに無いほどの、生々しい鉄の臭いだった。

 隣の真理が、息を呑んだのが分かった。

 河川敷に倒れている人間の腹から、赤黒いもの、黄色っぽいものが、グロデスクな花が咲くようにぬめぬめと広がっている。

 救急車は手遅れだ、それが秀の思考の第一段階だった。

 そして、自分が見ているものが死骸であり、しかも損壊の酷い状態である、と知覚した時に起きる生理的嫌悪感。

 そして、その周囲を取り囲んだ人たちの顔が、手が、どうして血に染まっているのかという疑問。

この人たちは、どうして口を動かしているんだ。いや、どうして死骸を目の前にして、何かを食べていられるんだ、いや、何を食べているんだという、危険本能を震わせる疑問。

 ゆらり、と三人がこちらを向き、立ち上がる。

 死んだ人の目だ、と秀は思った。

 表情のない顔、光の無い目。

 それなのに、血で汚れている口元は、何かを咀嚼している。

 川面の輝きから始まった、朝の風景が一気に狂う。秀は、今自分がどこにいるのか分からなくなった。現実感覚が一気に消えた。

 ぐい、と後ろ襟を引きずられた。目の前に真理の背中が現れた。

「家へ走れ、秀!」

 四才年上の姉の命令が、秀の頬を張り飛ばした。

 真理が何か叫ぶと同時だった。空に鳴り響く轟音が真理の声を覆いつくした。

 サイレンだった。

 サイレンは町中に響き渡った。死人を起き上がらせんばかりの大音響だった。

『緊急勧告です東苑和町一丁目から五丁目から西苑和……久井瀬全区の住民のみなさま……たった今より、せいふの……において……』

 真理と秀は固まった。

 ヘリのエンジン音が聞こえてくる。

 突然、街中が不穏な轟音と、悲痛な放送のオーケストラに覆いつくされた。


 広志はベランダに出ている。

 片手にはカフェオレ入りマグカップを持っていた。もう片手にはトーストがあった。

 川べりの向こうを睨みながら、黙々とトーストを齧る広志へ、里美が声をかけた。

「部屋に入って、テーブルの上で食べなさいよ、行儀悪い」

「ひんぱいしてるのがふぁからんのか」

 里美がスクランブルエッグの皿を、ベランダの広志に突き出した。

 受取った皿を、エアコンの室外機の上に置く広志へ、里美が口を曲げた。

「高校生男女の痴話喧嘩に巻き込まれたって事でしょ。大げさな」

「むぐ……字面に直せばそうだが、巻き添えで俺たちが死にかけたのは確かだ。あの痴話喧嘩は未成年どころか、人間の枠さえ超えている。真理と秀が、またあんなのに遭遇したらと思うと、心配にもなるだろう」

「菅田さんとこの娘さんがねえ」

 里美が頭を振った。

「朝の通学路で大福食べながら学校へ行く子が、空を飛ぶとか疾走とか、信じられないけどなあ」

「俺は秀と一緒にこの目で見たんだ!」

「話は信じられないけど、あんたは信用しているから、真理に『クズ切り丸』を護身用に持たせたんじゃないのさ」

 里美がテーブルの上で頬杖をつき、軽く広志を睨んだ。子供の目が無い夫婦二人の時、里美の口調はたまに高校時代に戻る。

 エプロン姿の普通の主婦、そして二人の母親の顔に、喧嘩上等ヤンキーより始末の悪い、木刀『クズ切り丸』を従えた風紀委員の面影を見出し、広志は少し寒気がした。

「ところでさ、明け方にトラックとか変な車が、たくさん外を走っていたの、知ってる?」

 話題を変えた里美へ、広志は頭を振った。昨夜のことがあって、ほとんど死人状態の眠りだったのだ。

「今もヘリコプターの音もするし、何だろ」

 分からん、と広志は投げた。今は二人の我が子の事で頭が占領されている。

 しかし、そう言えば妙に朝の空気がざわついている気がした。やたらと車の音、ヘリの音がするせいだ。

「おい、それよりも二人とも遅くないか?」

 里美が時計を見た。わずかに顔をしかめた。

「すぐそこだから、真理も携帯も持ってないのよね。しまったな」

 里美もベランダに出て来た。二人そろってベランダから身を乗り出し、子供二人がどの辺りにいるのか、土手を見下ろそうとする。

その時だった。

「きゃっ」

「わっ」

 凄まじいサイレンの音に、広志と里美は思わず耳を押さえた。

『緊急放送です……から、……区にお住いの住民のみなさまは……』

 耳を押さえたまま、夫婦でお互いの顔を見合わせた。

『……の伝染性のウィルスが……感染すると危険です……区全体を封鎖し、消毒活動を……政府からの……』

 放送の音声が割れて、ひどい有様だ。放送ではなくてサイレン交じりの不快轟音が、聴覚から直に脳みそをシェイクする。

広志は耳を押さえて、里美と部屋に飛び込んだ。

 里美は素早くベランダを閉め、音を外に締め出した。ようやく耳の鼓膜が落ち着いたところで、広志はベランダの外を睨みつけた。

「今日は平日だ! 避難訓練は土曜日のはずだろうが!」

 最近、行政や消防署から、予定されている訓練の段取りの連絡が途絶えている……と思えば、突然この事態かと、自治会長たる広志は憤った。

今週の土曜日には、半年に一度の防災訓練が行われる予定だった。消防署と市役所の防災課が主体となり、自治会と協力して行われる訓練で、今回はマグニチュード八の震災が起きたと設定、サイレンと放送は、その土曜日に流される予定だったのだ。

「おまけにあんなどえらい音出しやがって! 住民の鼓膜を破る気か! 心臓の弱い奴ならショック死するぞ、役所の奴ら、何を考えていやがるんだ!」

「ちょっとちょっと」

 里美が広志の袖を引っ張り、指をさす。硬い横顔の里美の視線のその先を、広志は追った。

ニュースだった。

 広志は目を丸くした。

 ニュースキャスターの背後にあるテロップに、自分が住んでいる町名が出ている。

『繰り返します‥‥‥‥七時四五分、政府は厚生労働省から報告された、このウィルスを通称グールウィルスと命名し、指定感染症の第一類と指定しました。このウィルスの感染の国内での拡大を防ぐとともに、感染者の隔離を行うことを決定。緊急災害対策本部を設置し、感染拡大の恐れが高い区域を封鎖し、近隣の地域を保護する措置を行うとのことです』

 テロップは、斎藤家の住所を封鎖区域として流していた。

『封鎖区域の住民の皆さんは、警察や消防の指示に従い、速やかに指定された公的施設に避難の上、検査を受けて下さい。地域全体の消毒と検査を実施します。なお、住民の方は感染者から身を守るように……』

「な、なんなんだ、何を言っているんだ? 一体何だって?」

 思考回路がテレビキャスターについて行けない。広志は思わずテレビに詰め寄った。

 チャンネルを変えた。

『封鎖区域の住民の皆さんは、外の区域に出られないようにお願い致します。なお、すでに道は通行止めになっており、交通機関も一部不通になっております……』

『ウィルス拡大、感染を防ぐための止むをえない処置として、内閣官房長より正式な発令が……』

『狂犬病に酷似……潜伏期間がほとんどなく、神経系を通して脳神経に回り、錯乱や幻覚を引き起こすと同時に、新陳代謝機能を狂わせて……』

 単語としては存在する日本語ではあっても、日常とかけ離れた会話が頭に入らない。

「とにかく、二人を呼び戻さないと」

 地域別に、定められた避難先所在地とその地図が、狂ったように何度もテレビ画面に映る。緊急に家を離れて、住人はそこへ避難しろという事だと、懸命に事態を飲み込もうと、頭をフル回転させ、広志は思考を軋ませた。

里美が立ち上がって収納庫の扉を開けた。

 登山用具一式を入れた登山用リュックを家族分、次々と外に出す。

 登山用品は屋外の携帯生活品、調理用から雨具まで揃ったサバイバルグッズでもあるので、斎藤家はこれを災害避難用にも転用している。

「すぐにあの子たちと合流して、そのまま避難場所へ行く。お父さんは荷物持って、先に避難場所へ行って、場所取りしといて!」

「わ、分かった、オイ、里美、避難場所は分っているな! 秀の学校の体育館が避難先だからな!」

 そ、そうだと広志は気が付く。出勤どころではない。こうなると今日は欠勤だ。会社に電話をせねば。

 広志は携帯電話を手にした時だった。携帯の呼び出しコールが鳴り響いた。

『あー、斎藤さん。良かった』

 自治会副会長、平川種三だった。

『早く来てえな、もう体育館で、住民がワイワイ騒いでえらいことやで。いっくら静かにせい、落ちつけ言うても、リーダーおらんさかい、だーれも何の言う事聞きやせんわ』

「今から行きます!」

 広志は怒鳴ると同時に携帯を切った。



 空には轟音とサイレンが、緊急放送が、まるで網の目のように張り巡らされている。

 思考停止になりそうな音響の中で、真理は木刀を構えて息を詰めた。

 何なんだ、これは。

 目の前にあるものは、これ、としか言いようが無かった。自分たちの前に立ちふさがっている四人は、人間の姿ではあった。

だが、人間でなくなっているのは、口からはみ出している内臓や、食べこぼして赤く染まった姿で明らかだった。

 人間でなければ、この人たちは何なんだ。

 この飽食の国で起きている、共食いという光景。目には入っても、おぞましさで思考が拒否をする。

 八つの黒い虚無の目に、肉食獣のような残忍さが浮かんでいる。

その目に、真理は本能を握りつぶされるような寒気を感じた。

 頭を揺らしながら、四人の喰人鬼が真理と秀へ近づいてくる。

 真理の足が震えた。硬直している筋肉を動かせるかどうか、自分でも分からない。木刀を持つ手の感覚がなくなっている。

「姉ちゃん!」

 秀の悲鳴が真理の背中を押した。思い切り、木刀を振り上げようとしたその時、何者かが、真理の手から木刀を奪い取った。

「どいてなさい! 二人とも!」

恐怖心でカチコチに凍っているはずの身体が、その突然の命令にとっさに従えたのは、長年の習性だった。勿論、秀も。

 母の里美が、片膝をついて腰を深く落とした。手にした木刀が鋭く半月を描く。木刀は、一度に眼前に迫った二人の向う脛を強く打ちすえた。

 立ち上がると同時に、相手の目を狙った里美の二本目は、二人の目を同時に打ち、視力を奪う。それでも倒れようとしない四人の化け物に、母子は愕然となった。

「こいつら、痛覚どうなっているの?」

 それでもふらふらと手を伸ばして向かってくる喰人鬼を、木刀でけん制しながら、里美が背後の真理と秀に怒鳴った。

「あんたたち、早く学校へ行きなさい!」

「登校して授業って状況じゃないよ!」

「そういう意味じゃない! とにかく学校へ……」

 里美の注意が一瞬だけ逸れ、綻びが出来た。その綻びに手を突っ込むように、喰人鬼の腕が里美の木刀の先を掴み、ねじる。

 木刀が里美の手からもぎ取られた。

 血に染まった四つの顔に、赤黒い歓喜の色が見えた気がした、その時だった。

 乾いた空気の発射音が連続。

 血染めのマリオネット、四体の糸が切れた。次々と地面に崩れていく。

 思いがけない救いに、舞台上でセリフを忘れた演者のようになって母子は突っ立った。

その前に、頭から足まで白い衣服に覆われた二人の男が現れた。

「お怪我はありませんか?」

橋の上にいた、白い雨カッパの集団を真理は思い出し、同時に、男たちの持つ銃に気が付いた。

「……殺したの?」

 現状を感じ取る感覚は麻痺していたはずなのに、足が震えそうになった。それでも真理の手は、秀の目を死骸から手で塞いだ。

弟の分まで死骸を確かめようとした真理の目は、母親の手によって塞がれた。

「何が起きているんですか?」

 白い男たちに聞いているらしい。その声は冷静だが、助けてもらった礼を忘れているとは、母らしくない。

 男の声。

「お子さんを連れて、すぐに近所の学校か、公共施設に避難して下さい。あと数時間後もしたら、この区域全体に駆除と消毒が開始されます」

 しばらく、間があいた。

「……分かりました」

 真理の目から手が除かれ、視界が開けた。あの男たちは消えている。里美の顔が死骸の光景を遮るようにして、真理を覗き込んでいた。

「大丈夫? 真理」

「うん……」

今はそう言うしかない。背中が押された。

「行くわよ、二人とも」

 里美の背中を追って、真理は秀と駆けだした。


家のチャイムが鳴らされたのは、母親を解体している時だった。

 誰が来ようと、訪問者はいつも無視している。しかし、チャイムは何度も鳴らされた。それでも無視していると、驚いたことに相手は庭に回ったらしい。庭に面しているリビングのガラス戸を、しつこく叩く音がする。

 仕方が無く、得也は頭から水をかぶって体に付着した血を流した。

 衣服を身につけて、リビングに向かう。

庭に面したガラス戸の向こうに、二人の訪問者が立っている。真っ白い防護服。その異装の二人に、得也はギョッとなった。ガラス戸を開けると、町内の放送スピーカーの割れた音が、家に突入してきた。

思わず耳を塞ぎながら、得也はリビングから、庭に立つ異装の訪問者二人に対峙し、その携帯物に目を見張った。

銃口を下げているとはいえ、突撃銃だった。本物を見たことが無い得也にも、それがモデルガンではないと思える迫力と精密さがあった。

「……何だよ、お前ら」

 今、食い残しの母親が風呂場にある。得也は警戒した。

「掛井さんのお宅ですね」

 白い防護服の一人が、タブレットと得也を見比べた。

「息子さんですね。ご両親は?」

「いない」

「息子さんお一人ですね。ご両親はどちらへ? いつお戻りですか?」

「さあな」

 持っている銃、防護服という異様な格好、挑むように立ち入ってくる質問。町中に鳴り響くサイレン。自分を取り巻いている、ただならぬ気配を得也は感じる。

だが、何が起きているのかは分からない。この二人も警察官には見えない。

 得也の表情に、防護服姿の一人が得也の肩越しから見える、リビングで点けっ放しのテレビへ指を指示した。

「テレビをご覧になっていましたか?」

「点けているだけだ。見てねえよ。それよりもあんたたち、何だよ」

「陸上自衛隊第三師団第三六普通科連隊に属しております。各ご家庭を回り、指定された場所への避難を呼びかけております。現在、この東苑和地区は指定感染症第一類の汚染地域と指定され、危険区域となっております。外部からの人間が来ることも、ここの住人が外の地域に出掛けることも禁じられています。感染症の拡大防止と安全保護のために、感染症の検査と予防接種、消毒のご協力を願います」

「……自衛隊?「

「我々に付いて、避難場所へ来て頂きたい」

 得也は、銃と男たちを見比べた。

 得也は、点けっぱなしにしてあるリビングのテレビを見やった。

「今からか?」

「その通りです」

 サイレンが轟いた。音の割れたスピーカーが、何事か警戒放送を発している。

その中で、得也は少し笑った。

「分かったよ。少し待ってくれ」

 父親は不味かったが、母親の味は更に不味く、食べられたものではなかった。

 すでに腹が減ってきている。避難所ならば、食い物には不自由しないだろう。



雨ヶ崎市立東苑和小学校は、創立五〇年、生徒数五〇〇名。

つい数週間前までは、有名な特色もなく、目立った活動もなく、地方都市の公立小の一つとして、埋没している学校だった。

平凡な日常、牧歌的な教師と生徒たち。穏やかな日常。

しかし、今までの平和は叩き壊された。校区内で起きた凄惨な集団自殺・殺人事件に集団発狂によって、生徒から保護者まで、鮮血の恐怖の沼にどっぷり浸かる羽目になった。

 そして、トドメは地域住民たちの緊急避難である。

地域の日常は、完全破壊された。小学校の体育館たちは、避難してきた住民によって、溢れんばかりだった。

「落ち着いて、皆さん、落ち着いて行動して下さい!」

 備品のスピーカーを手に、内臓が吐き出るほどに、広志は絶叫した。

「感染症とはいえ、空気感染の心配はありません。今少しだけご辛抱の上、ここで待機なさって下さい! 地区の消毒や危険性が除去され次第、速やかにですね……」

「何言うてるのか、よく分からん! 消毒って何や、わしらばい菌かあ!」

「いんふるえんざ、みたいなものでっしゃろ? 何よ、感染したらどうなるって、よく分からんの。シンチンタイシャって何よ?」

「避難せい避難せいって、地震でもなく火事でもないのに、何を大騒ぎしとるんか、説明してぇな。変な奴らに、ワシ、いきなり連れてこられたんよ」

 広志の目の前にうねるのは、恐怖と怒り、不安を中心にした住民の海だった。

今まで、子供たちが体育の授業で跳ねまわっている体育館は、倦怠感と不安にくすんだ住民たちが、言いようもない恐怖と苛立ちを抱えて、説明を求めて荒れ狂っていた。

「あと三〇分したら、自衛隊の隊員による、状況の説明が始まります。それまで落ち着いてお待ちください!」

 息を切らせながら、広志は体育館内でせわしく動き回る、白い防護服姿の自衛隊員たちを見やり、そして体育館の出入り口を見守った……まだ妻と子供たちが来ない。

 広志は携帯をポケットから出した。

 副会長の平川種三の大阪弁が飛んできた。

「ちょいと、斉藤さん。さっき自衛隊の隊長さんが、アンタを呼んどったで。何やね、住民のリスト照合と、組織図がどうこう言うとった」

「後で行きます!」

 メールは無い。さっきダイヤルしても留守電だった。真理と秀も大丈夫なのか、里美は子供たちと無事に合流出来たのか。連絡には即レスの妻だというのに何があったのか、心配で仕方が無い。焦燥感がせり上がっていく。ここから飛び出して、三人を探しに行きたいのを広志は堪えた。

「ところで斉藤さん。あんた、ワイシャツ着てネクタイ締めてマウンテンパーカー着て登山靴って、これから山に登るの? それとも会社に行くとこだったの? その恰好どっちよ」

「好きに判断して下さい」

 広志は種三へ返事を放り投げた。

 自宅からこの小学校まで、徒歩約一〇分。子供二人を探しに行ったとはいえ、里美と家から別れて一時間近く経っていた。

 避難スペースの一画で、声が上がった。

「うわぁ、見て、なにこれすげえよ!」

「ちょっと信じらんない! お母さんにそんな気持ち悪いもの見せないで!」

「コレ、そこの稲川じゃないの? この人たち、何やってんの?」

 稲川という地名に、広志は反応した。思わず声の方向へ走り、タブレットで動画を見ている母と、中学生の男子の間に割り込んだ。

 タブレットに映っているのは、家の前に流れている見慣れた川だった。

 画面の隅に自宅マンションが映っていた。間違いなかった。

その川岸で、人々が地面に這いつくばって、何かに群がっている。広志は餌を貪る野良犬を連想した。

「誰かが動画上げてんだよ、人喰ってるよ、ヒト! なあ、これってセガワ? おい、マジかよ!」

 興奮している中学生男子の声。広志は声を失くした。

 血と肉の中に顔を突っ込んでいる顔の群れは、悪趣味なゾンビ映画そのものだった。だが、作り物では感じられない生臭さがあった。

「貸してくれ!」

 広志は男子の手からタブレットをひったくり、画像に顔を近づけた。男子とその母親が、抗議の声を上げたその時だった。第三者の手が、広志の手からタブレットをひったくった。

「携帯やタブレットなどの、通信機器を預からせて頂きます」

 防護服を着た男が、タブレットを段ボールの中にいれた。

「ちょっと、返せよ!」

「預からせて頂くだけです」

 冷徹な目をした防護服の男は、広志を見て手を出した。

「あなたもお持ちでしたら、ここに出してください」

 周囲でも、通信機器の没収が行われている最中だった。あちこちで抗議の声や鋭い言葉が飛んでいるが、有無を言わさず、次々と携帯端末が自衛隊によって吸い上げられていく。

「自治会長として聞きたい」

 広志は相手を見据えた。

「住民たちの通信機器を没収する必要が、どこにあるんですか? 外部と連絡の必要がある人もいるし、避難所から外の情報をシャットアウトすれば、皆の不安が増すだけだ。避難所運営の責任者として、それは勘弁願いたい。それに私も今、家族との連絡を待っている。どうしてもというなら、責任者と話をしたい」

「指示には、従って下さい」

 防護服の奥の目に、声にも感情は見えなかった。

「外部からの流言飛語やデマによって、住民の皆さんをいたずらに不安にさせないためです。場合によっては、ここからデマが外部に拡散する恐れもある。必要な情報があれば、こちらからお渡しします」

「……家族と連絡がつくまで、待ってくれないか? 家族に会えたら、すぐに携帯は渡す」

「指示には従って下さい」

「指示に従う、だが今は……」

「何だよ貴様ら! おい、貴様らにどんな権利があって、ヒトをキョーセーレンコーするわけ? 戻せよてめえら! てめえらの悪事をネットに上げてやろうか!」

 凶暴な声の方向が体育館に鳴り響いた。

 いかにもチンピラ然とした男が、防護服の男たちに両脇を固められて、引きずられて入ってきたところだった。

「オイ、俺はなあ、おやっさんから事務所の留守を預かってんだよ!」

 防護服を振りほどき、チンピラが怒鳴った。

「人様の事務所にズカズカ入って来やがって、有無を言わさずこんな所へ連れてきて、何のつもりだよ、このヴォケ!」

 チンピラの声に、人々の声が賛同した。

「そうだ、何だよ、朝からどでかいサイレン流しやがって!」

「ちゃんと説明して下さいよ、こっちは仕事に行かなきゃいけないのに、何で電車もバスも止まっているんですか! こっちは生活かかってんのよ!」

 体育館の内部で、苛立ちと怒りのガスが爆発を起こさんばかりに充満した。

「携帯返せよ!」

「お前らのやり口、ネットに上げて吊るし上げてやろうか!」

 防護服たちがたじろいだ。明らかに住人の数の方が圧倒的に多く、一人一人の表情は憤怒と苛立ちにたぎっている。

「皆さん、落ち着いて下さい!」

暴動の危険性が頭に浮かんだ。広志は怒鳴った。

「この地域で、危険な感染症のウィルスが発生しているのは、ニュースやネットでご覧になった通りです。今は自衛隊の方々の指示に従い……」

「何言ってんだよ、貴様こいつらの犬か!」

 獰猛な熱気が、広志の顔に吹きつけて来た。

 妻子の安否が心に刺さる。それなのに、何でこんな事をやっているんだよ俺はと、広志は暴れたくなる衝動を耐えた。

 だが、自治会長だ。

 今現在、この地区のリーダーとして住民を統率し、彼らの安全のために自衛隊に協力する立場にある。

「何、エラそうなこと言ってんだよ、このボケ野郎!」

さっきのチンピラが、広志の前に立ちはだかった。

乱暴に肩を突き飛ばす。ふいをつかれて、広志はバランスを崩し、床に腰を打ちつけた。

「こっちはな、それどころじゃねーんだよ、ぶっ殺されてえのかキサマ。俺さまの邪魔すんじゃねえよ、どけよこのクソ」

 チンピラと同調した住人たちの嘲笑や、怒鳴り声が広志に向けられる。

自分は何のために、こんな事をしているのかという無力感と寂寥感、同時に激痛と敗北感に襲われた、その時だった。

「お父さん!」

「ぐぇぇっ」

 広志は顔を跳ね上げた。

 駆け寄って来た真理と秀が、父親を引っ張るように床から起こした。安堵感が怒涛のように押し寄せたと同時に、肝が急激に縮み上がった。

「体育館から出ても良いけど、出たらあんたたち、喰い殺されるわよ」

 立ち上がりながら、広志は目を剥いていた。チンピラの背後から、鉄の棒を使って相手の首を押さえつけ、締め上げているのは妻の里美だった。

 チンピラは、首を圧迫する里美の技を外そうとあがくが、呼吸困難と鉄の棒には歯が立たない。

 空気が一気に漂白された。住民たちどころか、自衛隊員たちまで硬直している。

固唾をのんで皆が見守る中、里美は口元を吊り上げた。

 背後から、チンピラに囁きかける。

「今はねえ、冷静になって行動する時なのよ。あんたを見せしめにシメてやれば、目の前で好き勝手に騒ぐ馬鹿共も、会長サマの言う事を聞くようになるかなあ?」

 チンピラの顔が灰色になった。凍りつく場内で、広志は叫ぶ。

「待て、待つんだ、ストップ! やめなさい!」

「えー、だってコイツ、あんたを……」

「止めろって言ってるだろ!」

 その瞬間、広志に見えていたのは、分別を備えた己の妻ではなく『風紀の女悪魔』と呼ばれていた同級生だった。

 不良生徒との喧嘩には連戦連勝ではなく、連戦撲滅。

か弱い一般生徒、羊たちを守る悪魔として、職員室までを暗黒に突き落とした風紀委員長。

 里美に追い詰められた札付きが、恐怖で泣き叫びながら、学校の中立地帯である図書室に逃げ込んできたことを、そしてそんな彼らを必死でかくまっていた、図書委員長としての日々を思い出す。

「しょうがないなぁ。サイトーが言うならやめてやるよ」

「お前も今はサイトーだろうが!」

 口調までが高校時代に戻った妻へ、広志は絶叫した。

 首締めから解放され、崩れ落ちたチンピラを蹴り飛ばそうとする妻を、住民の目から隠すようにして広志は叫んだ。

「皆さん、冷静に、冷静に落ち着いて下さい! 自衛隊の方から、後もう少ししたら説明があるので……」

 広志の言葉を、大きな音が遮った。

 たった今、体育館に、飛び込んできた男だった。ふらふらと奥に向かおうとし、力尽きたように床に転がった。何人もの隊員たちが男に駆け寄った。

 衣服は汚れ、顔も傷だらけの男は、自治会で見たことのある顔だった。

広志も駆け寄りかけたが、隊員に制止された。

「……っ……ぃぁ……」

 涙と恐怖で汚れた顔を、男は引き歪ませて何かを訴えようとする。しかし、その意味は分らない。

「怪我は、どこか噛まれましたか?」

 若い声の隊員が男を助け起こそうとした、その瞬間、男の体が直角に背中をしならせた。

 そして、ばね人形のように跳ね上がった。

 とっさに離れようとした隊員の頭を、男は両の手で掴んだ。ハンバーガーにかぶりつくように、その頭にかぶりつく。

 周囲から大きな悲鳴が上がった。隊員が絶叫した。

 恐怖に怯えていた男とは、瞬時に入れ代わったような豹変ぶりだった。

 ヘルメットには歯が立たないと知るや、首に齧りついて肩を食いつこうとする。隊員が体を振り回す。

「止めろ、おい!」

 男へ広志が手を伸ばす。同時に銃を構える、防護服の腕。

 乾いた音。隊員から男が滑り落ちた。

 体育館が、水を打ったように静まり返る。住人達は、頭を撃ち抜かれた男の死体と、銃を構えた隊員を交互に見比べた。

 すぐさま、ブルーシートが男の遺体を皆の目から隠した。広志は声を裏返した。

「どういう事だ!」

 起こったことは、殺人以外の何物でもなかった。その殺人の理由は男の豹変にあることは間違いなく、若い隊員に危害が及ぼうとしていたことは確かだった。

 だがこの法治国家で、裁判もない死刑執行が行われた。その異常さは何なのか。

自衛隊員の声が、凍った空気を切り捨てた。

「今、その事情を細かく状況を説明している時間はありません。ただ、皆さんの安全のために、このような処置を取ったのです」

 隊員の手が挙がった。それを合図にして、隊員たちが一斉に彼の元に集合した。

そして、それぞれが住民へ向かって銃を構えた。

 悲鳴が上がった。空気は一気に緊張と恐怖で張りつめる。

 隊長らしき男が、声を張り上げた。

「ご安心下さい、我々は住民の皆さんに危害を加えることは、決してありません。先ほどの発射も、皆さんの生命を守るためにやむなき事でした。そして、今後の円滑で迅速な行動のためにも、皆さま、どうかご協力ください」

「分かった。でも、ちょっと待ってくれ」

 広志は、住民たちから一歩前に進み出た。

「自治会長として、言わせて頂く。これから避難所では、あなた方と住民の連携が必要になる訳だろう。それなら、そうやって我々に銃を向けるのは得策とは思えん。それに、ここには子供たちもいるんだ。教育に良くないから、銃は下ろしてくれ……って、おいこら母さん、この人に向かって、鉄棒を構えるのはやめなさい! 誤解されるだろ!」

 隊長は、しばらく広志を眺め、そして黙って頭を下げた。そして再び、隊員達に向かってハンドサインを送った。

 一斉に銃口が下がった。


「……と、お父さんはそう言ったものの、いっそ銃で脅しつけているほうが、静かで良かったかもね」

 体育館に敷き詰められた畳シートの上を、奇声を上げてどたばたと走り回る子供たちを眺めながら、真理は言った。

「変化に適応することが、種を保存するための道だからね。つまり、この場においては、銃や恐怖に屈することない鈍感力のあるやつが、ダーウィンのいう適応者だ」

 囲碁雑誌の最新号をめくりながら、秀が応じた。

その隣のシマでは「あの先生、ひいきばっかり」「野菜が高くなったわよねえ」「今度のバザーの手作り品なんだけど」甲高い声の主婦グループの噂話が、無節操に鳴り響いている。

「秀、あんた、あの場に及んで、落とした雑誌をちゃっかり回収してたのね。お母さんは感心したわ」

 武器のバールを横に置き、持って来た避難リュックの中身を点検しつつ、里美が体育館の一画へ視線を投げた。

 怒涛のような音声が、こっちにまで押し寄せてくる。奇声に笑い声。歌声まで混じる騒音は、声の凶器だった。

 さっきの影響か、不安で静まり返っているグループもあれば、乱痴気騒ぎのグループもある。この住民たちの空気の温度差で、体育館は一種のカオスだった。

「注意してくる。中には病人もいるんだ」

本来なら、土曜日に行われるはずだった地震の避難訓練前に、前もって脳内に納めていた避難所運営マニュアルと共に、広志は畳シートから出て靴を履いた。

背中に里美の声がかかった。

「お父さん、騒音の取り締まりなら、自衛隊に任せれば? 銃を持ってんだから、口頭注意より一番手っ取り早いでしょ。有効活用させないと」

「何を言うか。住民の避難生活の保全は自衛隊だか、生活規範については自治会の管轄だ。俺が行かずに誰が行く」

「ついて行ってあげようか?」

 バールを掴む里美に、広志は悲鳴で制した。

「母さんは来なくていい!」

明るい少女の声がかぶさった。

「真理ちゃーん」

 畳シートから、真理が勢いよく立ち上がった。

「キョウちゃん!」

 杏子という真理の親友だった。幼稚園からの付き合いで、隣町に住んでいて家も近く、よく遊びに来ていたから広志も知っている。

 杏子は真理の家族に礼儀正しい挨拶をしてから、真理へ向かって嬉しそうに言った。

「ねえ真理ちゃん、三ちゃんのグループとか村田君に会った? あの子たち、真理ちゃん探していたよ」

「え? ホント? どこどこ」

「運動場側の壁のとこにいた。その内会えるかも。でね、さっき掛井先輩見ちゃった!」

「マジ!」

「何! カケイ?」

 飛び出した名前に、広志は目を剥いた……昨夜の川の土手での邂逅した、あの少年か。

 記憶は芋づる式にズルズルと暗黒面を引きずり出す。川辺で怪獣出現、夜空に舞う巨大なシルエット、震える大地にあの雄叫び『どぐやああああああ』

「いっかーん!」

 娘とその友達の前で、広志は叫んでいた。

「二人とも、あの少年は駄目だ! 止めなさい!」

「……どうしたのお父さん」

「真理! 杏子ちゃん! あの男はな、欲望のまま弄んだ挙句、ポイ捨てした怪獣に、昨夜川の土手で襲われて、潰されそうになった男なんだぞ! そんなフジツで残酷な、怪獣に恨まれるような男など、近づくのは許さん! 第一、二人とも怪獣襲来の巻き添えを食ったらどうするんだ! 現にお父さんと秀は危ない目に遭ったんだぞ!」

危ない目はそうだけど、人さまの娘を怪獣だなんてお父さん、それは酷いよと、秀の声が聴覚の外で聞こえた気がしたが、構ったものではない。

「怪獣の心を弄ぶようなひどい男なぞ、お父さんは認めん! あ、こら、二人とも大人の意う事を聞きなさい! 待て! カケイだけは許さん!」

 おしゃべりしながら去ってゆく、少女二人の背中へ広志が叫ぶ。

里美が呆れた声を出した。

「別に良いじゃないの。お父さん。まだ中学生なんだから、上級生に対する単なるミーハーだってば……て、怪獣に恨まれる男って何よ。ウルトラマン?」

囲碁雑誌をめくりながら、秀が母に答えた。

「近所の掛井さんだよ」

「ああ、あの子か。翳があるけど顔は良いわよね。不幸背負ったアウトローっぽいのに憧れるのも、夢見る年代の特権か。大人になると、相手の条件に健康とか生活力とか資産とか、現実を見なくちゃいけないし」

「息子として、お母さんのそういった打算づくの恋愛観は知りたくないな」

「騒音の取り締まりへ行ってくる!」

 広志は飛び出し、目の前を歩く真理と杏子の背中へ手を伸ばした時だった。

「会長さん!」

 パンチパーマの老婦人が、体当たりのように、広志の眼前に飛び込んできた。急ブレーキをかけた広志の腕は、獲物を掴む鷹のごとくがっしりと掴まれた。

「ちょっと! あそこの爺連中がうるさいのよ! 何とかしてちょうだい!」

「待て、こっちも取り込み中なんです! 真理、こら、行ったらイカン!」

 引き止められた広志に向かって、次々と住人たちが押し寄せた。

群がる人々の中に沈みながら、娘の名を懸命に呼ぶ広志を引き裂くように次々と手が伸びる

「配給の列に割り込んでくる人がいるんです! 注意してやってください!」

「携帯返せって自衛隊に交渉して下さい! 今日は大事な取引先とアポがあるんです! 先方に連絡をいれないと!」

「ちょっと、一体いつまでここに居なきゃいけないんですか!」

「配給がおにぎりと豚汁だけって、腹が膨れるか! デザートくらいつけろよ!」

「ねえ、会長。あそこで不良っぽい子たちが三人、タバコ吸っているけど、注意しなくて大丈夫?」

 真理、と広志は娘の名を叫んだ。

 しかし、もがく手は群衆の中に呑まれていった。その叫びは住民たちの苦情申し立ての海の中で、塵となってかき消えた。


――避難所というよりも、不安と無秩序、喧騒のカオスだった。

白い服の自衛隊員たちは、大声や乱痴気騒ぎ、子供の泣声にもまるで反応しようとはせず、銃を持って巡回し、立っていた。

暴動が起きる以外は無関心、そんな態度に見えた。ただ、人を脅しつけるだけのためにここにいるのかよと、ひどく不快になったマナブは、着崩した制服のポケットからタバコを取り出した。そして、堂々とライターで火を点けた。

隣で、二人の仲間が話し合っている。

「なあ、俺たちこのままどうしろってワケ?」

「さあなあ、オイ、須賀。お前、あの白い奴らに言ってやれよ。スマホ返せ、このドロボーってよ。言えればすっげぇソンケーしてやる」

「言えるかよ。銃で撃ち殺されたらどーすんだよ、キサマ化けて出るぞ。ばあか、屋代、お前やれ」

「あーうぜぇ」

 マナブは、わざとらしく周囲に見せつけるようにしてタバコをふかしてやったが、周囲の人間は全く無関心だった。これ見よがしに、火のついたタバコを、体育館の床の上で踏みにじって消してやったが、それでも誰も何も言わない。

 これだけ人間がいるのに、自分の喫煙に誰も関心を示さない。

 いつもの駅のホームや道端でなら、白い目で見られる。その白い目のなかに混ざる怯えと小心さが、自分の獰猛さや強さの証明でもあるのに、今はそれどころか、関心さえ向けられない。

 まさに、お前らなんか知ったことかと言わんばかりの周囲だった。

こうなると、張り合いどころか、存在を無視されているようで腹が立つ。

「こんなトコに連れて来られるんだったら、学校のほうがマシだったよな」

 屋代のボヤキに、須賀が言った。

「今更言っても仕方がねーだろ」

中学生時代の悪仲間同士で、それぞれ学校をさぼって、人気のない陸橋の下で集まってタバコを吸っていたら、突如けたたましいサイレンが鳴り響き、白い服を着た妙な集団が現われた、そしてここに強制連行されてきたのだ。

 中学から喧嘩上等、武闘派で鳴らした三人でも、銃を見た瞬間に背筋が凍った。

スマホは没収され、こんな人間のごった煮のような閉鎖された場所で、銃を持った自衛隊に監視されている。

つまらない授業なら妨害し、うるさい教師相手なら逃げてしまえばいい。フツーの生徒なら脅せば済む。だけどこの状態でこんな場所では、いつもの流儀は通じない。

 しかも、自衛隊員につかみかかった男が、目の前で殺された。

 仕方が無いとか何とか言っていたが、それは抵抗すればお前らも殺すというデモンストレーションなんじゃないか? そうなると、大人しくしていないと仕方が無い。

こんな閉鎖的な場所で、慣れない我慢を強いられて、薄い毒のような苛立ちを持て余していた時だった。

屋代が突然声を上げた。

「おい、あれ、掛井じゃねえか?」

「え? どこよ」

 マナブは顔を上げ、屋代が指さす方向を見た。

「お、本当だ」須賀が声を上げた。

 体育館の隅だった。まるで不用品のようにひっそりと独り、座り込んでいるのは、確かに中学時代に一緒のクラスだった掛井だった。

「あいつ、死んだんじゃねえの!」

 屋代が素っ頓狂な声を上げた。

「なあなあ、アイツ、ユギのグループに入っていたんじゃねーの? ユギの奴らって、こないだ全員殺されたはずじゃないのか? アレ、幽霊?」

 三人は色めきたった。ユギと言えば、リーダーの兄貴がヤクザで、その組とも繫がりがあるグループだった。この辺りで幅を利かせていた勢力だったが、ドラッグの吸引で集団幻覚を起こし、倉庫の中で全員が殺し合いの末に全滅したという事件は、マナブ達どころか、周辺のヤンキーグループを大いに驚愕させ、話題を沸かせたものだった。

じっと相手を食い入るように見ながら、須賀が言った。

「イヤ、あれってどう見ても掛井だ、間違いねえよ」

「何でアイツ、生きてんの?」

 思ってもみなかった発見だった。場が生き生きとよみがえった。

 全く、いけ好かない奴だったとマナブは当時の感情を思い出す。

 まともに話したことは一度も無いけれど、優等生独特の匂いが鼻についた。そして、自分よりも劣った奴とは、目も合わせないと言わんばかりの態度。

その空気感だけで、見下されている、馬鹿にされているとマナブたちに思わせるに十分だった。

 それが今、受験に失敗し、せっかく入った高校も中退したと噂に聞いている。その凋落ぶりは、見ていて実に爽快だった。

「もしかしてアイツ、もうずっと前からユキのグループ追い出されていたんじゃねえの?」

「ありうる。態度でかいし、他の奴らと上手くいきっこねえよ」

「なあ、せっかくだから聞いてみようぜ。何でお前生きてるのって」

「ヒマつぶしには、丁度いいよな」

 マナブは、銃を持って『立っている』だけの白い防護服を眺め、自分たちに無関心な周囲を見回した。

 さっきまでの不快な閉塞感や苛立ちが、ウソのように消えた。自分を見下していた相手が、今や落ちぶれて目の前にいるのだ。生きたおもちゃを見つけた残酷なワクワク感と復讐心に、心がタップダンスを始める。

 三人は弾みをつけて立ち上がった。


――得也に最初に声をかけたのは、須賀だった。

「なあ―、掛井、掛井じゃねえの?」

 得也は、顔を上げた。

 それだけだ。ああ、とか久しぶりとか、何を言う訳でも無い。

喋る石でも眺めているような、全く愛想もない態度だった。しかしそんな得也に対して、うわあ、コイツ本当に落ちぶれたんだなあとマナブは感心した。

仲良くはなかったとはいえ、一応は同級生同士の再会なのだ。それなのに、懐かしさとか、好意の一片も感じられない。それは昔と同じだったが、あの優等生特有の驕り高ぶった、尊大な風情は、投げやりで退廃的に変質していた。

しかし、最も変わったのは目だった。まるで飢えた野犬だ。

こういう目の奴はヤバい。頭の中が凶暴性と狂気で発酵し、はち切れそうでパンパンだ。

場合によっては、想像もつかない手で向かってくる。

しかし、今は四対一だった。そして、何よりも時間つぶしと腹いせが優先だった。

「なあ、マナブ。コイツやばくない?」

 屋代が囁いた。

「何だか、目がイってるぜ。クスリでもキメてんじゃねーか? 顔色もヘンだしよ」

「何、お前ぶるってんの? 例えヤク中相手でも、こっち四人だぜ」

 俺たちのこと、おぼえてるぅぅ? とネバついた笑顔で得也に話しかけている須賀を、マナブは楽しく眺めた。

「なあなあ、目が死んでるよお、掛井くうん。今、何やってんの? やっぱり今でも、どっかのガッコで優等生しているのかい?」

 うわー、須賀ってヤな奴と、横でくっくと笑う鳥尾にマナブは教えてやった。

「あいつ、卒業前に清山に告ってフラれろ? あれ、清山が掛井に気があったんだとよ。それを根に持ってんだよ。暗い奴だねえ」

 大したものか、何を考えているのか、須賀に対して得也は全く無反応だった。それでも目だけが奇妙にぎらついている。狂った目の人形を思わせる不気味さがあった。

「ねえねえ、かけいくぅん、起きてるう?」

 須賀が得也の肩に、爪を食い込ませるようにして掴んだ。そして笑いながら、乱暴に前後にゆする。

「かっけいくー……いてぇっ」

 語尾に悲鳴が取って代わった。マナブは怒鳴り声を上げ、得也を殴りつけた。

「貴様、何しやがるんだよ!」

「おい、須賀、大丈夫か? 血ぃ出てるぞ!」

 いてぇよぉと、須賀が泣き声を上げて右手を押さえた。噛み千切られた肉から、鮮血がぼとぼとと床に落ちた。

 得也は、あっさりと須賀の足元に倒れた。

 床に這う顔から、舌が伸びた。

 ちろり、ちろりと、舌が血をすくう。

 マナブは目を剥いた。

何やってるんだ?

 ゆっくりと得也が、四つん這いに身を起こした。そしてそのまま、血の点に顔を伏せる。

ダメージで立ち上がれないんじゃない。

マナブは見た。生理的な嫌悪感が、氷の針となって何万本も背中に刺さる。

床の血を、舐めている。

「この野郎!」

 須賀の仕返しとばかりに、屋代の足が得也の脇腹を蹴り上げた。仰向けに転がった得也の顔を踏みにじろうと、足を叩き下ろす。

 顔を踏みにじる予定の足は、仰向けの得也の片手で止められていた。

そのまま、得也は立った。

「うわぁっ」片足を持たれ、バランスを崩した屋代がバタバタとよろめく。

その時、得也が手を振った。屋代の体が、軽々とCG映像のように空中で旋回した。

 だが、叩きつけられた「ドズン」という肉の音、その裏に重なる「ごき」という音は、確かな本物だった。

 床に叩きつけられた、屋代の頭は斜めに陥没していた。得也と一緒になった悪ふざけでも、ドッキリでもあるはずもない。

マナブは声が出ない口を、ただ開閉させた。

 得也は屋代の傍に腰をかがめ、その顔を無造作に掴んだ。そして大きく口を開けた。

 まさか、おい、やめろよ、うそだろおい。

マナブは出ない声で喚きながら、周囲を見回した。

誰か、こっちを見てくれ。

だが、無関心だ。どういうことだと、マナブは得也を見下ろした。

悪い夢だ。その時だった。天啓のように、二つの言葉が脳を切り裂いた。

『セガワ』『ウィルス』

せき止められていた絶叫が、狂気と共に咽喉から噴き出した。マナブは逃げ出そうとした。その時、須賀と目が合った。

「須賀、おい、にげる……」

それ以上のマナブの言葉は、須賀に咽喉を噛み千切られたことによって、作り出すことは出来なかった。

しかし、自分の代わりに、誰かが悲鳴を上げてくれたのが聞こえた。


「……危なかった」

 心の底から得也は息を吐き、もう一度男の顔にむしゃぶりついた。

 この顔に何となく見覚えはあるが、それだけだった。名前を呼ばれたが、今の得也にとっては、過去の思い出を探る相手ではなく、命拾いをした食物だった。

突然体が動かなくなる。ハンガーノックだった。登山など、長時間にわたるスポーツなどで起こしやすい極度の低血糖状態。つまりは体のガス欠だ。回復には、食べ物を入れるしかない。

 夢中で脳みそをすすった。塩気の中に甘みが混じるクリーミーさ。灰白色に混じる赤い血と透明な髄液は、この濃厚な淡雪に複雑な滋味を添えている。

 乾いていた味蕾には、溢れんばかりの潤いを。そして餓死寸前だった体にエネルギーが一気に流れ込む。

正に『喰う』とは、味覚を楽しませるだけではない、体にエネルギーを補充することだった。煙草臭さも脂臭さ、普通なら忌避する臭いすらも、この美味の中では香料だった。人肉の味とは、正に全てを包み込む尊い味。得也は我を忘れて、男の顔を貪った。

 悲鳴が上がり始めた。

「何よ、この子!」

「下がって! 離れて下さい!」

 顔を上げると、さっき食い残した一人が暴れまわっていた。

須賀とか呼ばれていた奴だった。

 一体誰を食べたのか、口からは血が滴る肉塊がはみ出でていた。

艶やかに光る肉の繊維が、いかにも旨そうだ。得也は他人が食べているものに、初めてうらやましさを感じた。他人に対して、初めて奇妙な同士感が湧いた。

人の禁忌を超えた闇を、恍惚と覗いている須賀に向かって、得也は心の中で話しかけた。

どうだ? 人間って、美味いだろう。

 震えている女が目の前にいた。何かを叫んで逃げ出す女の襟首をつかみ、そのまま得也は後頭部に齧りついた。

「ぎゃああああっ」女が狂った悲鳴を上げた。

構うことなく、髪の毛ごと頭皮を齧った瞬間に、むっとするような臭いが鼻を突きさした。

「うぇ、何だよこの臭い」

 思わず女を放り出す。髪に残っている科学的な香料が、血の匂いを台無しにして、せっかくの鉄臭い芳香を台無しにしていた。こんな臭い肉はゴメンだ。

泣き叫びながら転がる女に、幾人かが気がついて駆け寄って来た。

「どうしたんですか?」「大丈夫ですか?」

囲まれながら、イタイ、イタイと女は泣き叫びながら転がっていたが、やがて痙攣を始めた。その只ならない様子に、人々が固唾を呑む。

自衛隊の救護班を呼びに、誰かが走っていった後だった。

女はぎくしゃくと立ち上がった。立ち上がった女に、安堵のため息がいくつか漏れた瞬間だった。

「っ!」

 女が突然、飛び出した。まるで自分の身を犠牲に、体当たりして人垣を壊すような勢いだった。何人かがもつれるように転倒した。

「おい! 何をするんだ!」恩知らずの女に対して住人の誰かが叫んだが、床に転がった老人の首にむしゃぶりつく女に、声を失った。

――悲鳴がどこからか生まれた。やがて悲鳴は連鎖反応的に広がりを見せ、怒鳴り声や泣き声が重なり始める。

あちこちで、喧嘩、取っ組み合いが泡のように生まれて拡散を始めた。だが、喧嘩のように見えて、異質なものだった。

しがみつき、噛みつく。むしゃぶりつき、食いちぎる。血を啜る。

「やめて、何をするの!」

「痛い!」

 血の匂いが濃くなっていく。オセロの色が次々と逆転していくように、住人たちの「顔」が裏返る。悲鳴に咆哮が混じり、笑い声と銃声が混じり、避難所は更なる混沌を生み出した。

 口から胸にかけて、血に染まった男が襲い掛かって来た。その男を殴り倒し、硬い首の肉を試食した得也は落胆した。

こいつもマズイ。

 向かってくる者、逃げだす者、手当たり次第に掴んで一口、二口と齧る。ああ、これは旨い。これはハズレ、美味い。旨い、ハズレ……食べ放題、試食し放題だった。齧って旨ければ、次の美味を探す。不味ければ次に期待する。

「やめてくれ!」「タスケテ」「ママぁ!」

悲痛な声は、得也の耳をすり抜けて一片の罪悪、躊躇ももたらさない。

捕食者にとって、食物の懇願と命乞いは風の音のようなものだった。言葉は通じても意味を持たず、同類であっても同類ではない、動く『肉』だ。

この気持ちは、なんというんだろう。

舌と咽喉を圧倒する食事に、得也は酔いしれた。道端の石ころほどの愛着も無い、母親の言葉が、何故か思い出された。

『大人になったら、良い暮らしをして幸せになりたいでしょう?』

 母親は得也の将来を諫めたり、指図するごとに『幸せな良い暮らし』を連発した。あなたには、幸せな人生を送って欲しいのよと。

だが、具体的なそのイメージを説明することはほとんどなかった。いちいち意味を問うのも相手をするのも面倒くさいので、そのまま言葉を放置していた。

どうせ、あの母親の価値観や性格からすれば、人よりも良い物を着て旨いものを食っていることが世間一般で言う『幸せ』なんだろう。

 だが、今、その『幸せ』という感覚が分かった。ああ、これが幸せというものかと、血だまりの床の上、悲鳴の渦の中で得也は笑い出した。

旨いものを食う、というのが幸せなら、これが正にそうじゃないか。

 そう思った。


「な、何よなに?」

 杏子が怯えた声を出した。

「ねえ、みんなどうしちゃったの? ねえ、真理ちゃん」

 真理は、何も答えることも出来ずに、ただ杏子の手を握った。

 数分前まで、避難所にしてはまだ能天気な日常を尻につけていた。笑い声、はしゃぎ声、おしゃべりする女性グループに、老人が畳の上で転がっていた。

 舞台が暗転して、違う場所に放り出されたようだ。

襲っている。襲われている。逃げ惑っている、追いかけている。

「何、何、どうして……」

 杏子が思い詰めた泣き声を出した。指さした方向に、老婆の首にむしゃぶりついている女の姿があった。白目を剥き、首から下が血に染まった老婆は、どう見ても死んでいた。

 本能が逃げろと真理に命令する。しかし、どうやって逃げれば良いのか思考が動かない。

ただ、にげろ、にげろと本能が空しく喚くだけだった。

拡声器の音が、混乱の中でつんざいた。

『皆さん、落ち着いて! 喧嘩はやめなさい! おい、一体何が起きているんだ! どこだ、真理! 母さん、秀!』

「お父さん!」

 父親の声が、真理の動かない脳みそを張り倒した。真理は父の姿を探した。体育館の端にいる父の広志が、拡声器を片手に怒鳴っている姿が目に飛び込んだ。

杏子の手を引いて、父へ駆けだそうとした時だった。

「きゃああああっ」

 杏子の悲鳴が聴覚を貫いた。

「キョウちゃん!」

 杏子は、背後から男に抱え込まれていた。痴漢ではない、もっと禍々しく、虚ろな目が杏子の肩を見つめる。そして大きく口を開け、かぶりついた。

「この野郎! やめろ、変態!」

 真理は捕まった杏子を引き剥がそうと、男にしがみつき、引っ張ったが、全くびくともしない。杏子の泣き声が高くなり、真理は頭に血が上った。

 構えた。そして蹴り上げた脚を男の側頭部に叩きこんだ。大の男でも脳震盪を起こす威力の上段回し蹴り。

 男の体が、斜めに傾いて倒れる。真理は男から杏子を引き剥がした。

「……」

 杏子は、肩に血を滲ませながら口を開閉させた。涙を滝のように流しながら口を動かしているが、声になっていない。無理もなかった。

「お父さん!」

 震える杏子の肩を抱きながら、真理は怒鳴った。

「私たちはここ!」

『どこだぁああ! 母さん、秀、まりぃ!』

普通なら何でもない体育館の端と端の距離だが、目の前には、住人たちが右往左往し、血の匂いと悲鳴で充満していた。この混乱の中を突破して、父の傍に行くしかない。真理は杏子を見た。

「仕方が無い、キョウちゃん、行こう」

そう言いながら、真理は少し安堵した。杏子はまだ下を向いてはいるが、激しい震えが治まっている。

「……」

「肩、痛くない?」

 杏子の顔が上がった。

……キョウちゃん? 目が合った瞬間だった。

「チガウ」と真理の本能が絶叫した。この顔は違う。

 キョウちゃんの顔じゃない。

 虚ろな目、それでいて、狂気と欲望を剥き出しにした目の色に、真理は思い出す。

 さっきの男の目だ。そして、朝の川岸で、自分と秀を襲おうとした、あの変な人たち。

 血の匂いが濃くなる。

 真理は周囲を見回した。悪夢の風景に取り囲まれていた。まるで出来の悪いホラー映画の撮影だが、血の匂いと金属的な悲鳴は、否が応でも現実の証だった。

「……きょう……」

 大好きな顔を、真理は見つめた。その虚ろな、狂った能面のような表情から、親友の片鱗を、何とかして見つけ出そうと目を凝らした。

 違う。

 悪魔からいきなり友達を奪われて、違うモノにすり替えられたようだった。

 真理は、無意識にじりじりと後退した。やがて、壁に背中が当たった。

 杏子が歪な動きで、真理に向かってくる。その背後に住民たちがいた。その顔は皆、違っているけど同じ顔で、やはり真理に近づいてくる。

「……」

 口を動かした。友達の名前を呼び、家族へ助けを乞うた。だが、声は形にはならず、空気が咽喉から出ただけだった。悲しいのに、怖いのに、涙を出す余裕もない。

 杏子が、真理へと手を伸ばしてきた。

「真理ちゃん、一緒に帰ろう」あの声は聞こえない。この手だって、もう親友の手じゃない。怪物の手だ。

 真理を先頭に、怪物たちの壁が押し寄せてくる。

真理は、腰を落とした。真正面ではなく、斜め方向の下を見た。

「キョウちゃん」

 もう一度だけ、子供のころから大好きだった名前を呼ぶ。

 返事はなかった。

『まりぃいいっ』

 父の声が、真理の意識に響き渡った。

        

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